月の朝は、音より先に光が来る。
宿舎の薄いカーテン越しに差し込んだ白い明かりで、アムロは目を覚ました。眠ったはずなのに、頭の中は少しも静かになっていない。昨日見た機体の線が、そのまま残っていた。
胸のまとまり方。
腰の細さ。
背中へ寄せられた推進の置き方。
形だけではない。どう動くかまで、勝手に想像してしまう。考えないようにしても、頭のどこかがその先を追う。
起き上がって窓の外を見る。整った通路、区画をつなぐ搬送レール、遠くの工場棟。月の朝は湿り気がない。その代わり、最初から仕事の形をしていた。
扉の向こうで足音が止まる。
「起きてるか」
エドワウの声だった。
「うん」
「下で食う」
それだけ言って、足音が離れる。
アムロは少しだけ息を吐いた。
サイド7の家へ来た最初の頃なら、その短さに居心地の悪さを感じていたかもしれない。今も長く話すわけではないが、会話がそこで切れても、次がある気がする。それだけで、ずいぶん違った。
下へ降りると、エドワウはすでに席についていた。コーヒーの湯気の向こうで、何枚かの紙へ目を通している。アムロが座ると、その紙を閉じた。
「顔が寝てない」
「……そう見える?」
「見える」
短い返事だった。エドワウはパンの皿を少し寄せる。
アムロはそれを取りながら、小さく肩をすくめた。
「寝たんだけど」
「頭が寝てないんだろう」
そう言われて、反論できなかった。
しばらく二人とも黙ったまま食べる。ナイフの触れる音だけが小さく続く。変な沈黙ではない。慣れたわけでもない。ただ、置いておける沈黙になりつつあった。
やがてエドワウが言う。
「今日は黙って見ているだけでもいい」
アムロは顔を上げる。
「分かってる」
言いながら、自分の声が少し上ずっているのが分かった。
エドワウはそれ以上は言わない。ただ一度だけ、アムロの顔を確かめるように見てから立ち上がった。
「行くぞ」
アムロも立つ。
頭の中の機体は、まだ消えなかった。
――――――
開発区画の空気は、朝から熱かった。
昨日と同じ白い照明の下で、機体はまだ組み上がる途中の姿のまま吊られている。胸部の仮装甲、腰の支持フレーム、背中へ仮固定された補助推進ユニット。そのどれもが未完成なのに、機体全体のまとまりだけは、妙に強かった。
ナガノが先に気づいて手を上げる。
「お、来た」
その横でテム・レイは図面から顔を上げるだけだった。
「早いな」
「寝れなかっただけ」
アムロがそう答えると、ナガノが笑った。
「分かるな、それ。こういうの、一回見たら頭に残るんだよな」
テムは何も言わず、背部推進系の図面へ視線を戻した。
アムロは少し離れて立つ。昨日より、見る場所がはっきりしていた。
大人たちは構造で見ている。どこで支えるか、どこで逃がすか、どこを共通にするか。アムロの目は、そこから少しだけずれていた。
動かした時に変な癖が出るところ。
細かい姿勢制御で遅れそうなところ。
構造としては通っていても、動かした瞬間に違和感になるところ。
背中側へ回り込んだ時、アムロの足が止まった。
左右の主推進ノズルのうち、右側へ入る配管だけが、腰の後ろを一度回ってから上に上がっている。左側は比較的まっすぐだ。右だけ、一節長い。
ナガノが仮固定具の位置を見ながら言う。
「これで左右とも出力は揃うはずなんだけどな」
アムロは少しだけ眉を寄せる。
ナガノがその視線に気づいた。
「何か変か」
半分、面白がるような調子だった。
アムロはすぐには答えない。けれど、目が離れなかった。
「右のノズルだけ、立ち上がり遅れませんか」
ナガノの手が止まる。
「右?」
アムロは配管を指した。
「左はそのまま上がってるけど、右は一回後ろへ逃がしてる」
「これ、圧が乗るの、一拍ずれそう」
ナガノは笑わなかった。すぐに図面を引き寄せる。配管図を重ね、実機の仮配置を見る。さっきまで軽く流していた線が、急に重みを持つ。
