ビックリですよ
湖の水面は、昼だというのにほとんど揺れていなかった。
窓の外に広がるそれを、アムロはぼんやりと見ていた。
何度も来ている場所だ。ララァのいるこの家にも、もう慣れたはずだった。来るたびに少しだけ楽になる。頭の奥で引っかかっていたものが、少しだけ形を持つ。
そう思っていた。
ララァが湯のみを差し出す。
「どうぞ」
アムロは受け取る。指先が触れた。
その温度は、ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬で足りた。
ララァが静かに言う。
「あなたは、まだ帰っていないのね」
アムロの視界が揺れた。
言葉の意味を考える前に、何かが内側で割れる。
帰っていない。
どこへ。
考えようとした瞬間、順番が崩れた。
光。
押し返す感覚。
白。
その次が、来る。
来てはいけないものが来る。
頭の奥が引き裂かれるように開いて、つながってしまう。
「……っ」
アムロは椅子の背に手をついた。立っていられない。
今までとは違う。
断片じゃない。
つながる。
止まらない。
――――――
光のあと、終わりじゃなかった。
終われなかった。
落ちた。
音が消えて、意識が歪んで、自分の名前が分からなくなる。
何も思い出せない。
ただ、体だけが残っている。
知らない天井。
知らない人間。
言葉をかけられても意味が分からない。
食べさせられて、寝かされて、歩かされる。
「大丈夫だ」
何が。
何も分からない。
そこは明るくなかった。
暗い通路。
色の悪い灯り。
同じ区画。
同じ音。
外へ出るという発想が、最初からない。
閉じている。
ずっと。
時々、夢を見る。
白い機体。
誰かの声。
届かない距離。
だが、目を覚ますと消える。
何も残らない。
ただ、焦りだけが残る。
急がなければいけない気がする。
何を。
分からない。
そのまま時間が過ぎる。
何年かも分からない。
誰のところへ行けばよかったのかも、思い出せない。
それでも、胸の奥にだけ、会わなければならない誰かがいた。
名前も顔も思い出せないのに、その不在だけが痛かった。
そうして終わる。
壊れたまま。
何も取り戻さないまま。
誰にも届かないまま。
――――――
アムロは息を吐いた。
吐いたつもりで、うまく吐けていなかった。
視界が戻る。
ララァの部屋。
湖。
目の前にいるララァ。
その横に、エドワウ。
アムロの視線が、ゆっくりと動く。
エドワウで止まる。
違う。
違わない。
同じだ。
あの時、向こう側にいた男。
アクシズの向こうで、最後に向き合った相手。
シャア。
喉の奥から、言葉が出る。
抑えられない。
「……お前」
エドワウは動かない。
「お前がやったことは何だ」
声は低い。
だが、押し殺したものがそのまま乗っている。
「地球を巻き込んで」
「人を巻き込んで」
一歩、近づく。
「そのあと、僕がどうなったと思ってる」
エドワウは答えない。
アムロの声が、そこで初めてはっきり震えた。
「終われなかった」
「終われなかったんだよ」
「壊れたまま、生き残った」
「知らない場所で」
「何も分からないまま」
「誰のところにも帰れないまま」
言葉が途切れる。
息が乱れる。
それでも続ける。
「……あれが、お前の行き着いた先か」
部屋の空気が固まる。
エドワウは、そこでようやく口を開く。
短く。
「そうだ」
それだけだった。
否定しない。
言い訳もしない。
「だから潰している」
少し間を置いて、
「今度は、そこへ行かせないためだ」
アムロは睨む。
「それで済むと思うなよ」
当然だった。
許す理由はない。
ここで終わる話ではない。
その張り詰めた空気の中に、ララァの声が落ちる。
――――――
「あなたは迷いに負けたのです」
ララァはエドワウを見ていた。
その声は静かだった。
だが逃がさない。
「あなたは選べた」
「違う方へ行けた」
「でも行かなかった」
「私がいなかったから」
エドワウは視線を逸らさない。
