妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第136話 閉じた記憶

 

アムロは、その場で息を吸えなくなった。

 

喉が閉まったわけではない。胸の奥へ、何か大きなものが一度に流れ込んできて、呼吸の順番だけを押し潰した。

 

視界が揺れる。

 

目の前にいるのは、湖のそばの静かな家だ。窓、机、椅子、立ち上がった少女。そう分かっているのに、その上へ別の景色が重なる。

 

白い天井。

 

薬品の匂い。

 

自分が誰か分からないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 

アムロはとっさに壁へ手をついた。

 

床が遠い。

 

倒れるほどではない。だが、立っているだけで精一杯だった。

 

「アムロ」

 

エドワウが一歩出る。

 

だが、その前にララァが小さく首を振った。

 

「大丈夫です」

 

声は静かだった。静かすぎるくらいだった。

 

大丈夫なはずがない。

 

知らないはずの顔を見た瞬間に、知らないはずの時間が内側から押し寄せている。

 

ララァは慌てて近づいたりはしなかった。ただ、アムロの目が追える速さで、ゆっくり一歩だけ近づく。

 

「急がなくていいです」

 

その言葉で、アムロの肩から少しだけ力が抜けた。

 

急がなくていい。

 

何を。

 

思い出すことをか。

 

立っていることをか。

 

呼吸を整えることをか。

 

自分でも分からない。ただ、その言葉だけは今必要な場所へ置かれた気がした。

 

アムロはもう一度、浅く息を吸う。

 

空気がようやく肺に入る。

 

だが、入った途端にまた別の景色が流れ込んだ。

 

薄暗い通路。

 

色の悪い照明。

 

同じ扉が、どこまでも並んでいる。

 

外へ出る、という言葉そのものが最初からない世界。

 

アムロは目を閉じた。

 

閉じても駄目だった。むしろ、閉じた方がはっきり見えた。

 

「……なんだ……今の」

 

ようやく出た声は、ひどくかすれていた。

 

ララァはすぐには答えない。

 

答えを急がせないように、少しだけ間を置いてから言う。

 

「今まで閉じていたものです」

 

エドワウは何も挟まない。

 

アムロは壁に手をついたまま、ゆっくり目を開ける。

 

ララァがいる。

 

この少女を、自分は知っている。

 

だが、どこで、どうやって、何として知っているのかが、言葉にならない。

 

ただ一つだけ分かる。

 

今、胸の奥でひび割れているものの中心に、この少女がいる。

 

「……僕は」

 

そこまで言って、止まる。

 

何を聞こうとしたのか、自分でも途中で分からなくなる。

 

ララァは、その迷いまで見ているような顔をした。

 

「今は、言葉にしなくていいです」

 

その一言で、アムロはようやく壁から手を離した。

 

足元はまだ少し危うい。

 

ララァが椅子へ視線を向ける。

 

「座ってください」

 

アムロは逆らわなかった。

 

その場で立っているより、座った方が崩れずに済むと、体の方が先に知っていた。

 

――――――

 

椅子に座ってからもしばらく、アムロの呼吸は浅かった。

 

ララァが水を持ってくる。

 

グラスを受け取る時、指先が少し触れた。

 

その瞬間、また胸の奥に細い痛みが走る。

 

だが今度は、さっきほど激しくない。

 

痛みの形が、少しだけ分かる。

 

失ったものの形だ。

 

アムロはグラスを握ったまま、しばらく黙っていた。

 

エドワウは少し離れた位置に立っている。助けるでも、問い詰めるでもなく、ただ様子を見ていた。

 

アムロは水を一口だけ飲む。

 

喉を通る冷たさで、ようやく今いる場所が少し戻る。

 

それでも、頭の中には別の時間が残ったままだった。

 

「……白い……部屋」

 

ぽつりと漏れる。

 

ララァが静かに聞く。

 

「ほかには」

 

アムロは目を閉じる。

 

「……同じ……扉」

 

「……暗い……通路」

 

言葉がうまくつながらない。

 

つながらないまま、それでも出てくる。

 

「……出られない」

 

そこまで言った瞬間、胸の奥がきしんだ。

 

出られない。

 

その感覚だけが、言葉より先に戻る。

 

閉じ込められていた、というより、最初から“外へ出る”という考えごと削られていた時間だ。

 

