妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第143話 戻った名前

 

 

総帥府の朝は、紙の音しかしなかった。

 

戦時のように怒鳴り声が飛ぶことはない。代わりに、書類をめくる音、秘書官が歩調を殺して廊下を行く音、遠くで通信機が一度だけ鳴ってすぐに黙る音ばかりが残っている。

 

ギレンの机の上には、三つの束があった。

 

グラナダの住民反応。

送還第一便の完了報告。

そして、最終照合票。

 

ギレンは三つ目だけを手に取った。

 

一枚目を見て、二枚目で止まる。

 

そこで視線が動かなくなった。

 

「……止めろ」

 

控えていた実務官が顔を上げる。

 

「第一便全体をですか」

 

「次便だ」

 

ギレンは紙を机へ置いた。

 

「名簿の再照合をかけろ。第一便はもうどうにもならん」

 

実務官の喉が動く。

 

「戻せるかの確認は」

 

「済んでおります。受領点を越えました」

 

ギレンは答えない。

 

照合票の中に、場違いな名が一つだけある。

 

バスク・オム。

 

下士官兵中心の送還第一便に混ざる名ではない。階級だけの問題ではなかった。気性が強く、治安部隊との繋がりがあり、収容中も強硬派の捕虜をまとめようとする気配があった男だ。連邦が敗れたあとに、ああいう種類の将校を戻すのはまずい。

 

戻れば、あいつ一人で軍は動かない。

 

だが、ああいう一人が戻ることで、強く出たい連中は言葉を得る。

 

戦争が終わると、人は銃より先に帳簿を汚す。

 

名簿一枚で兵を返し、情報を抜き、空気を変える。平時の戦争とは、だいたいそういう遅い刺し方をする。

 

ギレンは照合票を裏返した。

 

「マ・クベ、キシリア、セシリアを呼べ」

 

――――――

 

会議机の上に、紙が四枚並んでいた。

 

原本名簿。

転記表。

船積票。

受領確認票。

 

マ・クベが指先で紙を押さえた。

 

「ここですな」

 

訂正印の位置が、他とわずかにずれている。

 

別の紙へ指を移す。

 

「こちらは筆跡が違う」

 

さらに一枚。

 

「番号も飛んでおります」

 

キシリアは椅子に深く座ったまま、その一連を黙って見ていた。

 

セシリアは手元で写しを揃えながら、先に言った。

 

「転記のミスではありませんね」

 

「ええ」

 

マ・クベが薄く笑う。

 

「人道手続きというものは見た目がよろしい。ですから、汚す側にも使いやすい」

 

嫌味とも感想ともつかない声だった。

 

条約は戦争を止めるために結ぶ。だが、結んだ翌日から、その条文と手続きをどう食うかの競争が始まる。大義が大きいほど、細部をいじる者は自分を正しいと信じやすい。マ・クベはそういう汚れ方をよく知っていた。

 

キシリアが言う。

 

「誰が混ぜたか」

 

「そこではない」

 

ギレンが切った。

 

キシリアの目が向く。

 

「どの系統が、これを使えると思ったかだ」

 

室内が少しだけ静まる。

 

犯人一人を切って終わる話ではない。送還制度を使って人を戻し、連邦側の強硬派へ芯を返す価値があると、誰かが判断した。その判断の方が問題だった。

 

セシリアは紙から目を上げた。

 

「次便を止めるのは危険です」

 

「分かっている」

 

「他サイドも見ています。第一便まで出しておいて、ここで止めれば“ジオンは制度を都合で止める”と取られます」

 

キシリアは小さく息を吐いた。

 

「だからといって、このまま流すの?」

 

「流さない」

 

ギレンが言う。

 

「だが止めもしない」

 

キシリアの眉がわずかに寄る。

 

ギレンは続けた。

 

「次便から区分を切れ。一般と、技術、補給、連絡、治安系を分ける」

 

セシリアがすぐに紙へ書き込む。

 

「照合も三重にします。こちらと受領地と医療引継ぎ、三つで突きます」

 

