サイド7の港湾区画は、まだ新しい匂いがした。
骨組みを隠しきれていない壁材、乾ききっていない塗料、切断された金属の粉、仮設通路の樹脂の匂い。完成されたコロニーの整いきった空気ではない。だが、その未完成さがかえって活気になっていた。
搬入路の向こうでは、建設資材を積んだ台車が何本も行き来している。人も多い。作業員、技術者、警備員、業者、役所の立会い、荷受けの担当。誰もが急いでいるが、まだここには“完成した都市の気疲れ”がない。
エドワウは到着便の表示を見上げてから、隣に立つミライへ視線を移した。
ミライは今日、ヤシマ家の娘としてでも、財団の実務担当としてでもなく、その両方の顔でそこにいた。派手さはない。だが、誰が見てもただの付き添いではないと分かる立ち方だった。
「少し早かったかしら」
ミライが言う。
「十分前だ」
「あなた、こういう十分は必ず前倒しで来るわよね」
「遅れて覚えられるよりいい」
ミライは小さく笑った。
「会ったことがあるのよね」
「ああ」
「アナハイムで?」
「一度だけだ」
「誘ったのよね」
「断られた」
「きっぱり?」
「きっぱりだ」
エドワウは短く答えた。
あの時はまだ、今ほど財団の名が通っていなかった。アナハイム・エレクトロニクスの技術者交流会の場で、テム・レイに声を掛けた。話は通じた。むしろ通じすぎたくらいだった。ミノフスキー系の制御、構造材の選び方、冷却の冗長化。研究者としての勘どころは噛み合った。
だが、最後の最後でテム・レイは動かなかった。
ナガノは来た。
あれは大きかった。技術者が一人増えたというより、設計の思想が一つこちらへ流れ込んだに等しかった。
だが、テム・レイは来なかった。
来なかったからこそ、今ここへ来る。
表示灯が切り替わる。
接岸。
人の流れが少しだけ変わった。
先に搬出されるのは、厳重指定の機材ケースだった。続いて、連邦の技術職員とその家族、補助要員の列が出てくる。
「いた」
ミライが小さく言った。
エドワウも見つけていた。
テム・レイは前に会った時より少し痩せて見えた。だが弱っているのではない。頭の中で何かを組み続けている人間の顔だ。着ているものは地味だが、手荷物の持ち方だけが妙に慎重だった。
その少し後ろに、少年がいた。
エドワウの視線はそこでほんの一瞬だけ止まった。
アムロ・レイ。
前世では白い機体の中にいた少年。こちらの人生では、まだ何も背負わされていないはずの子ども。
細い。だが、ただ細いだけではない。歩き方に落ち着かなさがあり、目だけが絶えず周囲の機械を拾っている。壁でも人でもなく、搬送レール、吊り上げ機、荷役アーム、誘導灯。そういうものに先に目が行っていた。
やはりそうか、とエドワウは胸の内だけで思った。
まだ何も始まっていなくても、種は同じ形をしている。
テム・レイがこちらに気づいた。
一瞬だけ怪訝な顔になり、それから思い出したように目を細める。
「……ああ」
近づいてきて、先に言った。
「アナハイムの時の」
「お久しぶりです、テム・レイ博士」
エドワウは軽く頭を下げた。
「あの節は少々強引でした」
「少々ではなかったな」
テム・レイは口元だけで笑った。
「だが、商売人にしては技術の話が通じすぎた。あれは妙だった」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてはいない」
その返し方で、少しだけ空気が和らいだ。
前に一度断った相手だ。だが、港で会ってすぐ背を向けるほど狭い人間でもない。偏屈さと、筋の通るものにはちゃんと反応する素直さ。その両方を持った顔だった。
「こちらは婚約者のミライ・ヤシマです」
エドワウが言うと、ミライが一歩進んで礼をした。
