サイド7の入域港は、民間港にしては妙に流れがよかった。
荷は止まらず、人も溜まらない。通路の幅、搬送車両の寄せ方、係員の視線の配り方まで、どこにも引っかかりがない。軍港の荒さとも、商港の雑さとも違う。必要なものだけを、必要な場所へ吸い込んでいくような整い方だった。
ランバ・ラル中佐は、娘を抱いたクラウレの歩調に合わせながら、その空気を静かに見ていた。
表向きは家族旅行。
そういう形で来た。
だが、自分たちが本当にただの旅客として通されるとは、最初から思っていない。
シアーシャは長旅で少し機嫌を崩していたが、母の肩に頬を押しつけたまま、見慣れぬ港の灯を半分眠そうな目で見ていた。クラウレは娘の背を軽く叩きながら、夫の横顔を見た。
「見ておいでですか」
「ああ」
ラルは短く答えた。
「手際が良すぎる」
入域の列は、彼らの前までは普通に進んでいた。身元確認、荷の申告、滞在先の申請。どこにでもある流れだ。
だがラル一家の番になると、係官は端末を見たあと、表情を変えぬまま別の係へ小さく合図を送った。
あからさまではない。
だからこそ分かる。
見ている。
立場を思えば当然だった。ラルは何も言わない。
その時、荷札の隅に小さな黒猫の印が見えた。
細い尻尾を立てて歩く黒猫。
その横に流れる文字。
黒猫ルシファー。
ラルの視線が、ほんのわずかに止まる。
クラウレも気づいたのだろう。娘を抱く腕に力は入れぬまま、息だけが少し浅くなった。
商会の名として見れば、それで終わる。
だが二人にはそこで終わらなかった。
アルテイシアの猫の名だ。
泣きそうな顔で、小さな黒猫を抱いていた少女の姿が一瞬だけ胸の内によみがえる。
遠くまで来たものだと、ラルは思った。
あの名が、いまは人と荷を動かす器の名になっている。
係員が近づき、丁寧に言う。
「少々お待ちください。お迎えが参ります」
「承知した」
ラルはそれ以上問わない。
ほどなくして、人の流れの向こうから一人の女がこちらへ歩いてきた。
明るい色の上着。無理に飾らない髪。歩き方は静かだが、ためらいがない。
ラルはその顔を見て、一歩だけ身を引いた。
クラウレの唇が、ほんの少し開く。
「……アルテイシア様」
歩いてきた女の表情が、その呼び声で一瞬だけ変わった。
サイド7の顔として整えていたものが、幼い頃の記憶へ触れられた娘の顔に戻る。
「クラウレさん」
その短い呼び返しだけで十分だった。
セイラはすぐにシアーシャへ目を向けた。
「お疲れでしょう。お部屋を用意してあります」
クラウレの腕の中の娘を、無遠慮でなく、それでいて慣れた目で見る。
「まずはお休みになってください」
「ありがとうございます」
クラウレの声が少しだけ和らぐ。
ラルはセイラへ礼をした。
「お手数をおかけします、アルテイシア様」
セイラは首を横に振った。
「来てくださって嬉しいです」
その言い方は、歓迎の言葉であると同時に、この場所の受け手として立つ人間のものでもあった。
かつて守られる側だった少女は、もういない。
ラルはそれを見て、胸の内で静かにうなずいた。
――――――
通された客間は、豪奢ではないが、不思議と落ち着いた。
椅子の高さ、卓の位置、子どもを寝かせるための小さな寝台の置き方、給仕が入る間合いまで、どこにも無理がない。飾りより先に、人がどう動くかを考えて作られている部屋だった。
「どうぞ、お楽に」
セイラが言う。
ラルは一礼して席についた。
シアーシャは寝台に寝かされると、最初だけ少し身じろぎし、それからすぐに眠った。クラウレが毛布をそっと掛ける。セイラはその様子を少し離れたところから見守っていた。
すぐに本題へは入らない。
旅の話。
港の混み具合。
娘が道中では思ったより泣かなかったこと。
サイド7の空気が、他のコロニーより少し乾いていること。
その程度の平らな言葉が、今は必要だった。
ラルは卓の上の茶器を見ていた。
茶を出す者の手が早い。
扉の向こうの気配が薄い。
外からの物音がここまで届かない。
部屋の外で何人が動いているか、おおよそ読める。
黒猫ルシファーは、ただ荷を運ぶだけの器ではない。
