妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第137話 戻り始めたもの

 

朝、目を覚ました瞬間、アムロはまず窓を探した。

 

薄いカーテンの向こうに、水面の反射した光が揺れている。窓は閉まっているが、開けようと思えば開けられる。外も見える。出ようと思えば出られる。

 

そこまで確かめてから、ようやく息が通った。

 

自分でも理由は分からない。ただ、目が覚めた時に外が見えないと、胸の奥が先に固まる。昨夜ララァに会ったあとから、その感覚が妙にはっきりしていた。

 

ベッドから起き上がり、机の前に座る。

 

何かを考えるつもりはなかった。ぼんやりしたまま、置いてあった紙へ手を伸ばす。鉛筆もそこにあった。気づけば手が動いている。

 

一本線を引く。

 

もう一本、少し外側へ。

 

それを上へ回し、途中で止め、消して、引き直す。

 

右だけ長い。

 

そう思った瞬間、アムロはその線を消した。今度は左と同じ長さで上へ逃がす。腰の後ろを回していた線を、もっと短く、真っ直ぐに寄せる。

 

そこまでやってから、アムロは手を止めた。

 

紙の上に描かれているのは機体全体ではない。背部ノズルへ入る左右の配管だけだ。昨日月で見た、あの機体の背中の一部。それも、気になったところだけ。

 

「……なんで」

 

小さく声が漏れる。

 

一度しか見ていない。図面を持ち帰ったわけでもない。それなのに、右だけ流路が長かったことも、それをどう直したいと思ったかも、手の方が先に覚えていた。

 

扉の向こうで足音が止まる。

 

「起きてるか」

 

エドワウの声だった。

 

アムロは慌てて紙を半分折った。

 

「うん」

 

「朝食を出してる」

 

「……分かった」

 

足音が離れていく。

 

アムロは折った紙を見たまま、しばらく動かなかった。

 

隠す必要があるものでもない。なのに、今は誰にも見せたくなかった。

 

自分で自分の手が分からない。そのことの方が、記憶の断片よりよほど気味が悪かった。

 

――――――

 

食卓には、昨日と同じ三人がいた。

 

ララァは窓際の席に座っていて、エドワウはその向かい、アムロは少し遅れて空いた席へ着く。出されたのは温かいスープとパンだけの簡単な朝食だったが、湯気の立ち方が妙に落ち着いて見えた。

 

誰も昨夜のことを最初に口にしなかった。

 

ララァは普通にカップへ茶を注ぎ、エドワウはそれを受け取って口をつける。アムロだけが、その普通さについていけずにいた。

 

ララァがカップを置く音に、理由もなく視線が向く。

 

窓際へ立つ時の足音が、なぜか胸に引っかかる。

 

知っている感じがするのに、思い出せない。その半端さが一番きつい。

 

しばらくして、アムロはようやく口を開いた。

 

「昨日のこと」

 

自分の声が少しだけ掠れる。

 

「夢じゃないよね」

 

ララァはアムロを見た。

 

「夢ではありません」

 

返事はそれだけだった。

 

説明も慰めもない。ただ否定だけを静かに置く。

 

アムロはパンをちぎりながら、下を向いた。

 

「……そう」

 

夢なら楽だったかもしれない、と思いかけたところで、エドワウが低く言った。

 

「夢の方が楽だったかもしれないな」

 

アムロは顔を上げる。

 

驚いたというより、先に言われた、という感じだった。

 

エドワウはスープの表面を見たまま続けない。言い切って終わりだ。

 

アムロは何も返さなかった。返せなかった。自分でも、そう思っていたからだ。

 

昨夜押し寄せてきたものが、全部夢ならどれだけ楽か。

 

だが夢ではないと、もうどこかで知っている。

 

知ってしまったあとで、知らないふりだけはできなかった。

 

――――――

 

食事のあと、アムロが窓際へ移ったのを見て、エドワウはララァへ小さく視線を向けた。

 

二人の声は自然と低くなる。

 

「どう見える」

 

ララァはすぐには答えなかった。窓の外の湖面を見てから、静かに言う。

 

「まだ痛みの方が強いです」

 

エドワウは黙って聞く。

 

「でも」

 

ララァは少しだけ間を置いた。

 

「もう、閉じたままではいられません」

 

その言い方は、説明ではなかった。診断でもなかった。ただ、見えていることだけをそのまま出した声だった。

 

エドワウは小さく息を吐く。

 

十分だった。

 

急いで引きずり出す必要はない。だが、サイド7へ戻して全部が元通りになる段階は、もう過ぎた。そういうことだけははっきりした。

 

「……そうか」

 

それだけ返す。

 

ララァはうなずく。

 

「急がせない方がいいです」

 

「分かってる」

 

それ以上の言葉はいらなかった。

 

――――――

 

しばらくして、ララァが窓際へ立つアムロの隣に行く。

 

アムロは気配に気づいていたが、すぐには顔を向けなかった。

 

「水、きれいだね」

 

先にそう言ったのはアムロの方だった。

 

「はい」

 

ララァが答える。

 

「ここは静かだから」

 

アムロは少しだけ笑うような顔をしたが、すぐに消えた。

 

「静かすぎて、逆に落ち着かない時もある」

 

「そういうこともあります」

 

ララァは否定しない。

 

その受け方が、アムロには少しだけ楽だった。

 

