妹に撃たれない方法   作:Brooks

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南極条約の話です。


第141話 都市を守る条件

 

 

南極は、音の少ない場所だった。

 

吹雪いていれば風が鳴る。晴れていれば、雪と氷が光を返すだけで、余計なものは何もない。

 

地球の大陸の上だというのに、ここには人の暮らしの匂いが薄い。だから交渉には向いている、とマ・クベは思っていた。感傷が入りにくいからだ。都市の上で同じことをやれば、窓の明かりや、遠くを行く車の音が、人の心を鈍らせる。ここにはそれがない。

 

あるのは、数字と条件と、殺しすぎた後の冷えだけだった。

 

長机の向こうに連邦側代表団が並んでいる。軍人、文官、法務官、補給関係者。顔色の悪い者が多い。寝ていないのだろう。こちらも同じだ。

 

マ・クベは手袋を外し、机の上へ静かに置いた。

 

「では、確認いたしましょう」

 

声は低く、よく通った。

 

「核、生物、化学兵器の使用禁止」

 

口に出した瞬間、室内の空気がわずかに変わる。

 

この条項だけは、互いに早く片づけたい。もう十分見せ合ったのだ。人体が崩れる様も、コロニーの区画が沈黙する様も、死体の数が戦果の数字へ変わる様も。

 

マ・クベは連邦側の表情を見た。

 

ここで頷く者は、たいてい本音では安堵している。使いたくないのだ。使わずに済むならその方がいい。だが、使わねば負けるかもしれないから、机の上へ置いていただけだ。戦争とは、そういういやらしい誠実さを育てる。

 

「異論は?」

 

連邦側の主席文官が言う。

 

「なし」

 

その一言に、マ・クベは内心で印をつけた。

 

まず一つ。

 

次だ。

 

「コロニー落とし、その他の大質量物による戦略攻撃の禁止」

 

今度は一瞬、連邦側の軍人の目が動いた。

 

そこを見る。

 

人は、言葉ではなく、禁じられた瞬間に失う手の重みで本音を見せる。

 

よろしい、とマ・クベは思う。

 

これで地球そのものを揺らす手は封じられる。では次に、地球を揺らさずに首を絞める手を残せばよい。

 

「捕虜の人道的扱い、および段階的送還」

 

この時だけは、連邦側の空気が少し前へ出た。

 

やはりそこだ。

 

負け始めた側が最初に欲しがるのは、大義ではない。人間だ。戻せるものを戻したい。数を減らしたい。家族へ、生存者名簿へ、敗軍にもまだ秩序があると見せたい。

 

マ・クベはわずかに唇を動かした。

 

それでいい。

 

返してよい者は返す。

 

返してはならぬ者だけ残す。

 

大勢を返して、要を握る。こういう時、全てを欲しがるのは三流だ。

 

連邦側の補給将校が控えめに言った。

 

「一般捕虜の速やかな送還が望ましい」

 

「速やかに、ですか」

 

マ・クベはわざと小さく繰り返した。

 

「戦況の整理と輸送線の安全が担保されるなら、検討に値します」

 

検討に値する、で十分だった。今ここで確約はしない。だが拒絶もしない。その曖昧さの中に、相手は希望を見る。見せておけばよい。

 

戦後とは、たいてい希望の値段を吊り上げる仕事だ。

 

「木星船団、月面恒久都市、中立輸送路への攻撃禁止」

 

この条項を読む時、マ・クベは声の温度を変えなかった。

 

だがここからが本番だった。

 

核もコロニーも、もはや互いに見せ札だ。真に国家を殺すのは、いつでも電力と燃料と輸送である。工場は資源だけでは動かぬ。炉は信念では燃えぬ。勝っても停電すれば終わる。

 

だからまず、月だ。

 

だからまず、グラナダだ。

 

連邦側法務官が確認に入る。

 

「月面恒久都市への攻撃禁止は、双方に適用されると理解してよろしいか」

 

「もちろんです」

 

マ・クベは即答した。

 

「我々は都市の破壊を望んでおりません」

 

そこだけ切り取れば、まるで文明的な国家の使者である。

 

だが、その文明は条件つきだ。

 

マ・クベは次の紙へ指を置いた。

 

「加えて、月面都市グラナダを非軍事地域とすることを提案します」

 

連邦側の視線が一斉に上がった。

 

来た。

 

室内の温度が一度だけ下がる。

 

その一拍の静けさが好きだった。人が本当に痛い条件に触れた時だけ生まれる沈黙だからだ。

 

