妹に撃たれない方法   作:Brooks

144 / 226
第144話 M.A.G.E.

 

 

受領基地の空気は重かった。

 

油と消毒液の匂いに、疲れ切った兵の汗が混じる。死地から戻った人間の匂いではない。負けたまま生き残り、その事実をまだ飲み込めずに並んでいる人間たちの匂いだった。

 

ジャマイカン・ダニンガンは、その列の先を見ていた。

 

戻って来る捕虜たちの中に、見慣れた顔がある。

 

バスク・オムは痩せていた。頬が少し落ち、軍服も今の連邦士官のものではない。だが目だけは変わっていない。押し切る時の目だ。捕虜として戻った男の目ではなく、押し戻されただけだとまだ腹の底で言っている男の目だった。

 

ジャマイカンは一歩前へ出て、敬礼した。

 

「お待ちしておりました、少佐」

 

バスクは足を止めた。

 

「丁寧だな、ジャマイカン」

 

「お会いになりたい方がおられます」

 

それだけだった。

 

労いも、同情も、慰めもない。今必要なのはそういうものではないと、ジャマイカンは分かっていた。

 

バスクは受領棟の中を一瞥した。疲れた兵。顔色の悪い文官。書類を抱えて走る実務官。宇宙を失った側の空気が、壁の白さまでくすませて見える。

 

「……終わっていないな」

 

独り言のような声だった。

 

ジャマイカンは返さない。

 

ただ、少しだけ歩調を緩めた。それで十分だった。

 

――――――

 

ジャミトフ・ハイマンの部屋は、執務室にしては静かすぎた。

 

机の上に余計な書類の山はない。壁際の棚にも、必要な物しか置かれていない。整いすぎている。順番を間違えることそのものを嫌う人間の部屋だと、バスクは一目で分かった。

 

ジャマイカンが先に扉を開き、脇へ退く。

 

「バスク少佐をお連れしました」

 

ジャミトフは椅子に深く座ったまま、二人を見た。

 

「入れ」

 

声は低く、短い。

 

バスクは一歩進み、敬礼した。ジャマイカンはその後ろで姿勢を正したまま動かない。

 

「戻ったか」

 

バスクは敬礼を下ろした。

 

「戻された、です」

 

ジャミトフの口元がわずかに動く。

 

「違いが分かっているならいい」

 

机の上の紙を閉じ、ジャミトフは言った。

 

「今は立つな」

 

最初の言葉がそれだった。

 

バスクの眉がわずかに動く。

 

ジャミトフは続ける。

 

「政府はまだ講和の形を壊していない。軍も割れ切っていない。ここで露骨に動けば、強硬派はまとめて潰される」

 

「今は波が来るのを待て」

 

バスクは鼻で笑うような息を漏らした。

 

「待っている間に、敗北が形になります」

 

ジャミトフは即答した。

 

「そうだ」

 

そこで一拍置く。

 

「だから、散ったままの不満を今使うなと言っている」

 

部屋の温度が少し下がったように感じた。

 

ジャミトフは机の上で指を二度だけ鳴らした。

 

「怒りはある。不満もある。だが、まだ散っている」

 

「散っている不満は潰しやすい。まとまった不満は使える」

 

「旗を立てるのはその後だ」

 

言葉に熱がない。だからこそ、その中にある計算がよく見えた。

 

バスクはこの男が嫌いではなかった。感情で喚かないからだ。だが、待てという言葉だけは気に入らない。待っていれば自然に来る波など、負けた側にはない。あるのは静かに固まっていく敗北だけだ。

 

ジャミトフは視線を上げた。

 

「焦るな、少佐」

 

バスクは短く返した。

 

「努力します」

 

従順さの言葉ではないことは、ジャマイカンにも分かった。

 

ジャミトフはその返答を追わなかった。

 

「以上だ」

 

命令としての終わり方だった。

 

バスクはもう一度敬礼し、半歩下がる。ジャマイカンもそれに合わせて身を引いた。

 

――――――

 

廊下へ出ると、ジャマイカンが一歩後ろについて歩いた。

 

しばらく黙っていたが、先に口を開いたのはバスクだった。

 

「今の軍の空気はどうだ」

 

「良くありません」

 

ジャマイカンは即答した。

 

「再編詰所は荒れています。講和整理、縮小、配置転換……紙だけは早い。現場は誰も納得していません」

 

「議員は」

 

「乗りたがっています」

 

「企業は」

 

「金の匂いを嗅いでいます」

 

バスクはそこで足を止めた。

 

窓の外では、輸送車両が帰還兵の仮設詰所へ向かっていく。形だけ整っている。だが、あれは秩序ではない。散る前に並べ直されているだけだ。

 

「言葉を欲しがっているな」

 

ジャマイカンは頷く。

 

「多いです」

 

波を待て。

 

ジャミトフの言葉を、バスクは一度だけ心の中で繰り返した。

 

