妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第118話 アズナブル士官の初任務

 

 

十一バンチは、近づいてみると死にかけた獣のように見えた。

 

遠目にはただの古いコロニーにしか見えない。だが、係留ブロックの塗装はところどころ剥げ、回転軸近くの保守灯には点かない列がある。外壁補修の跡も継ぎ接ぎで、きれいに直されている区画と、手を付けられたまま放置された区画がはっきり分かれていた。

 

人が減ったコロニーには、独特の静けさがある。

 

眠っているのではない。衰えているのだ。

 

シャア・アズナブルは連絡艇の小窓からその姿を見ながら、無意識に膝の上の端末を握り直した。表示されているのは、住民台帳の抜粋と避難対象区画の一覧。軍人が初陣で抱えるには、あまりにも地味な資料だった。

 

敵艦の航跡でも、砲座配置でもない。

 

老人の単身世帯。

未移住の労務家族。

設備管理員の宿舎。

通院中の患者。

居住継続を申し出た者。

所在不明。

 

数字で見れば、それだけのことだった。

だが、一つ一つに生活がある。

 

連絡艇が接舷すると、シャアは部下二名とともに下りた。派手な護衛はつけていない。目立てば住民が構えるし、連邦駐留軍に余計な警戒を与える。まだこの時点では、表向きは「コロニー防災点検に関する民間折衝」という名目だった。

 

名目だけは。

 

エアロックを抜けた先の通路は、空気が少し古かった。換気は動いているが、流量が足りていない。壁面の案内表示は半分が消え、商店区画だったらしい場所にはシャッターが下りたままの店が続いている。閉まった店ほど、そこにいた人間の暮らしを強く感じさせた。

 

「思っていたより、人が残っていますね」

 

後ろの若い下士官が小声で言った。

 

シャアは振り返らずに答えた。

 

「過疎バンチでも、ゼロにはならない」

 

「はい」

 

「まして、出ていく金も当てもない者はな」

 

自分で口にしてから、少しだけ嫌な気分になった。

知ったようなことを言った、と感じたのだ。

 

だが事実でもあった。テキサスで見てきた。人は豊かな区画から先に抜ける。残るのは、動けない者と、捨てきれないものを抱えた者だ。

 

管理区画の小さな詰所では、年配の管理員が不審そうな目でこちらを見た。

 

「防災点検?」

 

「はい。非常時避難経路と区画ごとの残存人数の再確認です」

 

シャアはなるべく事務的な声で言った。

 

管理員は鼻で笑った。

 

「今さらか。連邦の駐留軍は何度も名簿だけ持っていったが、直した設備は一つもないぞ」

 

「承知しています」

 

「承知してるなら、なおさら何しに来た」

 

下士官が少し動いたのを、シャアは手で制した。

 

「避難経路の確認です。動くつもりのない方にも、一度だけ確認しておく必要がある」

 

「避難?」

 

老人は眉をひそめた。

 

「何がある」

 

「念のためです」

 

「念のために、こんな端のバンチまで若い士官を寄越すのか」

 

返す言葉が一瞬詰まった。

 

鋭い。年寄りだから鈍いとは限らない。

むしろ、長く残ってきた者ほど空気の変化には敏感だ。

 

シャアは少しだけ間を置いてから言った。

 

「何もなければ、それで結構です。ですが、何かあった時に『聞いていない』で死なれるのは困る」

 

管理員はしばらく彼の顔を見ていた。

 

それから、少しだけ視線を細めた。

 

「……あんた、テキサス育ちか」

 

「え?」

 

「話し方で分かる。地球育ちでも、ズム育ちでもない。コロニーの狭い通路で怒鳴るとどう響くか知ってる話し方だ」

 

シャアは思わず息を止めた。

 

老人は端末を受け取ると、渋い顔のまま区画別の残存人数を出した。

 

「動かないと言ってるのは三十七世帯。だが、本当に動けないのはその半分くらいだ。残りは荷を捨てたくないだけだ」

 

「荷、ですか」

 

「家財だよ。書類、道具、仏壇代わりの箱、死んだ家族の写真、そういうものだ」

 

老人は鼻を鳴らした。

 

「若い軍人さんは、だいたいそこを見落とす。人間は命が惜しいだけじゃ動かん。捨てるものを決められんから残るんだ」

 

シャアは黙ってそれを聞いた。

 

図面には書いていない。

人数にも表れない。

だが、逃がすというのは、そういうことなのだ。

 

詰所を出た後、下士官が小声で言った。

 

「案外、協力的でしたね」

 

「最初に怒鳴らなかったからだ」

 

「怒鳴ってましたら?」

 

「話は終わっていた」

 

