妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第150話 返書の継ぎ目

 

朝の総帥府は、いつもより紙の音が多かった。

 

人の声は低い。靴音も抑えられている。だが、扉の開閉と書類をめくる音だけは、どうしても隠し切れない。決裁を急ぐ朝には、そういう音が廊下を細く流れる。

 

マ・クベは、その音を聞きながら歩いていた。

 

呼びに来た副官は、ただ「総帥がお呼びです」としか言わなかった。余計な説明がない時ほど、中身は重い。

 

昨夜のうちに、ランバ・ラル中佐が戻っている。

 

ならば、サイド7から何かが返ってきたのだろう。返ってきた上で、それを読むだけでは足りぬから、自分が呼ばれた。

 

扉の前で、副官が一歩退いた。

 

「マ・クベ少将、入ります」

 

中から、短い声が返る。

 

「入れ」

 

扉が開く。

 

執務室の中には、ギレンとセシリアがいた。机の上には、すでに開かれた書簡が一通、その横に書きかけの紙が一枚。インク壺の蓋が開いたままだ。

 

ギレンは窓際ではなく、今日は机の向こうに座っていた。夜からそのままの席にいる顔だ。

 

「来たか」

 

「お呼びとあれば」

 

マ・クベが一礼すると、ギレンは机上の書簡を指で押し出した。

 

「読め」

 

マ・クベはすぐには手を伸ばさなかった。

 

まずギレンの顔を見る。苛立ちは薄い。嫌悪もない。あるのは選別の顔だ。すでに、読む前の怒りや驚きは終わっている。今は、どこを飲み、どこを削り、どこを曖昧に残すか。その段に入っている。

 

その段なら、自分の役ははっきりしている。

 

賛成することではない。反対することでもない。危険な語を抜き、使える骨だけを残すことだ。

 

マ・クベは書簡を手に取った。

 

紙は上等だ。字も整っている。慌てて書き散らしたものではない。夜を通して、何度か書き直した気配がある。

 

読み始めてすぐ、口元がほんの少しだけ動いた。

 

恭順ではない。

 

かといって、こちらを試すためだけの悪文でもない。理屈は通っている。通っているからこそ厄介だ。

 

「各サイドの自治は維持されるべきこと、ですか」

 

マ・クベがそう言うと、セシリアが机の向こうで静かに返した。

 

「そこを切れば、他サイドは入りません」

 

「ええ」

 

マ・クベは書簡から目を離さない。

 

「ですが、そのまま呑めば、こちらが先に縛られます」

 

総帥が何も言わないのは、その通りだからだろう。

 

他サイドを引き入れるには、「従え」では足りない。「残してやる」でも遅い。「最初から席がある」と見せねばならぬ。だが、それを紙に書いた瞬間、総帥府は自分で自分の手首へ輪をはめることになる。

 

中身は採れても、文言は採れない。

 

マ・クベはさらに先を追った。

 

「共通機構は、防衛、広域物流、サイド間調停」

 

ギレンが鼻で笑うように息を吐く。

 

「調停、が気に食わん」

 

「私もでございます」

 

マ・クベは即答した。

 

セシリアが聞く。

 

「では、どこまで落としますか」

 

「港湾、輸送、移住、通行手続。そこまででよろしいでしょう」

 

マ・クベは書簡のその一行を指先で押さえた。

 

「“調停”は名が大きい。まずは“共同事務処理”です」

 

ギレンの視線が少し動く。

 

国家の語を使えば、国家の椅子が要る。椅子を置けば、座る者を決めねばならぬ。まだそこまで早い。

 

今、要るのは旗ではない。帳簿と通行証と船腹の割付だ。見た目を事務に落とせば、人は油断する。だが実際には、事務こそが人を縛る。

 

ギレンが言う。

 

「続けろ」

 

マ・クベは次の段落へ目を落とした。

 

「サイド3・5が軍事と工業の核、サイド6・7が物流と移住の核……」

 

そこで少しだけ間を置く。

 

ギレンが低く言う。

 

「最初から席を割ってきたか」

 

セシリアがすぐ返した。

 

「そうしなければ、他サイドは怖がります」

 

ギレンの不快はもっともだ。勝つ前から取り分を決められて愉快な支配者などいない。

 

だが、ここは感情で跳ねる場所ではない。

 

「ですが、割を食うとは限りません」

 

マ・クベがそう言うと、ギレンがこちらを見た。

 

「言ってみろ」

 

「軍事と重工をサイド3・5が担うなら、重さは結局こちらに残ります」

 

マ・クベは淡々と続けた。

 

「艦隊、造船、兵站生産。そこはすぐには真似されません。向こうが持つのは、人と荷の流れです」

 

セシリアが目を細める。

 

「そこを軽いと見れば危険でしょう」

 

「軽いとは申しません」

 

マ・クベは首を横に振った。

 

「ただ、切るなら後から切れる、ということです」

 

ギレンは黙る。

 

セシリアも、すぐには言葉を返さない。

 