アムロは眉を寄せた。

 

「思い出せないんだ」

 

「何も」

 

「自分が誰かも……前に何してたかも」

 

呼吸が少し乱れる。

 

「でも、ずっと、そこにいた」

 

ララァは黙って聞いていた。

 

エドワウは二人の横顔を見ながら、小さく目を伏せる。

 

――やはりか。

 

それだけで十分だった。

 

戻ってきたのは、戦いの記憶ではない。

 

壊れたあとの時間だ。

 

アムロはただの前世持ちではない。壊れたまま終わった人生を、中に沈めたままここにいる。

 

エドワウは、そのことだけを受け止めた。

 

ララァが、アムロに向かって静かに言う。

 

「長く、ひとりだったのね」

 

アムロはその言葉に顔を上げた。

 

何でもないような一言だった。

 

だが、その一言だけが、今まで戻ってきたどの記憶よりも深く刺さった。

 

長く、ひとり。

 

そうだ。

 

誰にも説明できなかった。

 

自分でも、自分がどうしてそこにいるのか分からなかった。

 

分からないまま、ただ日だけが過ぎる。

 

時々、夢の中でだけ宇宙が見えた。

 

白い機体の影が見えた。

 

誰かの声が聞こえた。

 

けれど、起きると何も残らない。

 

その繰り返しだった。

 

なのに今、目の前の少女は、その長さと孤独だけを一言で言い当てた。

 

アムロの喉が小さく鳴る。

 

「……うん」

 

返事は、それしか出なかった。

 

ララァはそれ以上踏み込まない。

 

答えを求めない。

 

ただ、そこにいてくれる。

 

そのことが、アムロには不思議だった。

 

何も説明していないのに、この人だけは分かる。

 

どうしてかは分からない。

 

でも、分かる。

 

――――――

 

しばらくして、アムロの呼吸はようやく落ち着いてきた。

 

窓の外には静かな湖面が見える。

 

サイド6の光は、水に映るとさらに柔らかくなる。月の白さとも、サイド7の人工灯とも違う光だった。

 

アムロはグラスをテーブルへ置いた。

 

「……あんた」

 

言いかけて止まる。

 

誰に向けた問いなのか、自分でも少し曖昧だった。

 

ララァは待った。

 

アムロはもう一度、やり直す。

 

「あなた、誰だ」

 

ララァは少しだけ首を傾げた。

 

それから、微笑むでもなく、静かに答える。

 

「知っている人です」

 

その答えは、何も説明していない。

 

なのにアムロは、なぜかそれで否定された気がしなかった。

 

知っている。

 

確かに知っている。

 

思い出せないだけで、知らないわけではない。

 

それが今の自分にとって、唯一の確かな足場だった。

 

エドワウは窓際へ少し移動し、端末を開いた。

 

短い連絡を送る。

 

今夜はサイド6に泊める。

 

それだけだ。

 

理由の説明はまだしない。今はまだ、言葉にしない方がいい。

 

端末を閉じ、二人の方へ視線を戻す。

 

ララァは何も急がせていない。アムロも、何かを思い出そうと無理に掘っていない。ただ、壊れた壁の向こうから流れ込んできたものに、ようやく呼吸を合わせ始めている。

 

エドワウは思う。

 

アムロは機械にはすぐ入る。

 

構造を見れば、動いた時の癖まで拾う。

 

けれど人の記憶には遅れて触れる。

 

しかも戻ってきたのは、栄光ではなく、壊れたあとの時間だった。

 

その重さを、エドワウはよく知っていた。

 

知っているからこそ、今は急がせない。

 

窓の外の湖面が、わずかに揺れる。

 

部屋の中の空気は静かだった。

 

アムロは視線を落としたまま、小さく言う。

 

「……ずっと、ここに来れなかった気がする」

 

ララァは、その言葉を受け止めるように少しだけ目を細めた。

 

「ええ」

 

返事はそれだけだった。

 

それで十分だった。

 

アムロはようやく、肩から少しだけ力を抜いた。

 

理由は分からない。

 

全部は戻っていない。

 

それでも、自分が何かを失ってきたことと、その失ったものの中心にこの少女がいることだけは、もう疑えなかった。

 

夜はまだ深くならない。

 

だが、閉じたままだった記憶の壁は、もう元には戻らなかった。

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