ジャブローの会議室は、地下深くにあるにもかかわらず妙に乾いた空気だった。
壁面いっぱいのスクリーンには、各サイドの監査計画、航路監視網、駐留部隊再編案、補給監査体制の強化案が並んでいる。どれも書類の上では行政手続きの延長に見える。だが、そこに記されている艦艇名と人員数を見れば、軍人なら誰でも分かった。
これは監査ではない。
軍の配置転換であり、圧力であり、必要とあればそのまま実力行使に移れる布陣だった。
会議卓の中心には政府高官と軍政、補給、監査部門の責任者たちが並び、口を開けば「治安維持」「監督権の実効性確保」「不穏分子の資材流入遮断」という言葉が続く。言葉だけを拾えば行政だ。だが、その下にあるのは巡洋艦の配備先であり、駐留部隊の増員であり、物資差し止め対象区域の線引きだった。
その一角に、レビルとティアンムが並んで座っていた。
監査局の責任者が説明を終えると、ティアンムがすぐに口を開いた。
「確認する。これは監査強化の名目だが、実際には各サイドへの軍の常駐化だな」
責任者はわずかに言葉を選んだ。
「監査の安全確保のため、必要な範囲で軍の支援を継続的に配置する形になります」
「継続的、か」
ティアンムは鼻で息を抜いた。
「言い方は構わん。やるなら軍事行動だと最初から言えばいい。半端な言い回しで艦を動かす方が危ない」
数人の高官が顔をしかめた。政府側の一人が、抑えた声で言う。
「ティアンム中将、あくまでこれは連邦の監督権の行使であって――」
「書類の上ではそうだろう」
ティアンムはそれ以上は言わなかった。
彼はこの計画そのものに反対しているわけではない。むしろ、やるなら早くやるべきだと考えていた。中途半端に圧力だけ掛ければ、相手に準備する時間を与える。曖昧なまま現場へ命令を下すことの方が、軍人としてはよほど気に食わなかった。
その隣で、レビルが静かに資料を閉じた。
「一つ確認したい」
声は低く、落ち着いていた。
「監査実施後の駐留期間はどう設定する」
監査局の担当者が答える。
「現地の状況が安定するまで、必要な期間です」
「安定とは、誰の判断だ」
「現地監査官と駐留司令の共同判断になります」
「現地行政が抵抗した場合の権限は」
「連邦法に基づき、必要な範囲で行政介入を――」
「必要な範囲、とはどこまでだ」
質問が重なるたび、会議室の空気が少しずつ固くなっていく。
レビルは反対を叫んでいるわけではない。ただ、曖昧にされている部分を一つずつ表に出しているだけだった。だが、その確認を続ければ続けるほど、この計画が監査では終わらないことが浮かび上がる。
「物資差し止め区域に住む民間人の生活責任は、誰が負う」
今度は、すぐには答えが返らなかった。
政府高官の一人が不快そうに言う。
「レビル将軍、我々は治安維持のために――」
「治安は誰のものだ」
レビルは相手の顔をまっすぐ見た。
「こちらにとっての秩序が、向こうにとっても秩序とは限らん。軍艦を背にした監査を受けて、圧迫と感じない者ばかりではない」
高官は口をつぐんだ。
会議はそのまま進み、最終的に監査強化計画は決裁された。書類の上では、最後まで行政措置として。
会議室を出た廊下で、ティアンムがレビルに並んだ。
「止めるつもりはなかったのか」
「止められる段階ではない」
レビルは短く答えた。
「止めれば別の形で出てくる。なら、せめてどこへ向かうかだけは見ておく」
ティアンムは少しだけ笑った。
「相変わらず慎重だな」
「慎重でいられるうちはな」
レビルは足を止めずに言う。
「艦を動かして監査をやれば、向こうはそれを支配の始まりと受け取る。こちらが秩序を回復しているつもりでも、向こうから見れば首を絞められているだけだ」
「だから何もしないのか」
「そうは言っていない」
レビルは首を振った。
「ただ、圧力を掛けた時点で向こうも動く。これはもう監査の話ではない。時間の問題だ」
ティアンムはわずかに黙った。
「なら、こちらが先に整えるしかない」
「そうだ」
レビルは認めた。
「だからこそ、半端な認識のまま始めるのが一番まずい」
二人はそこで別れた。
同じ頃、その決裁内容はサイド3にも届いていた。
総帥府の一室で、ギレンは報告書を机に広げたまま立っていた。艦艇再編、監査区域、物資監視強化、保険料率の見直し、航路監視の拡充、駐留部隊の増員。紙の上では、どれも連邦の権限の範囲に収まっている。だが順に追えば、やっていることは一つだった。