物流は血だ。切れば死ぬ。だが血は、心臓とは違う。替えを作る余地がある。艦隊と工廠は一朝一夕では移らぬ。

 

ならば今この場で、重い方をこちらに残し、柔らかい方を向こうへ持たせるのは、悪い取り引きではない。

 

もちろん、向こうもそれを分かった上で差し出している。そこが、いけ好かぬ。だが、嫌いな相手の算盤ほど、よく出来ていることがある。

 

マ・クベは書簡の後半へ移った。

 

戦後粛清を勝利条件にしないこと。

 

ニュータイプを軍の専有資産にしないこと。

 

各サイドを従属州化しないこと。

 

勝った側が別の中央集権を焼き直す形にしないこと。

 

ここで総帥の部屋は、しばらく無音になった。

 

ギレンは紙を見ているが、読んではいない顔だった。頭の中で別のものと比べている。

 

最初に口を開いたのはセシリアだった。

 

「ここは無視できません」

 

「分かっている」

 

ギレンの声は低い。

 

「だが、全部を文で呑めば、こちらの手が縛られる」

 

「ですから、呑むのではなく、“乱暴には扱わぬ”という形へ落とします」

 

マ・クベは書簡の端を整えながら言った。

 

「“戦後統治において粗雑な整理は望まぬ”」

 

「“一時の勝敗で域内秩序を損なう処置は採らぬ”」

 

「この程度でございます」

 

ギレンが目を細める。

 

「曖昧だな」

 

「曖昧でなければ危うい」

 

マ・クベは平然と答えた。

 

「紙に書いたものは、後で刃になります。こちらから切っ先を磨いて渡す必要はありません」

 

総帥の機嫌をうかがっているわけではない。

 

事実だからそう言うだけだ。

 

ここで誓約文を書けば負ける。だが、突っぱねればもっと悪い。相手は条件を欲しがっているのではない。こちらが勝った後に、どれほど雑に片づけるつもりかを測っているのだ。

 

ならば見せるべきは、優しさではない。粗雑ではない、という一点だけだ。国家は、それだけでかなり長く持つ。

 

セシリアが静かに続ける。

 

「ただ、完全にぼかすとキャスバル様は見抜かれます」

 

「少なくとも、戦後に一斉整理を前提にしていないことは見せた方がよろしいでしょう」

 

ギレンは頷きも首振りもしない。

 

だが、その沈黙は拒絶ではなかった。

 

――――――

 

「民間基盤の部分は、相手も名を書いておりません」

 

セシリアが次の頁に目を落としながら言う。

 

「こちらからも出すな」

 

ギレンは即答した。

 

「財団の名は紙に残すべきではありません」

 

マ・クベも同意する。

 

「ルシファー財団も、ビスト財団も、読む側にだけ分かれば十分です」

 

「では、どう置きますか」

 

セシリアが問う。

 

「“既存の域内民間基盤”で足ります」

 

マ・クベは言った。

 

「読む側には分かる。外へ出ればただの事務文に見える」

 

ギレンが短く息を吐く。

 

「地球圏の法務と金融に通じる線も同じだ」

 

「ええ」

 

マ・クベは頷いた。

 

「“地球圏の法務・金融に通じる私的接続”とだけしておきましょう」

 

名前は便利だ。

 

便利だから危ない。

 

ルシファー財団と書けば、それだけで筋が一つ増える。ビストと書けば、後で紙を拾われた時に、こちらが先に腹を見せたことになる。

 

名を伏せて意味だけ通す。外交文書とは、結局そこだ。分かる相手にだけ分からせ、分からぬ者にはただの紙に見せる。

 

「軍事指揮は分けん」

 

ギレンがそこで口を開いた。

 

セシリアが顔を上げる。

 

「向こうはそこを見ます」

 

「見せておけ」

 

ギレンは即答した。

 

「艦隊を別に持ち、別に動かせば戦場で裂ける」

 

マ・クベは少しだけ考え、文面を整える。

 

「でしたら」

 

「“統合作戦時の指揮系統については別途協議する”でよろしいでしょう」

 

ギレンがうなずいた。

 

「それでいい」

 

セシリアが次の点を押さえる。

 

「税と関税は」

 

「まだ書かん」

 

ギレンの返事は速かった。

 

「賢明です」

 

マ・クベはすぐに続けた。

 

「そこへ踏み込めば、今度は数字の喧嘩になります」

 

総帥はここだけは渡さぬ。当然だ。艦隊を手放す総帥府など、玉座のない王に等しい。

 

だから文で曖昧にする。曖昧にして、次の会談へ回す。それは逃げではない。順番だ。順番を誤る者は、どれほど正しくても負ける。

 

――――――

 

そこから先は、ほとんど起草だった。

 

ギレンが口で骨を置く。

 

セシリアがそれを紙へ落とす。

 

マ・クベが余計な角と余計な飾りを削る。

 

「貴書、確かに受領した」

 

セシリアが書く。

 