「やれ」

 

答えはそこで決まった。

 

キシリアだけが、まだ紙を見ていた。

 

「バスク・オム」

 

名を口にする。

 

「嫌なところを抜かれたわね」

 

ギレンはその一言にだけ頷いた。

 

未来の名としてではない。今の連邦に戻して面倒な種類の男として、それで十分だった。

 

――――――

 

受領地の風は、収容区画の風より乾いていた。

 

戻された捕虜たちは列になり、名を呼ばれ、順に身元確認を受ける。疲れた顔ばかりだ。だが、その中でバスク・オムだけは、目の色が違った。

 

やつれてはいる。頬も少し落ちている。

 

それでも、視線の奥にまだ負けた色がない。

 

受領担当が紙を見て、一度だけ表情を変えた。

 

「バスク・オム」

 

「……ああ」

 

短い返事。

 

その後ろで、別の将校が何も言わずに頷く。待っていた顔だった。

 

バスクはその動きを見て、口の端だけをわずかに動かした。

 

「まだ終わっていないな」

 

受領担当は何も返さない。

 

だが、その沈黙で十分だった。

 

戻ったのは兵一人だ。

 

それでも、その一人で空気は変わる。

 

――――――

 

レビルは、名を見た瞬間に目を細めた。

 

「……あれを戻したか」

 

それだけだった。

 

紙を持ってきた士官は、返す言葉を持たない。レビルの顔に浮かんだものが、驚きなのか苛立ちなのか、うまく読めなかったからだ。

 

しばらくして扉が開く。

 

ギレンが入ってくる。

 

レビルは名簿を机へ戻した。

 

「制度を作ったつもりでも、先に潜られる」

 

「動かせば潜られる」

 

ギレンは短く返す。

 

レビルは少しだけ笑った。

 

「しかも、ああいう手合いを先に戻された」

 

ギレンは沈黙した。

 

一人で戦争はできない。

 

だが、一人いれば、強く出たい連中は“理由”を持てる。

敗戦の空気に、報復の言葉が戻る。

治安の名で締め上げる者たちに、都合のいい顔が立つ。

 

戦後の危険とは、兵数ではない。

 

正当化の芯が戻ることだ。

 

レビルが低く言う。

 

「戦争は終わっていないな」

 

ギレンはその言葉を否定しなかった。

 

条約を結び、船を出し、名簿を整えたその日から、戦争は書類の中へ移る。銃より遅い。だが、その分だけ長く残る。

 

――――――

 

連邦政府との会談室は、妙に明るかった。

 

照明が強いせいではない。誰もが眠れていないから、顔色が明るい場所でしか保てないのだ。

 

ギレンは条件を読み上げる。

 

「連邦政府は存続する」

 

そこまでは聞ける。

 

「ただし、宇宙方面の軍事権は縮小する」

 

ここから空気が変わる。

 

「宇宙移民圏への直接軍事介入は制限される」

 

「グラナダの軍事権は失われる」

 

「地球上の行政と秩序維持を主務とする」

 

連邦側の一人が堪えきれずに言った。

 

「地球へ押し込める気か」

 

「宇宙から連邦を追い出すのか」

 

ギレンは相手を見た。

 

「違う」

 

一拍。

 

「役割を戻すだけだ」

 

怒りが走る。

 

だが、怒ったまま口を閉ざす者もいる。

 

彼らにも分かっている。ここで連邦を完全に潰されれば、次は各サイドがそれぞれ別の旗を立てる。そうなれば、もう“連邦”という古い器でまとめることすらできなくなる。

 

ギレンはそこで言葉を足した。

 

「連邦を消せば、他サイドは次に自分たちへ来ると考える」

 

「そうなれば、宇宙全体が敵になる」

 

「地球の政府は残す」

 

「だから宇宙は、まだ一つの器を見ていられる」

 

会談室の中で、反応が割れた。

 

怒る者。

顔を伏せる者。

黙って計算する者。

 

もう一枚岩ではなかった。

 

それでいい、とギレンは思う。

 

