アレで気づくよなって思いました。
総帥府の執務区画は、もう夜勤の足音しか残っていなかった。
昼のあいだ絶えず開閉していた扉は閉まり、廊下の空気は冷え、壁に埋め込まれた照明だけが白く床を洗っている。人の気配が薄くなると、建物そのものの重さが前へ出る。分厚い隔壁と高い天井が、ここが国家の中枢なのだと黙って押しつけてくる。
その静けさの中で、ギレンの執務室だけがまだ起きていた。
机の上の端末には、送られてきた記録映像の停止画面が残っている。
黒く焼けた民間便の右舷外板。
外板の裂け目から、まだ薄く白い煙が流れている。
その次の画面には、搬入口へ担架が押し込まれるところが映っていた。看護師の肩が前へ倒れ、付き添いの女が子どもの頭を抱えている。さらにその前には、学校へ運び込まれる教材箱。箱の角に焼けた煤がついているのが、映像を止めるとかえってよく見えた。
ギレンは椅子に深く座ったまま、その端末を何度も巻き戻していた。
見ているのは、焼けた船体ではない。
そこへ至る少し前だ。
連邦艦の艦首砲が光る直前、白い機体がどう入ったか。
便の前へ真っ直ぐ出たのではない。少し上へ抜け、相手の砲口と便の進路が重なる一点へ、斜めに滑り込んでいる。二発目のあとも、敵艦そのものを追わず、補助艇の戻り角度だけを潰している。撃墜ではなく、便から剥がすための動きだ。
その一つ一つが、嫌になるほど見覚えがあった。
ギレンの指先が机を軽く叩く。
「……この動きは、やはり⋯」
誰へともなく漏れた声が、広い部屋の中で小さく沈んだ。
もう一度、同じ場面を再生する。
白い機体が、焼ける寸前の射線へ機体をねじ込み、太いビームを肩の外へ逃がす。あの一拍。遅れれば便が焼ける。早すぎれば相手の次手に間に合わない。そのちょうど間へ、迷いなく入る。
ギレンは口元だけで笑った。
「⋯白い悪魔の動きだ⋯」
笑みというより、厄介な事実を確認した時の動きだった。
「ということは、キャスバルはあのパイロットを味方につけたか……」
その時、扉の向こうで靴音が止まった。
短いノック。
返事を待たず、扉が細く開く。
「兄上」
キシリアだった。
夜更けだというのに軍装は崩れていない。紫の生地は光を吸い、胸元の飾りだけが小さく冷たく光る。彼女は部屋へ入ると、まず兄の顔ではなく端末の停止画面を見た。
焼けた民間便。
搬入口へ運ばれる薬剤箱。
そして、連邦艦の前へ割り込む白い機体。
そこまで見てから、ようやくギレンへ視線を戻す。
「何をご心配で」
問いは静かだった。
だが、話の重さを最初から分かっている声だった。
ギレンはすぐには答えない。
端末を指で軽く叩き、映像を数秒だけ巻き戻す。白い機体が補助艇の機首を押し返し、便の腹から引き剥がす場面で止めた。
「心配というほどでもない」
「ただ、面倒が一つ増えた」
キシリアは机の前まで歩いてくる。
「白い機体ですか」
「そうだ」
ギレンは短く返した。
「いや、正確には機体ではない」
「中身だ」
キシリアは止まったまま、もう一度画面を見る。
白い機体は敵艦を落としに行かない。便へ寄る補助艇の鼻先だけをずらし、戻ってくる角度だけを殺している。守る対象を先に決めた者の動きだった。
「射線を読む」
キシリアが言った。
「戻り先を塞ぐ」
「便を通すために必要な分だけ前へ出る」
少し間を置く。
「見覚えがあります」
ギレンは妹を見た。
「お前もそう見るか」
「見ますわ」
キシリアの返事は早かった。
「だから兄上は、白い機体がいることではなく、誰が乗っているかを気にしているのでしょう」
ギレンは端末へ視線を戻した。
「白い悪魔だ」
キシリアは驚かなかった。
むしろ、やはりそこへ辿り着いたか、という顔をした。
「やはり、生き残っていましたか」
「生き残った、ではないな」
ギレンは淡々と訂正した。
「キャスバルが拾った」
「そう見た方が早い」
キシリアの目が細くなる。
「港、学校、診療所、財団、物流」
「そこへ、あれまで乗せましたか」
ギレンは椅子へ深く座り直した。
「そういうことだ」
「白い悪魔が単独で厄介なのではない」
「宇宙で回り始めた暮らしの側へ、あれを置いたのが厄介なんだ」
端末の画面には、今度は焼けた民間便が映っている。
右舷の裂け目。
歪んだ外板。
その下に小さく見える積荷表示。診療所向け薬剤、学校向け教材、患者搬送。
キシリアはその文字を見ながら言った。
「なら、引き剥がしますか」
「まだ早い」
ギレンの返答は即座だった。
「今、あれは使える」
「連邦が撃ったのは軍需ではない。薬剤と教材と患者搬送だ」
「その間へ白い悪魔が割り込んで通した」
「この構図は、宇宙側によく効く」
キシリアは兄の顔を見る。
「下手に手を出せば、キャスバルの側で固まりますものね」
「そういうことだ」
ギレンは机の上で指を組んだ。
「まずは連邦の看板を剥がす」
「その次に、キャスバルが抱え込んだ札の持ち主が、どこまで公国の利と並べられるかを見る」
キシリアは、そこでようやく小さく笑った。
「兄上にしては、ずいぶん我慢なさるのですね」
「我慢ではない」
ギレンは端末を消した。
暗くなった画面に、二人の顔だけがぼんやり映る。
「順番だ」
数秒、誰も喋らなかった。
部屋の外では、まだ夜勤の士官がどこかの扉を開け閉めしているはずだ。だが、この部屋まではもう音が届かない。
キシリアは兄の横顔を見た。
「兄上」
「何だ」
「少し楽しそうですわよ」
ギレンは眉一つ動かさない。
「気のせいだ」
キシリアは、今度ははっきり笑った。
「そういうことにしておきます」
扉が閉まる。
一人になった執務室で、ギレンはしばらく暗い端末を見ていた。
白い機体は、もう映っていない。
それでも頭の中には、射線へ滑り込んだあの一瞬だけが残っている。
「厄介だな」
小さく漏れた独り言は、誰にも聞かれないまま消えた。