「内容は軽んずるべきものではない」

 

「それでよい」

 

マ・クベが言う。

 

「“高く評価する”までは不要です」

 

ギレンが次を置く。

 

「各サイドの固有事情と自治を踏まえる」

 

セシリアが続ける。

 

「域内防衛、広域物流、移住・通行手続の共同処理について協議する用意がある」

 

「“共同処理”で十分です」

 

マ・クベはそこで止めた。

 

「“連合”はまだ書かない」

 

ギレンがさらに言う。

 

「戦後統治は、一時の勝敗で雑に片づけるべきではない」

 

セシリアが筆を滑らせる。

 

「一時の勝敗をもって域内秩序を粗雑に処理することは望まぬ」

 

「よろしい」

 

マ・クベはその一行に目を落とした。

 

「“粛清”の字も、“専有”の字も、まだこちらからは出さぬ方がよろしい」

 

文は削るほど強い。こちらが出さなくても、向こうが読める語は消す。それでなお通じるなら、その紙は使える。読めぬ相手なら、初めから組めない。

 

「足す」

 

ギレンが不意に言った。

 

セシリアが筆を止める。

 

「“戦後の宇宙に何を残すか、その問いは避けぬ”」

 

部屋が一瞬静まる。

 

セシリアはそのまま書き留めた。

 

マ・クベは目を細める。

 

そこまで書くか。

 

総帥は引いたように見せて、実のところ退かぬ。相手の問いを避けぬと書くのは、受けるのと同時に、こちらも問い返す位置へ立つということだ。

 

悪くない。

 

かなり良い。

 

少なくとも、ただの防戦ではなくなる。

 

最後にギレンは自ら筆を取り、一行だけ足した。

 

「勝利の後に秩序を失うことは望まぬ」

 

その字は速かった。だが迷いはなかった。

 

――――――

 

返書が出来る頃には、窓の外の日が少し傾いていた。

 

ギレンは乾ききるのを待ってから封をし、机の端へ置いた。

 

「ラル中佐を」

 

副官がすぐ動く。

 

ほどなくしてラルが入室した。

 

姿勢は変わらない。目にも口元にも、疲れを出していない。こういう男が橋になる。

 

ギレンは返書を手に取った。

 

「これを持て」

 

「は」

 

ラルは両手で受け取る。

 

ギレンは短く続けた。

 

「口でも伝えろ」

 

「読んだ」

 

「考えた」

 

「その上で返した、と」

 

「承知しました」

 

ラルの返事に飾りはない。

 

セシリアが横から穏やかに言う。

 

「お疲れのところ、またご足労を」

 

「役目です」

 

ラルは軽く頭を下げた。

 

マ・クベはそのやり取りを黙って見ていた。

 

この場で自分が口を挟む必要はない。橋はラルであって、自分ではないからだ。

 

よい中継だ。

 

ラル中佐は余計な色をつけぬ。紙は紙のまま運び、言葉は言葉のまま置く。こういう者が間にいると、政治は一段長く持つ。

 

便利な男だ。本人は好んでそうしているわけでもあるまいが。

 

ラルが退出し、扉が閉まる。

 

部屋の中に、三人だけが残った。

 

――――――

 

「一歩です」

 

セシリアが静かに言った。

 

ギレンは返書の控えと、キャスバルの書簡の写しを並べて見ている。

 

「まだ紙二枚だ」

 

その言い方に、マ・クベは少しだけ口元を動かした。

 

「紙二枚で港は動きます」

 

ギレンが目を上げる。

 

「人も動きます」

 

マ・クベは続けた。

 

「そして後から、艦隊が動く」

 

セシリアが短く息を吐いた。

 

「勝つだけの話では、なくなりましたね」

 

ギレンは答えない。

 

だが否定もしない。

 

マ・クベは机上の二枚を見下ろした。

 

戦争は砲火で決まる。それは半分だけ本当だ。残り半分は、終わったあと誰がどこへ座るかで決まる。

 

キャスバルは先に椅子を並べにきた。総帥は、その並べ方を奪い返そうとしている。

 

ならば次に要るのは、さらに紙だ。そして、その紙を現実に変える港と金と人間だ。

 

厄介だ。

 

だが、面白い。

 

マ・クベはようやく、小さく声に出した。

 

「戦場はまだ先でございます」

 

ギレンが窓の外へ目を向ける。

 

「だが、席順は先に埋まる」

 

それだけ言うと、また机へ視線を戻した。

 

マ・クベは一礼して下がった。

 

廊下へ出ると、総帥府の中は朝より静かになっていた。だが、静かなだけで止まっているわけではない。紙が動けば、人も動く。人が動けば、港が変わる。港が変われば、戦場も変わる。

 

扉の向こうでは、まだ二人が残っている。

 

ギレンとセシリア。

 

紙二枚で宇宙を縫おうとしている。

 

マ・クベは歩きながら思った。

 

次は、紙を現実へ落とす番だ。

 

それが最も面倒で、最も面白い。

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