「いや……」
小さく呟きながら、線を追う。
「そこまで変わるか?」
アムロは首をかしげた。
「大きくは変わらないかもしれないけど、細かく止める時に癖になると思う」
その間にテムが近づいてきた。何も言わず、配管図の一箇所を指で叩く。
「……右だけ一節長い」
ナガノが息を呑む。
「本当だ」
「逃がしが一回多い」
「支持具を避けるために回したのが、そのまま残ってる」
テムは一度だけアムロを見る。
「見る場所が違うな」
それだけだった。
褒められたのか、ただ確認されたのか、アムロには分からない。
だがナガノは完全に楽しそうだった。
「いいな、それ」
「図面だと成立してるように見えるとこを、動きの癖で刺してくる」
アムロは少しだけ身を引く。
「……何となくそう見えただけ」
「何となくで当てるのが面倒なんだよ」
ナガノはすぐに仮配置の線を引き直し始めた。
少し離れた場所で、エドワウはそのやり取りを見ていた。
やはりそう見るか、と内心で思う。
構造より先に、運動の癖が見える。
設計者の目ではない。使う側の目だった。
――――――
休憩で通路の端へ出ても、アムロの頭の中ではまだ配管の線が動いていた。
紙コップの水を飲んでいると、少し遅れてテムが来た。二人きりになっても、すぐに会話は始まらない。水の冷たさだけが妙にはっきりしている。
先に口を開いたのはテムだった。
「勝手に黙って見てるだけかと思った」
アムロは少しだけ視線を逸らす。
「言っていいか分からなかった」
「分かったなら言え」
短い沈黙。
テムは真正面を向かないまま続けた。
「外れてても構わん」
「分かったことを黙られる方が困る」
アムロはコップを持つ指先に、少しだけ力を入れた。
その言い方が不器用なくせに妙にまっすぐで、返事を急ぐと逆に嘘になりそうだった。
「……うん」
テムはそれ以上は言わない。ただ、水を一口飲んでから、小さく付け足した。
「さっきのは合ってた」
それだけ言って戻っていく。
アムロはしばらくその背中を見ていた。
父親という言葉で考えると、まだ距離がある。
だが機体の前にいる時だけは、その距離が少しだけ測りやすい。
――――――
午後に回った作業は、量産型の頭部案だった。
一号機の頭には、細いアンテナが立っている。観測と試験のための突起であり、ワンオフ機だけの特徴だ。量産を考えれば、最初に落ちる。
ナガノが頭部ユニットの図面を机へ並べる。
「こっちは簡略型です」
「アンテナなし。観測系も整理して、整備優先」
テムは一瞥する。
「それでいい」
「量産で要らんものは切れ」
アムロは二つの図面を見比べた。
一号機の頭は、どこか緊張した顔をしている。量産型案の方は、その緊張が少し抜けていた。派手さはないが、現場が扱いやすそうな顔だと思った。
ナガノが図面の端を指で叩く。
「問題は名前ですね」
テムは顔も上げない。
「要らん」
「でも現場で困りますよ」
「呼び分けないと」
少しの沈黙。
ナガノが肩をすくめた。
「このままだと、そっちはガンダムで、こっちは量産型のあれ、になります」
「十分だ」
「十分じゃないです」
そこで、エドワウが口を開いた。
「ネモでいい」
三人の視線がそろって向く。
ナガノが先に反応した。
「……ネモ?」
「短い」
エドワウは図面を見たまま言う。
「呼びやすい」
「それで足りる」
ナガノは少し考える。
「まあ……悪くないですね」
テムは何も言わない。だが否定もしない。
わずかな沈黙のあと、テムが言った。
「好きにしろ」
ナガノは頷いた。
「じゃあ、ネモで」
それで話は終わる。
大げさな命名ではない。ただ、仕事を進めるために呼び名が一つ置かれただけだ。
だがその瞬間、エドワウだけは量産型の頭部案を見ながら、内心で別の名を思っていた。
