妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第122話 静かな接近

 

 

ルナツーは、まだ遠かった。

 

だが、もう十分に近かった。

 

前面視界の奥に浮かぶそれは、最初はただの黒い塊にしか見えない。星の散る宙の中で、輪郭だけが不自然に整い、近づくほど面を増やし、稜線を現し、やがて砲座と監視灯の配置まで読めるようになる。巨大要塞というものは、近づくほど威圧感を増すのではない。近づくほど、そこに積み上げられた手順と執念が見えてくる。

 

グワジン艦橋は減灯されていた。必要最低限の表示灯だけが生きており、各員の顔には青白い光が薄く当たっている。誰も無駄な声を出さない。報告は短く、返答はさらに短い。総帥艦が進んでいるというのに、艦内の空気は不自然なほど静かだった。

 

「粒子散布、第一工程準備完了」

 

副官の声は低かった。

 

デラーズは前方から目を離さずに言う。

 

「予定通りに始めろ。濃度を上げすぎるな。こちらの目も潰れる」

 

「はっ」

 

「進入経路偽装ビーコン、投射位置確認済みです」

 

「一度で通せ。やり直しはない」

 

命令はそれだけだった。

 

ここから先は、秒で失敗が積み上がる。デラーズはそれを知っていたし、艦橋の全員も知っていた。

 

「全艦沈黙を維持しろ」

 

デラーズが言った。

 

「ここから先は、喋るほど遅れる」

 

前方の闇の中に、ルナツー外縁の監視灯が細く浮いた。

 

まだ敵は撃っていない。

 

まだこちらも撃たない。

 

だが、もう引き返す距離ではなかった。

 

 

 

 

シーマの区画では、海兵たちが壁際や床に座り、最後の装備確認をしていた。

 

通路の照明は半分以上落とされ、顔の下半分が影に沈む。武器の点検音、装具の留め具が触れ合う乾いた音、酸素残量計の確認、短い返答。誰も威勢のいいことは言わない。言えば落ち着く者もいるだろうが、この隊では逆だった。余計な言葉は手を狂わせる。

 

シーマは図面と時計を並べていた。

 

どの班が第一波に入るか。どこで横へ開くか。どの隔壁に小型爆薬を使うか。どこで止まり、どこを見捨て、どこを押さえるか。勝てるかどうかではない。何分持つか、どこで詰まるか、どこまで倒れても線が切れないか。それだけを見ている。

 

「第一波は厚くするな」

 

シーマは図面から目を上げずに言った。

 

「厚いと止まる」

 

下士官が低く返す。

 

「ですが薄いと押し返されます」

 

「押し返される前に横へ開くんだよ」

 

シーマの声は冷たい。

 

「通路の真ん中で死なれたら、後ろが詰まる」

 

別の兵が爆薬ケースを持ち上げた。

 

「量はこのままで?」

 

「多い。道だけ開けろ。派手に吹かすな。残せって命令だ」

 

兵が無言で頷く。

 

別の端末には、環境管制系の簡易図が表示されていた。主要ダクト、循環ポンプ、圧力制御室、フィルター区画、空調中枢。普通の海兵なら工兵に渡して終わる図だ。だが、この作戦では違う。そこを押さえれば、要塞の中の空気そのものを戦場にできる。

 

下士官が図を見ながら言う。

 

「空調制御室、第一波の端で触れます」

 

「触るだけじゃ足りない」

 

シーマは初めて顔を上げた。

 

「押さえるんだ。通信を切るのはどこでもできる。だが空気を握るには元を取らなきゃならない」

 

少し離れたところで、若い海兵が隣の兵に小声で言う。

 

「ラル大尉殿の隊が入るまで、最初の角で持たせればいいんですね」

 

「ラル大尉殿が来れば導線は死なない」

 

「だったら持つ」

 

シーマはその会話を聞いていたが、何も言わなかった。

 

ラルの教導を受けた海兵は多い。狭所での立ち方、角の取り方、隔壁前での待ち方、逃がし道を一つ残す戦い方。ラルは海兵ではない。だが、そのせいで逆に教えられることがあった。

 

シーマは図面を閉じる。

 

「いいかい」

 

全員の視線が集まる。

 

「あたしは勇ましく死ぬ気はない。生きて次の扉を開ける。それだけ覚えときな」

 

誰も返事をしなかった。必要がないからだ。

 

シーマは最後にだけ、さらに低く言った。

 

「死ぬな、とは言わない。だが通路の真ん中で死ぬな」

 

海兵たちは黙って頷いた。

 

 

 

 

