妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第138話 守る衝動

 

朝の食卓で、アムロはスプーンを持つ手を二度止めた。

 

一度目は、ミライが味噌汁を置いた時。

 

二度目は、セイラがパン籠を寄せた時。

 

どちらも、ほんの小さな音だった。器が木の卓に当たる音。籠が布の上を擦る音。なのに、そのたびに肩が先にこわばる。何かが来る、と体が勝手に身構える。

 

ミライが気づいて、何でもない声で言った。

 

「熱かった?」

 

「……いや」

 

アムロは首を振る。

 

熱かったわけではない。むしろ、ぬるいくらいだった。

 

ただ、落ち着かない。

 

昨夜サイド6から戻ってから、眠れたような、眠れていないような夜だった。目を閉じると白い天井が見えた。目を開けると自分の部屋の天井だった。何度もそれを確かめた。

 

食卓の向こうで、エドワウが湯飲みを置いた。

 

「顔色が悪い」

 

「寝不足だろ」

 

短い言い方だった。

 

アムロは返事をしない。返事をすると、機嫌が悪いことまで認める気がしたからだ。

 

セイラが兄とアムロを交互に見た。

 

「今日は無理しないで」

 

「学校じゃないんだから」

 

その言い方に棘はない。気遣いのはずだった。だが、アムロの中で何かが引っかかった。

 

無理。

 

何を。

 

寝不足をか。

 

自分の中で動き始めたものをか。

 

ララァの顔を思い出すたびに、胸の奥がざらつく。そのざらつきの正体が分からないのが、一番腹立たしかった。

 

アムロは椅子を少し引いた。

 

「別に、平気だよ」

 

口にした瞬間、自分でも声が硬いと分かった。

 

ミライはそれ以上は言わない。ただ、味噌汁の椀を少しだけアムロの近くへ寄せた。

 

エドワウがアムロを見た。

 

「平気な顔ではないな」

 

それが悪かった。

 

正論だったからではない。図星だったからでもない。その言い方が、昨夜から自分の中で何かが変わり始めていることを、もう見抜かれている気がしたからだ。

 

アムロは顔を上げた。

 

「……なんで、あの人に会わせた」

 

食卓の空気が止まる。

 

ミライが目を伏せる。セイラも何も言わない。

 

エドワウは湯飲みを持ったまま、少しだけ手を止めた。

 

「会わなきゃ、あんなの出てこなかった」

 

アムロは続ける。

 

「知らないままでいられたかもしれない」

 

声が少しずつ上ずる。怒鳴ってはいない。だが、抑えている分だけ硬かった。

 

エドワウはすぐには答えなかった。

 

それが、余計に苛立たしい。

 

否定してくれればよかった。そうじゃない、と言ってくれればまだ楽だった。だが、エドワウは一度考えるように目を伏せ、それから静かに言った。

 

「そうかもしれん」

 

アムロはそこで言葉に詰まった。

 

受け入れられると思っていなかった。

 

「でも」

 

アムロは自分でも何を言いたいのか分からないまま、続きを探す。

 

「……でも、あの人を見た時」

 

喉が鳴る。

 

「止まらなかった」

 

その一言だけが本音だった。

 

嫌なのだ。怖いのだ。何かが戻ってくるのが。

 

なのに、ララァを見た時だけは、そこから目をそらせなかった。会わなければよかったと思うのに、会わずに済ませる選択ももう思いつかない。

 

エドワウはその顔を見ていた。

 

怒っているのではない。行き場がないのだ、と分かる顔だった。

 

「飯を食え」

 

結局、エドワウはそれだけ言った。

 

「……は?」

 

アムロが眉をひそめる。

 

「空腹だと、ろくな方へ考えが向かん」

 

まるで何事もなかったような調子だった。

 

それが、かえってアムロの肩から少しだけ力を抜いた。

 

