妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第146話 答えを持たない問い

 

 

サイド7の入域港は、民間港にしては妙に流れがよかった。

 

荷は止まらず、人も溜まらない。通路の幅、搬送車両の寄せ方、係員の視線の配り方まで、どこにも引っかかりがない。軍港の荒さとも、商港の雑さとも違う。必要なものだけを、必要な場所へ吸い込んでいくような整い方だった。

 

ランバ・ラル中佐は、娘を抱いたクラウレの歩調に合わせながら、その空気を静かに見ていた。

 

表向きは家族旅行。

 

そういう形で来た。

 

だが、自分たちが本当にただの旅客として通されるとは、最初から思っていない。

 

シアーシャは長旅で少し機嫌を崩していたが、母の肩に頬を押しつけたまま、見慣れぬ港の灯を半分眠そうな目で見ていた。クラウレは娘の背を軽く叩きながら、夫の横顔を見た。

 

「見ておいでですか」

 

「ああ」

 

ラルは短く答えた。

 

「手際が良すぎる」

 

入域の列は、彼らの前までは普通に進んでいた。身元確認、荷の申告、滞在先の申請。どこにでもある流れだ。

 

だがラル一家の番になると、係官は端末を見たあと、表情を変えぬまま別の係へ小さく合図を送った。

 

あからさまではない。

 

だからこそ分かる。

 

見ている。

 

立場を思えば当然だった。ラルは何も言わない。

 

その時、荷札の隅に小さな黒猫の印が見えた。

 

細い尻尾を立てて歩く黒猫。

 

その横に流れる文字。

 

黒猫ルシファー。

 

ラルの視線が、ほんのわずかに止まる。

 

クラウレも気づいたのだろう。娘を抱く腕に力は入れぬまま、息だけが少し浅くなった。

 

商会の名として見れば、それで終わる。

 

だが二人にはそこで終わらなかった。

 

アルテイシアの猫の名だ。

 

泣きそうな顔で、小さな黒猫を抱いていた少女の姿が一瞬だけ胸の内によみがえる。

 

遠くまで来たものだと、ラルは思った。

 

あの名が、いまは人と荷を動かす器の名になっている。

 

係員が近づき、丁寧に言う。

 

「少々お待ちください。お迎えが参ります」

 

「承知した」

 

ラルはそれ以上問わない。

 

ほどなくして、人の流れの向こうから一人の女がこちらへ歩いてきた。

 

明るい色の上着。無理に飾らない髪。歩き方は静かだが、ためらいがない。

 

ラルはその顔を見て、一歩だけ身を引いた。

 

クラウレの唇が、ほんの少し開く。

 

「……アルテイシア様」

 

歩いてきた女の表情が、その呼び声で一瞬だけ変わった。

 

サイド7の顔として整えていたものが、幼い頃の記憶へ触れられた娘の顔に戻る。

 

「クラウレさん」

 

その短い呼び返しだけで十分だった。

 

セイラはすぐにシアーシャへ目を向けた。

 

「お疲れでしょう。お部屋を用意してあります」

 

クラウレの腕の中の娘を、無遠慮でなく、それでいて慣れた目で見る。

 

「まずはお休みになってください」

 

「ありがとうございます」

 

クラウレの声が少しだけ和らぐ。

 

ラルはセイラへ礼をした。

 

「お手数をおかけします、アルテイシア様」

 

セイラは首を横に振った。

 

「来てくださって嬉しいです」

 

その言い方は、歓迎の言葉であると同時に、この場所の受け手として立つ人間のものでもあった。

 

かつて守られる側だった少女は、もういない。

 

ラルはそれを見て、胸の内で静かにうなずいた。

 

――――――

 

通された客間は、豪奢ではないが、不思議と落ち着いた。

 

椅子の高さ、卓の位置、子どもを寝かせるための小さな寝台の置き方、給仕が入る間合いまで、どこにも無理がない。飾りより先に、人がどう動くかを考えて作られている部屋だった。

 

「どうぞ、お楽に」

 

セイラが言う。

 

ラルは一礼して席についた。

 

シアーシャは寝台に寝かされると、最初だけ少し身じろぎし、それからすぐに眠った。クラウレが毛布をそっと掛ける。セイラはその様子を少し離れたところから見守っていた。

 

すぐに本題へは入らない。

 

旅の話。

 

港の混み具合。

 

娘が道中では思ったより泣かなかったこと。

 

サイド7の空気が、他のコロニーより少し乾いていること。

 

その程度の平らな言葉が、今は必要だった。

 

ラルは卓の上の茶器を見ていた。

 

茶を出す者の手が早い。

 

扉の向こうの気配が薄い。

 

外からの物音がここまで届かない。

 

部屋の外で何人が動いているか、おおよそ読める。

 

