セイラが最初におかしいと思ったのは、ララァのことではなかった。
ララァのことは知っている。兄が地球から連れ出し、いまはサイド6側の安全な場所に置いていることも、その理由が「保護」だということも、細部まではともかく理解していた。納得したとは言い切れなくても、少なくとも、そこに兄なりの筋があることは分かる。
問題は、そのあとだ。
学校帰りのアムロが、ときどき兄の部屋へ入る。
長くはない。だが短くもない。
扉が閉まり、小さい声が続き、出てくる時にはいつも妙に難しい顔をしている。
しかも兄は、それをまるで普通のことのように扱っている。
セイラは廊下の角からその様子を見て、腕を組んだ。
これはよくない。
何がどうよくないのか、きちんと説明しろと言われると困る。だが、困るからといって放っておいていい感じでもない。
兄のしていることを順番に並べると、余計に困るのだ。
地球から少女を連れ出した。
その少女はサイド6に置いている。
その一方で、学校帰りの少年を時々自室へ入れている。
扉は閉まる。
小さい声で話す。
二人とも、どこか考え込んだ顔になる。
セイラは片手で額を押さえた。
「兄さんは何をしているの……」
誰も答えてくれない。
だから余計に不安になる。
兄は昔から変だった。だが最近の変さは、もっと説明が足りない。しかも本人は、説明が足りていないことに気づいていない顔をしている。
セイラは深く息を吐いた。
まずはララァだ。
ララァが困っているなら、兄を止めなければいけない。困っていないなら、それはそれで別の意味で兄を問い詰めなければいけない。
結局、問い詰めるのだなと思って、少しだけ自分で嫌になった。
サイド6へつなぐ専用回線は、いつも少しだけ時間がかかる。
確認灯が二つ点いて、音声が先に通り、少し遅れて画面が明るくなる。
やがて映ったララァは、窓際の椅子に座っていた。背後には薄いカーテンと、小さな棚。それだけで、少なくとも兄がひどい扱いをしていないことは伝わってくる。
「セイラ様」
「急にごめんなさい」
「いいえ」
ララァは穏やかに首を振った。
セイラは一度迷ってから、できるだけやさしい声で聞いた。
「兄さんに、何か嫌なことをされたりしていない?」
ララァはきょとんとした。
「嫌なこと、ですか」
「ええ。閉じ込められてるとか、無理を言われてるとか、そういうこと」
ララァは少し考えてから、静かに首を横へ振る。
「いいえ」
「エドワウ様は、私を怖いところへは連れて行きません」
その言い方は本心だった。
セイラは少し肩の力を抜く。
「そう……」
「でも」
ララァが続けたので、セイラは顔を上げた。
「でも、エドワウ様は、ときどきとても急いでおいでです」
「急いでいる?」
「はい」
ララァは少しだけ視線を外した。
「何かに間に合わないといけないみたいに見えます」
セイラは返す言葉を失った。
それは自分も感じていたことだったからだ。
兄は落ち着いて見える。けれど最近は、その落ち着きの下に、別の速さがある。何かを失う前に先へ手を出している人の速さだ。
ララァはセイラの顔を見て、小さく言った。
「私のことを心配してくださったのですね」
「ええ」
セイラは素直に答えた。
「兄さんのことも、心配なの」
ララァは少しだけ笑った。
「それは、私もです」
その答えが少しおかしくて、セイラもつられて笑った。
だが回線を切ったあと、やはり駄目だと思った。
ララァが困っていないことは分かった。だが、それで終わりではない。兄が何に急いでいるのか分からないままなのだ。
そして、アムロのことはまだ残っている。
その日の夕方、アムロはまた兄の部屋に入った。
セイラは廊下の角で待った。
自分でもあまりよくないとは思う。だが、このまま分からないままでいる方がもっとよくない。
扉は閉まり、中から声がする。
小さい。
内容は聞き取れない。
ただ、兄の声とアムロの声が交互に続いているのは分かる。兄が一方的に話しているわけではなく、ちゃんとアムロも返している。
しばらくして扉が開いた。
アムロが出てくる。
やっぱり難しい顔をしていた。疲れたような、考え込みすぎたような、それでいてどこか納得もしている顔だ。
セイラはその前へ出た。
「アムロ」
アムロがびくっとした。
「うわ」
「何その声」
「い、いや……」
あからさまに動揺している。
その時点で、セイラの疑いは薄くならなかった。
「兄さんと何を話していたの?」
アムロはすぐに答えなかった。
答えに困っているというより、答えられないことを抱えた顔をしている。
「えっと……」
