総帥府の執務階は、いつもより少しだけ静かだった。
静かなのは人が少ないからではない。人が多いほど、足音を消すようになる場所だからだ。報告書を抱えた副官も、扉の脇で待つ伝令も、声を潜めることに慣れている。
その静けさの中を、ランバ・ラル中佐がまっすぐ歩いてきた。
旅装を解いてはいるが、まだ長旅の埃を完全には落とし切れていない。だが歩幅は乱れておらず、顔にも疲れを見せていない。総帥府の内側へ入る男の顔だった。
取次の士官が扉を開く。
「ラル中佐、入ります」
「入れ」
ギレンの声は短かった。
ラルは入室して一礼した。手には封書が一通ある。厚くはない。だが、封の紙質が妙に良い。急いで走り書きしたものではないと、机越しでも分かった。
ギレンはまずその封書を見た。
「持ち帰ったか」
「は」
ラルは封書を差し出した。
「キャスバル様より、総帥へと」
ギレンは受け取る前に、ラルの顔を一度見た。ラルは余計な含みを乗せていない。だが空手形でもないと分かる顔をしている。
「口頭では」
ラルは背筋を崩さず答えた。
「すぐの答えは持たぬ、と」
そこで一度切る。
「ただ、加われぬ形ならある、と申されました」
ギレンはそこで初めて封書へ手を伸ばした。
「中身は」
「拝見しておりません」
「そうか」
封書は重みの割に冷たかった。キャスバルが一晩かけて整えたのだろう。そういう冷たさだ。
ギレンは封を切る前に、もう一度ラルへ目を向けた。
「旅のついで、で済んだか」
ラルの口元がわずかに動く。
「家族旅行の体裁は保てました」
「体裁は、か」
「は」
「なら十分だ」
ギレンは封を切った。
「しばらく待て」
「は」
ラルは一礼して下がった。扉が閉まる。
部屋の中に紙の擦れる音だけが残った。
――――――
最初の一行で、ギレンは少しだけ眉を動かした。
恭順の文ではない。
言い訳の文でもない。
しかも、自分の立場を飾る書き方でもなかった。
短い前置きのあと、すぐ本題へ入っている。
連邦はいずれ反攻に出る。 それは避けられない。 ならば、宇宙側が戦中の勝利だけでなく、戦後の器を先に定めねばならない。
そこまで読んで、ギレンは紙を一度置いた。
器。
その言葉が妙に引っかかった。
軍事同盟の話ではない。降伏条件でもない。勝利のあとの席順を先に決めようとしている。
ギレンは続きを読む。
各サイドの自治は維持されるべきこと。 税、民政、治安の基幹は各サイドに残されるべきこと。 連合として共通に持つべきものは、対地球圏防衛、広域物流、サイド間調停の三つに限ること。
行間は広い。修辞は少ない。だが読む者に補わせる余白がきちんとある。
さらに下。
軍事と重工の核はサイド3およびサイド5。 物流、移住、技術者移送、生活循環の核はサイド6およびサイド7。 そのための民間基盤は、すでに動いているものを育てること。
ギレンの視線が、その一文で止まった。
「……動いているもの、か」
ルシファー財団だろう。
その名は紙に出ていない。だが分かる。分かるように書いてある。
ギレンはまた紙を追った。
最後の方で、さらに別の線が出てくる。
地球圏の法と金融に通じる民間基盤との接続を確保すること。 宇宙の自治を、ただの武力の結果ではなく、制度と正統性へ変えるための線を持つこと。
ギレンはそこで、紙から目を離した。
今度は眉を寄せる。
「……そこまで見ているか」
軍事ではない。
金と法だ。
連邦の内側へ通じる裏口を、すでに視野へ入れている。
ビスト。
名はない。だが、ないからこそはっきりした。
ギレンは最後まで一気に読み切った。
戦後粛清を勝利条件にしないこと。 ニュータイプを軍の専有資産としないこと。 各サイドをサイド3の従属州としないこと。 勝った側が、別の中央集権を焼き直す形にしないこと。
書簡はそこで終わっていた。
長くはない。だが、十分に重かった。
ギレンは紙を机へ置き、しばらくそのまま黙った。
これは助力の願いではない。
生き残りたい者の哀願でもない。
戦後の宇宙に、どの椅子を並べるかの設計図だ。
しかも、自分にそれを読ませた上で、飲めるかと問うている。
ギレンは椅子の背にもたれた。
面白い。
同時に、図々しい。
だが図々しいだけでは終わらない。正しい部分があるから厄介なのだ。
扉の外へ向けて短く言う。
「セシリアを呼べ」
――――――
セシリアは、呼ばれてから来るまでが早かった。
だが、早く来たことを見せる足音は立てない。扉が開き、薄い色の衣を整えたまま入ってくる。最初にギレンの顔を見て、そのあと机の上の開いた書簡へ視線が落ちた。
「ラル中佐が戻られたのですね」
「ああ」
ギレンは紙を持ち上げた。
「読むか」
セシリアは受け取り、最初の数行で表情を変えた。
驚きではない。
むしろ、腑に落ちた顔だ。
読み終えたあと、紙を閉じずに言う。
「恭順ではありませんね」
「当然だ」
「ええ」
セシリアは書簡の中段へ指を置いた。
「ですが、生存保証だけでもありません」
そこをギレンは待っていた。
「言ってみろ」
「戦後の席順を決めにきています」
室内が静かになる。
ギレンは否定しない。
セシリアはさらに続けた。
「ダイクン派を残せ、というだけならもっと単純に書けるはずです。ですがこれは違います。サイドごとの自治を前提に、先に器を置こうとしている」