「はじめまして、テム・レイ博士」
「ヤシマ……」
テム・レイの目がわずかに動く。
「ヤシマ財閥の」
「娘です」
「そうか」
それだけで、彼の中でいくつかの線がつながったのが分かった。
ルシファー財団の男というだけではない。ヤシマ家とも結びついている。サイド7の建設、物流、信用、そのどこにも顔が利く立場。そう理解したのだろう。
「息子のアムロです」
テム・レイが少し後ろを振り向いた。
「アムロ」
少年が一歩前へ出る。
エドワウは、ごく普通にその顔を見た。
見た瞬間、アムロの肩がわずかにこわばった。
本当に小さな反応だった。港の職員なら見落としたかもしれない。だが、エドワウにもミライにも、そしてたぶんテム・レイ自身にも分かった。
「どうした」
テム・レイが聞く。
アムロは一拍遅れて首を振った。
「……なんでもない」
そう答えたが、視線がすぐには安定しなかった。
知らないはずの男を前にして、知らない感じ方をしている顔だった。
エドワウはそこで何も言わなかった。
今ここで触れる必要はない。少年の中にまだ開いていない扉があるとしても、それを港の往来で叩く気はなかった。
「よろしければ、お送りします」
ミライが自然な声で言った。
「荷もありますし、ここから先の通路はまだ工事が多いんです」
「助かる」
テム・レイはあっさり頷いた。
「新しいコロニーは道順が落ち着かなくてね」
「こちらです」
車はヤシマ家名義の来客用だった。
外装は落ち着いている。だが、窓の防弾層と通信設備だけは分かる人間には分かる。派手ではないが、ただの送迎車でもない。
発進すると、サイド7の未完成な街が窓の外を流れ始めた。
骨組みのままの区画。
外壁が付いたばかりの居住棟。
資材を抱えて動くモビルワーカー。
仮設通路を急ぐ作業員。
遠くに見えるまだ青すぎる人工の空。
「完成はまだ先ですね」
テム・レイが言った。
「ええ」
ミライがハンドルを握ったまま答える。
「でも、人の流れはもう止められないところまで来ています」
「そうだろうな」
テム・レイは窓の外を見た。
「基礎の段階を越えた場所は、急に全部が早くなる」
「物も、人も、都合も」
その言い方に、エドワウは少しだけ目を細めた。
やはり分かっている人間だ。研究者ではあっても、研究室の中だけの人間ではない。
「アナハイムとの便も増えています」
エドワウが言うと、テム・レイがこちらを向いた。
「そうか」
「ええ。サイド7向けの研究機材、試験設備、補修部材。保険も輸送も、前より条件が変わってきました」
「保険が先に動くのは面白いな」
「面白くはありません」
エドワウは言った。
「ですが、分かりやすい。製品より先に、燃料と輸送と保険が動きます」
「ふむ」
テム・レイは短く鼻を鳴らした。
「相変わらず、商売の話の中に技術を混ぜるのが上手い」
「逆です」
エドワウは答えた。
「今はもう、技術の話の中に最初から商売が入っています」
テム・レイはそれ以上は言わなかった。
分かっているのだろう。研究が研究室だけで完結する段階は、もう過ぎているということを。
後部座席のアムロは、会話には入らなかった。
だが、彼の目は落ち着きなく動いている。車内の計器、車窓の外の搬送路、区画間を警備する機動警備隊。怖がっているのではない。知らないものを見た時の、機械好きの目だった。
そこで、窓の外を一機の機体が横切った。
財団の民間警備会社が保有するMSの一つだ。軍の塗装ではない、灰色と濃紺の実務色。港や倉庫、輸送便の護衛用に調整された機体。
アムロの視線が、そこで明らかに変わった。
「……あれ」
思わず漏れた声だった。
テム・レイが少し驚いたように振り向く。
「珍しいな、お前が先に聞くのは」
アムロは少しだけ視線を逸らした。