「……非軍事地域」

 

連邦側の軍人が低く言う。

 

「その通りです」

 

マ・クベは言葉を一つずつ置いた。

 

「連邦軍の艦艇、補給基地、兵器集積所をグラナダに置かない」

 

「軍事拠点としての利用を停止する」

 

「その非軍事化維持と、月面エネルギー供給の安定のため、我が軍が暫定安全管理権を持つ」

 

今度は沈黙が長かった。

 

実によろしい、とマ・クベは思った。

 

ここで怒る者は浅い。黙る者は計算している。黙らせたなら、半分は勝っている。

 

連邦側主席代表がようやく口を開く。

 

「それは、事実上の接収要求ではないのか」

 

「いいえ」

 

マ・クベはすぐに返した。

 

「都市の保護です」

 

保護。

 

なんと便利な言葉だろう。

 

支配も監視も、保護と言い換えれば、人は少しだけ飲み込みやすくなる。実態が変わるわけではない。だが政治とは、実態そのものより先に、実態を包む布の色で決まることが多い。

 

「サイド3近傍に連邦軍拠点が残る状況は、我々として受け入れられません」

 

「しかし、非軍事化されるなら話は別です」

 

「我々は都市を破壊したいのではない」

 

マ・クベはそこで、わずかに間を取った。

 

「ゆえに選択していただきたい」

 

「非軍事化されたグラナダとして存続するか」

 

「軍事拠点として保護を失うか」

 

吹雪の音が、遠くで一度だけ壁を打った。

 

連邦側の若い将校が、机の下で拳を握るのが見えた。だが口を挟まない。立場がないからだ。良い。

 

怒りは若い者に出る。判断は年を取った者がやる。

 

主席代表が低く言う。

 

「脅しだな」

 

「いいえ」

 

マ・クベは静かに言った。

 

「安全保障です」

 

その瞬間、何人かがこちらを睨んだ。

 

睨み返す必要はない。

 

睨みの中に、負けた側の現実がある。こちらの言っていることが筋として通ると分かっているから、感情だけが先に出る。

 

筋が通る脅しほど、止めにくいものはない。

 

連邦側法務官が資料をめくる。

 

「違反時には、保護を失う……」

 

「その通りです」

 

「つまり、拒否した場合、グラナダは軍事目標となる」

 

「軍事拠点であるなら、当然です」

 

ここまで来ると、あとは数字だ。

 

怒りではなく、どれだけの艦を残せるか。どれだけの電力を確保できるか。どれだけの兵を月に置く余裕があるか。

 

そして、ない。

 

連邦にはもう、そこまでの余裕がない。

 

だからこの条件は通る。

 

通るから出した。

 

通らぬ条件を机に置くのは、戦場で弾の入っていない銃を抜くようなものだ。マ・クベはそういう真似を好まなかった。

 

「一般捕虜の送還」

 

連邦側補給将校が、話をそこへ戻そうとした。

 

苦しい時ほど、人は取り戻せるものの方へ視線を逃がす。

 

「開始します」

 

マ・クベは言った。

 

それだけで、連邦側の空気がわずかに揺るんだ。

 

「条約履行の実績は双方に必要でしょう」

 

「下士官兵から段階的に行う」

 

「輸送順は別途協議」

 

そこまでは与える。

 

与えることで、本命を通す。

 

多数を返し、要だけ残す。

 

実に古典的だ。

 

だからこそ効く。

 

署名文が運ばれてくる。

 

マ・クベはインクの色を確かめた。

 

黒。

 

よろしい。

 

戦争の途中で結ばれる条約は、しばしば血の匂いを引きずる。だが条約文そのものに血はつかぬ。つくのは、いつも後からだ。

 

マ・クベは署名した。

 

この一筆で、大量破壊は止まる。

 

そして同時に、グラナダは止まる。

 

止まる、というのは美しい言い方だ。

 

別の言い方をすれば、喉元を押さえるとも言う。

 

帰りの輸送機の中で、マ・クベは窓の外を見ていた。

 

白い地球。

 

白い雲。

 

下では何も見えない。

 

見えなくていい。

 

都市は見えぬ方がよい。見えれば、人は守ろうなどと考える。見えなければ、条件だけで切れる。

 

彼は短く息を吐いた。

 

戦争は、止まった。

 

いや、正確には、大きすぎる破壊だけが止まった。

 

補給は止まらぬ。

 

輸送は止まらぬ。

 

