ラル中佐が妻のクラウレと娘のシアーシャを連れてやって来ると聞いた時、ドズルは朝から妙に機嫌がよかった。
「よし、今日はうまい物を出せ。子どもが来るなら甘い物もいるな。固い菓子は駄目だ、喉に詰まる」
使用人が慌ただしく動く横で、ゼナは静かに夫を見た。
「あなた、張り切りすぎではなくて?」
「何を言う。ラル中佐の家族が来るのだ。きちんと迎えるのは当然だろう」
そう言いながら、ドズルは鏡の前で襟を直した。
普段は軍服さえ着ていれば十分という顔をしている男が、今日は珍しく髪まで気にしている。
ゼナは小さく息をつく。
「迎えるのはよろしいですけれど、あまり大きな声を出さないでくださいまし。シアーシャちゃんはまだ小さいのでしょう」
「分かっておる。俺とて子ども相手は慣れておる」
その自信に満ちた言い方に、ゼナの目が少し細くなった。
「ミネバ相手だけで、その自信はどこから」
ドズルは答えなかった。答えない代わりに、寝台の方を見た。
乳母に抱かれたミネバが、ちょうど父の顔を見て笑ったのだ。
「見ろ」
「見ております」
「泣かぬ」
「それは、毎日見ているお父様だからです」
「同じことだ」
ゼナはそれ以上言わず、ただ口元を隠した。
その時、先触れが入った。
ラル一家が着いたらしい。
応接間には、ちょうどガルマとマレーネも来ていた。二人とも、ラル中佐夫妻が来ると聞いてわざわざ顔を出したのである。
ガルマは朝からいくらか落ち着かない様子で、姿勢ばかり正していた。尊敬するラル中佐と、その奥方であるクラウレを前に失礼があってはならない、という気負いが全身から出ている。
マレーネはそんなガルマを横で見ながら、少しだけ面白そうにしていた。
「そんなに固くなられなくても、逃げたりはなさいませんわ」
「い、いえ。ただ……」
「尊敬する方々なのですよね」
ガルマは素直にうなずいた。
「はい」
そこへ、ラルとクラウレが入ってきた。
クラウレの腕には、小さな娘が抱かれている。シアーシャは見慣れぬ部屋に大きな目を向けていたが、泣いてはいない。眠気もあるのか、母の肩に頬を預けて静かにしている。
ドズルは一歩前へ出た。
「よく来てくれた、ラル中佐」
「お招き、痛み入ります」
ラルが礼をし、クラウレも穏やかに頭を下げる。
ガルマもすぐに背筋を伸ばした。
「ラル中佐、クラウレさん。本日はお目にかかれて嬉しく思います」
「こちらこそ、ガルマ様」
クラウレが微笑むと、ガルマは少しだけ顔を明るくした。
マレーネも上品に会釈した。
「シアーシャちゃん、はじめまして」
だがシアーシャは、じっとマレーネを見てから、また母の胸元へ顔を戻した。
その様子を見て、ドズルは満を持したように言った。
「少し抱いてみてもよいか」
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。
ゼナが黙る。
ガルマが目を瞬く。
マレーネがゆっくりとドズルを見る。
ラルは顔色ひとつ変えなかったが、目だけがほんのわずかに動いた。
クラウレは一度だけ夫を見た。それからドズルへ視線を戻す。
「ええ、もちろん」
そう言って、慎重にシアーシャを差し出した。
ドズルは、大男にしては信じがたいほど慎重に腕を出した。爆薬でも受け取るような真剣さで、そっと、そっと抱き取る。
「よし」
低い声まで少し柔らかくしている。
「怖くないぞ」
シアーシャは抱き上げられたまま、じっとドズルの顔を見た。
大きい。
濃い。
傷まである。
眉も太い。
しかも嬉しそうに見つめ返してくる。
一拍。
そして。
「ふぇ……」
小さく歪んだ口が、次の瞬間には全力で開いた。
「うわああああああん!」
部屋の空気が固まる。
ドズルも固まる。
シアーシャは遠慮なく泣いた。顔を真っ赤にし、手足までばたつかせて泣いた。これ以上ないほど「いやだ」と全身で訴える泣き方だった。
「な、なぜだ!」
思わず出たドズルの大声に、シアーシャはさらに泣く。
ゼナが唇を噛む。
笑いをこらえているのが見え見えだった。
クラウレが一歩出ようとするが、ドズルは妙な意地を見せた。
「待て、まだだ。まだいける」
「兄上……」
ガルマが小さく言う。
ドズルは本気だった。
揺らし方を変える。
歩きながらあやす。
低い声で歌のようなものまで口にする。
