アムロは、その場で息を吸えなくなった。
喉が閉まったわけではない。胸の奥へ、何か大きなものが一度に流れ込んできて、呼吸の順番だけを押し潰した。
視界が揺れる。
目の前にいるのは、湖のそばの静かな家だ。窓、机、椅子、立ち上がった少女。そう分かっているのに、その上へ別の景色が重なる。
白い天井。
薬品の匂い。
自分が誰か分からないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
アムロはとっさに壁へ手をついた。
床が遠い。
倒れるほどではない。だが、立っているだけで精一杯だった。
「アムロ」
エドワウが一歩出る。
だが、その前にララァが小さく首を振った。
「大丈夫です」
声は静かだった。静かすぎるくらいだった。
大丈夫なはずがない。
知らないはずの顔を見た瞬間に、知らないはずの時間が内側から押し寄せている。
ララァは慌てて近づいたりはしなかった。ただ、アムロの目が追える速さで、ゆっくり一歩だけ近づく。
「急がなくていいです」
その言葉で、アムロの肩から少しだけ力が抜けた。
急がなくていい。
何を。
思い出すことをか。
立っていることをか。
呼吸を整えることをか。
自分でも分からない。ただ、その言葉だけは今必要な場所へ置かれた気がした。
アムロはもう一度、浅く息を吸う。
空気がようやく肺に入る。
だが、入った途端にまた別の景色が流れ込んだ。
薄暗い通路。
色の悪い照明。
同じ扉が、どこまでも並んでいる。
外へ出る、という言葉そのものが最初からない世界。
アムロは目を閉じた。
閉じても駄目だった。むしろ、閉じた方がはっきり見えた。
「……なんだ……今の」
ようやく出た声は、ひどくかすれていた。
ララァはすぐには答えない。
答えを急がせないように、少しだけ間を置いてから言う。
「今まで閉じていたものです」
エドワウは何も挟まない。
アムロは壁に手をついたまま、ゆっくり目を開ける。
ララァがいる。
この少女を、自分は知っている。
だが、どこで、どうやって、何として知っているのかが、言葉にならない。
ただ一つだけ分かる。
今、胸の奥でひび割れているものの中心に、この少女がいる。
「……僕は」
そこまで言って、止まる。
何を聞こうとしたのか、自分でも途中で分からなくなる。
ララァは、その迷いまで見ているような顔をした。
「今は、言葉にしなくていいです」
その一言で、アムロはようやく壁から手を離した。
足元はまだ少し危うい。
ララァが椅子へ視線を向ける。
「座ってください」
アムロは逆らわなかった。
その場で立っているより、座った方が崩れずに済むと、体の方が先に知っていた。
――――――
椅子に座ってからもしばらく、アムロの呼吸は浅かった。
ララァが水を持ってくる。
グラスを受け取る時、指先が少し触れた。
その瞬間、また胸の奥に細い痛みが走る。
だが今度は、さっきほど激しくない。
痛みの形が、少しだけ分かる。
失ったものの形だ。
アムロはグラスを握ったまま、しばらく黙っていた。
エドワウは少し離れた位置に立っている。助けるでも、問い詰めるでもなく、ただ様子を見ていた。
アムロは水を一口だけ飲む。
喉を通る冷たさで、ようやく今いる場所が少し戻る。
それでも、頭の中には別の時間が残ったままだった。
「……白い……部屋」
ぽつりと漏れる。
ララァが静かに聞く。
「ほかには」
アムロは目を閉じる。
「……同じ……扉」
「……暗い……通路」
言葉がうまくつながらない。
つながらないまま、それでも出てくる。
「……出られない」
そこまで言った瞬間、胸の奥がきしんだ。
出られない。
その感覚だけが、言葉より先に戻る。
閉じ込められていた、というより、最初から“外へ出る”という考えごと削られていた時間だ。
アムロは眉を寄せた。
「思い出せないんだ」
「何も」
「自分が誰かも……前に何してたかも」
呼吸が少し乱れる。
「でも、ずっと、そこにいた」
ララァは黙って聞いていた。
エドワウは二人の横顔を見ながら、小さく目を伏せる。
――やはりか。
それだけで十分だった。
戻ってきたのは、戦いの記憶ではない。
壊れたあとの時間だ。
アムロはただの前世持ちではない。壊れたまま終わった人生を、中に沈めたままここにいる。
エドワウは、そのことだけを受け止めた。
ララァが、アムロに向かって静かに言う。
「長く、ひとりだったのね」
アムロはその言葉に顔を上げた。
何でもないような一言だった。
だが、その一言だけが、今まで戻ってきたどの記憶よりも深く刺さった。
長く、ひとり。
そうだ。
誰にも説明できなかった。
自分でも、自分がどうしてそこにいるのか分からなかった。
分からないまま、ただ日だけが過ぎる。
時々、夢の中でだけ宇宙が見えた。
白い機体の影が見えた。
誰かの声が聞こえた。
けれど、起きると何も残らない。
その繰り返しだった。
なのに今、目の前の少女は、その長さと孤独だけを一言で言い当てた。
アムロの喉が小さく鳴る。
「……うん」
返事は、それしか出なかった。
ララァはそれ以上踏み込まない。
答えを求めない。
ただ、そこにいてくれる。
そのことが、アムロには不思議だった。
何も説明していないのに、この人だけは分かる。
どうしてかは分からない。
でも、分かる。
――――――
しばらくして、アムロの呼吸はようやく落ち着いてきた。
窓の外には静かな湖面が見える。
サイド6の光は、水に映るとさらに柔らかくなる。月の白さとも、サイド7の人工灯とも違う光だった。
アムロはグラスをテーブルへ置いた。
「……あんた」
言いかけて止まる。
誰に向けた問いなのか、自分でも少し曖昧だった。
ララァは待った。
アムロはもう一度、やり直す。
「あなた、誰だ」
ララァは少しだけ首を傾げた。
それから、微笑むでもなく、静かに答える。
「知っている人です」
その答えは、何も説明していない。
なのにアムロは、なぜかそれで否定された気がしなかった。
知っている。
確かに知っている。
思い出せないだけで、知らないわけではない。
それが今の自分にとって、唯一の確かな足場だった。
エドワウは窓際へ少し移動し、端末を開いた。
短い連絡を送る。
今夜はサイド6に泊める。
それだけだ。
理由の説明はまだしない。今はまだ、言葉にしない方がいい。
端末を閉じ、二人の方へ視線を戻す。
ララァは何も急がせていない。アムロも、何かを思い出そうと無理に掘っていない。ただ、壊れた壁の向こうから流れ込んできたものに、ようやく呼吸を合わせ始めている。
エドワウは思う。
アムロは機械にはすぐ入る。
構造を見れば、動いた時の癖まで拾う。
けれど人の記憶には遅れて触れる。
しかも戻ってきたのは、栄光ではなく、壊れたあとの時間だった。
その重さを、エドワウはよく知っていた。
知っているからこそ、今は急がせない。
窓の外の湖面が、わずかに揺れる。
部屋の中の空気は静かだった。
アムロは視線を落としたまま、小さく言う。
「……ずっと、ここに来れなかった気がする」
ララァは、その言葉を受け止めるように少しだけ目を細めた。
「ええ」
返事はそれだけだった。
それで十分だった。
アムロはようやく、肩から少しだけ力を抜いた。
理由は分からない。
全部は戻っていない。
それでも、自分が何かを失ってきたことと、その失ったものの中心にこの少女がいることだけは、もう疑えなかった。
夜はまだ深くならない。
だが、閉じたままだった記憶の壁は、もう元には戻らなかった。