「いや……ちょっと」
エドワウは、わざとすぐには答えなかった。
少年の関心がどこへ向くのか、少しだけ見たかった。
「あれは、うちの警備会社の機体です」
やがて口を開く。
「最近は、倉庫と輸送船の護衛だけでは足りなくなってきまして」
「警備会社で、ですか」
テム・レイが聞く。
「ええ。小規模ですが、機動兵器も導入しています」
アムロがそこで初めて、まっすぐこちらを見た。
「機動兵器……」
とても小さい声だったが、車内でははっきり聞こえた。
「どんなのですか」
機械の話になると、声の響きが少しだけ変わる。
そこに前世の面影を見て、エドワウは胸の奥でわずかに冷えるものを感じた。
まだ閉じている。
だが、種はここにある。
「アナハイム系の重装機動型です」
エドワウはまずそう言った。
「社内では、リック・ディアスと呼んでいます」
アムロの目が少し見開かれた。
「リック……ディアス」
言葉の響きを、口の中で転がすような声だった。
「変わった名前だな」
テム・レイが言う。
「社内名です」
「正式採用の軍用機ではありませんから」
「民間警備用に?」
「ええ」
エドワウは窓の外へ目をやった。
「運ぶものが大きくなれば、守る手もまた大きくなる」
「誰かに守ってもらうには、こちらが抱えるものが増えすぎました」
「だから自前で持つことにしたんです」
テム・レイは少し黙った。
研究者の顔で考えている。技術そのものより、その運用の方へ興味が動いた顔だ。
「面白い時代になったな」
「ええ」
エドワウは答えた。
「軍だけが機動兵器を持つ時代でもなくなってきています」
アムロはその会話の間も黙っていたが、さっきまでの奇妙な緊張とは別の熱が目に入っていた。
機械への興味だ。
それでいい、とエドワウは思った。
今はまだ、それでいい。
車は居住区画の高台へ上がっていく。
整いきってはいないが、若い街特有の明るさがある。新しい壁、新しい標識、新しい街路樹。これから先、ここで多くのものが始まるのだろうと思わせる景色だった。
「こちらです」
ミライが緩やかに減速しながら言う。
宿舎の前に車を止めると、先に降りた職員が荷を受け取りに来る。
テム・レイがドアに手をかけた時、アムロが一瞬だけ振り返った。
エドワウと目が合う。
また、ほんのわずかに体が強張る。
だが今度はさっきと違う。怖さだけではない。知りたいという、理屈のある引っかかりが混ざっている。
エドワウは何も言わなかった。
言わないまま、軽く会釈する。
アムロも、少し遅れて頭を下げた。
父と息子が宿舎の中へ消えるのを見届けてから、ミライがハンドルへ手を戻した。
「見た?」
「何を」
「アムロ君」
ミライはまっすぐ前を見たまま言う。
「あなたを見た時、少し変だった」
「そうか」
「そうか、じゃないでしょう」
そこでようやく、エドワウは小さく息を吐いた。
「いた、って顔ね」
「誰が」
「あなたが探してた“何か”」
エドワウは答えなかった。
必要な答えは、もう出ている。
テム・レイは来た。
アムロもいる。
歴史の起点は、やはり予定通りの場所に立ち始めている。
だが、前と同じように立たせる必要はない。
車窓の外で、財団の警備会社の機体がゆっくりと巡回していた。
灰色の機体。民間警備の色。軍ではない。だが軍が見ても無視はできない存在。
エドワウはその機影を見ながら思った。
前の人生では、戦争が始まってから流れへ飲み込まれた。
今は違う。
始まる前から、置き場も、護衛も、保険も、航路も、少しずつこちらで押さえている。
テム・レイの名前が書かれた輸送名簿も、アムロの一瞬の反応も、その流れの中にもう入ってきた。
歴史は来る。
だが、迎える場所はこちらで選べる。
少なくとも今は、まだ。