人を休ませ、会うべき者を会わせ、見せるべきものだけを見せる。
その手際が、ここにはある。
「よく整っておりますな」
ラルの一言に、セイラは少しだけ笑った。
「助けてくださる方が多いものですから」
見れば分かることは、言いすぎない。
それでよかった。
クラウレは寝台の脇に座り、眠る娘の額へ手をやった。セイラはそれを見てから、静かに立ち上がる。
「兄さんに知らせます」
ラルは小さくうなずいた。
「お願いいたします」
――――――
キャスバルが現れた時、部屋の空気はもう整っていた。
急いで呼び出された者の気配ではない。迎える側も迎えられる側も、今から何が交わされるかを知った上で座れるだけの間が、すでに流れていた。
ラルは立ち上がる。
「キャスバル様」
クラウレも続く。
「キャスバル様」
キャスバルは二人へ視線を向け、短くうなずいた。
「ラル中佐。クラウレさん」
セイラは少し下がった位置に立つ。ここからは自分が前へ出る場ではないと分かっている。だが、完全には外れない。兄の表情を、ラルの呼吸を、クラウレの視線を、全部見ている。
しばらくは近況だけが交わされた。
娘が無事に育っていること。
旅の疲れが大きくなかったこと。
サイド7の居住区が思っていたより穏やかだったこと。
その程度で十分だった。
やがてラルが、静かに卓へ手を置く。
「今宵参ったのは、旅のついでというだけではございません」
キャスバルは黙ってうなずく。
ラルは続けた。
「連邦はいずれ、こちらへ手を伸ばして参りましょう」
「地球を失わぬためにも、宇宙を取り返すためにも、そのつもりでしょう」
部屋の空気が少しだけ締まる。
「その時、こちらは迎え撃たねばなりません」
「だが、そこで旗が割れれば、向こうを利することになる」
ラルの声は低い。穏やかだが、曖昧ではない。
「それゆえ、お伺いしたいのです」
少し間を置く。
「キャスバル様は、その時どうなさるおつもりか」
さらに一拍。
「……いや、こちらに何をお望みか」
言い直したその一言が、卓の上へ静かに落ちた。
命令ではない。
探りでもない。
意向を問うている。
それが分かるからこそ重い。
キャスバルはすぐには答えなかった。
指先が膝の上で一度だけ動く。
視線は卓の木目に落ち、それからラルへ戻る。
沈黙が長くなっても、ラルは動かなかった。
急かさない。
詰めない。
それが礼だと知っているからだ。
ようやくキャスバルが口を開く。
「……今は、答えを持っていない」
ラルは黙って聞く。
「どうしたいのかと聞かれても、まだ言い切れる形にはなっていない」
そこで一度、言葉が止まる。
「軽々しく決めれば、それだけ多くを巻き込む」
それ以上は続かない。
ラルはそれで十分だと受け取った。
「承知しました」
声は低く、落ち着いている。
「お考えの後に、お聞かせ願えれば、それで足ります」
キャスバルは短くうなずく。
「ああ」
ラルはそれ以上踏み込まなかった。
クラウレもまた何も挟まない。
二人は席を外すべき時だと分かっていた。
「シアーシャの様子を見て参ります」
クラウレが静かに言う。
ラルも立つ。
「少し外します」
二人が部屋を出る。
扉が静かに閉まり、ようやく兄妹だけの空気が残った。
――――――
セイラは、兄の横顔を見た。
「そんなに重いのね」
問い詰める声ではない。確認に近い。
キャスバルは苦く笑う。
「軽い問いなら、もう答えてる」
セイラは卓の縁に指を置いた。
「ギレンだから?」
「それだけじゃない」
返事は早い。
「答えを返した瞬間、向こうはそれを前提に動く。黙っていれば自由は残る。だが黙れば、向こうは向こうの都合で決める」
セイラは少し考えてから言う。
「じゃあ、何をしたいかじゃなくて」
兄は目を向ける。
「何をされたくないかから考えればいい」
その言葉は単純だった。
単純だからこそ、まっすぐ入ってくる。
キャスバルは目を伏せた。
何をしたいか。
それを言うには、見てきたものが多すぎた。
だが、何を繰り返したくないかなら、すでにいくつもある。
――――――
ラル一家が来ていると知った時、アムロはすぐには動けなかった。
