十一バンチの朝は、妙に静かだった。
古いコロニーには、夜明けらしい夜明けはない。照明の色が切り替わり、保守灯の明るさが変わり、環境制御の音がわずかに軽くなる。それで人は朝を知る。
だがその日、シャア・アズナブルは、照明の変化より先に人の気配で朝を知った。
避難所に指定した管理区画の一角では、すでに何世帯かが荷物をまとめ終えていた。小さな手提げ箱、古びた布袋、工具箱、薬の包み。持っていけるものは少ない。少ないからこそ、何を持つかで生活が見える。
老婆は小さな木箱を胸に抱えていた。
若い母親は、子供の着替えと書類だけを薄い鞄に詰めている。
労務区画の男は工具箱を持ったまま、最後まで部屋の方を見ていた。
シャアは通路の分岐図を壁面に投影しながら、優先順をもう一度確認した。
「第一群はこのまま保守路へ。主搬送路は使うな。四番区画の角で詰まる」
「はい」
「第二群はまだ動かすな。先頭が補助シャフトを抜けてからだ」
「了解」
部下たちの返答も、昨夜ほど硬くはなかった。人を動かす仕事は地味だが、やってみれば一つ一つに理由がある。怒鳴れば早くなるわけではなく、急がせれば列が絡まり、誰かが転び、そこから全部が止まる。
戦争の前に、人の流れを整える。
軍人として胸を張れる任務かと言われれば、まだシャアには分からない。
だが、必要な仕事だということだけは、もう否定しようがなかった。
一人の下士官が足早に戻ってきた。
「少尉、駐留軍の見回りが一つ減っています」
「時間は」
「予定より十二分早いです」
シャアは眉を寄せた。
「……始まるな」
それは独り言に近かった。
部下は聞き返さなかった。昨夜から増えた不自然な静けさ、通報回線の沈黙、そしてキシリア系統の工作員たちの消え方で、もう皆うすうす悟っている。
シャアは通路の奥を見た。
まだ何も起きていない。
それなのに、空気だけが変わっていた。
「第一群を出す」
「はい」
「急がせるな。歩かせろ」
命じてから、彼は一瞬だけ目を閉じた。
そして、遠くで最初の音がした。
重く、短い震え。
コロニー全体を揺らすほどではない。だが、壁の中を伝ってくる鈍い衝撃は、設備の作動音とは決定的に違っていた。
最初の砲声だった。
通路にいた住民たちが一斉に顔を上げる。
子供が泣きそうな顔をし、荷物を抱えた男たちの肩が固くなる。
誰も叫ばなかった。ただ、皆が「来た」と分かった。
シャアは自分の喉の奥が急に乾くのを感じた。
始まった。
十一バンチの外縁では、すでにジオン艦隊が陣を敷いていた。
ドズルの乗艦は、過疎バンチの静けさを背にしてなお巨大だった。艦橋の空気は張り詰めているが、不思議と浮つきはない。司令席に座るドズル・ザビの存在そのものが、艦全体に一本の芯を通していた。
「最終勧告」
ドズルが言う。
通信士官がうなずき、文面を読み上げた。
「連邦駐留軍へ通告。十一バンチ管理権はただちにジオン公国が接収する。武装解除の上、管理区画より退去せよ。民間人の避難はすでに開始済み。これを妨げる場合、武力行使をもって排除する」
艦橋に短い沈黙が落ちた。
返答はすぐに来た。
連邦側の声は硬く、そして怒っていた。
「貴軍の行動は連邦領に対する不法侵入である。直ちに撤退せよ。さもなくば――」
「そこで切れ」
ドズルが言った。
通信士官が送受信を落とす。
「充分だ。あいつらに下がる気はない」
誰も異論を挟まない。
ドズルは前を見たまま、低く命じた。
「始める。民間避難路に近い区画へは撃ち込むな。管理中枢と駐留兵舎、通信を先に潰せ」
「はっ」
「黒い三連星、先行突破」
別回線で即座に返答が返る。
「おう」
「待ってましたぜ」
「道を開けりゃいいんだな」
ドズルの口元がわずかに動く。
「暴れすぎるなよ」
「善処する」