ララァは続ける。
「あなたは絶望の置き場を失った」
「だから、連邦ではなく、地球そのものを憎んだ」
そこまで言ってから、今度はアムロへ向く。
「あなたも未熟でした」
アムロの体が止まる。
ララァは同じ調子で言う。
「あなたは軍人になるべき人ではなかった」
「それでも続けた」
「帰るべき時に帰らなかった」
アムロの呼吸が詰まる。
ララァは、少しだけ目を伏せた。
責めるためではない。
悲しむような仕草だった。
「あなたには、帰れる場所があった」
一歩、近づく。
「あなたは、帰って来られたのに」
その言葉が、怒りより深いところへ落ちる。
ララァは続けた。
「私は、待っていられたのに」
アムロの目が揺れる。
「私のところへ、いつでも会いに来られた」
「なのに来なかった」
声は責めていない。
責めていないのに、逃げ場がない。
ララァはさらに言う。
「最後には、私があなたを呼ぶしかなかった」
その言葉で、アムロの中の何かが崩れる。
――――――
ラプラス事変。
極限の圧力。
意識の限界。
その中で、自分は何かに引かれた。
引き上げられた。
呼ばれた。
自分から行ったのではない。
ララァが、呼んだ。
壊れきる前に。
引き戻した。
それは救いだった。
けれど同時に、自分は最後まで、自分からは帰らなかったという証でもあった。
――――――
アムロはその場に立っていられなくなった。
視線が落ちる。
言葉が出ない。
やがて、かすれるように言う。
「……あったんだ」
それだけで、喉が詰まる。
「まだ……なくなってなかったんだ」
少し間。
「帰れる場所が」
静寂。
アムロの肩が小さく震える。
「君のところに……行けたんだ」
「行けたのに」
呼吸が乱れる。
「僕は、行かなかった」
声がそこで切れる。
もう一度、言い直す。
「戦いの方へ残った」
「君の方へ行かなかった」
「最後まで……自分では行けなかった」
目の奥が熱くなる。
「君の方が、僕を見つけた」
その一言で、とうとう立ちきれなくなる。
怒りだけでは立っていられない。
自分にも、責任があったからだ。
本当は帰れた。
本当は会いに行けた。
それをしなかったのは自分だ。
その事実が、シャアへの怒りよりも遅れて、もっと深く刺さってくる。
――――――
しばらくの沈黙のあと、エドワウが言う。
「怒りは消さなくていい」
アムロが顔を上げる。
「消えない」
エドワウは続ける。
「それでも、お前はまだ間に合う」
短く。
「今度はそこへ行くな」
少し間を置いて、
「帰れる方を選べ」
その言葉に、アムロは何も返さない。
だが、理解はした。
怒りは消えない。
消す必要もない。
だが、その怒りで同じ場所へ行く必要はない。
帰れる場所を、自分の手でまた失う必要はない。
――――――
アムロはエドワウを見る。
「前のお前は許さない」
はっきり言う。
「アクシズも、その後の僕も消えない」
エドワウは何も言わない。
アムロは続ける。
「でも今度は」
一度、息を吸う。
「僕も、お前も、そこへ行かせない」
それが答えだった。
許しではない。
なかったことにもしない。
怒りを持ったまま、それでも同じ終わりへは行かない。
そのための答えだった。
――――――
ララァの方へ向く。
少しだけ距離を詰める。
今度は逃げない。
「今度は、会いに来る」
静かな声だった。
呼ばれるのではない。
失ってからではない。
自分から行く。
ララァはそれを見て、微笑む。
待っていた人の顔だった。
「はい」
それだけで十分だった。
――――――
湖の水面が、わずかに揺れる。
アムロの中で、ばらばらだったものが、ようやく一つの形になる。
戻っていたのは、壊れたあとの自分が最後まで手放さなかったものだった。
怒りも、痛みも、帰れなかった時間も、全部消えない。
それでも今度は違う。
呼ばれるまで壊れきるのではなく、自分で会いに行く。
失ってから悔やむのではなく、失う前に帰る。
その選択だけは、もう間違えない。