待つのではない。

 

作る。

 

「会わせろ」

 

ジャマイカンは即座に姿勢を正した。

 

「誰に、でありますか」

 

「欲しがってる連中だ」

 

「了解しました」

 

バスクは歩き出した。

 

最初に必要なのは旗ではない。散っている怒りに同じ向きを与える言葉だ。それだけあれば、人は勝手に集まり始める。

 

ジャマイカンは後ろから、その背を見た。

 

上にジャミトフがいる。下に自分がいる。その間に立つこの男は、上の命令に従う形を取りながら、現場の空気を自分の方へ曲げていく。そういう厄介さを、ジャマイカンは昔から知っていた。

 

――――――

 

数カ月後。

 

――――――

 

最初に変わったのは、言葉の並び方だった。

 

それまでは別々に語られていたものが、いつの間にか同じ文脈で並ぶようになる。

 

地球防衛再建。

 

治安回復。

 

講和見直し。

 

宇宙喪失の責任追及。

 

地球の軍関係者を呼んだ小委員会で、その議員は穏やかな顔をしていた。押しの強い男ではない。思想で人を引っ張る種類でもない。だが、いまどの言葉が票になり、どの怒りが金になるかを嗅ぎ分ける鼻は良かった。

 

記者たちが身を乗り出す。

 

軍服の人間も何人か席についている。

 

議員は資料をめくりながら言った。

 

「宇宙を失ったのは事実です」

 

そこで一拍置く。

 

「しかし、地球まで弱くなる必要はありません」

 

記者のペンが走る。

 

「我々にはまだ地球を守る責任がある」

 

さらに一歩進める。

 

「必要なのは、敗北の整理ではない。防衛の再建です」

 

そこで初めて、その言葉が出た。

 

「Make Again Great Earth!!(強い地球よ、もう一度)」

 

歓声はない。

 

だが、反論もない。

 

軍服の男が一人、顔を上げる。傍聴席の後援会関係者が、その言葉を持ち帰る顔をする。記者は見出しの形を頭の中で組み始める。

 

議員本人は、自分が煽っているつもりはない。

 

正論のつもりだった。

 

だから厄介だった。

 

――――――

 

同じ頃、敗残兵の再編詰所では、別の言い方で同じ空気が広がっていた。

 

「終戦だと?」

 

バスクは椅子に浅く腰掛けたまま言った。

 

「違うな。押し戻されただけだ」

 

向かいにいた士官たちが黙る。

 

治安部隊の中佐。補給を握る少将補佐官。宇宙帰還兵の管理に回された実務将校。表向きは誰も政府方針に逆らっていない。だが、腹の中は別だった。

 

バスクは続ける。

 

「宇宙を失ったからこそ、地球は締める」

 

「政府が机で残す秩序を、現場は地面で作る」

 

「弱い政府の下で弱い軍になるな」

 

拍手は起きない。

 

だが、何人かが顔を上げる。

 

それで十分だった。

 

自分の怒りを、自分より少しだけ強い言葉で言ってくれる人間がいれば、不満は沈んだままではいられなくなる。

 

バスクの左後ろに控えたジャマイカンは、会うべき人間を選び、会わせる順番を決めていた。どの基地司令を同席させ、どの議員と同じ席に座らせ、どの企業人にどこまで聞かせるか。人の動かし方を、彼はよく知っていた。

 

バスクが言葉を置き、ジャマイカンが場を整える。

 

その関係は、会議の席でも崩れない。

 

「次は誰だ」

 

バスクが低く聞く。

 

ジャマイカンはすぐに答えた。

 

「西部基地の警備司令と、下院の軍務小委員の秘書官であります」

 

「順番は」

 

「先に司令です。軍の顔がついてから議員を入れた方がまとまります」

 

バスクは短く頷いた。

 

「そうしろ」

 

ジャマイカンは敬礼で応じた。

 

「はっ」

 

――――――

 

軍需企業の会合では、もっと露骨だった。

 

ただし露骨なのは本音であって、表向きの言い方ではない。

 

机の上には、新型警備車両の試算表、基地再整備資材の見積もり、暴徒鎮圧装備の供給計画、監視通信機器の更新案が並んでいる。

 

「戦争ではありません」

 

担当者が言う。

 

「再建需要です」

 

別の役員が頷く。

 

「地球防衛の見直しにともなう当然の動きです」

 

全員がそう言う。

 

全員、自分は穏健なつもりでいる。

 

だが彼らが賭けているのは、一つの流れだった。

 

弱い地球ではなく、強い地球。

 

治安を強くし、防衛を厚くし、軍に予算を戻す地球。

 

その方が金になる。

 

その方が物が動く。

 

その方が、バスクのような男の周囲に現実がつく。

 

言葉だけでは流れにならない。

 

金と物がついた瞬間、それは政策の顔をし始める。

 

その会合の末席にジャマイカンがいた。

 