名前だけで足が止まる。
ランバ・ラル。
クラウレ・ハモン。
頭の中に先に来るのは、サイド7の今ではない。
ホワイトベース艦内の、あの最後の風景だ。
追い詰められても降らず、自分の死に方を自分で決めた大人の軍人。
その死のあとも前へ出た女。
今のラルとクラウレが、その記憶を持っているわけではない。
持っているのは自分だけだ。
それでも、名前を聞いただけで胸の奥がざわつく。
やがて廊下で顔を合わせる。
アムロは立ち止まったまま、何も言えない。
ラルはその若者の妙な硬さに気づいたが、意味づけはしない。ただ客として静かに会釈した。
クラウレもまた、娘を抱いたまま軽く頭を下げる。
その普通さが、アムロにはかえってきつかった。
目の前にいるのは、戦場の最後の姿ではない。
今を生きている人間だ。
それでも胸の中では、まだ爆音が続いている。
アムロはようやく、ぎこちなく一礼した。
それだけで精一杯だった。
ラルもクラウレも、それ以上は何も言わない。
若い家人が、何か事情を抱えている。
その程度に受け取るだけで十分だった。
――――――
その後、アムロはキャスバルを見つけるなり、声を潜めた。
「……ギレン絡みか」
キャスバルは否定しない。
「どうしてほしいのか、と聞かれた」
アムロは壁にもたれたまま、しばらく黙る。
それから短く言う。
「好きにやらせるな」
キャスバルが横目で見る。
アムロは続けた。
「もう、人を兵器みたいに使うのはやめろ」
「勝ったあとで、また締めつけるのもだ」
「強いやつ一人に全部押しつけるのも、もう御免だ」
言葉は荒い。
だがそこにあるのは思想ではなく実感だった。
奇跡にすがること。
英雄に背負わせること。
勝った側が、また別の支配者になること。
その全部を、アムロはもう見たくなかった。
キャスバルは少しだけ目を伏せる。
「……“どうするか”じゃなく、“何をやらせないか”か」
アムロは肩をすくめた。
「俺に分かるのは、それくらいだ」
「それで十分だ」
キャスバルは静かに言った。
――――――
夜は更けていた。
ラルたちは休み、シアーシャの寝息も安定している。
セイラももう下がり、部屋にはキャスバル一人だけが残っていた。
窓の向こうにサイド7の灯が並ぶ。
整った灯だ。
だが整っているだけでは足りない。
器が要る。
人と物と権利と退路を受け止める器が。
あの時読み取ったフル・フロンタルの記憶。
遠い熱のようによみがえる。
連邦は負けても終わらない。
勝った側が別の中央集権を作れば、同じ病を繰り返す。
理想だけでは足りない。
正統性だけでも足りない。
箱だけあっても足りない。
必要なのは、それらを受け止める器だ。
そして、勝った側がまた別の連邦になることだけは、認められない。
キャスバルは目を閉じた。
味方になるか、敵になるか。
そんな返し方では足りない。
返すべきなのは、何をしてほしいかではない。
何を、繰り返させないかだ。
戦後粛清をしないこと。
力のある者を次の戦のための道具にしないこと。
勝った側がまた別の中央になることを許さないこと。
言葉の骨だけは、ようやく立ち始めていた。
――――――
翌朝、ラルは出立前にもう一度キャスバルと向き合った。
長いやり取りは要らない。
問いはすでに届いている。
キャスバルは卓の上の封書を手に取った。
「昨夜の問いだが……今も答えそのものは持っていない」
ラルは黙って聞く。
「ただ、加われない形ならある」
キャスバルは封書を差し出した。
「俺の考えがどこにあるかは、これで分かるはずだ」
ラルは両手で受け取った。
すぐには開かない。
ここで読むものではないと分かっているからだ。
「総帥へお届けします」
「頼む」
それだけだった。
今はまだ、互いに言い切らない。
だが曖昧なままでもない。
紙に落とした時点で、それはもう次の一手になっている。
ラルは封書を懐へ収め、一礼した。
「また伺います」
キャスバルは短くうなずく。
「ああ」
ラルが去ったあと、部屋には静けさだけが残った。
答えは、まだできていない。
だが、どこへ向けて作るべきかだけは、ようやく見え始めていた。