妹に撃たれない方法   作:Brooks

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借家の話じゃないです


第156話 借りのある家

 

サイアム・ビストの口から出たのは、父の名でも祖父の名でもなかった。

 

「……カリンの孫か」

 

エドワウは、すぐには返せなかった。

 

カリン。

 

祖母の名が先に出るとは思っていなかった。ジオンの子として見られることには慣れている。ダイクン家の生き残りとして測られることも想定していた。だが、祖母だった。

 

それも、探るような響きではない。もっと古い記憶が、そのまま口をついて出たような言い方だった。

 

エドワウは一礼したまま、静かに顔を上げた。

 

「祖母をご存じなのですか」

 

サイアムはすぐには答えなかった。

 

高齢でやせ細った身体を横たえるように椅子へ預けながら、その目だけはまっすぐにエドワウを見ている。老いている。だが鈍ってはいない。ここまで案内される途中で、室温も、壁の厚さも、機械の気配も、普通の老人の私室ではないと教えていた。コールドスリープ管理に近い状態で命を繋いでいるのだろうと、エドワウは部屋へ入る前から察していた。

 

驚きはなかった。

 

そういう形で時代の底に沈みながら、なお生きている者がいることを、知っているからだ。

 

だが、今目の前にいる老人が、自分を祖母の血で見た。その方が、よほど意外だった。

 

サイアムは、ゆっくりと口を開いた。

 

「ラプラスの時だ」

 

短い一言だったが、その場の空気はそれで変わった。

 

カーディアスが横でわずかに姿勢を正したのが分かった。彼も、この話を祖父の口からまともに聞くのは初めてなのだろう。

 

「私は、あの場で死んでいてもおかしくなかった」

 

サイアムの声は細い。だが、言葉の端は掠れていなかった。

 

「爆発そのものではない。その後だ。運ばれた時には、腹も胸もやられていた。出血もひどかった。骨も折れていた。名を名乗れる状態ではなかったし、名乗る気もなかった」

 

そこで一度、息を整えるような間が入る。

 

「搬送先で私を診たのが、カリンだった」

 

エドワウは黙って聞いた。

 

祖母のことを、医者だったとしか知らないわけではない。だが、こうして他人の口から、しかも命を救われた側の声で聞くのはまるで別だ。

 

「まだ若かった。だが、手を抜かなかった」

 

サイアムの目は、今は接見室ではなく、もっと遠い白い天井を見ているようだった。

 

「名もない負傷者として放っておけば、それで終わる傷だった。助けても面倒が増えるだけの患者だった。政治の臭いもしていたはずだ。それでも、あれは私を厄介な患者として扱わなかった」

 

「生かすべき患者として扱った」

 

エドワウの胸の奥に、奇妙な熱が差した。

 

祖母らしい、とまず思った。

 

そして、だからこそ重い、とすぐに分かった。

 

サイアムは続けた。

 

「余計なことを聞かなかった。誰の側かも、何を知っているかも、名を伏せたいならそれでいいとだけ言った。まず血を止める。熱を落とす。肺を持たせる。話はその後だと、そう言った」

 

薄く乾いた手が、肘掛けの上でわずかに動く。

 

「私は、あれに二度助けられた」

 

エドワウは目を伏せないまま、その言葉を待った。

 

「一つは命だ。もう一つは名だ」

 

接見室の空気が、さらに静かになる。

 

「生き延びても、あの場で私の名が外へ出れば、その後の私はなかった。だが、カリンはそれをしなかった」

 

サイアムはそこで、初めてはっきりとエドワウを見た。

 

「その後、あれがダイクン家へ嫁いだと聞いた。息子が生まれたと聞いた。それがジオン・ダイクンだと知ったのは、もっと後だ」

 

「だから私は、ダイクン家を政治だけでは見ておらん」

 

そこまで言って、一拍置く。

 

「借りがある」

 

その一言は、思いのほか重かった。

 

「ジオン本人に、ではない。まずはカリンにだ。その借りが、家に残っている」

 

エドワウは、ようやく深く息を吸った。

 

祖母の名が先に出た理由が分かった。

 

この老人は、父の思想からダイクン家を見ているのではない。もっと前だ。病室の白い天井と、血の臭いと、医者としての祖母の手から、この家を見ている。

 

ならば、こちらも話の置き方を変えなければならない。

 

ただの財団交渉では足りない。

 

この老人には、勝ち筋ではなく、残る形を見せる必要がある。

 

サイアムは感傷に流されなかった。

 