表に出るのは企業人と議員だ。バスクは前へ出ない。だが、その場で何を聞き、どこへ持ち帰るかを決める目は、ずっと動いている。

 

会合が終わり、廊下へ出たところでジャマイカンは短く報告した。

 

「警備車両は二社が前向きです。監視通信は一社が地球防衛名目なら出すと」

 

バスクは歩きながら聞いていた。

 

「条件は」

 

「治安再建を政府委員会で先に通すことだそうです」

 

「通る」

 

「はい」

 

ジャマイカンは一歩遅れて続ける。

 

「議員の方も、軍の後ろ盾が見えれば前へ出るでしょう」

 

バスクは振り返らない。

 

「見せてやれ」

 

「了解しました」

 

ジャマイカンはまた敬礼した。

 

この男の前では、それが自然だった。

 

――――――

 

コリニーは演説を好む男ではなかった。

 

だからこそ、その一言には重みがあった。

 

軍再建会議の席で、ジーン・コリニーは簡潔に言った。

 

「政府の決定には従う」

 

そこまでは誰もが聞き流せる。

 

だが次が違った。

 

「だが、地球の防衛と治安を緩める理由にはならない」

 

その一言で、会議室の空気が変わる。

 

バスクのように熱はない。あの議員のように調子も良くない。だからこそ、正統に見える。

 

ジャミトフはその横で黙っていた。

 

手元の資料へ目を落とすだけで、口は挟まない。

 

地球圏防衛再編。

 

非常時警備強化。

 

帰還兵管理。

 

宇宙系住民の登録見直し。

 

言葉はもう揃った。

 

空気も揃い始めている。

 

後は、それを制度にするだけだった。

 

ジャミトフはそこでようやく、ほんの少しだけ満足した顔をした。

 

待てと言った波は、たしかに来た。

 

いや、来たのではない。

 

来るように並べられた。

 

バスクが現場の熱を束ね、議員が言葉を広げ、企業が物をつけた。コリニーは秩序のつもりで、その流れに正統性を与えた。

 

これで十分だった。

 

――――――

 

下院議員選挙は終わった。

 

「M.A.G.E.」を掲げた議員たちは、正面から継戦を叫んだわけではない。だが、講和見直し、治安再建、地球防衛強化を訴えた候補が、予想以上に議席を伸ばした。

 

新聞はそれを民意と書いた。

 

軍はそれを支持と受け取った。

 

企業はそれを需要と読んだ。

 

地球では、敗北の整理より先に、強く出ることを望む空気が議場の中へ入り始めていた。

 

バスクはその結果を静かに見ていた。

 

勝ったとは思わない。

 

まだ始まっただけだ。

 

だが、散っていた不満はもう同じ言葉を持ち始めている。

 

ジャマイカンが一歩後ろから言う。

 

「議会内の連携は、もうしばらく緩いでしょう」

 

「分かっている」

 

「ですが、軍務と治安の委員会は押さえられます」

 

バスクは短く頷いた。

 

「そこからでいい」

 

ジャマイカンは敬礼した。

 

「はっ」

 

――――――

 

ギレンに見えるのは、その結果だけだった。

 

連邦側の返答文に「地球防衛」の語が増える。

 

「治安再建」が前に出る。

 

送還窓口に治安系統の人間が顔を出す。

 

発注内容が、補修より警備寄りに変わる。

 

会談の場でも、相手の目線が「講和整理」ではなく「地球側権限の確保」へ寄り始める。

 

「……早いな」

 

ギレンは文書を閉じた。

 

連邦を残す判断は間違っていない。

 

残さなければ、他サイドはすぐに次は自分たちだと考えた。宇宙は敵で満ちたはずだ。

 

だが、残した器の中で、強く出ることを正しいとする流れもまた育つ。

 

それもまた、戦後の当然だった。

 

――――――

 

「バスクが動き始めた」

 

エドワウの言葉に、アムロはすぐに顔を上げた。

 

「やっぱりそうなるか」

 

短い返答だった。

 

名前の意味を考える時間は要らない。

 

エドワウは頷く。

 

「名前を止めても、名前に乗る流れが残るなら同じだ」

 

アムロは舌打ちしたい気分になった。

 

止めるべきだった。少なくとも、ああいう種類の人間は。

 

そう言いたい。だが、言い切れない。

 

一人消せば終わる話ではないことを、もう見せつけられているからだ。

 

「気に入らないな」

 

「知っている」

 

「お前、平気そうに言うな」

 

「平気ではない」

 

エドワウは静かに返した。

 

「だが、嫌なものを全部止められる位置にいるわけでもない」

 

アムロはそれ以上、言葉を続けなかった。

 

――――――

 

戦争は終わった。

 

だが、終わった戦争の器の中で、強く出ることを正しいとする声は、もう育ち始めていた。

 

戻ったのは兵一人ではない。

 

散っていた不満が、同じ言葉を持ち始めただけだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。