飢えも止まらぬ。

 

戦争を終わらせる者は英雄になれる。だが戦後を回す者は、英雄になれぬ。だから面白い。

 

総帥は理解しているだろうか。

 

いや、理解している。

 

理解しているからこそ、この文言を通せと命じたのだ。

 

グラナダは月面の都市ではない。

 

月面の喉だ。

 

あそこを握られぬ条件を得た。それだけで十分だ。

 

いや、十分ではない。

 

十分にするのはこれからだ。

 

――――――

 

総帥府へ戻ると、空気はすでに軽かった。

 

早いな、とマ・クベは思った。

 

条約の成立は、戦況報告より先に人を緩ませる。死ぬ規模が一段下がるだけで、人はもう終わったつもりになる。

 

廊下の向こうで、若い将校が二人、声を潜めていた。

 

「結局、月も押さえたってことだろ」

 

「グラナダが非軍事化なら、実質うちのものだ」

 

「さすがにうまいことやる」

 

笑いが混じる。

 

マ・クベは足を止めない。

 

だが耳は留める。

 

もう始まっている。

 

勝ったあとに来る奢りだ。

 

都市を守る条件を、都市を取った自慢話へ変える。ああいう人種は、条文ではなく戦利品の勘定でしか政治を見ぬ。後で使い潰せるが、先に目障りにもなる。

 

総帥府の会議室に入ると、ギレン、キシリア、セシリアがいた。

 

ギレンは椅子に深く座り、机上の報告書へ目を通している。キシリアは立ったままだ。セシリアは窓際で秘書官から受け取った別紙を並べ替えていた。

 

この並びを見るたび、マ・クベは少しだけ面白くなる。

 

総帥府が尻にしかれたと陰で囁かれるのも、無理はない。だが、尻にしかれるという言い方は感情にすぎない。実態はもっと実務的だ。総帥が見落とす順番を、セシリアが並べ直しているだけのことだ。

 

「戻りました」

 

マ・クベが言う。

 

ギレンが顔を上げる。

 

「結果を」

 

「成立しました」

 

それだけで十分だった。

 

ギレンの目に、安堵ではなく次の計算が浮かぶ。

 

セシリアは秘書官へ軽く目配せし、扉を閉めさせた。余計な耳を外へ出す。こういうところが早い。

 

キシリアが先に言う。

 

「グラナダ条項は入ったの」

 

「入りました」

 

マ・クベは書類を開く。

 

「月面都市グラナダは非軍事地域」

 

「連邦軍の艦艇、補給基地、兵器集積所の設置禁止」

 

「非軍事化維持とエネルギー供給安定のため、我が軍が暫定安全管理権を持つ」

 

「違反時には保護失効、軍事目標化」

 

キシリアの口元がかすかに動く。

 

満足だ。だが、その満足はすぐ次の欲へ変わる顔でもあった。

 

ギレンが言う。

 

「一般捕虜の送還は」

 

「段階的に」

 

「下士官兵からです」

 

マ・クベはそこで少しだけ視線を伏せた。

 

返してよい者は返す。返せぬ者は返さぬ。条約を誠実に見せるには、まず返すことだ。返せば返すほど、残した者の価値が際立つ。そこまで説明する必要はない。総帥は分かる。

 

「よろしい」

 

ギレンが短く言った。

 

その二文字のあとで、彼の沈黙が少し長くなる。エネルギーだ、とマ・クベは思った。この男は今、月を取ったとは考えていない。サイド3の喉に刃を当てられない条件を得た、と見ている。そこがよい。大きく勝った後ほど、小さな供給線の価値が見える男でなければ国家は持たぬ。

 

キシリアがすぐに口を挟んだ。

 

「実務管理は私の系統が握るべきです」

 

来たな、とマ・クベは思う。

 

当然だ。戦果でもあり、治安案件でもあり、月面実効支配でもある。欲しがらぬ方がおかしい。

 

セシリアが穏やかに言う。

 

「軍の顔を出しすぎると月面住民が硬くなります」

 

キシリアは即座に返す。

 

「なら誰が回すの」

 

「管理ではなく、安定運用として見せます」

 

この女は言葉の布を選ぶのが上手い。中身が変わらぬなら、せめて摩擦の少ない色で包めと言っている。

 

マ・クベはそこで口を開いた。

 

「都市を取った、と見せるのは下策です」

 

皆の視線が向く。

 

「月は脅して従わせる場所ではありません」

 