しばらく黙って湖を見たあとで、アムロがぽつりとこぼす。

 

「思い出したいのか、思い出したくないのか、自分でも分からない」

 

ララァはすぐに答えた。

 

「どちらでもいいです」

 

アムロがそちらを見る。

 

ララァは続ける。

 

「急いで決めなくていいです」

 

その言葉を聞いた瞬間、アムロの肩から少しだけ力が落ちた。

 

思い出すべきだと言われても苦しい。忘れた方がいいと言われても苦しい。そのどちらも言われないことが、今はありがたかった。

 

アムロは窓へ視線を戻した。

 

「閉じてた気がする」

 

言いながら、声が少し低くなる。

 

「ずっと同じところを回ってた」

 

「出ようとしても、どこにも出られなくて」

 

ララァはただ聞く。

 

「はい」

 

それだけだ。

 

なのに、その一言だけで続きを言ってもいい気がしてしまう。

 

「僕、自分が誰かも、よく分かってなかった」

 

「でも、毎日同じで」

 

「時々、夢でだけ外が見えた」

 

「白いのが、光ってて」

 

そこまで言って、アムロは言葉を切った。

 

白いのが何か、本当は分かりかけている。だが、今はまだ口に出したくなかった。

 

ララァはその途切れ方ごと受け取った。

 

「長く、ひとりだったのですね」

 

昨夜と同じ言葉だった。

 

だが、朝の光の中で聞くと、また違う深さがあった。

 

アムロは目を閉じる。

 

長く、ひとり。

 

その通りだった。誰にも説明できなかった。自分でも、自分がどうしてそこにいるのか分からなかった。分からないまま、ただ同じ壁と扉と通路だけが続く。

 

「……うん」

 

返事は、それしか出なかった。

 

ララァは何も足さない。

 

アムロは、それでいいと思った。

 

――――――

 

サイド7へ戻るシャトルの中では、二人ともあまり喋らなかった。

 

行きの道中とは違う。月へ向かう時の沈黙は、まだ距離のある沈黙だった。今は、考えることが多すぎて口が追いつかない沈黙だ。

 

しばらくして、アムロが低く聞く。

 

「ララァって、何なんだ」

 

エドワウはすぐには答えない。

 

窓の向こうの暗い宇宙を一度見てから、短く言った。

 

「分かる側の人間だ」

 

アムロは眉を寄せる。

 

「それ、説明になってない」

 

「説明しろと言われても難しい」

 

それで会話はまた止まる。

 

アムロは納得しきれないまま、否定もできなかった。ララァは確かに“分かった”のだ。自分がうまく言葉にできなかったことを、先に掴んでいた。

 

そのことだけが、妙に頭に残った。

 

――――――

 

サイド7の家へ戻ると、ミライがすぐに扉を開けた。

 

「おかえりなさい」

 

いつもの調子だった。

 

その後ろにセイラがいて、まず兄の顔を見、それからアムロを見る。

 

何かあったことには気づいている。だが、問い詰めない。

 

「ごはん、まだ温かいわよ」

 

ミライが言う。

 

「先に座って」

 

それだけで家の中の時間が動き出す。

 

アムロは靴を脱ぎながら、ふっと思った。

 

帰ってきた。

 

その感覚が、前より少しだけはっきりしている。

 

記憶が揺れたからこそ、今いる場所の輪郭も前より見える。妙な話だ、と自分でも思う。

 

食事のあと、アムロが先に部屋へ引き上げると、セイラが小さく兄を呼び止めた。

 

「兄さん」

 

エドワウが振り向く。

 

「どうだったの」

 

セイラは声を潜めている。軽い話ではないことは、兄の顔で分かっていた。

 

エドワウは少しだけ間を置いた。

 

「昨日より、様子が変わってる」

 

それだけ言う。

 

セイラはすぐには意味をつかめない。だが、深刻さは分かった。

 

「どうするの」

 

「急がせるな」

 

エドワウの声は低い。

 

「しばらくは、このままでいい」

 

セイラは兄の顔を見つめる。

 

さらにひとつだけ聞いた。

 

「ララァさんは?」

 

エドワウは短く答えた。

 

「一人で抱えさせるな」

 

それだけだった。

 

理由は言わない。だが、今後もララァへ会わせる必要があることだけは伝わる。

 

セイラは少し黙ってから、ゆっくりうなずいた。

 

――――――

 

夜。

 

部屋の灯りは落としてあったが、アムロは眠れなかった。

 

机の上には、朝に折った紙がある。

 

しばらく見ないふりをしていたが、結局手が伸びた。折り目を開く。

 

そこには、背部ノズルへ入る配管経路だけが何度も描き直されていた。左は一度で済んでいるのに、右だけ線が多い。最初は遠回りしていたものが、最後には左右ぴたりと同じ長さへ揃っている。

 

アムロはそれを見て、少し青ざめた。

 

月で見たのは一度だけだ。図面を持って帰ったわけでもない。なのに、手は勝手に正しい線を探していた。

 

ただの記憶ではない。

 

物語みたいに戻ってくるものではない。

 

手の癖。

 

目の置き方。

 

そこだけが、先に戻ってきている。

 

アムロは紙を伏せた。

 

伏せても、頭の中の線は消えない。

 

なぜ分かるのか、自分でも分からない。

 

それが一番、怖かった。

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