ビスト財団本部の朝は、古い家ほど静かだった。
静かなのは、人が少ないからではない。人が多いほど、声を落とす家だからだ。
長い廊下の奥にある執務室で、カーディアス・ビストは机の上に積まれた六冊の案件簿を順に開いていた。
一冊目は、サイド7低稼働区画の居住再整備保証。
二冊目は、同区画の浄水、空調、搬送路、配線の再起動費用。
三冊目は、分校二つ分の受入拡張。
四冊目は、診療所一つと小病棟の再開保証。
五冊目は、生活物資と医療物資九十日分の保険継続。
六冊目は、技術者家族の初期定着を支える運転資金保証。
名義は全部違っていた。建設会社、教育法人、医療法人、物流会社、保険窓口、持株会社。表だけ見れば、同じ日に同じ机へ積まれる理由は薄い。
だが、積み方が同じだった。
部屋を直す。
学校を開ける。
診療所を動かす。
荷を止めない。
その順が、どの紙にも通っている。
法務顧問が控えめに口を開く。
「別々の案件に見せておりますが、実際には一つでございます」
カーディアスは視線を上げなかった。
「続けてください」
「はい。二〜三バンチ分の生活圏を、先に立ち上げる設計です。最初の流入は二百世帯前後。技術者家族が中心です」
資産管理担当が図面を開く。色分けされた低稼働区画の図だ。住居用に切り直せる区画、学校用へ流用できる区画、診療施設に転用しやすい区画まで印が付いている。
「器としては、二〜三バンチで八百から千五百世帯まで入ります。ですが、最初から満たす想定ではありません。まず二百世帯を入れて、そこが回る形を作る。その後に増やす設計です」
教育法人担当が別紙を差し出す。
「子どもは四十から六十名。年齢が散っています。一つの仮教室では足りません。分校二つ分を先に押さえないと、途中で受入が止まります」
医療担当が続ける。
「慢性疾患持ちが少なくとも七件。妊婦と乳幼児が十件前後。外来だけでは回りません。最低十二床、できれば二十床の病床が必要です」
保険担当が口を挟む。
「九十日分の保険継続を欲しがっているのも、そのためです。薬、浄水部品、教材、寝具、日用品。どれか一便でも切れると、入れた家族の生活がそこで止まります」
カーディアスはそこで初めて、手元の紙から顔を上げた。
「逃がすためですか。住まわせるためですか」
法務顧問が即座に答えた。
「住まわせるためです」
短い返答だったが、それで足りた。
カーディアスは机の上の紙を見下ろした。
逃がすだけなら、もっと雑でいい。現金、船、仮の寝床。最低限の食料。それで人は移せる。
だがこれは違う。
子どもの机まで先に置いている。
病人を寝かせる床まで先に確保している。
親を働かせる前に、子どもを座らせ、病人を休ませる順番だ。
生活が崩れる順番を知っている者の積み方だった。
「この話を持ち込んだのは、どなたの線と見ておられる」
法務顧問が少し間を置いた。
「エドワウ・マス殿側と見てよいかと」
部屋の空気が僅かに張った。
カーディアスは驚かなかった。ただ、紙を一冊閉じる手つきだけが少しゆっくりになった。
「根拠を」
「起案の削り方でございます。書き手は一人ではありません。ですが、順番が一人です。居住、学校、診療、保険を崩していません。監査に引っかかる文言も、必要なところだけ綺麗に抜いている。以前、あなたが会われた時の紙と、同じ匂いがいたします」
また来たか、とカーディアスは心の中で思った。
以前に会った時も、あの若者は奇妙だった。
あの年で、理念より先に継続の話をした。夢ではなく、止まった時にどこから壊れるかを見ていた。
だが今回は、その延長ではない。
部屋を何軒か回す話ではなく、二〜三バンチ分の生活圏を丸ごと起こす話だ。
ここまで来たなら、自分だけで受ける話ではない。
秘書が静かに問うた。
「理事会へ回しますか」
カーディアスは首を振った。
「まだ回しません」
「では」
「祖父に見せます」
数人の顔色が変わった。そこまでの話だと思っていなかった者もいる。
教育法人担当が、ためらいがちに聞いた。
「そこまで、ですか」
カーディアスは机上の図面を見たまま答えた。
「二百世帯を入れて終わりの話ではありません。二百世帯を残し、次を呼べる形が作れるかどうかの話です。私のところで止めるべきではありません」
それ以上は言わなかった。
なぜ祖父なのか。
なぜ理事会ではないのか。
その説明は、口に出すほど浅くなる。
祖父なら、この紙を金額ではなく順番で読む。そういう人間だった。
カーディアスは立ち上がった。
「資料を持って参ります。建設、教育、医療、保険、それぞれの上限と最低ラインを三案ずつ。まだ一件も切らないでください」
「承知しました」
返答を背に、カーディアスは執務室を出た。
――――――
サイアム・ビストの私室は、本館のさらに奥にあった。
