受領基地の空気は重かった。
油と消毒液の匂いに、疲れ切った兵の汗が混じる。死地から戻った人間の匂いではない。負けたまま生き残り、その事実をまだ飲み込めずに並んでいる人間たちの匂いだった。
ジャマイカン・ダニンガンは、その列の先を見ていた。
戻って来る捕虜たちの中に、見慣れた顔がある。
バスク・オムは痩せていた。頬が少し落ち、軍服も今の連邦士官のものではない。だが目だけは変わっていない。押し切る時の目だ。捕虜として戻った男の目ではなく、押し戻されただけだとまだ腹の底で言っている男の目だった。
ジャマイカンは一歩前へ出て、敬礼した。
「お待ちしておりました、少佐」
バスクは足を止めた。
「丁寧だな、ジャマイカン」
「お会いになりたい方がおられます」
それだけだった。
労いも、同情も、慰めもない。今必要なのはそういうものではないと、ジャマイカンは分かっていた。
バスクは受領棟の中を一瞥した。疲れた兵。顔色の悪い文官。書類を抱えて走る実務官。宇宙を失った側の空気が、壁の白さまでくすませて見える。
「……終わっていないな」
独り言のような声だった。
ジャマイカンは返さない。
ただ、少しだけ歩調を緩めた。それで十分だった。
――――――
ジャミトフ・ハイマンの部屋は、執務室にしては静かすぎた。
机の上に余計な書類の山はない。壁際の棚にも、必要な物しか置かれていない。整いすぎている。順番を間違えることそのものを嫌う人間の部屋だと、バスクは一目で分かった。
ジャマイカンが先に扉を開き、脇へ退く。
「バスク少佐をお連れしました」
ジャミトフは椅子に深く座ったまま、二人を見た。
「入れ」
声は低く、短い。
バスクは一歩進み、敬礼した。ジャマイカンはその後ろで姿勢を正したまま動かない。
「戻ったか」
バスクは敬礼を下ろした。
「戻された、です」
ジャミトフの口元がわずかに動く。
「違いが分かっているならいい」
机の上の紙を閉じ、ジャミトフは言った。
「今は立つな」
最初の言葉がそれだった。
バスクの眉がわずかに動く。
ジャミトフは続ける。
「政府はまだ講和の形を壊していない。軍も割れ切っていない。ここで露骨に動けば、強硬派はまとめて潰される」
「今は波が来るのを待て」
バスクは鼻で笑うような息を漏らした。
「待っている間に、敗北が形になります」
ジャミトフは即答した。
「そうだ」
そこで一拍置く。
「だから、散ったままの不満を今使うなと言っている」
部屋の温度が少し下がったように感じた。
ジャミトフは机の上で指を二度だけ鳴らした。
「怒りはある。不満もある。だが、まだ散っている」
「散っている不満は潰しやすい。まとまった不満は使える」
「旗を立てるのはその後だ」
言葉に熱がない。だからこそ、その中にある計算がよく見えた。
バスクはこの男が嫌いではなかった。感情で喚かないからだ。だが、待てという言葉だけは気に入らない。待っていれば自然に来る波など、負けた側にはない。あるのは静かに固まっていく敗北だけだ。
ジャミトフは視線を上げた。
「焦るな、少佐」
バスクは短く返した。
「努力します」
従順さの言葉ではないことは、ジャマイカンにも分かった。
ジャミトフはその返答を追わなかった。
「以上だ」
命令としての終わり方だった。
バスクはもう一度敬礼し、半歩下がる。ジャマイカンもそれに合わせて身を引いた。
――――――
廊下へ出ると、ジャマイカンが一歩後ろについて歩いた。
しばらく黙っていたが、先に口を開いたのはバスクだった。
「今の軍の空気はどうだ」
「良くありません」
ジャマイカンは即答した。
「再編詰所は荒れています。講和整理、縮小、配置転換……紙だけは早い。現場は誰も納得していません」
「議員は」
「乗りたがっています」
「企業は」
「金の匂いを嗅いでいます」
バスクはそこで足を止めた。
窓の外では、輸送車両が帰還兵の仮設詰所へ向かっていく。形だけ整っている。だが、あれは秩序ではない。散る前に並べ直されているだけだ。
「言葉を欲しがっているな」
ジャマイカンは頷く。
「多いです」
波を待て。
ジャミトフの言葉を、バスクは一度だけ心の中で繰り返した。
待つのではない。
作る。
「会わせろ」