怒りを返されなかったことで、怒りの置き場が急に曖昧になる。怒り続けるには、相手も同じ熱で返してくれた方が楽だ。エドワウはそれをしない。

 

ミライが小さく息を吐いた。

 

「味噌汁、冷めるわよ」

 

アムロは椀を見下ろし、しばらくしてから、渋々という顔で箸を取り直した。

 

――――――

 

昼前、ルシファー側の連絡端末が鳴った。

 

短い電子音が二度。緊急ではない。だが、後回しにしていい種類の音でもない。

 

エドワウは応接机の上の端末を手に取り、表示された発信元を見た瞬間、表情を変えた。サイド6の現地監視班からだ。

 

「兄さん?」

 

セイラが気づく。

 

エドワウはすでに通話を開いている。

 

画面に映ったのは、湖畔の警備担当の男だった。息は上がっていない。だが、言葉を選んでいる顔だった。

 

「接触がありました」

 

「内容を」

 

「水道設備の定期確認を名乗る二名です。許可証は偽造。家の周囲の配管図と出入口の位置を見ていました」

 

エドワウの視線が細くなる。

 

「押さえたか」

 

「一人は確保。一人は湖側へ逃走。今追っています」

 

「ララァは」

 

「無事です。家には近づけていません」

 

それで十分だった。

 

エドワウは立ち上がる。

 

椅子が小さく音を立てる。

 

その音だけで、アムロは顔を上げた。

 

「何があった」

 

エドワウは答えない。短くセイラへ言う。

 

「車を回せ」

 

「今?」

 

「今だ」

 

セイラの顔も変わる。すぐに動こうとする。

 

その時、アムロが椅子を蹴るように立った。

 

「ララァのところか」

 

部屋が止まる。

 

エドワウは初めてアムロを見た。

 

「誰もまだそうとは言っていない」

 

「でも、そうだろ」

 

アムロの声は低い。朝よりずっと低い。怒っているというより、内側で何かが固まっている声だった。

 

「行く」

 

「お前は置いていく」

 

「嫌だ」

 

即答だった。

 

セイラが口を開きかける。だが、その前にアムロがもう一歩前へ出た。

 

「行かなきゃ駄目な気がする」

 

その言葉は、自分でも説明できない何かから出ていた。

 

エドワウは一瞬だけ迷う。

 

まだ不安定だ。昨夜から今朝にかけての様子を見れば、本来なら連れて行く状態ではない。

 

だが、今のアムロの顔は、ただの意地ではなかった。置いていけば、体だけでも勝手に追って来る。そういう種類の焦りだった。

 

エドワウは短く言う。

 

「着替えろ」

 

アムロは一瞬だけ目を見開いた。

 

「五分だ」

 

それだけで十分だった。

 

――――――

 

サイド6までの航路は短い。

 

短いのに、アムロには妙に長く感じた。

 

座席に深く座っているのに落ち着かない。膝の上で握った手を、開いて閉じて、また握る。窓の向こうの黒い宇宙を見ても、気が紛れない。

 

「落ち着け」

 

エドワウが言った。

 

「無理だ」

 

アムロはすぐに返す。

 

「無理だよ」

 

声が荒い。だが怒鳴ってはいない。

 

エドワウはその横顔を見た。

 

思い出して怒っているのではない。

 

守れなかったものの方が先に反応している。

 

その感覚だけが、理屈を飛ばしてララァの今へ結びついている。

 

「まだ何が起きたか確定したわけじゃない」

 

「でも何かあった」

 

「だから向かっている」

 

「遅い」

 

アムロはほとんど反射でそう言って、言った後で自分でも驚いたように黙った。

 

遅い。

 

何に対して。

 

今の接触にか。

 

それとも、もっと前の、取り返しのつかない何かに対してか。

 

エドワウはそれを追及しなかった。

 

窓の外ではサイド6の光が近づいてくる。湖のあるブロックへ近づくにつれ、航路灯が細く整っていく。

 