ラルの区画には、別の静けさがあった。

 

こちらも減灯されていたが、シーマ隊のような張り詰め方ではない。息の合わせ方を知っている者たちの静けさだった。ラルは展開図を床に広げ、膝をついたまま部下たちを見ている。

 

クランプ。

アコース。

コズン・グラハム。

ステッチ。

ゼイガン。

 

ラル家に付き従ってきた者たちが、声を抑えたまま図の周りにいた。野戦でも、潜入でも、局地戦でも、生きて戻るための勘を持った兵ばかりだった。

 

「動力、通信、司令区、ドック」

 

ラルが指で順に示す。

 

「順を間違えるな」

 

クランプが顎に手をやった。

 

「司令区を先に圧迫しすぎると、敵が散りますな」

 

「そうだ」

 

ラルは即答した。

 

「追い込みすぎるな。逃がし道を一つ残せ」

 

アコースが目を細める。

 

「砲台管制は?」

 

「黙らせる。だが飛ばすな。止めれば足りる」

 

コズンが薄く笑った。

 

「随分と贅沢な戦で」

 

「贅沢じゃない」

 

ラルも少しだけ口元を動かした。

 

「後で自分たちが使う」

 

ステッチが装具を締め直しながら言う。

 

「海兵ども、みんなラル大尉殿の後ろを欲しがってます」

 

「欲しがるほど立派な背中じゃないさ」

 

ラルは肩をすくめるように言った。

 

「だが前には立つ」

 

ゼイガンが短く応じる。

 

「それで十分です」

 

クランプが部下の固定具を見て回っていた。ラルはそれを見てから、自分でもアコースの肩当ての留めを直した。指先の動きに無駄がない。隊長が手を動かせば、部下はそれだけで落ち着く。

 

「いいか」

 

ラルは立ち上がった。

 

「取るために入る。壊すためじゃない」

 

誰も声を上げない。

 

「空調を押さえる。空気を握れば、向こうは自分で動く」

 

クランプが頷く。

 

「動線をこっちで決めるわけですな」

 

「そうだ」

 

ラルは前を見た。

 

「行くぞ。前には俺が立つ」

 

その一言で、全員の肩が少しだけ下がった。

この男が前に立つなら通れる。

そう思わせるものが、ラルにはあった。

 

 

 

 

別区画では、ガトーが当然のように最前列に立っていた。

 

誰もそれを止めようとはしない。止めても聞かないと知っているからではない。最初の穴を開けるのがこの男だと、周囲も認めているからだ。ガトーは部下の装備を見て回り、一つ一つ自分の手で締め直していた。推進剤残量、固定具、小型爆薬の位置、予備弾倉。目の前の戦いへ意識が真っすぐ向いている。

 

「固定具を締め直せ」

 

ガトーが一人の兵の胸元を叩いた。

 

「宙返り一つで外れる留めに命は預けるな」

 

「はっ」

 

「最初の三分を取る。三分取れば、後ろが来る」

 

背後からシーマの声が飛んだ。

 

「そうやって前へ出すぎると、後ろはあんたの死体を跨ぐ羽目になる」

 

ガトーは振り返る。

 

「跨がせるつもりはない」

 

「そういうつもりの奴が一番危ないんだよ」

 

シーマは腕を組んだまま近づいてきた。

 

「最初の穴を開けるのはいい。二つ目まで欲を出すな。あんたが深く入りすぎると、入口が痩せる」

 

ガトーの顎がわずかに上がる。

 

「入口を広げるために入る」

 

「広げる前に潰れるんだよ。英雄気取りは面倒だ」

 

その空気を割るようにラルが入ってきた。シーマもガトーも、自然に半歩だけ引く。年齢でも軍歴でも、前にいるのはラルだった。

 

「ガトー」

 

「はい、ラル大尉殿」

 

「お前が開ける穴は一つでいい。二つ目まで欲張るな」

 

ガトーは反射的に言い返しかけたが、ラルの目を見て止まった。

 

「しかし――」

 

「一つ目で後ろが通れば、それで勝ちだ」

 

ラルの声は低い。

 

「英雄の数より通路の数を増やせ」

 

シーマが鼻で笑う。

 

「やっとまともなこと言う人が来た」

 

「お前も言ってることは同じだろうが」

 

ラルが返す。

 

「言い方が優しくないだけさ」

 

ガトーはしばらく黙っていたが、やがて部下へ向き直った。

 

「最初の三分を取る」

 

さっきと同じ言葉だった。だが、その後が変わっていた。

 

「深追いはするな。後ろを通せ」

 