……ジム。
もちろん口には出さない。
まだ、この時代にはない名だ。
――――――
夕方近く、ナガノがアムロを手招きした。
「ちょっと座ってみるか」
案内されたのは、本格的なコックピットではなく、配置確認用の簡易シミュレータだった。椅子、モニタ、操縦桿、足元のペダル。反応と視界を見るだけの、ごく簡素なものだ。
「本物じゃないぞ」
ナガノが笑う。
「分かってる」
アムロは座る。
背もたれへ体を預けた瞬間、妙にしっくりきた。
視界が開く。正面、左右、下。数値表示はまだ仮だが、配置の意図は分かる。手を伸ばせばレバーに届き、足を置けばペダルの位置が自然に決まる。
「どうだ」
ナガノが聞く。
アムロはすぐには答えない。操縦桿をほんの少し動かし、今度は足元を踏み込む。
「……右より左の方が早い」
ナガノが首を傾げた。
「何が」
「ペダルも、桿も」
アムロは一度手を離し、もう一度同じだけ入力する。
「左は入れた瞬間に返るけど、右はちょっと空いてから動く」
ナガノは最初、首をかしげただけだった。だが設定値を呼び出し、左右の入力開始点を見比べた瞬間、顔が変わる。
「……本当だ」
「右だけ安全側に逃がしてる」
テムは横から画面を見て、低く言う。
「現場調整の癖だ」
アムロはペダルから足を離した。
「細かく止めたい時に、右だけ遅れると思う」
「大きく動かす分には平気でも」
ナガノは嬉しそうにメモを取る。
「いいな」
「そういうの、乗らないと出ない」
アムロは少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
「……別に」
「別に、じゃない」
ナガノは笑う。
「構造はこっちが見ればいい。乗った感じは、乗るやつしか拾えない」
テムは黙ったまま、設定欄に修正印をつけていた。
この場にいる全員が、それぞれ別の意味で、アムロが一歩中へ入ったことを理解していた。
――――――
月を発つ頃には、工場の灯りがまた強くなっていた。
シャトルへ向かう通路を歩きながら、アムロは一度だけ振り返る。遠くの区画壁の向こうに、まだあの機体がある気がした。
「帰る前に寄るところがある」
エドワウが言う。
「どこ」
「サイド6」
それだけで、アムロはそれ以上聞かなかった。
航路の途中、二人の会話は前より少し自然だった。
「月の工場って、あんなに全部つながってるんだな」
「あれで一つの町だ」
エドワウが答える。
「工場は兵器を作る前に、人を縛る」
アムロが横を見る。
「どういう意味」
「働く順番を決める」
「運ぶ道を決める」
「街の形も、それで決まる」
アムロは少し黙る。
すぐには分からない。だが、分からないなりに残る言葉だった。
――――――
サイド6の空気は、月ともサイド7とも違った。
静かだった。
音がないのではない。人の気配が尖っていない。湖の近くの家へ向かう道も、急ぐ者の歩き方ではない。
エドワウが先に扉を開ける。
「入るぞ」
中から柔らかい声が返る。
「はい」
アムロは一歩遅れて中へ入った。
部屋は明るすぎず、暗すぎない。窓の向こうに水面が見える。サイド7の工事の匂いとも、月の金属の匂いとも違う、何かが落ち着いた空気だった。
そこで、少女が立ち上がる。
年は自分とそう変わらないように見えた。けれど、立ち方が妙に静かで、最初からそこにいた空気と溶けている。
ララァがアムロを見る。
アムロも、ララァを見る。
初めて会うはずだった。
初めて会うはずなのに、胸の奥で、何かが引っかかった。
知らないはずの顔だった。
知らないはずなのに、知らない感じがしない。
理由は分からない。言葉にもならない。ただ、何かがそこにある。
ララァが一歩、近づく。
その瞬間、アムロの呼吸が止まった。
その少女が近づいた瞬間、アムロの中で、忘れていたはずの何かが、音もなくひび割れた。