「だから会った」

 

それだけ言って、切るように続けた。

 

「で、お前は何を作りたい」

 

エドワウは、間を置かなかった。

 

「受け皿です」

 

口にした瞬間、自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。

 

勢いで押す相手ではない。ここで要るのは熱ではなく、順番だ。何を先に置き、何を後へ回し、どこで崩れるかを分かる言葉で出さなければ、この老人は動かない。

 

「何の」

 

「これから、どこにも属しきれなくなる者たちのです」

 

言ってから、エドワウはサイアムの目を見た。

 

亡命者、避難民、技術者家族、病人持ちの世帯。名の付け方はいくらでもある。だがどれも狭い。この先、戦局と政治の都合で居場所を失う者たちは、どの名でも収まらなくなる。だからあえて狭めなかった。

 

サイアムの目は動かない。だが、そこで否定もしなかった。

 

エドワウは、そのまま続けた。

 

「サイド7の低稼働二〜三バンチを、住める形で先に起こします。第一波は技術者家族二百世帯前後。子どもは四十から六十。診療所一つ、小病棟一つ。九十日分の物流保険。三か月分の運転資金です」

 

数字を口にすると、頭の中で区画図が並ぶ。空いた居住区画、学校へ転用できる棟、外来と病床を併設できる場所、搬送路の接続。これは夢ではない。すでに脳内では通した線だ。だから迷わず言える。迷うようでは遅い。

 

横で聞いていたカーディアスは黙ったままだった。表の資料では見ているはずの数字だ。だが、本人の口で言われると、ただの積算ではなく意志に変わる。

 

サイアムが問う。

 

「二〜三バンチか。大きいな」

 

「小さく切ると間に合いません」

 

そう答えたあと、エドワウは一度だけ自分の指先を見た。

 

これははったりではない。小口の受入を継ぎ足して間に合う段階は、いずれ終わる。その時になってから部屋を探し、学校を探し、診療所を増やそうとしても、人は散る。先に空の器を持っていなければならない。そこを伝え切る必要があった。

 

「部屋を一つ二つ直して終わる話ではありません。二百世帯を入れて終わりでもありません。二百世帯を残し、次の二百を呼べる形を先に持つ必要があります」

 

「欲しいのは、部屋ではありません。その順番です」

 

順番、と口にした時、何度も積み上がってきた後悔の順番が胸の底で軋んだ。何を先に失うと人が散るのか。それを知っているから、逆から積むしかない。

 

「順番?」

 

「部屋が先です」

 

エドワウは一つずつ区切った。

 

「次に学校です。次に診療です。そのあとで保険と仕事です」

 

自分で言いながら、フル・フロンタルとして見た光景が脳裏の端をかすめる。旗は立っていた。演説もあった。だが机が足りず、病床が足りず、物流が詰まった時、人は理念では残らない。そこまで知ってしまった以上、もう逆の順では話せない。

 

サイアムの視線が少し深くなる。

 

エドワウは、ここで抽象へ逃げなかった。

 

「父親だけなら、仕事があれば残ります。家族は違う。子どもの机がない。病人を診せる先がない。それで家が崩れます」

 

「学校が遅れれば、母親が嫌がる。診療費が切れれば、その家から崩れる。だから部屋、学校、診療、保険を一体で通す必要があるんです」

 

そこまで言って、胸の奥でようやく一つ息を吐いた。

 

この老人には、理想ではなく崩れる順番で話すべきだ。カリンに命を拾われ、その後を黙って背負ってきた人間なら、そこは分かるはずだった。

 

サイアムはしばらく黙り、やがて低く言った。

 

「避難所の話ではないな」

 

「違います」

 

その一言には迷いがなかった。

 

違う。避難所ではない。流れてきた人間を一時的に寝かせるだけなら、こんな規模も順番も要らない。

 

「町か」

 

「町です」

 

言い切ったあと、エドワウは一歩踏み込んだ。

 

今、この場で言い切らなければならない。

 

二度とない機会だと分かっていた。

 

「戦後、勝った側が全部を直轄すれば、残るのは反発です」

 

言葉を出した瞬間、カーディアスの目がわずかに動いたのが見えた。

 

だが気にしない。ここからはもう、案の承認をもらう話ではない。紐帯を結ぶ説得だ。

 

「各サイドを放っておけば、今度は別々に締め上げられる。理念だけを掲げても、人は残りません」

 