シャアは端末のメモ欄に、老人の言葉をそのまま打ち込んだ。

 

捨てるものを決められないから残る。

 

簡単なようで、厄介な現実だった。

 

その日の午後、彼らは居住区と労務区画を歩いた。

 

半ば見捨てられた労働区画は、昼だというのに薄暗かった。保守灯の間引きで通路の色がまだらになり、開いている食堂も二軒しかない。機械油の匂いが染みついた作業服の男たちが、こちらを見る目には露骨な警戒があった。

 

「あんたら、ジオンか」

 

食堂の入口にいた中年の男が言った。

 

軍服の色で分かる。隠しようもない。

 

「そうだ」

 

シャアは正面から答えた。

 

ざわり、と空気が動いた。

 

「ふざけるな」

 

別の男が椅子を蹴って立ち上がった。

 

「連邦の駐留軍が来てから碌なことがないと思ってたが、今度はお前らか。戦争なら外でやれ。こっちを巻き込むな」

 

「巻き込まないために来た」

 

「信用できるか」

 

「できなくてもいい」

 

シャアは一歩も引かなかった。

 

「だが避難経路だけは覚えてもらう」

 

男は吐き捨てるように笑った。

 

「上から目線だな、坊や」

 

背後の下士官がぴくりと動く。

 

シャアはそれをまた制した。

 

「上からではない。下から見ている」

 

「何だと」

 

「この区画の換気流量は足りていない。補助照明も死んでいる。主搬送路は四番区画の角で詰まる。年寄りと子供が入れば、走れない」

 

食堂の中が静かになった。

 

シャアは続けた。

 

「だから、もし動くなら正面通路ではなく、設備用の保守路を使う。狭いが、行き止まりが少ない。荷物は一人一箱までだ。二箱持てば列が止まる」

 

男たちの目が変わった。

 

ただの若い士官が来たと思っていたところへ、住民側の不便を先に口にしたのだ。

テキサスで何度も見た。コロニーは図面通りには動かない。人が詰まる場所、荷が引っかかる場所、怒鳴れば余計に混乱する場所がある。

 

最初に突っかかってきた男が、少しだけ声を落とした。

 

「……本当に避難させるつもりなのか」

 

「させる」

 

「何が起きる」

 

「まだ言えない」

 

「なら信用できない」

 

「だろうな」

 

シャアはあっさり認めた。

 

「それでも、起きてからでは遅い」

 

男はしばらく彼を睨み、それから椅子に腰を下ろした。

 

「こっちの区画の名簿、持っていけ。だが勝手に部屋へ入るな。揉める」

 

「助かる」

 

食堂を出てから、下士官が息を吐いた。

 

「よく通りましたね」

 

「通ってはいない」

 

シャアは首を振った。

 

「半分はまだ疑っている」

 

「ですが名簿は出ました」

 

「住んでいる側は、何も知らされないより、半端でも情報がある方に寄る」

 

言いながら、自分でもそれが妙に嫌だった。

 

利用しているのではないか、と思ったからだ。

実際、利用している。戦争を始める側が、戦争に巻き込まれる側の不安を利用している。

 

その事実が、胸に小さく引っかかった。

 

夕刻、別の区画で騒ぎが起きた。

 

若い女が管理詰所へ怒鳴り込み、「連邦軍に知らせる」と叫んでいた。夫が駐留軍の雑役をしており、勝手な避難話で仕事を失わせるな、という訴えだった。

 

周囲には数人の住民が集まり、空気が一気に尖った。

 

シャアが前へ出ると、女はすぐに彼を指差した。

 

「あなたたちでしょう! 変な話を広めてるのは!」

 

「避難経路の確認をしているだけだ」

 

「嘘よ。何かするんでしょう。連邦に言えば、あなたたちなんか――」

 

言い切る前に、シャアは低く言った。

 

「言ってどうする」

 

女が止まる。

 

「駐留軍がこの区画を守るのか?」

 

「それは……」

 

「非常時に、子供と老人を先に動かす手順を知っているのか?」

 

「……」

 

「あなたの夫が知っているなら、むしろ話は早い。協力してくれればいい」

 

女は唇を噛んだ。

 

怒りだけではない。怯えているのだ。

仕事が切れるかもしれない。立場を失うかもしれない。だから一番目の前の権力にすがりたくなる。

 

シャアは少し声を落とした。

 

「連邦に言っても構わない。だが、その前に聞け。動く時は、子供を抱えて走れるか。荷物をどこまで捨てられるか。夫が戻らなかった時、どの通路を使うか。そこだけは決めておけ」

 

女の目に、怒りとは別の色が浮かんだ。

 

現実だ。

 