「えっと、何」
「その……」
視線が泳ぐ。
「仕事の話、みたいな」
セイラは黙った。
少年に何の仕事だ。
しかも「みたいな」とは何だ。
アムロも言った瞬間に失敗したと気づいたらしく、目を伏せる。
「自分でも変なこと言ってるのは分かってる」
「分かってるなら、もう少しましな言い方をして」
「ごめん」
素直に謝られると、余計にやりにくい。
セイラは少し声を落とした。
「兄さん、あなたに何か無理を言ってるの?」
「それはない」
返事だけはすぐだった。
「本当に?」
「本当に」
アムロはそこでようやく顔を上げた。
「ただ……何か、先に考えてることが多すぎるんだと思う」
その言い方が、妙に年上だった。
セイラは少し目を細める。
「それは分かるわ」
アムロは困ったように笑った。
「だよな」
ララァも同じことを言った。
二人とも兄を怖がってはいない。だが二人とも、兄が何かに追われていることだけは感じている。
それが、いちばん嫌だった。
その夜、セイラはミライを捕まえた。
ルシファー財団の事務区画の端にある小さな応接室だった。ミライは帳面を閉じたところで、セイラの顔を見るなり表情を変えた。
「何かあった?」
「ええ」
セイラは椅子へ座って、少しだけ言葉を選んだ。
選んだのだが、内容のせいでどうしてもおかしくなる。
「兄さんが、最近また説明不足なの」
ミライは少しだけ苦笑した。
「それは前からでは?」
「前からだけど、今は種類が違うの」
セイラは身を乗り出す。
「ララァのことは、あなたも最初から知ってるでしょう」
「もちろん。地球から連れてきた時から知ってるわ」
「アムロのことも」
「ええ。下宿させる話の時に、私もいたじゃない」
そこまでは二人とも同じ認識だ。
だからこそ、その先が困る。
「その二人を、兄さんが最近、同じ調子で部屋に入れてるのよ」
ミライが瞬いた。
「同じ調子で?」
「ララァはまだ分かるの。守るため、って」
「でもアムロまで、時々部屋に入れて、扉を閉めて、小さい声で話してるの」
「しかも二人とも、出てくると妙に難しい顔をしているのよ」
ミライは口元に手を当てた。
笑いそうになったのではない。どう受け止めるべきか迷ったのだ。
「……それは、外から見るとかなりまずい絵ね」
「でしょう?」
セイラは本気で言った。
「だから困っているの」
ミライはそこでようやく、セイラが本気で心配しているのだと受け止めた。
「ララァは怖がっていないのよね」
「ええ」
「アムロも嫌がってはいない」
「たぶん」
ミライは少し考えた。
「じゃあ、危ない意味ではないと思う」
「私も、たぶんそうだと思う」
「でも、説明が足りなくて気味が悪い」
セイラは何度も頷いた。
「そうなの」
ミライは少し身を乗り出した。
「だったら、本人に聞くしかないんじゃない?」
「やっぱりそうよね」
「ええ」
「だって、エドワウさん、本当に隠したいならもっと見えないようにするわよ」
その言葉は妙にしっくりきた。
兄はそういう人だ。
本当に見せたくないことなら、もっと見せない。今セイラの目に入っている時点で、兄の中では「家の中のこと」なのだろう。
「でもね」
ミライは続けた。
「外から見ると本当に説明がいるから、そこは言っていいわ」
セイラは思わず吹き出した。
「やっぱりそう見えるのね」
「見えるわよ」
ミライも笑った。
「ララァのこともアムロのことも知ってる私が見ても、今の話だけ抜くとだいぶまずいもの」
「だから困ってるのよ」
二人で笑ってから、また少し真顔に戻る。
ミライが静かに言った。
「でも、たぶんエドワウさんは、二人とも何かから守ろうとしてる」
「私もそう思う」
「だったら、なおさら一人でやらせない方がいい」
「少なくとも、セイラが心配してるってことは伝えた方がいいわ」
その言葉で、セイラは立ち上がった。
「聞いてくるわ」
「うん」
「もしすごく変な答えが返ってきたら」
ミライは少し笑った。
「その時はまた来て。一緒に考えるから」
セイラも笑った。
それで少しだけ、気持ちが軽くなった。
兄の部屋の前に立つと、やはり少しだけ緊張した。
ノックをすると、中から「入れ」と返る。
いつも通りの声だ。
だからこそ、余計に腹が立つ。
セイラは扉を開けた。
中は思った通り散らかっていた。
紙、地図、書きかけのメモ、部品箱、読みかけの本、冷めた茶。怪しいと言えば怪しい。だが恋愛でも犯罪でもなく、ひたすら考えすぎた人間の部屋だ。
エドワウは机の向こうで書類を見ていたが、セイラの顔を見るなり少しだけ眉を上げた。
「どうした」