自治を削り、補給を握り、軍を常駐させる。
ゆっくりと、しかし確実に、サイドの首に輪を掛ける手順だった。
控えていた副官が慎重に言った。
「まだ、直接の軍事行動ではありません」
「だから厄介だ」
ギレンは書類から目を離さずに答えた。
「軍事行動ならば軍事で返せる。これは行政の顔をした支配だ。物資を止め、保険を上げ、航路を監視し、監査の名目で艦を入れる。数年かければ各サイドの自治は骨抜きになる」
副官は黙った。
ギレンは最後の一枚を閉じた。
「待てば締め上げられるだけだ」
そう言って机を離れる。
「父上に会う」
デギンは私的な応接室で待っていた。儀礼用の広い間ではない。余計な者の耳が入らぬ、閉じた部屋だった。窓の外にはサイド3の灯が静かに広がっている。
ギレンが入ると、デギンは手元の紙を置いた。
「決まったか」
問いというより確認だった。
「はい」
ギレンは一歩進み、答える。
「連邦は監査強化の名目で各サイドへの駐留と補給統制を進めます。時間をかけて自治を削るつもりです」
デギンは少しだけ目を細めた。
「それで」
「十一バンチを接収します」
静かな部屋が、さらに静かになった。
デギンはすぐには言葉を返さない。窓の外へ視線を向けてから、ゆっくり口を開いた。
「一度始めれば、戻れんぞ」
叱責でも反対でもなかった。ただの事実だった。
ギレンはその言葉を正面から受けた。
「戻れば首輪です」
強がりではなく、事実の確認として言う。
デギンはしばらく息子を見ていた。
「お前はもう、家ではなく国家を選んでいるな」
ギレンは否定しなかった。
それで十分だった。
デギンは深く息を吐いた。
「止めはせん。だが覚えておけ。一度始めた戦は、お前の代で終わらんかもしれん」
「承知しています」
「……なら行け」
その一言で会話は終わった。
部屋を出たギレンは、振り返らなかった。
その日のうちに、十一バンチ接収命令は正式に決裁された。
文面は簡潔だった。表向きの目的はサイド5における航路安定と邦人保護、治安維持。だが、その紙一枚が意味するところを、命令を受けた者たちは皆分かっていた。
これは防衛線の引き直しではない。
戦争の始まりだった。
夜更け、ギレンの執務室に一人の軍人が呼ばれた。
エギーユ・デラーズ。
扉が開くと、デラーズは一歩入ったところで姿勢を正し、深く敬礼した。
「総帥閣下、お呼びにより参上いたしました」
「入れ」
ギレンは短く言い、机の上の一枚の写真を指先で押し出した。
デラーズは促されて進み、視線を落とす。
そこに写っていたのは、暗いドックの中に横たわるグワジン級戦艦だった。
わずかに息を呑んだ気配があったが、すぐに姿勢を戻す。
「総帥艦を……私に」
「そうだ」
ギレンは立ったまま言う。
「十一バンチだけでは終わらん」
「はっ」
「宇宙の門を開ける必要がある」
一拍置いて、デラーズが答える。
「……ルナツー、でありますな」
「そうだ」
ギレンの声に揺らぎはなかった。
「貴官に預ける」
デラーズは再び敬礼した。
「身に余る光栄であります」
「光栄と思う必要はない」
ギレンは言った。
「必要だから渡す」
「はっ」
「落とすだけではない。使える形で取れ」
「了解いたしました」
「破壊は誰にでもできる。だが奪って使うには頭が要る」
「はっ」
「艦も、施設も、人もだ。使えるものはすべて使え。無意味に壊すな」
デラーズの返答はさらに低くなった。
「御意」
その一言に、軍人としての忠誠が重く落ちた。
ギレンはデラーズを見た。
「これは一戦の勝敗ではない。宇宙の秩序を書き換える戦だ」
デラーズは姿勢を崩さず、まっすぐ答えた。
「その先鋒を務めます」
余計な言葉はなかった。
ギレンは小さくうなずく。
「期待している」
「必ずや」
敬礼のまま一礼し、デラーズは下がった。
その夜、軍港の一角はほとんど灯を落としていた。
巨大なドックの底で、グワジン級戦艦は黒い山のように静かに横たわっている。総帥艦。国家の意志そのものを象徴する船。
デラーズはドック床に立ち、その艦影を見上げた。
受け取ったのは一隻の艦ではない。
国の次の一手そのものだった。
この艦が動く時、もう誰も引き返せない。