それを聞いて、シーマが初めて何も言わずに頷いた。

 

 

 

 

ルナツー内部では、まだ“本気”の敵襲だとは思われていなかった。

 

監視区画、管制室、外縁ビーコン監督室。異変は出ている。粒子濃度がわずかに上がり、外縁監視ビーコンの応答が鈍り、視界に細かなノイズが混じり始めている。だが、サイド5で戦が始まっている以上、その余波か攪乱かもしれないという説明もまだ成り立った。

 

監視士官が数値を見て言う。

 

「粒子濃度、上昇しています」

 

管制士官が振り返った。

 

「この宙域でか」

 

「自然変動ではありません」

 

別の士官が端末を操作しながら言う。

 

「サイド5方面の残響ではないのか」

 

通信士官が顔を上げる。

 

「外縁監視ビーコン、一基応答遅れ」

 

管制士官は少し考えた。

 

「警戒態勢を一段上げろ。だが砲座全開はまだ待て」

 

「待ちますか」

 

「まだ確定していない。こちらが先に騒げば、それこそ神経質なだけだ」

 

この要塞の守備隊は鈍くはない。異変には気づいている。

だが、サイド5とルナツーを同時に大きく動かしてくるとまでは、まだ読めていなかった。

 

数分後、別のビーコンが応答を遅らせた。

 

室内の空気がわずかに変わる。

 

それでも、まだ誰も「来た」とは言わない。

 

その一拍が、要塞戦では命取りになることがある。

 

艦橋は、相変わらず静かだった。

 

デラーズは前面視界の暗いルナツーを見ながら、数字だけを聞いていた。粒子濃度、進路偏差、偽装ビーコン、パプワ群の位置。感情は要らない。シーマは死体で通路を詰まらせることを嫌う。ラルは取った後を見ている。ガトーは前へ出る。それを束ねて一つの刃にするのが自分の仕事だと、デラーズは分かっていた。

 

「粒子散布、予定濃度に到達」

 

副官が言う。

 

「維持しろ。上げすぎるな」

 

「パプワ群、進入経路最終確認終了」

 

「ラル隊、シーマ隊、ガトー隊へ。時刻通りに入る。誰も早まるな」

 

短い命令が飛ぶ。

 

副官が次の報を入れる。

 

「ルナツー側、砲座全開の兆候なし」

 

デラーズは即答した。

 

「だから今夜やる」

 

それだけだった。

 

敵が整う前の数分。

それを奪うために、ここまで静かに近づいてきたのだ。

 

「環境管制の位置、再確認」

 

副官が端末を寄せる。

 

「第一群が触れる最短はドック外縁経由。ラル隊が入れば中枢ダクト側へ回れます」

 

「空気を握れ」

 

デラーズは視線を動かさずに言った。

 

「通信より先だ。中の空気がこちらのものになれば、要塞は自分で崩れる」

 

副官が頷く。

 

デラーズは前方の暗い輪郭を見たまま命じた。

 

「パプワ群、前へ出せ」

 

艦橋の空気が、さらに細く締まった。

 

パプワ強襲揚陸艦群は、灯を消したまま闇の中を滑り始めた。

 

この世界線のそれは、もはやただの輸送艦ではない。強襲揚陸艦として改造され、ミノフスキードライブ化され、外殻にはIフィールドの淡い光が薄く走っている。通常の輸送艦なら、要塞砲火の前には遮蔽を探すしかない巨体だ。だがこいつらは違った。耐えながら、速度で距離を詰めるために作られている。

 

艦内では兵たちが無言で武器を握っていた。

 

海兵の呼吸がヘルメットの内側で短く反響する。ラル隊の兵は互いの装具を最後に一度だけ見直し、ガトー隊の兵は既に立っている。誰も大声を出さない。出せば、今にも何かが壊れそうな静けさだった。

 

一人の海兵が思わず呟く。

 

「……静かすぎるな」

 

隣の兵が返す。

 

「まだ誰も撃ってないだけだ」

 

クランプが前方を見たまま言う。

 

「撃ち始めた時には、もう遅い」

 

シーマが振り返らずに落とす。

 

「喋るな。歯を食いしばっとけ」

 

ラルは前方を見たまま立っていた。

ガトーは既に姿勢を低くし、第一歩目のために体重を預けている。

デラーズ艦橋からの声は、もう入らない。

ここから先は現場の時間だった。

 

パプワ揚陸艦群は、灯を消したまま闇の中を滑っていった。

 

まだ誰も撃っていない。

 

だが、戦場の匂いだけは、もう濃くなっていた。

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