口にしながら、エドワウは自分がどれだけ遠くまでこの台詞を用意してきたかを自覚していた。これは父の焼き直しではない。ザビの勝利計画でもない。フル・フロンタルとして知った破綻の先から、逆算している言葉だ。

 

「残るのは、部屋がある場所です。子どもが机に座れる場所です。病人が診てもらえる場所です。荷が一便遅れても、次まで持つ場所です」

 

それは、記憶から出てきた言葉だった。

 

フル・フロンタルとして見たもの。器のない理念が、どれほど簡単に人を空腹へ追い込むか。象徴だけでは戦後を持たせられないこと。箱が切り札であると同時に、形を持たなければ爆弾にしかならないこと。

 

その全部を、名を出さずに語る。

 

「各サイドを一つの政府で縛れば、また割れます。だから自治は残す。ですが、物流、教育、医療、保険だけは先に結ばなければならない。住むための線だけは、どのサイドでも使えるようにしておく必要がある」

 

一つずつ言うたびに、自分の中で言葉が固まっていくのが分かった。これはもはや仮説ではない。そうしなければまた壊れるという確信だ。

 

「サイド7の二〜三バンチは、その最初の実例です。ただの再整備ではありません。将来、各サイドが自治を持ったまま結ばれるための、最初の雛形です」

 

サイアムは微動だにしない。

 

だが、その沈黙は、止めようとしているものではなかった。続きを聞いている沈黙だ。

 

エドワウはさらに押した。

 

「私は、ジオン公国と本格的に手を結ぶ前に、あなた方と結んでおきたい」

 

そこは、あえて濁さなかった。

 

この老人は回りくどさを喜ばない。聞きたいのは、なぜ今自分なのか、その一点だ。

 

それで、カーディアスが初めてはっきりとこちらを見た。

 

サイアムも、目を細めた。

 

「なぜだ」

 

「ジオンは必要です」

 

言った瞬間、自分の中に迷いがないことを確認する。ザビ家と手を結ばないわけではない。むしろ必要だ。だが、それだけでは駄目なのだ。

 

「ですが、ジオンだけでは駄目です。勝つための力にはなる。ですが、それだけでは戦後の形が全部、勝った側の都合になります」

 

それではまた割れる。そう思うと、胸の奥でひどく冷たいものが動く。フル・フロンタルの記憶があるからこそ、その先を言葉ではなく感覚で知っている。勝った側の看板だけでは、人は残らない。

 

「それでは、また割れます」

 

「だからその前に、別の柱が要る。地球圏の金と法と信用を持ち、しかも連邦そのものではない柱が」

 

そこで言葉を切る。

 

「あなた方です」

 

長い沈黙が落ちた。

 

カーディアスは、息を挟むことすらしなかった。

 

サイアムが次に問うたのは、もっと古い場所だった。

 

「それはジオンの夢か」

 

「それとも、お前の作り直しか」

 

その問いを待っていたような気もした。

 

父を否定しすぎれば浅い。だが、そのまま継ぐだけでも足りない。

 

「父は、人の向く先を示しました」

 

そう言ったあと、エドワウはほんの一瞬だけ祖母の名を思った。あの家には、言葉だけではない手もあった。人を診て、生かす手だ。

 

「ですが、それを持たせる形までは残せなかった」

 

「私は形を作ります」

 

言葉にした途端、自分の立ち位置がはっきりした。思想の継承者ではない。秩序の施工者としてここに座っている。

 

「言葉では人は動きます。ですが、残りません。残すには、学校と病院と港が要る。私はそこから作ります」

 

サイアムの目が、初めてわずかに揺れた。

 

その揺れは、否定ではなかった。

 

「箱をどうする」

 

その問いだけは、さすがに空気を切った。

 

エドワウはここで初めて、核心へ半歩だけ入った。

 

「今は開けません」

 

それを口にした時、胸の奥で何かが静かに落ち着いた。ここは言い切らなければならない。曖昧にすれば、全部が軽くなる。

 

「今開ければ、誰もそれを秩序には使わない。旗にします。脅しにします。武器にします」

 

頭のどこかで、誰かの声が重なる。ラプラスの箱を象徴に変え、空白を埋められなかった先の記憶だ。だからこそ、今はまだ駄目だと断言できる。

 

「だから先に、箱を開けても崩れない形を作る。自治を残し、共通基盤だけを結ぶ形です。その形がなければ、箱は爆弾です」

 

また沈黙が落ちる。

 

今度は長かった。

 

サイアムは、机の上の資料を見ていない。エドワウの顔を見てもいない。もっと奥で、過去と今を比べている顔だった。

 