その返答に、艦橋の何人かが一瞬だけ息を詰めた。善処する、と言う時ほど三人は怪しい。
「マツナガ」
「はっ」
「民間区画に近い砲座はお前がやれ。余計な火を入れるな」
「承知しました」
シン・マツナガの声は静かだった。正確に撃ち、必要以上に壊さない。こういう場面でこそ生きる男だった。
「本隊前進。押し切るぞ」
ドズルの一言で、艦橋全体が動いた。
派手な大戦争ではない。
だが、そこにあるのは、もう完全な戦争だった。
外縁区画では、黒い三連星の機体が先に飛び出していた。
細い光の帯を引きながら、三機が散開する。過疎バンチの外壁近くに作られた連邦側の臨時砲座は、あくまで治安維持用の補強に過ぎない。全面会戦を想定した重厚な防御ではない。だからこそ、最初の一撃で気勢を削がれた。
「左取るぞ」
「中央、見えてる」
「右はもらった」
短い声だけで、動きは揃う。
一機がわざと大きく見せて砲火を引きつけ、残る二機が死角へ潜る。次の瞬間、連邦側の外壁砲座が一つ沈黙した。爆発はしたが、三連星は構わず次へ行く。破壊そのものではなく、突破口を開けるのが役目だと分かっている動きだった。
その後方では、マツナガ機が静かに位置を変えていた。
照準を合わせる。
撃つ。
外すことはない。
だが彼の射撃は、黒い三連星とは違った。砲座の基部だけを飛ばし、弾薬庫ごと吹き飛ばさない。通路を塞がない。余計な二次被害を出さない。管理区画の気密壁に近い場所では、あえて角度を変えて外壁側へ逃がす。
「二区画砲座、沈黙」
「五番通路交差点、制圧完了」
報告が短く上がる。
撃っているのに、どこか冷静だった。
マツナガの役目は、派手に勝つことではない。あとで人が通れる形を残して敵だけを剥がすことだ。
その間にも、ドズル本隊の圧力は着実に前へ出ていた。
艦隊が一斉に砲火を浴びせるほどの規模ではない。
必要な場所へ、必要なだけ撃つ。
押し潰すというより、相手に「もう持たない」と思わせるような戦い方だった。
ドズルは艦橋で報告を聞きながら、ひとつだけ繰り返していた。
「避難路に近い区画は外せ」
「通路を塞ぐな」
「駐留軍だけを剥がせ」
乱暴に見えて、細かい。
それがドズルの強さだった。
ただ怒鳴っているように見えて、実際には何を守るべきかを外さない。
十一バンチ内部では、その砲声が壁の向こうから断続的に響いていた。
最初の一発だけなら、住民たちはまだ偶発事故だと自分を誤魔化せたかもしれない。だが二発、三発と続けば、もう誤魔化せない。
通路の空気が変わる。
人の呼吸が浅くなる。
列の歩幅が崩れそうになる。
「止まるな!」
思わず怒鳴りそうになって、シャアは飲み込んだ。
怒鳴れば、余計に崩れる。
「前を見て進んでください!」
代わりに少し強めの声で言う。
「荷物は離すな、子供の手を離すな! 角で止まるな!」
老婆が一人、通路脇で足を止めた。
抱えていた木箱を落としかける。
シャアはすぐに駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「……聞こえた」
老人の唇が震えていた。
「始まったのかい」
シャアは一瞬だけ答えに迷った。
だが、もう隠す意味はなかった。
「はい」
老人は目を閉じ、木箱を抱え直した。
「そうかい」
それだけ言って、また歩き出す。
子供が泣き出した。母親がしゃがみ込んで抱きしめる。そのせいで列が少しだけ詰まり、後ろが止まりかける。
「補助路へ回せ!」
シャアが後ろへ指示を飛ばす。
「第二群を左に逃がせ! ここで重ねるな!」
部下が走り、別の下士官が住民の肩に手を当てて流れを修正する。通路の分岐図は頭に入っていた。だから判断が間に合う。
砲声はまた響いた。
今度は少し近い。
住民の目に恐怖が浮かぶ。