公的な応接室ではない。財団の中でも、出入りする人間は限られている。長く生きるという行為そのものに、静けさと温度管理が必要だと知っている空間だった。
扉の前で一度立ち止まり、カーディアスは軽く息を整えた。
中へ入ると、室温は外より少し低い。光も柔らかく抑えられている。機械音はほとんどしないが、全くの無音でもない。意識しなければ耳に残らない程度の、ごく低い振動がある。
寝台に近い椅子で、サイアムは半ば横たわるような姿勢を取っていた。痩せている。皮膚は薄く、年齢の重さがそのまま形になっていた。
だが、目は濁っていない。
カーディアスが資料を差し出すと、サイアムはまず表紙を見ず、そのまま中を開いた。
「何人入れる」
それが最初の問いだった。
「第一波で二百世帯前後です」
「子どもは」
「四十から六十」
「病床は」
「最低十二。できれば二十」
「荷は何日切らさぬ」
「九十日です」
サイアムはそこで初めて紙を置いた。
「逃がすためではないな」
「住まわせるためです」
短いやりとりだった。
だが、必要なことはそれで出尽くしていた。
サイアムはしばらく黙った。高齢者の沈黙というより、どこまで聞けば足りるかを量る沈黙だった。
それから言う。
「誰が持ち込んだ話だ」
「エドワウ・マス殿側です」
ほんの一瞬だけ、サイアムの指先が止まった。
カーディアスはそれを見逃さなかった。
「会う」
短い一言だった。
「ご自身で」
「この並べ方を考えた本人から聞く」
カーディアスは静かに頭を下げた。
やはり早い、と心の中で思った。
祖父は建設費も利回りも先に見ない。人数、机、病床、荷。そこだけで話の大きさを切る。
この紙が、単なる再整備ではなく、その先に人を住み着かせるための話だと一目で読んだのだ。
「では、そのように手配いたします」
サイアムはもう答えず、閉じた資料の表紙を指先で軽く撫でただけだった。
――――――
カーディアスからの連絡は短かった。
祖父がお会いになる。
それだけだった。
余計な説明はなかった。だが、それで十分だった。
知らせを受けたエドワウは、机の上の紙から目を上げたあと、ゆっくりと一枚を閉じた。
「そこまで話が上がったか」
短い声だった。
その声の底に、驚きは薄い。むしろ、来たかという受け止め方に近い。
今この場にいるのは補佐役だけで、その返答も控えめだった。
「予定は、本日中に」
「いい」
エドワウは立ち上がった。
「通そう」
それ以上は言わなかった。
ただ、ビスト財団の頭首ではなく、そのさらに奥が出るなら、二〜三バンチの再整備案件だけで終わる会談ではない、ということだけは分かっていた。
――――――
接見室へ向かう廊下は、普通の来客を通す道ではなかった。
本館の中でも古い区画で、人の声が吸われるように消えていく。足元の絨毯も厚く、壁面の照明も明るすぎない。表のビスト財団が使う豪奢さではなく、裏で生き残ってきた家の静けさだった。
カーディアスは半歩だけ前を歩きながら、エドワウの気配を見ていた。
祖父のところへ通されると知った時、相手が一瞬でも身構えるのは珍しくない。まして今日の相手は若い。相手がただの老財閥ではないことに気づけば、呼吸の一つくらい乱れてもおかしくない。
だが、エドワウは乱れなかった。
歩幅も変わらない。視線は動くが、ただ周囲を見ているだけだ。初めて踏み込む場所への緊張はある。だが、驚きはない。
扉の前で立ち止まった時も同じだった。
普通なら、この扉の向こうの空気に一度だけ足が重くなる。
エドワウにはそれがない。
祖父の姿を初めて見る者は、たいてい呼吸を一つ乱す。
高齢だからではない。
生きている、というより、まだここに留まっている姿だからだ。
だがこの若者は止まらなかった。
知っていたのか。
いや、名前だけ知っていてもこうはならない。
まるで、そういう在り方を見慣れている者の落ち着きだ。
カーディアスは扉を開けた。
「こちらへ。祖父がお待ちです」
エドワウは短く頷いた。
「ありがとうございます」
その声も平らだった。
二人で部屋へ入る。
――――――
中はやはり静かだった。
低く整えられた室温。機械の気配を隠しきらない程度のわずかな音。柔らかい灯り。普通の老人の私室とは、明らかに違う。
サイアムはそこにいた。
高齢で、半ば管理の中にある身体。その事実を、部屋そのものが語っていた。
エドワウは一瞬だけ視線を動かした。
それだけだった。
止まらない。
驚かない。
カーディアスの中で、先ほどの違和感が一段深くなる。
サイアムはすぐには紙を見なかった。
先にエドワウの顔を見る。
その数秒が、やけに長く感じられた。
エドワウは一礼した。
サイアムの目が、ほんのわずかに細くなる。
そして、静かに言った。
「……カリンの孫か」