アムロはシートベルトの金具へ指をかけたまま、ずっと前を見ていた。

 

――――――

 

サイド6の湖畔通路は、昼なのに妙に静かだった。

 

人払いが済んでいる。

 

一般の通行は止められ、代わりに制服の違う警備員が二重に立っている。ララァの家へ続く小道の手前で、一人の男が腕を後ろに回されて座らされていた。作業着のように見える服だが、胸の名札は雑に貼られた偽物だ。

 

「確保したのはこいつだけです」

 

現地警備の男が報告する。

 

「もう一人は?」

 

「湖側の遊歩道へ回りました。追わせています」

 

エドワウは周囲を一目で見て、家の位置、通路、湖側の柵の高さを確かめる。

 

その横で、アムロの目が先に動いていた。

 

家の正面。通路。屋根の陰。柵。水辺の遊歩道。

 

視界が妙に澄んで見える。

 

その瞬間、アムロは弾かれたように走った。

 

「おい!」

 

エドワウが呼ぶより先だった。

 

家の横手へ回り込む。そこは正面からは死角になる細い通路で、配管箱と植栽が視界を切っている。ララァの家へ近づくなら、正面が駄目でもここから様子を見る人間はいる。

 

いた。

 

男が一人、配管箱の陰から顔を出しかけている。

 

双眼式の簡易スコープを手にしていた。

 

アムロは考えていなかった。足が先に止まり、手が先に動いた。通路脇に立てかけてあった清掃用のポールを掴み、そのまま男の手首を払う。

 

スコープが飛ぶ。

 

男が反射的に身を引く。その動きより先に、アムロはポールの端を男の膝裏へ入れていた。

 

体勢が崩れる。

 

「動くな!」

 

背後から警備の怒声が飛ぶ。

 

男が逃げようとして、通路の反対側へ体をひねる。だが、アムロはその一歩の先を塞ぐように立っていた。自分でもどうやってそこへ入ったのか分からない。ただ、そこへ行かなければ間に合わないと体が知っていた。

 

男が拳を振るう。

 

アムロは反射的に頭を引いた。拳は頬をかすめ、代わりに肩へ当たる。鈍い痛みが走る。

 

それでも退かない。

 

ポールを捨てて、相手の肘を押さえ込む。体重のかけ方が、自分の動きに思えない。膝の入れ方も、相手の重心の崩し方も、練習した記憶はないのに体が先に選んでいた。

 

次の瞬間、後ろから飛び込んできた警備員が男を押さえつけた。

 

「確保!」

 

それでようやく終わる。

 

アムロは一歩下がる。

 

心臓だけが大きく鳴っている。

 

その時、家の玄関が開いた。

 

ララァが出てきていた。

 

大きな音を聞いて出たのだろう。だが、通路の角で止まったまま、こちらを見ている。

 

その姿を見た瞬間、アムロの膝から力が抜けかけた。

 

間に合った。

 

そう思った。

 

思ったと同時に、胸の奥のもっと古い傷が、裏返るように痛んだ。

 

間に合わなかった時間があった。

 

どこで、何に、どうして。

 

まだ全部は分からない。

 

それでも今、守れたと体が言っているからこそ、守れなかった何かもまた一緒に浮いてくる。

 

エドワウが遅れて通路の角へ現れる。

 

ララァの姿と、押さえ込まれた男と、アムロの立ち位置を見て、全部を理解するのに一秒もかからなかった。

 

アムロだけが、一瞬早かった。

 

エドワウですら一歩遅れた。その事実だけで十分だった。

 

――――――

 

騒ぎは長くは続かなかった。

 

二人目の男も拘束され、周辺の確認が終わり、人払いも強化される。表向きには、小さな不法侵入未遂で終わる話だった。

 

だが、アムロの中では終わっていない。

 

家の中へ戻って椅子へ座った途端、指先が震え始めた。

 

自分でも気づかないうちに、左手が右手首を掴んでいる。

 

