妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第155話 カリンの名

 

 

ビスト財団本部の朝は、古い家ほど静かだった。

 

静かなのは、人が少ないからではない。人が多いほど、声を落とす家だからだ。

 

長い廊下の奥にある執務室で、カーディアス・ビストは机の上に積まれた六冊の案件簿を順に開いていた。

 

一冊目は、サイド7低稼働区画の居住再整備保証。

 

二冊目は、同区画の浄水、空調、搬送路、配線の再起動費用。

 

三冊目は、分校二つ分の受入拡張。

 

四冊目は、診療所一つと小病棟の再開保証。

 

五冊目は、生活物資と医療物資九十日分の保険継続。

 

六冊目は、技術者家族の初期定着を支える運転資金保証。

 

名義は全部違っていた。建設会社、教育法人、医療法人、物流会社、保険窓口、持株会社。表だけ見れば、同じ日に同じ机へ積まれる理由は薄い。

 

だが、積み方が同じだった。

 

部屋を直す。

 

学校を開ける。

 

診療所を動かす。

 

荷を止めない。

 

その順が、どの紙にも通っている。

 

法務顧問が控えめに口を開く。

 

「別々の案件に見せておりますが、実際には一つでございます」

 

カーディアスは視線を上げなかった。

 

「続けてください」

 

「はい。二〜三バンチ分の生活圏を、先に立ち上げる設計です。最初の流入は二百世帯前後。技術者家族が中心です」

 

資産管理担当が図面を開く。色分けされた低稼働区画の図だ。住居用に切り直せる区画、学校用へ流用できる区画、診療施設に転用しやすい区画まで印が付いている。

 

「器としては、二〜三バンチで八百から千五百世帯まで入ります。ですが、最初から満たす想定ではありません。まず二百世帯を入れて、そこが回る形を作る。その後に増やす設計です」

 

教育法人担当が別紙を差し出す。

 

「子どもは四十から六十名。年齢が散っています。一つの仮教室では足りません。分校二つ分を先に押さえないと、途中で受入が止まります」

 

医療担当が続ける。

 

「慢性疾患持ちが少なくとも七件。妊婦と乳幼児が十件前後。外来だけでは回りません。最低十二床、できれば二十床の病床が必要です」

 

保険担当が口を挟む。

 

「九十日分の保険継続を欲しがっているのも、そのためです。薬、浄水部品、教材、寝具、日用品。どれか一便でも切れると、入れた家族の生活がそこで止まります」

 

カーディアスはそこで初めて、手元の紙から顔を上げた。

 

「逃がすためですか。住まわせるためですか」

 

法務顧問が即座に答えた。

 

「住まわせるためです」

 

短い返答だったが、それで足りた。

 

カーディアスは机の上の紙を見下ろした。

 

逃がすだけなら、もっと雑でいい。現金、船、仮の寝床。最低限の食料。それで人は移せる。

 

だがこれは違う。

 

子どもの机まで先に置いている。

 

病人を寝かせる床まで先に確保している。

 

親を働かせる前に、子どもを座らせ、病人を休ませる順番だ。

 

生活が崩れる順番を知っている者の積み方だった。

 

「この話を持ち込んだのは、どなたの線と見ておられる」

 

法務顧問が少し間を置いた。

 

「エドワウ・マス殿側と見てよいかと」

 

部屋の空気が僅かに張った。

 

カーディアスは驚かなかった。ただ、紙を一冊閉じる手つきだけが少しゆっくりになった。

 

「根拠を」

 

「起案の削り方でございます。書き手は一人ではありません。ですが、順番が一人です。居住、学校、診療、保険を崩していません。監査に引っかかる文言も、必要なところだけ綺麗に抜いている。以前、あなたが会われた時の紙と、同じ匂いがいたします」

 

また来たか、とカーディアスは心の中で思った。

 

以前に会った時も、あの若者は奇妙だった。

 

あの年で、理念より先に継続の話をした。夢ではなく、止まった時にどこから壊れるかを見ていた。

 

だが今回は、その延長ではない。

 

部屋を何軒か回す話ではなく、二〜三バンチ分の生活圏を丸ごと起こす話だ。

 

ここまで来たなら、自分だけで受ける話ではない。

 

秘書が静かに問うた。

 

「理事会へ回しますか」

 

カーディアスは首を振った。

 

「まだ回しません」

 

「では」

 

「祖父に見せます」

 

数人の顔色が変わった。そこまでの話だと思っていなかった者もいる。

 

教育法人担当が、ためらいがちに聞いた。

 

「そこまで、ですか」

 

カーディアスは机上の図面を見たまま答えた。

 

「二百世帯を入れて終わりの話ではありません。二百世帯を残し、次を呼べる形が作れるかどうかの話です。私のところで止めるべきではありません」

 

それ以上は言わなかった。

 

なぜ祖父なのか。

 

なぜ理事会ではないのか。

 

その説明は、口に出すほど浅くなる。

 

祖父なら、この紙を金額ではなく順番で読む。そういう人間だった。

 

カーディアスは立ち上がった。

 

「資料を持って参ります。建設、教育、医療、保険、それぞれの上限と最低ラインを三案ずつ。まだ一件も切らないでください」

 

「承知しました」

 

返答を背に、カーディアスは執務室を出た。

 

――――――

 

サイアム・ビストの私室は、本館のさらに奥にあった。

 

