朝、目を覚ました瞬間、アムロはまず窓を探した。
薄いカーテンの向こうに、水面の反射した光が揺れている。窓は閉まっているが、開けようと思えば開けられる。外も見える。出ようと思えば出られる。
そこまで確かめてから、ようやく息が通った。
自分でも理由は分からない。ただ、目が覚めた時に外が見えないと、胸の奥が先に固まる。昨夜ララァに会ったあとから、その感覚が妙にはっきりしていた。
ベッドから起き上がり、机の前に座る。
何かを考えるつもりはなかった。ぼんやりしたまま、置いてあった紙へ手を伸ばす。鉛筆もそこにあった。気づけば手が動いている。
一本線を引く。
もう一本、少し外側へ。
それを上へ回し、途中で止め、消して、引き直す。
右だけ長い。
そう思った瞬間、アムロはその線を消した。今度は左と同じ長さで上へ逃がす。腰の後ろを回していた線を、もっと短く、真っ直ぐに寄せる。
そこまでやってから、アムロは手を止めた。
紙の上に描かれているのは機体全体ではない。背部ノズルへ入る左右の配管だけだ。昨日月で見た、あの機体の背中の一部。それも、気になったところだけ。
「……なんで」
小さく声が漏れる。
一度しか見ていない。図面を持ち帰ったわけでもない。それなのに、右だけ流路が長かったことも、それをどう直したいと思ったかも、手の方が先に覚えていた。
扉の向こうで足音が止まる。
「起きてるか」
エドワウの声だった。
アムロは慌てて紙を半分折った。
「うん」
「朝食を出してる」
「……分かった」
足音が離れていく。
アムロは折った紙を見たまま、しばらく動かなかった。
隠す必要があるものでもない。なのに、今は誰にも見せたくなかった。
自分で自分の手が分からない。そのことの方が、記憶の断片よりよほど気味が悪かった。
――――――
食卓には、昨日と同じ三人がいた。
ララァは窓際の席に座っていて、エドワウはその向かい、アムロは少し遅れて空いた席へ着く。出されたのは温かいスープとパンだけの簡単な朝食だったが、湯気の立ち方が妙に落ち着いて見えた。
誰も昨夜のことを最初に口にしなかった。
ララァは普通にカップへ茶を注ぎ、エドワウはそれを受け取って口をつける。アムロだけが、その普通さについていけずにいた。
ララァがカップを置く音に、理由もなく視線が向く。
窓際へ立つ時の足音が、なぜか胸に引っかかる。
知っている感じがするのに、思い出せない。その半端さが一番きつい。
しばらくして、アムロはようやく口を開いた。
「昨日のこと」
自分の声が少しだけ掠れる。
「夢じゃないよね」
ララァはアムロを見た。
「夢ではありません」
返事はそれだけだった。
説明も慰めもない。ただ否定だけを静かに置く。
アムロはパンをちぎりながら、下を向いた。
「……そう」
夢なら楽だったかもしれない、と思いかけたところで、エドワウが低く言った。
「夢の方が楽だったかもしれないな」
アムロは顔を上げる。
驚いたというより、先に言われた、という感じだった。
エドワウはスープの表面を見たまま続けない。言い切って終わりだ。
アムロは何も返さなかった。返せなかった。自分でも、そう思っていたからだ。
昨夜押し寄せてきたものが、全部夢ならどれだけ楽か。
だが夢ではないと、もうどこかで知っている。
知ってしまったあとで、知らないふりだけはできなかった。
――――――
食事のあと、アムロが窓際へ移ったのを見て、エドワウはララァへ小さく視線を向けた。
二人の声は自然と低くなる。
「どう見える」
ララァはすぐには答えなかった。窓の外の湖面を見てから、静かに言う。
「まだ痛みの方が強いです」
エドワウは黙って聞く。
「でも」
ララァは少しだけ間を置いた。
「もう、閉じたままではいられません」
その言い方は、説明ではなかった。診断でもなかった。ただ、見えていることだけをそのまま出した声だった。
エドワウは小さく息を吐く。
十分だった。
急いで引きずり出す必要はない。だが、サイド7へ戻して全部が元通りになる段階は、もう過ぎた。そういうことだけははっきりした。
「……そうか」
それだけ返す。
ララァはうなずく。
「急がせない方がいいです」
「分かってる」
それ以上の言葉はいらなかった。
――――――
しばらくして、ララァが窓際へ立つアムロの隣に行く。
アムロは気配に気づいていたが、すぐには顔を向けなかった。
「水、きれいだね」
先にそう言ったのはアムロの方だった。
「はい」
ララァが答える。
「ここは静かだから」
アムロは少しだけ笑うような顔をしたが、すぐに消えた。
「静かすぎて、逆に落ち着かない時もある」
「そういうこともあります」
ララァは否定しない。
