ルナツーは、まだ遠かった。
だが、もう十分に近かった。
前面視界の奥に浮かぶそれは、最初はただの黒い塊にしか見えない。星の散る宙の中で、輪郭だけが不自然に整い、近づくほど面を増やし、稜線を現し、やがて砲座と監視灯の配置まで読めるようになる。巨大要塞というものは、近づくほど威圧感を増すのではない。近づくほど、そこに積み上げられた手順と執念が見えてくる。
グワジン艦橋は減灯されていた。必要最低限の表示灯だけが生きており、各員の顔には青白い光が薄く当たっている。誰も無駄な声を出さない。報告は短く、返答はさらに短い。総帥艦が進んでいるというのに、艦内の空気は不自然なほど静かだった。
「粒子散布、第一工程準備完了」
副官の声は低かった。
デラーズは前方から目を離さずに言う。
「予定通りに始めろ。濃度を上げすぎるな。こちらの目も潰れる」
「はっ」
「進入経路偽装ビーコン、投射位置確認済みです」
「一度で通せ。やり直しはない」
命令はそれだけだった。
ここから先は、秒で失敗が積み上がる。デラーズはそれを知っていたし、艦橋の全員も知っていた。
「全艦沈黙を維持しろ」
デラーズが言った。
「ここから先は、喋るほど遅れる」
前方の闇の中に、ルナツー外縁の監視灯が細く浮いた。
まだ敵は撃っていない。
まだこちらも撃たない。
だが、もう引き返す距離ではなかった。
シーマの区画では、海兵たちが壁際や床に座り、最後の装備確認をしていた。
通路の照明は半分以上落とされ、顔の下半分が影に沈む。武器の点検音、装具の留め具が触れ合う乾いた音、酸素残量計の確認、短い返答。誰も威勢のいいことは言わない。言えば落ち着く者もいるだろうが、この隊では逆だった。余計な言葉は手を狂わせる。
シーマは図面と時計を並べていた。
どの班が第一波に入るか。どこで横へ開くか。どの隔壁に小型爆薬を使うか。どこで止まり、どこを見捨て、どこを押さえるか。勝てるかどうかではない。何分持つか、どこで詰まるか、どこまで倒れても線が切れないか。それだけを見ている。
「第一波は厚くするな」
シーマは図面から目を上げずに言った。
「厚いと止まる」
下士官が低く返す。
「ですが薄いと押し返されます」
「押し返される前に横へ開くんだよ」
シーマの声は冷たい。
「通路の真ん中で死なれたら、後ろが詰まる」
別の兵が爆薬ケースを持ち上げた。
「量はこのままで?」
「多い。道だけ開けろ。派手に吹かすな。残せって命令だ」
兵が無言で頷く。
別の端末には、環境管制系の簡易図が表示されていた。主要ダクト、循環ポンプ、圧力制御室、フィルター区画、空調中枢。普通の海兵なら工兵に渡して終わる図だ。だが、この作戦では違う。そこを押さえれば、要塞の中の空気そのものを戦場にできる。
下士官が図を見ながら言う。
「空調制御室、第一波の端で触れます」
「触るだけじゃ足りない」
シーマは初めて顔を上げた。
「押さえるんだ。通信を切るのはどこでもできる。だが空気を握るには元を取らなきゃならない」
少し離れたところで、若い海兵が隣の兵に小声で言う。
「ラル大尉殿の隊が入るまで、最初の角で持たせればいいんですね」
「ラル大尉殿が来れば導線は死なない」
「だったら持つ」
シーマはその会話を聞いていたが、何も言わなかった。
ラルの教導を受けた海兵は多い。狭所での立ち方、角の取り方、隔壁前での待ち方、逃がし道を一つ残す戦い方。ラルは海兵ではない。だが、そのせいで逆に教えられることがあった。
シーマは図面を閉じる。
「いいかい」
全員の視線が集まる。
「あたしは勇ましく死ぬ気はない。生きて次の扉を開ける。それだけ覚えときな」
誰も返事をしなかった。必要がないからだ。
シーマは最後にだけ、さらに低く言った。
「死ぬな、とは言わない。だが通路の真ん中で死ぬな」
海兵たちは黙って頷いた。