「灯りが消えず、輸送が来て、兵が増えないなら、人はしばらく黙ります」

 

それだけだ。

 

都市支配とは、旗を立てることではない。何も変わっていないと住民に思わせることだ。

 

キシリアがわずかに目を細める。

 

反論したい顔ではある。だが筋は通っているので、すぐには切らない。

 

ギレンが机の上で指を組んだ。

 

「握るな」

 

短い言葉だった。

 

そのあとに来る沈黙を、マ・クベは聞いた。

 

この総帥は短い。だが短いほど、その後ろに計算がある。握れば反発を生む。押さえれば秩序になる。そう言いたいのだろう。実際、その通りだ。勝者が欲望をそのまま制度にすると、制度は最初から腐る。

 

キシリアが言う。

 

「押さえろ、という意味でしょうね」

 

ギレンは答えない。

 

答えないことで、肯定した。

 

セシリアはそのやり取りを一度だけ見て、それから手元の布告案を前へ出した。

 

「月面向けにはこちらを先に」

 

ギレンが目を落とす。

 

戦勝の告知ではない。

 

都市機能の継続、灯りの維持、エネルギー供給の安定、一般住民の生活保障、民間通行の継続。そちらが先に来ている。

 

セシリアが言う。

 

「勝ったことを知らせる布告より、変わらないことを知らせる布告を先に出すべきです」

 

「灯りが消えない、食料が来る、仕事が止まらない。その方が月は静かになります」

 

マ・クベは内心で、実に結構、と呟いた。

 

この女は戦場で地図を読む将ではない。だが戦後に、地図の上に人を戻す順番を知っている。そういう人間は貴重だ。

 

キシリアは面白くなさそうだった。

 

だが、面白い面白くないで政治は回らない。そこもまた、この女は知っている顔をしていた。

 

「レビルは」

 

ギレンが言う。

 

「保持する」

 

マ・クベはうなずいた。

 

当然だ。大勢を返して、要だけ残す。こういう時に全部返すのは甘い。全部抱えるのは愚かだ。要だけ残すのが政治だ。

 

キシリアの視線が一瞬だけ鋭くなる。

 

その反応を、マ・クベは横から見た。

 

この方は、この件になると過敏だ。理由までは知らぬ。だが分かる。逃がしたくないのだ。ただ敵将だからではない。何か別の意味で。

 

総帥はそれも読んでいる顔だった。

 

兄妹というものは、まことに面倒だ。

 

マ・クベは少しだけ口元を整えた。

 

レビルは使える。だが最も危険なのは、レビルそのものではない。レビルをどう扱うかで、内部の傷が露出することだ。

 

会議がいったん切れ、廊下へ出る。

 

若い将校たちが今度は声を潜める。

 

「結局、グラナダはうちのものだな」

 

「連邦も飲むしかない」

 

「これで月は押さえた」

 

マ・クベはその横を通り過ぎ、立ち止まった。

 

「君たち」

 

二人が凍る。

 

「はいっ」

 

「月を押さえたのではない」

 

静かに言う。

 

「月に喉を預けぬ条件を得ただけだ」

 

意味が分からない顔が二つ並ぶ。

 

結構。

 

分からぬまま働ける者は便利だ。だが分からぬまま奢る者は邪魔だ。

 

「戦利品の勘定は、倉庫番だけで足りる」

 

「軍人は、まだ次に足を引かれる場所を考えろ」

 

二人は顔色を変えた。

 

マ・クベはそれ以上は言わず、歩き出す。

 

廊下の窓から見える月光は白く、都市の屋根を平たく照らしていた。

 

戦争は止まった。

 

だが、止まったのは大きすぎる破壊だけだ。

 

支配はこれから始まる。

 

利権もこれから始まる。

 

奢りも、反発も、裏切りも、だ。

 

総帥府の扉の前で、マ・クベは一瞬だけ立ち止まった。

 

中では、ギレンが書類に線を引き、セシリアがその順番を変え、キシリアが握るべきものと握らせぬものを量っている。

 

よい。

 

勝者の国というものは、あれくらい冷えていなければ持たぬ。

 

だが、冷えているから持つとも限らぬ。

 

マ・クベは静かに笑った。

 

「都市を守る条件、か」

 

誰に聞かせるでもない声だった。

 

守る。

 

よい言葉だ。

 

都市も、補給も、月も、喉も、守ると言い張れば、たいていのものは取れる。

 

彼は扉を押し開け、再び総帥府の空気へ戻った。

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