公的な応接室ではない。財団の中でも、出入りする人間は限られている。長く生きるという行為そのものに、静けさと温度管理が必要だと知っている空間だった。

 

扉の前で一度立ち止まり、カーディアスは軽く息を整えた。

 

中へ入ると、室温は外より少し低い。光も柔らかく抑えられている。機械音はほとんどしないが、全くの無音でもない。意識しなければ耳に残らない程度の、ごく低い振動がある。

 

寝台に近い椅子で、サイアムは半ば横たわるような姿勢を取っていた。痩せている。皮膚は薄く、年齢の重さがそのまま形になっていた。

 

だが、目は濁っていない。

 

カーディアスが資料を差し出すと、サイアムはまず表紙を見ず、そのまま中を開いた。

 

「何人入れる」

 

それが最初の問いだった。

 

「第一波で二百世帯前後です」

 

「子どもは」

 

「四十から六十」

 

「病床は」

 

「最低十二。できれば二十」

 

「荷は何日切らさぬ」

 

「九十日です」

 

サイアムはそこで初めて紙を置いた。

 

「逃がすためではないな」

 

「住まわせるためです」

 

短いやりとりだった。

 

だが、必要なことはそれで出尽くしていた。

 

サイアムはしばらく黙った。高齢者の沈黙というより、どこまで聞けば足りるかを量る沈黙だった。

 

それから言う。

 

「誰が持ち込んだ話だ」

 

「エドワウ・マス殿側です」

 

ほんの一瞬だけ、サイアムの指先が止まった。

 

カーディアスはそれを見逃さなかった。

 

「会う」

 

短い一言だった。

 

「ご自身で」

 

「この並べ方を考えた本人から聞く」

 

カーディアスは静かに頭を下げた。

 

やはり早い、と心の中で思った。

 

祖父は建設費も利回りも先に見ない。人数、机、病床、荷。そこだけで話の大きさを切る。

 

この紙が、単なる再整備ではなく、その先に人を住み着かせるための話だと一目で読んだのだ。

 

「では、そのように手配いたします」

 

サイアムはもう答えず、閉じた資料の表紙を指先で軽く撫でただけだった。

 

――――――

 

カーディアスからの連絡は短かった。

 

祖父がお会いになる。

 

それだけだった。

 

余計な説明はなかった。だが、それで十分だった。

 

知らせを受けたエドワウは、机の上の紙から目を上げたあと、ゆっくりと一枚を閉じた。

 

「そこまで話が上がったか」

 

短い声だった。

 

その声の底に、驚きは薄い。むしろ、来たかという受け止め方に近い。

 

今この場にいるのは補佐役だけで、その返答も控えめだった。

 

「予定は、本日中に」

 

「いい」

 

エドワウは立ち上がった。

 

「通そう」

 

それ以上は言わなかった。

 

ただ、ビスト財団の頭首ではなく、そのさらに奥が出るなら、二〜三バンチの再整備案件だけで終わる会談ではない、ということだけは分かっていた。

 

――――――

 

接見室へ向かう廊下は、普通の来客を通す道ではなかった。

 

本館の中でも古い区画で、人の声が吸われるように消えていく。足元の絨毯も厚く、壁面の照明も明るすぎない。表のビスト財団が使う豪奢さではなく、裏で生き残ってきた家の静けさだった。

 

カーディアスは半歩だけ前を歩きながら、エドワウの気配を見ていた。

 

祖父のところへ通されると知った時、相手が一瞬でも身構えるのは珍しくない。まして今日の相手は若い。相手がただの老財閥ではないことに気づけば、呼吸の一つくらい乱れてもおかしくない。

 

だが、エドワウは乱れなかった。

 

歩幅も変わらない。視線は動くが、ただ周囲を見ているだけだ。初めて踏み込む場所への緊張はある。だが、驚きはない。

 

扉の前で立ち止まった時も同じだった。

 

普通なら、この扉の向こうの空気に一度だけ足が重くなる。

 

エドワウにはそれがない。

 

祖父の姿を初めて見る者は、たいてい呼吸を一つ乱す。

 

高齢だからではない。

 

生きている、というより、まだここに留まっている姿だからだ。

 

だがこの若者は止まらなかった。

 

知っていたのか。

 

いや、名前だけ知っていてもこうはならない。

 

まるで、そういう在り方を見慣れている者の落ち着きだ。

 

カーディアスは扉を開けた。

 

「こちらへ。祖父がお待ちです」

 

エドワウは短く頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

その声も平らだった。

 

二人で部屋へ入る。

 

――――――

 

中はやはり静かだった。

 

低く整えられた室温。機械の気配を隠しきらない程度のわずかな音。柔らかい灯り。普通の老人の私室とは、明らかに違う。

 

サイアムはそこにいた。

 

高齢で、半ば管理の中にある身体。その事実を、部屋そのものが語っていた。

 

エドワウは一瞬だけ視線を動かした。

 

それだけだった。

 

止まらない。

 

驚かない。

 

カーディアスの中で、先ほどの違和感が一段深くなる。

 

サイアムはすぐには紙を見なかった。

 

先にエドワウの顔を見る。

 

その数秒が、やけに長く感じられた。

 

エドワウは一礼した。

 

サイアムの目が、ほんのわずかに細くなる。

 

そして、静かに言った。

 

「……カリンの孫か」

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