連邦だ、ジオンだと叫ぶ前に、最後に残るのは自分の足と家族の重さだと分かってしまった時の顔だった。

 

彼女は何も言わず、子供の手を引いて去っていった。

 

下士官が後ろで囁く。

 

「密告されますか」

 

「されるだろうな」

 

「止めなくてよかったのですか」

 

「止めれば余計に広がる」

 

シャアは通路の先を見た。

 

「それに、止める権限はまだない」

 

まだ。

 

その一語が、自分でも妙に重く感じた。

 

夜になって、臨時の拠点へ戻ると、そこには別系統の動きが始まっていた。

 

キシリア配下の先遣工作員たちだった。

 

軍服ではない。整備員や輸送業者にしか見えない服装で、しかし手にしている端末の中身は全く違う。通信中継の系統図、駐留軍の勤務交代時間、見回り経路、通報の優先回線、緊急遮断弁の位置。

 

その一人が、シャアに軽く会釈しただけで言った。

 

「中央通報回線は切れます」

 

「いつだ」

 

「命令が出てから三分以内に」

 

別の者が続ける。

 

「駐留軍は今夜から勤務交代周期を変えています。こちらの動きを嗅いだわけではなく、月末補充の名残です」

 

「監視塔の人員は」

 

「増えていません。むしろ一つ空いています」

 

まるで部品の受け渡しのような口調だった。

 

シャアは彼らの仕事ぶりに寒気を覚えた。

 

もう目前なのだ。

避難だ、名簿だと言って歩いていた裏で、別の者たちはすでに戦闘の分刻みを整えている。

通報を切る。勤務を読む。配置を数える。

戦争はまだ始まっていないはずなのに、始めるための手順だけが、静かに揃っていく。

 

「あなたの方はどうです」

 

工作員が尋ねた。

 

「反発はある」

 

「当然です」

 

「だが、動く列は作れる」

 

「どのくらい」

 

シャアは少し考えた。

 

「最初の波で、三割。うまくいって五割だ」

 

「十分です」

 

十分。

 

その言い方が、やけに冷たく聞こえた。

 

シャアは思わず言う。

 

「十分ではない。残りもいる」

 

工作員は一瞬だけ彼を見たが、すぐに視線を端末へ戻した。

 

「全員を動かせる戦争はありません」

 

それは事実だった。

事実だからこそ、腹が立つ。

 

シャアはそれ以上何も言わなかった。

 

翌朝、最初の避難誘導が始まった。

 

まだ大規模な移動ではない。優先対象だけを先に流す。単身高齢者、子供のいる世帯、通院が必要な者、設備の故障が多い労務区画の端から。荷物は最小限。大きな家具は禁止。搬送路で止まるからだ。

 

通路の角で、最初の列ができた。

 

老婆が小さな箱を胸に抱えている。若い母親は子供の手を強く握り、振り返るたびに部屋の方を見ていた。作業服の男が黙って工具箱を一つだけ提げている。その顔には、まだ納得も信頼もない。ただ、動かなければもっと悪くなるかもしれないという諦めだけがあった。

 

列は遅い。

 

だが、動いていた。

 

シャアは少し離れた場所から、その列を見た。

住民たちは静かだった。泣き叫ぶ者はいない。まだ本当の意味で何が起きるか分かっていないからだ。

だが、静かな列ほど重い。

 

一歩進むごとに、日常が剥がれていく。

 

ただの避難訓練ではない。

ただの防災点検でもない。

人が生活の場所から押し出され、別の場所へ移される。

その先にあるのは、もう元通りではない時間だ。

 

部下がそっと近づいた。

 

「少尉、第二群も動かせます」

 

シャアはすぐには返事をしなかった。

 

通路をゆっくり進む列の先頭に、昨日の管理員の老人がいた。杖をつき、片手に古びた書類箱を持っている。食堂にいた男もいた。怒鳴っていた女も、子供を連れて列の端にいた。

 

誰もこちらを信じてなどいない。

 

それでも、動いている。

 

シャアはその列を見て、ようやく理解した。

 

もう後戻りはできない。

 

自分たちは、これからここで戦争を始める。

この人間たちを逃がした先で。

逃がしきれない者がまだ残っていると知りながら。

 

喉の奥が少しだけ固くなった。

 

それでも、彼は顔を上げた。

 

「第二群を動かせ」

 

声は思っていたより落ち着いていた。

 

「主搬送路は使うな。保守路へ回せ。詰まる」

 

「はっ」

 

部下が走り去る。

 

シャアはもう一度、避難の列を見た。

 

撃つ前に、逃がす。

 

その意味の重さを、初めて本当の意味で知りながら。

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