「それを聞きに来たの」
エドワウが瞬きをする。
「何を、とは」
「兄さん、何をしているの」
セイラは扉を閉めた。
「ララァを地球から連れてきたのは分かるわ。そこはもういいの」
「いい、で済ませるな」
「済ませてないから来たの」
セイラは一歩前へ出る。
「その上で、アムロまで時々部屋へ入れてるじゃない」
「扉を閉めて、小さい声で話して」
「二人とも困ったような顔で出てくるのよ」
エドワウはそこでようやく、本当に外からどう見えているかを理解したらしかった。
一瞬、珍しく言葉を失う。
セイラは腕を組んだ。
「今、やっと分かった顔をしたわね」
「……そう見えているのか」
「そう見えるわよ」
エドワウは片手で額を押さえた。
その反応が少しおかしくて、セイラは怒っているのに少しだけ気が抜けた。
「ララァは守るためだ」
兄はまずそこから言った。
「危ないところへ戻す気も、変なことに巻き込む気もない」
「そこは分かるわ」
「本当に?」
「そこは」
セイラはきっぱり言った。
「でもアムロは何なの」
エドワウが黙る。
その沈黙が、逆に怪しい。
「兄さん」
「……あれは」
エドワウはそこで本気で言葉を探した。
「少し、話が合う」
セイラはじっと兄を見る。
「どういう意味なの」
「機械の話ができる」
「物の見方が妙に鋭い」
「年のわりに、変なところがある」
セイラは間を置かずに返した。
「兄さんもでしょう」
エドワウが少しだけ詰まった。
「そういう意味じゃない」
「どういう意味よ」
「うまく言えない」
「最近そればっかりね」
セイラは怒った。
怒っているが、完全には怒れなかった。
兄が本当に説明に困っているのが分かるからだ。
エドワウは椅子の背にもたれたまま、しばらく天井を見た。
それから、少しだけ疲れた声で言う。
「間に合わせたいんだ」
セイラは眉をひそめる。
「何に」
「いろいろだ」
「それじゃ分からない」
「分からなくてもいいとは思っていない」
その言い方が、少しだけ苦かった。
セイラは黙る。
兄のこういう声は知っている。
言えないことを抱え込んでいる時の声だ。
「ララァも」
「アムロも」
エドワウは言葉を選ぶように続けた。
「今のうちに手を打っておきたい相手なんだ」
「守りたいってこと?」
「……それに近い」
セイラは少しだけ息を抜いた。
少なくとも、危ない意味ではなかった。
だが、別の意味ではもっと心配だった。
兄は本当に何かに追われている。
そして、そのやり方が不器用すぎる。
「じゃあ、せめて説明して」
セイラは言った。
「毎回こんなふうに、外から見て一番まずい形になる前に」
エドワウは少しだけ笑った。
「善処する」
セイラは即座に返す。
「しない顔ね」
兄は否定しない。
それがまた腹が立って、でも少し可笑しかった。
「ミライさんに相談したの」
エドワウが怪訝そうに目を向ける。
「何を話した」
「兄さんが説明不足で困る、って」
エドワウの顔が少し緩んだ。
「それなら正しい」
「でも、その前に事情を並べたら」
セイラはわざと少し間を置いた。
「外から見るとだいぶまずい、って言われたわ」
エドワウが目を閉じた。
「お前な……」
「私だって困っていたのよ!」
二人とも少しだけ声が大きくなる。
その沈黙の後で、エドワウがとうとう吹き出した。
珍しい。
セイラは一瞬むっとしたが、つられて少しだけ笑ってしまった。
「本当に、心臓に悪いんだから」
「悪かった」
兄が素直にそう言うのは、さらに珍しかった。
セイラはそこでようやく肩の力を抜いた。
完全に納得したわけではない。
兄が何をどこまで見ているのかも分からない。
ララァとアムロに何を求めているのかも、全部は見えない。
でも、少なくとも壊れてはいない。
守りたいものが増えて、その守り方が下手で、結果としてとても怪しく見えるだけだ。
それが分かっただけで、今夜は十分だった。
部屋を出る前、セイラは振り返って言った。
「次からは一言、先に言って」
エドワウは書類へ目を戻しながら答える。
「ああ」
「本当に?」
「……善処する」
セイラはため息をついた。
「やっぱりしない顔だわ」
そう言って部屋を出る。
扉が閉まったあとも、兄の部屋の灯りはしばらく消えなかった。
昔から変だった。
でも今の変さは、ただの変さではない。
急いでいて、隠し事が多くて、でも手放したくないものだけは増えている。
セイラは廊下を歩きながら思った。
心配は消えない。
けれど今夜は、少なくとも兄が一人で勝手に壊れていくわけではないと分かった。
それだけでも、眠る理由にはなった。