その恐怖を見ながら、シャアは自分たちの砲撃でこの列を急がせていることを思い知った。
戦争を始めているのは自分たちだ。
それでも、逃がすしかない。
「前へ!」
声を張る。
「前へ進んでください! 止まると危険です!」
その時、通路脇から男が飛び出した。
昨日、食堂で反発してきた労務区画の男だった。手には工具箱。顔色が悪い。
「おい!」
男は叫んだ。
「三番労務区画にまだ二人残ってる! 動けないやつだ!」
シャアは即座に振り向いた。
「本当か」
「嘘ついてどうする!」
後ろの部下が言う。
「少尉、もう危険です!」
危険なのは分かっている。
だが、その二人を切り捨てれば、この列を動かしている意味が半分消える。
シャアは歯を食いしばった。
「案内しろ」
「少尉!」
「お前は列を見ろ! 第二群を止めるな!」
言い捨てて走り出す。
自分が小心者だという自覚はある。
怖くないわけではない。
むしろ、こういう時ほど心臓が速く打ち、喉が締まる。
だが、怖いから見捨てるのはもっと嫌だった。
男の案内で労務区画へ入り、故障した昇降補助機の前に倒れ込んでいた中年女と、その夫らしい老人を見つけた。
女は足を痛めている。
老人はほとんど歩けない。
「立てますか」
「無理だ!」
男が怒鳴る。
「だから呼びに行ったんだ!」
また砲声。壁が震える。
シャアは一瞬だけ天井を見た。
まだ遠い。だが、いつまでもはもたない。
「担架は」
「ない!」
「なら、工具箱を空けろ」
男が目を剥いたが、すぐに理解して箱をひっくり返した。中身を床へ出し、部下の一人が緊急布を広げる。簡易担架にして女を乗せ、老人の腕をシャア自身が肩に回す。
「行けるか」
「……行くしかないだろうよ」
老人の声は弱かった。
戻る通路で、シャアは初めて自分の手が震えていることに気づいた。
戦っていない。敵も目の前にいない。
それなのに震える。
これが初陣なのか、と一瞬思った。
少し情けなく、少しだけ可笑しかった。
避難列の本流へ戻ると、部下たちが持ち場を死守していた。第二群は補助路へ流され、主搬送路は辛うじて詰まらずに済んでいる。
下士官が駆け寄る。
「少尉、第一群、避難区画到達六十三名!」
「第二群は」
「今、四十七!」
「続けろ!」
「はっ!」
数字だった。
撃墜数ではない。
退避人数だった。
そしてそれが、今の彼の戦果だった。
外では、駐留軍の抵抗がもう限界に近づいていた。
黒い三連星が開けた突破口からジオン側の制圧部隊が流れ込み、マツナガが残っていた砲座を一つずつ潰していく。通信中枢はすでに沈黙し、駐留軍の指揮は区画ごとに寸断されていた。
「管理中枢、制圧目前!」
「兵舎側、抵抗弱まっています!」
報告が続く。
ドズルは前へ身を乗り出した。
「一気に行くぞ。降伏勧告は出した。もう十分だ」
「はっ!」
「駐留軍指揮官に最後の通告。武装を捨てて退去しろ。これ以上は無駄死にだ」
返答は、結局なかった。
かわりに小さな砲火が一つ、ジオン側前衛の近くをかすめた。
ドズルは顔色一つ変えずに言った。
「終わらせろ」
その命令で、最後の抵抗線が崩れた。
静かな過疎バンチに、断続的に響いていた砲声が、そこでようやく途切れ始める。
戦争は、派手な宣言で始まらなかった。
古びたコロニーの、打ち捨てられかけた一角で。
民間人の避難路を空けろという命令と。
降伏勧告を拒んだ駐留軍に向けた最初の一撃と。
それだけで始まった。
その報告は、数十分も置かずジャブローへ届いた。
レビルは着任区画へ戻る途中で呼び止められ、端末を受け取った。報告文は短い。だが内容は重かった。
サイド5・十一バンチ、武装勢力により接収。
連邦駐留軍、交戦。
管理中枢喪失。
通信断続。
敵は組織的行動。