やがて、乾いた息のような声がこぼれた。

 

「カリンに命を繋がれた時、私はまだ何者でもなかった」

 

独り言のような声音だった。

 

「その後、箱を抱え、財団を起こし、連邦と共に老いた」

 

そこまで言って、サイアムはようやくエドワウを見た。

 

「だが、お前は勝者の顔で話しておらん」

 

エドワウは何も返さなかった。

 

そこで弁明を差し挟めば、今の言葉が薄くなると分かったからだ。

 

「敗者と勝者の後始末まで見た者の顔で話している」

 

それだけで十分だった。

 

サイアムは決めた顔になった。

 

「ビストは表に出ん」

 

それが最初の一言だった。

 

カーディアスの背筋がわずかに伸びる。

 

「だが、お前を切らん」

 

その一言で、エドワウはようやく、胸の中で張りつめていた糸が一本だけ緩むのを感じた。

 

欲しかったのは、まさにそこだった。全面支援ではない。表の同盟でもない。切られない線だ。

 

「二〜三バンチの受け皿は通す。教育と医療は別名義で守る。保険も切らせん」

 

ここまで来れば、二〜三バンチの計画は案ではなくなる。だが、その実務よりも重いものがもう通っている。

 

サイアムはそこで止めず、さらに言った。

 

「その代わり、お前はジオンに呑まれるな」

 

その言葉は、まっすぐだった。

 

「箱を旗にするな」

 

エドワウの中で、いくつもの未来の失敗が、ほんの一瞬に畳まれて過ぎた。旗にした先。脅しにした先。箱が答えではなく看板になった先。だからこそ、この言葉は重く入る。

 

「人が残る形を先に作れ」

 

エドワウは、深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

返事をしたあと、その短い言葉の中へ自分でも驚くほど多くのものを込めていたことに気づく。祖母が救った命。父が残せなかった形。フル・フロンタルとして見た末路。全部を背負ってもなお、ここで引き下がる理由はもうない。

 

サイアムはそこで終わらせなかった。

 

「カリンに借りがある」

 

静かな声だった。

 

「その借りを、過去には返せなかった。ならば今、家に返す」

 

その言葉は、財団の決裁より重かった。

 

投資ではない。

 

承認でもない。

 

借りの返し方としての紐帯だ。

 

エドワウは頭を上げた。

 

自分が欲しかったのは、まさにそれだった。

 

金だけではない。案件だけでもない。ジオン公国と結ぶ前に、戦後の秩序を別の柱で支える線を一本、ここで結ぶこと。

 

それが今、通った。

 

会談の終わり際、サイアムは最後に言った。

 

「次は受け皿の紙ではなく、その先を持ってこい」

 

エドワウは顔を上げた。

 

「その先、ですか」

 

「コロニー連合の骨だ」

 

サイアムの声は低いが、はっきりしていた。

 

「各コロニーから誰を出す」 「どこに運営の中枢を置く」 「物流、教育、医療、保険を、誰の名で回す」 「そこを見せろ」

 

エドワウは黙って聞いた。

 

ようやく、そこまで来たのだと思った。受け皿だけでは足りない。その上に何を載せ、誰に持たせるのか。まさに次に差し出すべきものだった。

 

サイアムは続ける。

 

「受け皿は入口にすぎん」 「二〜三バンチで人を残せても、その上に回す仕組みがなければ、結局またバラバラになる」

 

「自治を残すと言うなら、なおさらだ」 「各サイドの顔を立てたまま、共通で回す部分だけをどこに置く」 「そこが連合の本体になる」

 

エドワウは深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

その返答は、先ほどまでとは少し違った。今度は構想そのものを持ち込めと言われている。試されているのではない。次の段へ進めと言われている。

 

接見室を出る時、カーディアスは何も言わなかった。

 

ただ、案内のために半歩前へ出る。その足取りに、先ほどまでの観察者の色はもう薄かった。実務へ落とす人間の足取りになっている。

 

廊下へ出ると、外の空気は少しだけ暖かかった。

 

これで結べた、とエドワウは思った。

 

金ではない。

 

承認でもない。

 

切られない線だ。

 

祖母が救った命が、今、自分へ返ってきた。

 

なら、もう退けない。

 

次は組織案だ。

 

各コロニーから誰を出すのか。 どこへ運営主体を置くのか。 物流、教育、医療、保険を誰の名で回し、誰に責任を負わせるのか。

 

受け皿の上に、連合の骨を通す番だった。

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