その受け方が、アムロには少しだけ楽だった。
しばらく黙って湖を見たあとで、アムロがぽつりとこぼす。
「思い出したいのか、思い出したくないのか、自分でも分からない」
ララァはすぐに答えた。
「どちらでもいいです」
アムロがそちらを見る。
ララァは続ける。
「急いで決めなくていいです」
その言葉を聞いた瞬間、アムロの肩から少しだけ力が落ちた。
思い出すべきだと言われても苦しい。忘れた方がいいと言われても苦しい。そのどちらも言われないことが、今はありがたかった。
アムロは窓へ視線を戻した。
「閉じてた気がする」
言いながら、声が少し低くなる。
「ずっと同じところを回ってた」
「出ようとしても、どこにも出られなくて」
ララァはただ聞く。
「はい」
それだけだ。
なのに、その一言だけで続きを言ってもいい気がしてしまう。
「僕、自分が誰かも、よく分かってなかった」
「でも、毎日同じで」
「時々、夢でだけ外が見えた」
「白いのが、光ってて」
そこまで言って、アムロは言葉を切った。
白いのが何か、本当は分かりかけている。だが、今はまだ口に出したくなかった。
ララァはその途切れ方ごと受け取った。
「長く、ひとりだったのですね」
昨夜と同じ言葉だった。
だが、朝の光の中で聞くと、また違う深さがあった。
アムロは目を閉じる。
長く、ひとり。
その通りだった。誰にも説明できなかった。自分でも、自分がどうしてそこにいるのか分からなかった。分からないまま、ただ同じ壁と扉と通路だけが続く。
「……うん」
返事は、それしか出なかった。
ララァは何も足さない。
アムロは、それでいいと思った。
――――――
サイド7へ戻るシャトルの中では、二人ともあまり喋らなかった。
行きの道中とは違う。月へ向かう時の沈黙は、まだ距離のある沈黙だった。今は、考えることが多すぎて口が追いつかない沈黙だ。
しばらくして、アムロが低く聞く。
「ララァって、何なんだ」
エドワウはすぐには答えない。
窓の向こうの暗い宇宙を一度見てから、短く言った。
「分かる側の人間だ」
アムロは眉を寄せる。
「それ、説明になってない」
「説明しろと言われても難しい」
それで会話はまた止まる。
アムロは納得しきれないまま、否定もできなかった。ララァは確かに“分かった”のだ。自分がうまく言葉にできなかったことを、先に掴んでいた。
そのことだけが、妙に頭に残った。
――――――
サイド7の家へ戻ると、ミライがすぐに扉を開けた。
「おかえりなさい」
いつもの調子だった。
その後ろにセイラがいて、まず兄の顔を見、それからアムロを見る。
何かあったことには気づいている。だが、問い詰めない。
「ごはん、まだ温かいわよ」
ミライが言う。
「先に座って」
それだけで家の中の時間が動き出す。
アムロは靴を脱ぎながら、ふっと思った。
帰ってきた。
その感覚が、前より少しだけはっきりしている。
記憶が揺れたからこそ、今いる場所の輪郭も前より見える。妙な話だ、と自分でも思う。
食事のあと、アムロが先に部屋へ引き上げると、セイラが小さく兄を呼び止めた。
「兄さん」
エドワウが振り向く。
「どうだったの」
セイラは声を潜めている。軽い話ではないことは、兄の顔で分かっていた。
エドワウは少しだけ間を置いた。
「昨日より、様子が変わってる」
それだけ言う。
セイラはすぐには意味をつかめない。だが、深刻さは分かった。
「どうするの」
「急がせるな」
エドワウの声は低い。
「しばらくは、このままでいい」
セイラは兄の顔を見つめる。
さらにひとつだけ聞いた。
「ララァさんは?」
エドワウは短く答えた。
「一人で抱えさせるな」
それだけだった。
理由は言わない。だが、今後もララァへ会わせる必要があることだけは伝わる。
セイラは少し黙ってから、ゆっくりうなずいた。
――――――
夜。
部屋の灯りは落としてあったが、アムロは眠れなかった。
机の上には、朝に折った紙がある。
しばらく見ないふりをしていたが、結局手が伸びた。折り目を開く。
そこには、背部ノズルへ入る配管経路だけが何度も描き直されていた。左は一度で済んでいるのに、右だけ線が多い。最初は遠回りしていたものが、最後には左右ぴたりと同じ長さへ揃っている。
アムロはそれを見て、少し青ざめた。
月で見たのは一度だけだ。図面を持って帰ったわけでもない。なのに、手は勝手に正しい線を探していた。
ただの記憶ではない。
物語みたいに戻ってくるものではない。
手の癖。
目の置き方。
そこだけが、先に戻ってきている。
アムロは紙を伏せた。
伏せても、頭の中の線は消えない。
なぜ分かるのか、自分でも分からない。
それが一番、怖かった。