局地暴動の域を超える。
ティアンムも、ほぼ同時に同じ報を受けていた。
「やはり来たか」
彼は端末を握ったまま言う。
「これは暴動ではありません」
副官が答える。
「分かっている」
ティアンムは即座に踵を返した。
「出撃準備を繰り上げろ。先行艦隊は編成を待つな。上がれる艦から上げろ」
「しかし、レビル将軍との統合調整が――」
「待っていたら根を張られる」
ティアンムの声は鋭かった。
「相手は拠点を取りに来ている。追い出すには、足場が固まる前に叩くしかない」
同じ頃、レビルは司令室へ入り、報告をもう一度読み直していた。
十一バンチ。
過疎バンチ。
だが、ただの過疎バンチではない。
航路に対する位置、サイド5内部への足掛かり、外縁部からの軍事展開。
そして、動き方があまりにも整っている。避難誘導まで含めて準備していたとしか思えない。
「局地暴動ではありませんな」
副官が低く言った。
「当然だ」
レビルは端末を置いた。
「これは戦略拠点の接収だ。相手は最初からここを取りに来ている」
「ティアンム中将は先行出撃を主張しています」
「だろうな」
レビルは短く息を吐いた。
「間違ってはいない。だが急げば急ぐほど、こちらの兵力は割れる」
「それでも動かねば」
「動く」
レビルは即答した。
「だが、艦を上げるだけでは駄目だ。これはもう監査作戦ではない。戦域の取り合いだ」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
連邦側もまた、この瞬間に理解したのだ。
始まってしまった、と。
ジャブローが動き始める頃、サイド3では別の報告がギレンのもとへ届けられていた。
十一バンチ接収完了。
駐留軍制圧。
民間避難進行中。
管理中枢確保。
主要通路損傷軽微。
ギレンは報告書を最後まで読み、静かに閉じた。
「損傷軽微、か」
それだけ言った。
控えていた副官が続ける。
「はい。外縁区画と臨時砲座周辺を除けば、居住機能と主搬送路は概ね維持されています」
「よくやった」
大きな賛辞ではない。だが、それで十分だった。
使える形で取れ。
その命令に、現場は応えたのだ。
十一バンチはもう、単なる占領地ではない。
接収したというだけではなく、次の工程へ進める場所になった。
ギレンは机の端の回線を開いた。
「アサクラを」
数秒後、回線が繋がる。
「アサクラです」
「十一バンチの初期測量を始めろ」
ギレンは言った。
「表向きは軍事拠点整備。裏では構造確認、外壁応力、軸線誤差、居住ブロックの再配置案まで取れ。急げ」
「承知しました」
返答は早かった。
「測量班は補修監査名目で入れます。外壁応力と軸線誤差を先行。再配置案は、その結果を見て組みます」
「軍の匂いを強く出すな」
「はい。工廠技術局ではなく、保守更新局の名義を使います」
ギレンは窓の外へ視線を向けた。
「軸線誤差は最優先だ。後で泣くことになる」
「承知しております。主軸から拾わせます」
「居住機能は切るな。まだ隠す段階だ」
「はい。表の図面は現状維持で通します」
その答えに、ギレンはわずかにうなずいた。
「第一陣はいつ出せる」
「本日中に」
「急げ」
「間に合わせます」
回線が切れる。
ギレンはしばらくそのまま立っていた。
十一バンチはこの瞬間から、ただの占領地ではなくなった。
戦場であり、拠点であり、そして先の形へ変えていくための母体でもある。
戦争は始まった。
まだ宇宙全体が燃えているわけではない。
だが、最初の一発は撃たれ、最初の拠点は奪われ、最初の避難民の列はすでに歩き始めている。
それで十分だった。
もう引き返せない。
ギレンは窓の外の光から目を外し、机上の星図へ視線を落とした。
十一バンチの一点は、もう昨日までの一点ではなかった。