ラルの区画には、別の静けさがあった。
こちらも減灯されていたが、シーマ隊のような張り詰め方ではない。息の合わせ方を知っている者たちの静けさだった。ラルは展開図を床に広げ、膝をついたまま部下たちを見ている。
クランプ。
アコース。
コズン・グラハム。
ステッチ。
ゼイガン。
ラル家に付き従ってきた者たちが、声を抑えたまま図の周りにいた。野戦でも、潜入でも、局地戦でも、生きて戻るための勘を持った兵ばかりだった。
「動力、通信、司令区、ドック」
ラルが指で順に示す。
「順を間違えるな」
クランプが顎に手をやった。
「司令区を先に圧迫しすぎると、敵が散りますな」
「そうだ」
ラルは即答した。
「追い込みすぎるな。逃がし道を一つ残せ」
アコースが目を細める。
「砲台管制は?」
「黙らせる。だが飛ばすな。止めれば足りる」
コズンが薄く笑った。
「随分と贅沢な戦で」
「贅沢じゃない」
ラルも少しだけ口元を動かした。
「後で自分たちが使う」
ステッチが装具を締め直しながら言う。
「海兵ども、みんなラル大尉殿の後ろを欲しがってます」
「欲しがるほど立派な背中じゃないさ」
ラルは肩をすくめるように言った。
「だが前には立つ」
ゼイガンが短く応じる。
「それで十分です」
クランプが部下の固定具を見て回っていた。ラルはそれを見てから、自分でもアコースの肩当ての留めを直した。指先の動きに無駄がない。隊長が手を動かせば、部下はそれだけで落ち着く。
「いいか」
ラルは立ち上がった。
「取るために入る。壊すためじゃない」
誰も声を上げない。
「空調を押さえる。空気を握れば、向こうは自分で動く」
クランプが頷く。
「動線をこっちで決めるわけですな」
「そうだ」
ラルは前を見た。
「行くぞ。前には俺が立つ」
その一言で、全員の肩が少しだけ下がった。
この男が前に立つなら通れる。
そう思わせるものが、ラルにはあった。
別区画では、ガトーが当然のように最前列に立っていた。
誰もそれを止めようとはしない。止めても聞かないと知っているからではない。最初の穴を開けるのがこの男だと、周囲も認めているからだ。ガトーは部下の装備を見て回り、一つ一つ自分の手で締め直していた。推進剤残量、固定具、小型爆薬の位置、予備弾倉。目の前の戦いへ意識が真っすぐ向いている。
「固定具を締め直せ」
ガトーが一人の兵の胸元を叩いた。
「宙返り一つで外れる留めに命は預けるな」
「はっ」
「最初の三分を取る。三分取れば、後ろが来る」
背後からシーマの声が飛んだ。
「そうやって前へ出すぎると、後ろはあんたの死体を跨ぐ羽目になる」
ガトーは振り返る。
「跨がせるつもりはない」
「そういうつもりの奴が一番危ないんだよ」
シーマは腕を組んだまま近づいてきた。
「最初の穴を開けるのはいい。二つ目まで欲を出すな。あんたが深く入りすぎると、入口が痩せる」
ガトーの顎がわずかに上がる。
「入口を広げるために入る」
「広げる前に潰れるんだよ。英雄気取りは面倒だ」
その空気を割るようにラルが入ってきた。シーマもガトーも、自然に半歩だけ引く。年齢でも軍歴でも、前にいるのはラルだった。
「ガトー」
「はい、ラル大尉殿」
「お前が開ける穴は一つでいい。二つ目まで欲張るな」
ガトーは反射的に言い返しかけたが、ラルの目を見て止まった。
「しかし――」
「一つ目で後ろが通れば、それで勝ちだ」
ラルの声は低い。
「英雄の数より通路の数を増やせ」
シーマが鼻で笑う。
「やっとまともなこと言う人が来た」
「お前も言ってることは同じだろうが」
ラルが返す。
「言い方が優しくないだけさ」
ガトーはしばらく黙っていたが、やがて部下へ向き直った。
「最初の三分を取る」
さっきと同じ言葉だった。だが、その後が変わっていた。
「深追いはするな。後ろを通せ」