黒猫ルシファーは、ただ荷を運ぶだけの器ではない。

 

人を休ませ、会うべき者を会わせ、見せるべきものだけを見せる。

 

その手際が、ここにはある。

 

「よく整っておりますな」

 

ラルの一言に、セイラは少しだけ笑った。

 

「助けてくださる方が多いものですから」

 

見れば分かることは、言いすぎない。

 

それでよかった。

 

クラウレは寝台の脇に座り、眠る娘の額へ手をやった。セイラはそれを見てから、静かに立ち上がる。

 

「兄さんに知らせます」

 

ラルは小さくうなずいた。

 

「お願いいたします」

 

――――――

 

キャスバルが現れた時、部屋の空気はもう整っていた。

 

急いで呼び出された者の気配ではない。迎える側も迎えられる側も、今から何が交わされるかを知った上で座れるだけの間が、すでに流れていた。

 

ラルは立ち上がる。

 

「キャスバル様」

 

クラウレも続く。

 

「キャスバル様」

 

キャスバルは二人へ視線を向け、短くうなずいた。

 

「ラル中佐。クラウレさん」

 

セイラは少し下がった位置に立つ。ここからは自分が前へ出る場ではないと分かっている。だが、完全には外れない。兄の表情を、ラルの呼吸を、クラウレの視線を、全部見ている。

 

しばらくは近況だけが交わされた。

 

娘が無事に育っていること。

 

旅の疲れが大きくなかったこと。

 

サイド7の居住区が思っていたより穏やかだったこと。

 

その程度で十分だった。

 

やがてラルが、静かに卓へ手を置く。

 

「今宵参ったのは、旅のついでというだけではございません」

 

キャスバルは黙ってうなずく。

 

ラルは続けた。

 

「連邦はいずれ、こちらへ手を伸ばして参りましょう」

 

「地球を失わぬためにも、宇宙を取り返すためにも、そのつもりでしょう」

 

部屋の空気が少しだけ締まる。

 

「その時、こちらは迎え撃たねばなりません」

 

「だが、そこで旗が割れれば、向こうを利することになる」

 

ラルの声は低い。穏やかだが、曖昧ではない。

 

「それゆえ、お伺いしたいのです」

 

少し間を置く。

 

「キャスバル様は、その時どうなさるおつもりか」

 

さらに一拍。

 

「……いや、こちらに何をお望みか」

 

言い直したその一言が、卓の上へ静かに落ちた。

 

命令ではない。

 

探りでもない。

 

意向を問うている。

 

それが分かるからこそ重い。

 

キャスバルはすぐには答えなかった。

 

指先が膝の上で一度だけ動く。

 

視線は卓の木目に落ち、それからラルへ戻る。

 

沈黙が長くなっても、ラルは動かなかった。

 

急かさない。

 

詰めない。

 

それが礼だと知っているからだ。

 

ようやくキャスバルが口を開く。

 

「……今は、答えを持っていない」

 

ラルは黙って聞く。

 

「どうしたいのかと聞かれても、まだ言い切れる形にはなっていない」

 

そこで一度、言葉が止まる。

 

「軽々しく決めれば、それだけ多くを巻き込む」

 

それ以上は続かない。

 

ラルはそれで十分だと受け取った。

 

「承知しました」

 

声は低く、落ち着いている。

 

「お考えの後に、お聞かせ願えれば、それで足ります」

 

キャスバルは短くうなずく。

 

「ああ」

 

ラルはそれ以上踏み込まなかった。

 

クラウレもまた何も挟まない。

 

二人は席を外すべき時だと分かっていた。

 

「シアーシャの様子を見て参ります」

 

クラウレが静かに言う。

 

ラルも立つ。

 

「少し外します」

 

二人が部屋を出る。

 

扉が静かに閉まり、ようやく兄妹だけの空気が残った。

 

――――――

 

セイラは、兄の横顔を見た。

 

「そんなに重いのね」

 

問い詰める声ではない。確認に近い。

 

キャスバルは苦く笑う。

 

「軽い問いなら、もう答えてる」

 

セイラは卓の縁に指を置いた。

 

「ギレンだから?」

 

「それだけじゃない」

 

返事は早い。

 

「答えを返した瞬間、向こうはそれを前提に動く。黙っていれば自由は残る。だが黙れば、向こうは向こうの都合で決める」

 

セイラは少し考えてから言う。

 

「じゃあ、何をしたいかじゃなくて」

 

兄は目を向ける。

 

「何をされたくないかから考えればいい」

 

その言葉は単純だった。

 

単純だからこそ、まっすぐ入ってくる。

 

キャスバルは目を伏せた。

 

何をしたいか。

 

それを言うには、見てきたものが多すぎた。

 

だが、何を繰り返したくないかなら、すでにいくつもある。

 

――――――

 