「よ、よしよし、よーし……」
だが、シアーシャはやればやるほど泣いた。
むしろ、あやそうとする真剣さが怖いのか、どんどん声が大きくなる。
「うわあああん!」
「お、落ち着け! 俺は怖くない!」
「兄上、たぶんそれを大声で仰るのは……」
「ではどうしろと言うのだ!」
ガルマは助けようと一歩前へ出た。
「背を、こう……ゆっくり……」
ドズルは言われた通りにしてみる。
だが、巨体の手がごつごつと優しく動くほど、シアーシャは「違う」と言わんばかりに泣く。
マレーネが横で口を開いた。
「まず、そんなに近くで見つめない方がよろしいのではなくて?」
「見つめておらん!」
ドズルが反射で言い返す。
その大声で、シアーシャがまた一段大きく泣いた。
しかも、その泣き声につられたのか、今度は向こうのミネバまで「ふぇ」と顔を曇らせた。
ゼナの目が据わる。
「あなた」
低い。
とても低い。
ドズルが一瞬だけひるむ。
その間にもシアーシャは泣き続ける。
ラルは正面を向いたままだったが、肩がほんの少し揺れた。笑っているのだ。だが軍人の顔で耐えている。
クラウレも娘を取り返したいはずなのに、今のドズルの真剣さを見て、すぐには口を挟めずにいた。
マレーネが静かに一歩前へ出た。
「わたくしが抱いてもよろしいですか」
ドズルは一瞬だけ迷った。だが泣き声は止まらない。
「……頼む」
マレーネは落ち着いた手つきでシアーシャを受け取った。すると、泣き声はぴたりとは止まらないものの、さっきより少しだけ小さくなる。
「ほら、大丈夫ですわ」
穏やかな声。
細い腕。
柔らかい揺れ。
シアーシャはしゃくりあげながらも、なんとか泣き止みそうなところまで戻った。
そこへガルマが、おそるおそる近づいた。
「だ、大丈夫ですよ」
シアーシャは涙で濡れた目を上げて、ガルマの顔を見た。
止まった。
ぴたりと。
しゃくりあげるのも忘れたように、じっと見ている。
部屋がしんと静まる。
ガルマ本人が一番驚いた。
「え……」
マレーネはふっと笑う。
ゼナはとうとう顔を背けた。肩が震えている。
ドズルだけが納得していなかった。
「なぜだ」
本気の声だった。
ガルマは困りきった顔になる。
「い、いえ、私にも……」
「俺は何がいかんのだ!」
ラルはここでとうとう耐えきれず、口元を手で隠いた。笑いをこらえるのも限界らしい。
クラウレはようやく娘を受け取りながら、穏やかに言った。
「どうやら、好みがあるようでございます」
その言葉が、やわらかいのに妙に刺さる。
ドズルはまだ諦めきれない。
「ミネバは泣かんぞ」
すると、タイミングよくミネバが父を見てにこっと笑った。
ドズルの顔に希望が戻る。
「ほら見ろ!」
だがその瞬間、クラウレの腕の中のシアーシャが、ドズルの方を見てまた少しだけ顔を歪めた。
「ふ……」
「待て待て待て、見るな! 俺を見るな!」
慌てるドズルの声で、今度は部屋中が笑いに包まれた。
ゼナが涙を拭きながら言う。
「あなたは大きすぎるのです」
「そんな理由があるか」
「あります」
マレーネもくすくす笑いながらうなずく。
「ございますわ」
ガルマは、まだ少し信じられない顔でシアーシャを見ていた。シアーシャはもう泣いておらず、クラウレの腕の中から、なぜかガルマの方だけをじっと見ている。
ラルはようやく落ち着いて、低く咳払いをした。
「ドズル様」
「なんだ」
「戦場には向き不向きがございます」
一拍。
「子ども相手にも、同じことかと」
また笑いが起こる。
ドズルは不服そうに腕を組んだが、その顔に本気の悔しさが混じっているのが余計に可笑しい。
その日の夜更け。
部屋へ戻ったゼナが、机の上に並んだものを見て足を止めた。
熊のぬいぐるみ。
木彫りの動物。
鈴のついた布玉。
小さな菓子箱。
「あなた」
寝台の端に座っていたドズルが顔を上げる。
「なんだ」
「これは何ですか」
ドズルは少し視線を逸らした。
「……次のためだ」
ゼナはしばらく黙っていたが、やがて深く息をついた。
「そういう問題ではありません」
「ではどういう問題だ」
「まず顔です」
「顔」
「ええ、顔です」
ドズルは本気で考え込み、ゼナはその横でまた笑いをこらえた。
その頃、別室で眠るシアーシャは、何事もなかったようにすやすや眠っていた。