それを聞いて、シーマが初めて何も言わずに頷いた。
ルナツー内部では、まだ“本気”の敵襲だとは思われていなかった。
監視区画、管制室、外縁ビーコン監督室。異変は出ている。粒子濃度がわずかに上がり、外縁監視ビーコンの応答が鈍り、視界に細かなノイズが混じり始めている。だが、サイド5で戦が始まっている以上、その余波か攪乱かもしれないという説明もまだ成り立った。
監視士官が数値を見て言う。
「粒子濃度、上昇しています」
管制士官が振り返った。
「この宙域でか」
「自然変動ではありません」
別の士官が端末を操作しながら言う。
「サイド5方面の残響ではないのか」
通信士官が顔を上げる。
「外縁監視ビーコン、一基応答遅れ」
管制士官は少し考えた。
「警戒態勢を一段上げろ。だが砲座全開はまだ待て」
「待ちますか」
「まだ確定していない。こちらが先に騒げば、それこそ神経質なだけだ」
この要塞の守備隊は鈍くはない。異変には気づいている。
だが、サイド5とルナツーを同時に大きく動かしてくるとまでは、まだ読めていなかった。
数分後、別のビーコンが応答を遅らせた。
室内の空気がわずかに変わる。
それでも、まだ誰も「来た」とは言わない。
その一拍が、要塞戦では命取りになることがある。
艦橋は、相変わらず静かだった。
デラーズは前面視界の暗いルナツーを見ながら、数字だけを聞いていた。粒子濃度、進路偏差、偽装ビーコン、パプワ群の位置。感情は要らない。シーマは死体で通路を詰まらせることを嫌う。ラルは取った後を見ている。ガトーは前へ出る。それを束ねて一つの刃にするのが自分の仕事だと、デラーズは分かっていた。
「粒子散布、予定濃度に到達」
副官が言う。
「維持しろ。上げすぎるな」
「パプワ群、進入経路最終確認終了」
「ラル隊、シーマ隊、ガトー隊へ。時刻通りに入る。誰も早まるな」
短い命令が飛ぶ。
副官が次の報を入れる。
「ルナツー側、砲座全開の兆候なし」
デラーズは即答した。
「だから今夜やる」
それだけだった。
敵が整う前の数分。
それを奪うために、ここまで静かに近づいてきたのだ。
「環境管制の位置、再確認」
副官が端末を寄せる。
「第一群が触れる最短はドック外縁経由。ラル隊が入れば中枢ダクト側へ回れます」
「空気を握れ」
デラーズは視線を動かさずに言った。
「通信より先だ。中の空気がこちらのものになれば、要塞は自分で崩れる」
副官が頷く。
デラーズは前方の暗い輪郭を見たまま命じた。
「パプワ群、前へ出せ」
艦橋の空気が、さらに細く締まった。
パプワ強襲揚陸艦群は、灯を消したまま闇の中を滑り始めた。
この世界線のそれは、もはやただの輸送艦ではない。強襲揚陸艦として改造され、ミノフスキードライブ化され、外殻にはIフィールドの淡い光が薄く走っている。通常の輸送艦なら、要塞砲火の前には遮蔽を探すしかない巨体だ。だがこいつらは違った。耐えながら、速度で距離を詰めるために作られている。
艦内では兵たちが無言で武器を握っていた。
海兵の呼吸がヘルメットの内側で短く反響する。ラル隊の兵は互いの装具を最後に一度だけ見直し、ガトー隊の兵は既に立っている。誰も大声を出さない。出せば、今にも何かが壊れそうな静けさだった。
一人の海兵が思わず呟く。
「……静かすぎるな」
隣の兵が返す。
「まだ誰も撃ってないだけだ」
クランプが前方を見たまま言う。
「撃ち始めた時には、もう遅い」
シーマが振り返らずに落とす。
「喋るな。歯を食いしばっとけ」
ラルは前方を見たまま立っていた。
ガトーは既に姿勢を低くし、第一歩目のために体重を預けている。
デラーズ艦橋からの声は、もう入らない。
ここから先は現場の時間だった。
パプワ揚陸艦群は、灯を消したまま闇の中を滑っていった。
まだ誰も撃っていない。
だが、戦場の匂いだけは、もう濃くなっていた。