ラル一家が来ていると知った時、アムロはすぐには動けなかった。

 

名前だけで足が止まる。

 

ランバ・ラル。

 

クラウレ・ハモン。

 

頭の中に先に来るのは、サイド7の今ではない。

 

ホワイトベース艦内の、あの最後の風景だ。

 

追い詰められても降らず、自分の死に方を自分で決めた大人の軍人。

 

その死のあとも前へ出た女。

 

今のラルとクラウレが、その記憶を持っているわけではない。

 

持っているのは自分だけだ。

 

それでも、名前を聞いただけで胸の奥がざわつく。

 

やがて廊下で顔を合わせる。

 

アムロは立ち止まったまま、何も言えない。

 

ラルはその若者の妙な硬さに気づいたが、意味づけはしない。ただ客として静かに会釈した。

 

クラウレもまた、娘を抱いたまま軽く頭を下げる。

 

その普通さが、アムロにはかえってきつかった。

 

目の前にいるのは、戦場の最後の姿ではない。

 

今を生きている人間だ。

 

それでも胸の中では、まだ爆音が続いている。

 

アムロはようやく、ぎこちなく一礼した。

 

それだけで精一杯だった。

 

ラルもクラウレも、それ以上は何も言わない。

 

若い家人が、何か事情を抱えている。

 

その程度に受け取るだけで十分だった。

 

――――――

 

その後、アムロはキャスバルを見つけるなり、声を潜めた。

 

「……ギレン絡みか」

 

キャスバルは否定しない。

 

「どうしてほしいのか、と聞かれた」

 

アムロは壁にもたれたまま、しばらく黙る。

 

それから短く言う。

 

「好きにやらせるな」

 

キャスバルが横目で見る。

 

アムロは続けた。

 

「もう、人を兵器みたいに使うのはやめろ」

 

「勝ったあとで、また締めつけるのもだ」

 

「強いやつ一人に全部押しつけるのも、もう御免だ」

 

言葉は荒い。

 

だがそこにあるのは思想ではなく実感だった。

 

奇跡にすがること。

 

英雄に背負わせること。

 

勝った側が、また別の支配者になること。

 

その全部を、アムロはもう見たくなかった。

 

キャスバルは少しだけ目を伏せる。

 

「……“どうするか”じゃなく、“何をやらせないか”か」

 

アムロは肩をすくめた。

 

「俺に分かるのは、それくらいだ」

 

「それで十分だ」

 

キャスバルは静かに言った。

 

――――――

 

夜は更けていた。

 

ラルたちは休み、シアーシャの寝息も安定している。

 

セイラももう下がり、部屋にはキャスバル一人だけが残っていた。

 

窓の向こうにサイド7の灯が並ぶ。

 

整った灯だ。

 

だが整っているだけでは足りない。

 

器が要る。

 

人と物と権利と退路を受け止める器が。

 

あの時読み取ったフル・フロンタルの記憶。

遠い熱のようによみがえる。

 

連邦は負けても終わらない。

 

勝った側が別の中央集権を作れば、同じ病を繰り返す。

 

理想だけでは足りない。

 

正統性だけでも足りない。

 

箱だけあっても足りない。

 

必要なのは、それらを受け止める器だ。

 

そして、勝った側がまた別の連邦になることだけは、認められない。

 

キャスバルは目を閉じた。

 

味方になるか、敵になるか。

 

そんな返し方では足りない。

 

返すべきなのは、何をしてほしいかではない。

 

何を、繰り返させないかだ。

 

戦後粛清をしないこと。

 

力のある者を次の戦のための道具にしないこと。

 

勝った側がまた別の中央になることを許さないこと。

 

言葉の骨だけは、ようやく立ち始めていた。

 

――――――

 

翌朝、ラルは出立前にもう一度キャスバルと向き合った。

 

長いやり取りは要らない。

 

問いはすでに届いている。

 

キャスバルは卓の上の封書を手に取った。

 

「昨夜の問いだが……今も答えそのものは持っていない」

 

ラルは黙って聞く。

 

「ただ、加われない形ならある」

 

キャスバルは封書を差し出した。

 

「俺の考えがどこにあるかは、これで分かるはずだ」

 

ラルは両手で受け取った。

 

すぐには開かない。

 

ここで読むものではないと分かっているからだ。

 

「総帥へお届けします」

 

「頼む」

 

それだけだった。

 

今はまだ、互いに言い切らない。

 

だが曖昧なままでもない。

 

紙に落とした時点で、それはもう次の一手になっている。

 

ラルは封書を懐へ収め、一礼した。

 

「また伺います」

 

キャスバルは短くうなずく。

 

「ああ」

 

ラルが去ったあと、部屋には静けさだけが残った。

 

答えは、まだできていない。

 

だが、どこへ向けて作るべきかだけは、ようやく見え始めていた。

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