世界政府として肥大した連邦を、地球の政府へ押し戻す。壊すのではない。骨だけ残す。骨がある限り、人はまだその中へ不満を押し込められる。骨まで砕けば、宇宙中に散る。

 

「レビル将軍の返還を求める」

 

別の者が声を上げた。

 

マ・クベが先に応じる。

 

「一般捕虜送還原則と、最高位捕虜の扱いは別問題です」

 

「条約は人道的取扱いを定めるものであって、戦後秩序の交渉材料を放棄するものではない」

 

冷たい。

 

だが、法文としては通る。

 

「結局、人質か」

 

連邦側が吐き捨てる。

 

ギレンは言った。

 

「秩序のために残す」

 

返せば旗になる。

殺せば殉教者になる。

残せば、まだ器の中へ留めておける。

 

それだけの話だった。

 

――――――

 

キシリアは、バスク本人を追うつもりはなかった。

 

正確には、本人だけを追っても足りないと分かっていた。

 

「接触先を洗いなさい」

 

副官に命じる。

 

「どの将校が会いに行くか」 「どの治安系統が反応するか」 「どの残存部隊が、あれを見て強く出るか」

 

副官が頷く。

 

「はい」

 

「個人ではなく線を見るのよ」

 

「はい」

 

キシリアは机の上の一覧を指で叩いた。

 

残すのと、放っておくのは違う。

 

兄は連邦という器を残す。なら自分は、その器の継ぎ目から何が戻ってくるかを見なければならない。一人の名を軽く見るつもりはない。だが、一人だけに怯えるほど浅くもない。

 

重要なのは、あれが何人を動かすかだ。

 

――――――

 

「止めません」

 

セシリアは言った。

 

送還制度の修正案を前にして、迷いはない。

 

「一人戻ったことより、制度が止まったと思われる方が危険です」

 

ギレンが紙を見る。

 

区分再定義。

三重照合。

受領地側逆確認。

接触権限の限定。

 

「動かします」

 

「そのままか」

 

「そのままではありません」

 

セシリアは静かに返した。

 

「止めずに変えます」

 

その言葉で十分だった。

 

「やれ」

 

ギレンが言うと、秘書官たちはもう動き始める。

 

決裁の印が乾くより先に、次便の照合先へ連絡が走る。総帥府が尻にしかれていると笑う者がいてもよかった。笑われる外見と、機能する内側は別の話だ。

 

セシリアは正しい制度を夢見ているわけではない。止まった制度が人をどう壊すかを知っているだけだ。そこが使える。そこが怖い。

 

――――――

 

「送還第一便に、バスク・オムが混じっていた」

 

エドワウの言葉で、アムロはすぐに顔を上げた。

 

意味を考える時間はいらなかった。

 

「あいつを戻したのか」

 

「戻った」

 

「最悪だな」

 

短い言葉だった。

 

エドワウは頷く。

 

「それでも送還は止めない」

 

アムロの目が細くなる。

 

「止めるべきだろ」

 

「少なくとも、ああいうのは」

 

エドワウは窓の外を見たまま言う。

 

「一人を止めるために制度を止めれば、次はもっと増える」

 

「バスク一人を消しても、強硬派そのものは消えない」

 

アムロはすぐには返せなかった。

 

納得したわけではない。

 

だが、反論も途中で止まる。

 

個人の怒りと、国家が敵の数を見るやり方は、同じ線では動かない。そのことだけは、もう分かり始めていた。

 

――――――

 

戻った一人は、連邦側に「まだやれる」という合図を与えた。

 

レビルは、戦争が制度の中へ潜ったことを理解する。

キシリアは、その一人がどこへ線を伸ばすかを見る。

セシリアは、制度を止めずに回し直す。

ギレンは、一人抜かれたからこそ、連邦という古い器を消せないと再確認する。

 

戦争は終わった。

 

だが、送還船で戻った一人だけで、連邦の中にはもう強く出たい空気が戻る。

 

勝者は敵を消しきれなかったのではない。

 

敵を散らさないために、残したにすぎなかった。

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