「しかも、軍事と工業は我々に担わせる」
「物流と移住、域内の血流はサイド6と7で回すつもりでしょう」
ギレンは短く鼻を鳴らした。
「サイド3の覇権に、最初から楔を打っている」
「はい」
セシリアは素直に認めた。
「けれど、その楔があるからこそ、他サイドは入りやすくなる」
そこが肝だった。
サイド3が勝つ。
それだけなら、他サイドは怯える。次は自分たちが飲み込まれると思う。
だが「連合」と言い、「自治」を先に掲げ、「物流」と「法」と「金融」まで繋げて見せれば、恐れは少し鈍る。
鈍るから引き寄せられる。
ギレンは机の上を指先で一度叩いた。
「ラルを戻せ」
副官がラル中佐を再び通す。
ラルは先ほどと同じ姿勢で立った。
「中佐」
「は」
「サイド7で見たものを、紙の外で話せ」
ラルは頷いた。
「まず、アルテイシア様が家の顔として立っておられました」
ギレンは目だけで先を促す。
「客を迎え、場を整え、必要なところへ手を回す。その動きに迷いがありません。クラウレも同じ見立てでした」
「ルシファー財団は、ただの民間組織ではありません」
「人、物、情報、避難先、技術者移送……隠れ家の規模ではない」
そこでラルは一度だけ言葉を選んだ。
「キャスバル様は、勝ち方より、勝った後に残る形を見ておられる」
ギレンはその一文を黙って受けた。
ラルが私見を強く挟む男ではないことを知っている。だからこそ、この一言の重みは紙よりも大きい。
「よい」
ギレンは言った。
「下がって休め」
「は」
ラルは一礼して退出した。
扉が閉じる。
セシリアは手元の書簡へ視線を戻した。
――――――
「名は書いていませんね」
セシリアが紙面の下部へ目を落としたまま言う。
「だが、分かるようには書いてある」
「地球圏の法と金融に通じる民間基盤、ですか」
「ああ」
ギレンは短く答えた。
「ビストだろう」
セシリアは紙を畳みながら、少しだけ目を細めた。
「そこまで線を持っているなら、面倒です」
「面倒ですむなら安い」
ギレンは窓の外を見た。
ズムシティの灯は整っている。整っているからこそ、今の自分の手の中にあるものがどれほど不安定かもよく見える。
「軍事で勝つだけなら、こんな紙は要らん」
「はい」
「だが、残すなら話は別だ」
セシリアはその言葉を静かに聞いた。
ギレンがここで迷っているのは、弱気だからではない。勝利の形を読んでいるからだ。
「飲めば、総帥府の自由は減ります」
「分かっている」
「拒めば、他サイドは“次は自分たちも従属だ”と読みます」
ギレンは小さく息を吐いた。
「分かっている」
それが問題だった。
勝つだけなら拒める。
だが、宇宙を残すなら拒みきれない。
キャスバルはそこを読んで書いてきたのだ。
紙面に直接は書いていない。
それでも、書いてある。
サイド3だけでは広すぎる。 軍だけでは薄すぎる。 勝利だけでは短すぎる。
だから器を作れ、と。
しかもその器は、サイド3の玉座ではない。複数の椅子が並ぶ席順だ。
ギレンはそこで初めて、少しだけ笑った。
「ずいぶんと図の太い男になった」
セシリアは答える代わりに、別の紙を引き寄せた。
「返すなら、言葉はこちらで選ぶべきです」
「続けろ」
「“連合”はまだ早いと思います」
ギレンは頷く。
「そのまま書けば、こちらが先に縛られる」
「ですから、まずは“広域自治協定”のような柔らかい名で十分です」
「軍事、防衛、物流、移住受入。そこだけを先に接続する」
「ビストの線は、ラル中佐経由の話だけに頼らず、こちらでも別に当たるべきかと」
ギレンは机の上の書簡へ視線を戻した。
「案は採る」
「だが、言葉と順番は渡さん」
セシリアはわずかに口元を和らげた。
「はい」
それが総帥府の返し方だった。
――――――
その夜、ギレンはもう一度一人で書簡を読んだ。
昼に読んだ時より、紙が軽く見える。
軽く見えるのは中身を飲み込んだからだ。
最初は恭順ではないと分かる。
次に、生存保証要求でもないと分かる。
そして最後に、戦後の席順を決めにきたのだと届く。
順番に読めば、そうなる紙だった。
ギレンは立ち上がり、窓際へ歩いた。
ズムシティの灯が下に広がる。
勝ってから考える時代は終わる。
勝つ前に、何を残すかを決めねばならない。
そうでなければ、勝利はただ次の敗北を先送りするだけになる。
ギレンは書簡を閉じた。
これは助力の願いではない。
ダイクンの遺児が、自分へ押しつけてきた宿題だ。
だが、その宿題は必要だ。
認めたくはなくても。
机へ戻る。
ベルを鳴らす。
入ってきた副官へ、ギレンは短く命じた。
「ラル中佐はまだ休ませておけ」
「は」
「返書は今夜のうちには出さん」
副官が一礼する。
ギレンはさらに続けた。
「サイド5の再編案を持って来い」
「それから、サイド6・7の物流路の現況もだ」
副官の顔が一瞬だけ動く。
軍の話だけではないと分かったからだ。
それでも余計なことは聞かない。
「は」
扉が閉じる。
ギレンはもう一度、書簡へ手を置いた。
勝ち方ではない。
残し方だ。
そこまで読んできた相手なら、こちらもそれに応じた盤を敷かねばならない。
ズムシティの灯は変わらず、静かに並んでいた。