ジャマイカンは即座に姿勢を正した。
「誰に、でありますか」
「欲しがってる連中だ」
「了解しました」
バスクは歩き出した。
最初に必要なのは旗ではない。散っている怒りに同じ向きを与える言葉だ。それだけあれば、人は勝手に集まり始める。
ジャマイカンは後ろから、その背を見た。
上にジャミトフがいる。下に自分がいる。その間に立つこの男は、上の命令に従う形を取りながら、現場の空気を自分の方へ曲げていく。そういう厄介さを、ジャマイカンは昔から知っていた。
――――――
数カ月後。
――――――
最初に変わったのは、言葉の並び方だった。
それまでは別々に語られていたものが、いつの間にか同じ文脈で並ぶようになる。
地球防衛再建。
治安回復。
講和見直し。
宇宙喪失の責任追及。
地球の軍関係者を呼んだ小委員会で、その議員は穏やかな顔をしていた。押しの強い男ではない。思想で人を引っ張る種類でもない。だが、いまどの言葉が票になり、どの怒りが金になるかを嗅ぎ分ける鼻は良かった。
記者たちが身を乗り出す。
軍服の人間も何人か席についている。
議員は資料をめくりながら言った。
「宇宙を失ったのは事実です」
そこで一拍置く。
「しかし、地球まで弱くなる必要はありません」
記者のペンが走る。
「我々にはまだ地球を守る責任がある」
さらに一歩進める。
「必要なのは、敗北の整理ではない。防衛の再建です」
そこで初めて、その言葉が出た。
「Make Again Great Earth!!(強い地球よ、もう一度)」
歓声はない。
だが、反論もない。
軍服の男が一人、顔を上げる。傍聴席の後援会関係者が、その言葉を持ち帰る顔をする。記者は見出しの形を頭の中で組み始める。
議員本人は、自分が煽っているつもりはない。
正論のつもりだった。
だから厄介だった。
――――――
同じ頃、敗残兵の再編詰所では、別の言い方で同じ空気が広がっていた。
「終戦だと?」
バスクは椅子に浅く腰掛けたまま言った。
「違うな。押し戻されただけだ」
向かいにいた士官たちが黙る。
治安部隊の中佐。補給を握る少将補佐官。宇宙帰還兵の管理に回された実務将校。表向きは誰も政府方針に逆らっていない。だが、腹の中は別だった。
バスクは続ける。
「宇宙を失ったからこそ、地球は締める」
「政府が机で残す秩序を、現場は地面で作る」
「弱い政府の下で弱い軍になるな」
拍手は起きない。
だが、何人かが顔を上げる。
それで十分だった。
自分の怒りを、自分より少しだけ強い言葉で言ってくれる人間がいれば、不満は沈んだままではいられなくなる。
バスクの左後ろに控えたジャマイカンは、会うべき人間を選び、会わせる順番を決めていた。どの基地司令を同席させ、どの議員と同じ席に座らせ、どの企業人にどこまで聞かせるか。人の動かし方を、彼はよく知っていた。
バスクが言葉を置き、ジャマイカンが場を整える。
その関係は、会議の席でも崩れない。
「次は誰だ」
バスクが低く聞く。
ジャマイカンはすぐに答えた。
「西部基地の警備司令と、下院の軍務小委員の秘書官であります」
「順番は」
「先に司令です。軍の顔がついてから議員を入れた方がまとまります」
バスクは短く頷いた。
「そうしろ」
ジャマイカンは敬礼で応じた。
「はっ」
――――――
軍需企業の会合では、もっと露骨だった。
ただし露骨なのは本音であって、表向きの言い方ではない。
机の上には、新型警備車両の試算表、基地再整備資材の見積もり、暴徒鎮圧装備の供給計画、監視通信機器の更新案が並んでいる。
「戦争ではありません」
担当者が言う。
「再建需要です」
別の役員が頷く。
「地球防衛の見直しにともなう当然の動きです」
全員がそう言う。
全員、自分は穏健なつもりでいる。
だが彼らが賭けているのは、一つの流れだった。
弱い地球ではなく、強い地球。
治安を強くし、防衛を厚くし、軍に予算を戻す地球。
その方が金になる。
その方が物が動く。
その方が、バスクのような男の周囲に現実がつく。
言葉だけでは流れにならない。
金と物がついた瞬間、それは政策の顔をし始める。
その会合の末席にジャマイカンがいた。