ララァが目の前にいる。

 

無事だ。

 

それは分かる。

 

なのに、安堵より先に恐怖が来る。

 

「今の……何だよ」

 

小さく漏れた声は、ひどく頼りなかった。

 

「どうして、分かった」

 

「まだ見えてなかっただろ」

 

誰に向けた問いか、自分でも曖昧だ。

 

エドワウは少し離れて立っている。警備員に二、三の指示を出したあと、こちらへ戻ってきたが、すぐには口を開かない。

 

ララァが先に言った。

 

「間に合いました」

 

それだけだった。

 

アムロは顔を上げる。

 

間に合いました。

 

たったそれだけの言葉が、胸の奥に深く刺さる。

 

間に合った。

 

なら、間に合わなかった時がある。

 

記憶はない。だが体のどこかが、それを知っている。

 

アムロは唇を噛んだ。

 

「……ふざけるな」

 

声は大きくなかった。

 

だが、そこに混じった熱は初めて自分でもはっきり分かるものだった。

 

「なんで、何も分かんないのに」

 

「なんで、こういう時だけ勝手に動くんだよ」

 

手の震えが止まらない。

 

怒っているのか、怖いのか、自分でも区別がつかない。たぶん両方だ。

 

エドワウが近づく。

 

叱りもしない。褒めもしない。

 

それが逆に、アムロには救いだった。

 

「分からなくていい」

 

低い声だった。

 

アムロはエドワウを見た。

 

「……は?」

 

「今は、だ」

 

エドワウはそれ以上飾らない。

 

「だが、お前は守ろうとした」

 

その一言で、アムロの喉が詰まる。

 

守ろうとした。

 

怒りの正体が、そこで少しだけ形を持つ。

 

閉じ込められていたことへの怒り。

 

思い出せないことへの怒り。

 

そしてたぶん、守れなかった何かへの怒り。

 

それが今のララァへ向いていた。

 

アムロは俯いた。

 

「……自分でも、分からない」

 

「分からんままでいい」

 

エドワウはそう言って、アムロの肩の傷を見る。

 

「ただし、怪我はしてる」

 

「痛むなら言え」

 

その言い方に、アムロは少しだけ息を吐いた。

 

全部を見透かされるより、こういう具体的なことを言われる方が楽だった。

 

ララァは、少し離れた位置から二人を見ていた。

 

その目は静かだった。

 

何かを説明しようとも、宥めようともしない。ただ、ここでアムロが崩れきらなかったことだけを確かめているように見えた。

 

――――――

 

夜になっても、サイド6の湖は静かだった。

 

昼の騒ぎが嘘のように、水面は灯りをそのまま映している。

 

ララァは窓際の椅子に座っていた。

 

アムロは少し離れた場所に立っている。

 

近づきたい気もした。だが、近づくとまた何かが割れそうで怖い。その両方が同時にある。

 

ララァは外を見たまま、何も言わない。

 

その沈黙に、今は助けられていた。

 

アムロはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。

 

「……今度は間に合った」

 

ララァがゆっくりと振り向く。

 

その意味を、アムロ自身はまだ全部分かっていない。

 

けれど言葉だけは、勝手に出た。

 

今度は間に合った。

 

それは、今日の小さな事件のことでもあり、もっと前の、取り返しのつかなかった何かに向けた言葉でもあった。

 

ララァはそれを否定しない。

 

ただ、静かに受け止める。

 

アムロは窓の外へ視線を戻した。

 

自分の中で動き始めたものは、ただの記憶ではない。

 

守れなかった時間の続きだ。

 

その続きが、今ここで始まっている。

 

そう思った瞬間、胸の奥でまだ痛むものがあった。

 

だがその痛みは、昨日までのような、ただ形のないものではなかった。行き先を持ち始めた痛みだった。

 

湖面が小さく揺れる。

 

夜の光がそこで揺れたまま、壊れずに残っていた。

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