表に出るのは企業人と議員だ。バスクは前へ出ない。だが、その場で何を聞き、どこへ持ち帰るかを決める目は、ずっと動いている。
会合が終わり、廊下へ出たところでジャマイカンは短く報告した。
「警備車両は二社が前向きです。監視通信は一社が地球防衛名目なら出すと」
バスクは歩きながら聞いていた。
「条件は」
「治安再建を政府委員会で先に通すことだそうです」
「通る」
「はい」
ジャマイカンは一歩遅れて続ける。
「議員の方も、軍の後ろ盾が見えれば前へ出るでしょう」
バスクは振り返らない。
「見せてやれ」
「了解しました」
ジャマイカンはまた敬礼した。
この男の前では、それが自然だった。
――――――
コリニーは演説を好む男ではなかった。
だからこそ、その一言には重みがあった。
軍再建会議の席で、ジーン・コリニーは簡潔に言った。
「政府の決定には従う」
そこまでは誰もが聞き流せる。
だが次が違った。
「だが、地球の防衛と治安を緩める理由にはならない」
その一言で、会議室の空気が変わる。
バスクのように熱はない。あの議員のように調子も良くない。だからこそ、正統に見える。
ジャミトフはその横で黙っていた。
手元の資料へ目を落とすだけで、口は挟まない。
地球圏防衛再編。
非常時警備強化。
帰還兵管理。
宇宙系住民の登録見直し。
言葉はもう揃った。
空気も揃い始めている。
後は、それを制度にするだけだった。
ジャミトフはそこでようやく、ほんの少しだけ満足した顔をした。
待てと言った波は、たしかに来た。
いや、来たのではない。
来るように並べられた。
バスクが現場の熱を束ね、議員が言葉を広げ、企業が物をつけた。コリニーは秩序のつもりで、その流れに正統性を与えた。
これで十分だった。
――――――
下院議員選挙は終わった。
「M.A.G.E.」を掲げた議員たちは、正面から継戦を叫んだわけではない。だが、講和見直し、治安再建、地球防衛強化を訴えた候補が、予想以上に議席を伸ばした。
新聞はそれを民意と書いた。
軍はそれを支持と受け取った。
企業はそれを需要と読んだ。
地球では、敗北の整理より先に、強く出ることを望む空気が議場の中へ入り始めていた。
バスクはその結果を静かに見ていた。
勝ったとは思わない。
まだ始まっただけだ。
だが、散っていた不満はもう同じ言葉を持ち始めている。
ジャマイカンが一歩後ろから言う。
「議会内の連携は、もうしばらく緩いでしょう」
「分かっている」
「ですが、軍務と治安の委員会は押さえられます」
バスクは短く頷いた。
「そこからでいい」
ジャマイカンは敬礼した。
「はっ」
――――――
ギレンに見えるのは、その結果だけだった。
連邦側の返答文に「地球防衛」の語が増える。
「治安再建」が前に出る。
送還窓口に治安系統の人間が顔を出す。
発注内容が、補修より警備寄りに変わる。
会談の場でも、相手の目線が「講和整理」ではなく「地球側権限の確保」へ寄り始める。
「……早いな」
ギレンは文書を閉じた。
連邦を残す判断は間違っていない。
残さなければ、他サイドはすぐに次は自分たちだと考えた。宇宙は敵で満ちたはずだ。
だが、残した器の中で、強く出ることを正しいとする流れもまた育つ。
それもまた、戦後の当然だった。
――――――
「バスクが動き始めた」
エドワウの言葉に、アムロはすぐに顔を上げた。
「やっぱりそうなるか」
短い返答だった。
名前の意味を考える時間は要らない。
エドワウは頷く。
「名前を止めても、名前に乗る流れが残るなら同じだ」
アムロは舌打ちしたい気分になった。
止めるべきだった。少なくとも、ああいう種類の人間は。
そう言いたい。だが、言い切れない。
一人消せば終わる話ではないことを、もう見せつけられているからだ。
「気に入らないな」
「知っている」
「お前、平気そうに言うな」
「平気ではない」
エドワウは静かに返した。
「だが、嫌なものを全部止められる位置にいるわけでもない」
アムロはそれ以上、言葉を続けなかった。
――――――
戦争は終わった。
だが、終わった戦争の器の中で、強く出ることを正しいとする声は、もう育ち始めていた。
戻ったのは兵一人ではない。
散っていた不満が、同じ言葉を持ち始めただけだった。