妹に撃たれない方法   作:Brooks

163 / 226
難産でした。


第163話 三十バンチ

 

 

サイド1の三十バンチは、人の暮らしがきつく詰まったコロニーだった。

 

放課後の校門の前では、迎えに来た母親たちが子どもの名前を呼ぶ。診療所の廊下では、夕方の引き継ぎに入った看護師が記録板を抱えて行き来し、港湾通路からは、作業服に油と鉄の匂いをつけた男たちが疲れた足取りで戻ってくる。食堂の換気口からは煮込みの匂いが漏れ、居住区画の壁の向こうでは洗濯機が低く鳴っていた。

 

その夕方、帰らない人たちがいた。

 

学校前の広場。 診療所の前。 港へ下りるエレベーター脇。

 

小さな端末が何台も持ち上げられ、同じ映像が何度も流れている。

 

生活便の前へ出る連邦艦。 停止命令。 積荷一覧。 診療所向け薬剤。 学校向け教材。 患者搬送。 そして、ビーム砲。

 

子どもの手を握った母親が、画面から目を離さずに言った。

 

「教材便を撃つなんて、どういうつもりなの」

 

診療所から出てきた看護師が、白衣の袖をまくりながら答える。

 

「薬まで止められたら、次はこっちです」

 

港から上がってきた男が、ヘルメットを脇へ抱えて吐き捨てた。

 

「確認したいなら、なんで砲を撃つ」

 

最初は誰も大声を出さなかった。

 

ただ、家へ帰るには腹の底が熱すぎたし、何も言わずに夕飯の席へ着くには、さっきまで画面に映っていた薬剤箱や教材箱があまりにも身近すぎた。

 

やがて、校門の脇に立っていた若い教師が、小さく言った。

 

「連邦軍は宇宙から出ていけ」

 

一瞬、周囲のざわめきが止まる。

 

診療所の看護師が、同じ言葉を繰り返した。

 

「連邦軍は宇宙から出ていけ」

 

港の男が低い声で続ける。

 

「連邦軍は宇宙から出ていけ」

 

叫びにはなっていない。

 

けれど、その場にいた全員が、もう昨日までと同じ目では連邦の軍服を見ていなかった。

 

――――――

 

地球の会議室は、外気より冷えていた。

 

長机の上に並んだ文書の角が、白い照明を硬く返している。壁の端末には宇宙各地の映像が並び、サイド6の学校前、サイド5の診療所前、サイド1・三十バンチの広場が、音を切ったまま順番に流れていた。

 

机の中央に押し出された文書の表題は、味気ない。

 

サイド1・三十バンチ治安回復措置案。

 

起案者欄には、はっきりと名前がある。

 

バスク・オム。

 

別紙には、灰色の新型機の写真が添えられていた。

 

マラサイ先行配備報告。 外周封鎖支援。 脱出艇阻止支援。 外部介入迎撃能力、良好。

 

生活便への発砲で宇宙側の反発が膨らんだことは、この部屋にいる全員が理解していた。だが、その理解は引く方向には働かなかった。

 

「このままでは、宇宙住民は集まれば押し返せると学習します」

 

資料を読んでいた士官が言う。

 

別の男が文書を指で叩いた。

 

「一つ、黙らせる必要があります」

 

文書の中の言葉は柔らかい。

 

区画封鎖。 居住者隔離。 環境調整措置。 制圧後の沈静化。

 

さらに、もう一枚の薬剤資料が机の上へ滑らされた。

 

暴徒鎮圧用神経ガス。

 

表紙だけ見れば、強力な鎮圧装備のように見える。

 

だが、添付された成分表と濃度表は別のことを語っていた。

 

高濃度使用時の呼吸障害。 密閉区画使用時の致死率上昇。 児童、高齢者、既往症患者への重大危険。 換気停止状態での使用禁止。

 

禁止事項の欄が、逆にこの薬剤の本質を示している。

 

学校。 診療所。 居住区画。 外へ出られないコロニー内部。

 

そういう場所で使えば、それは鎮圧剤ではない。 ただの毒ガスになる。

 

それでも、会議の出席者はそこを見ない。

 

あるいは、見た上で見ないふりをしている。

 

文書担当の男が言った。

 

「名称はこれで通します」

 

「暴徒鎮圧用の神経ガス」

 

「住民側が抵抗をやめなかった場合の、最小限の無力化措置」

 

上座の男が資料をめくる。

 

「事故死や後遺症が出た場合は」

 

返ってきた答えは平坦だった。

 

「密閉区画での混乱に伴う二次災害」

 

「暴徒側の危険物との反応」

 

「あるいは既往症の急変で整理可能です」

 

誰も顔色を変えない。

 

バスクだけが、資料を閉じて言った。

 

「生活便への発砲映像が効いたなら、次は逆に使えばいい」

 

「宇宙住民に、逆らえばコロニーごと動けなくなると教えれば十分です」

 

上座の男が、成分表の最終ページを指で叩く。

 

「これは、表向きは鎮圧用だ」

 

「そこを崩すな」

 

バスクは即答した。

 

「もちろんです」

 

「われわれが使うのは、あくまで暴徒鎮圧用の神経ガスです」

 

言い方は整っていた。

 

だが、机の上の濃度表と、換気系統の図面と、三十バンチの人口密度を並べれば、それが嘘であることは誰の目にも明らかだった。

 

鎮圧のための薬剤ではない。

 

コロニー一つを沈黙させるための毒だ。

 

それでも、この部屋では最後まで別の名前で呼ばれる。

 

それが、連邦のやり方だった。

 

――――――

 

サイド7の夜は、港湾灯だけが窓の向こうで細く揺れていた。

 

エドワウの机には、各コロニーから届いた報告が広がっている。学校受け入れの継続要望、診療所搬送の固定化要望、港湾優先便の増便希望。紙の端には、現場の責任者の名前まで書き足され始めていた。

 

ララァが急に足を止めた。

 

壁へ手をつく。

 

肩が細かく上下する。

 

エドワウが立ち上がる前に、ララァはかすれた声で言った。

 

「違います」

 

「子どもの声がします」

 

「白衣の人もいます」

 

「人が、通路の方へ走っています」

 

「でも、途中で止まります」

 

「扉が開きません」

 

「息が苦しいです」

 

「泣いています」

 

「たくさん」

 

エドワウは一瞬で机の端の星図を引き寄せた。アムロを呼ぶ。扉が開き、入ってきたアムロはララァの顔を見た瞬間に冗談を言う気を失った。

 

エドワウが星図へ視線を走らせる。

 

「……サイド1か」

 

アムロが息を詰める。

 

「30バンチ事件は史実では6年後のはずだ」

 

エドワウは地図から目を離さずに答えた。

 

「だがティターンズの因子は濃く連邦内部に根を張っている」

 

ララァは目を閉じたまま続ける。

 

「今なら、まだ少しだけ」

 

アムロが低く言った。

 

「止めないと駄目だ」

 

「ああ」

 

エドワウの返答は短かった。

 

「今すぐ動く」

 

――――――

 

総帥府への回線は、すぐに繋がった。

 

映った士官は余計な挨拶をしない。エドワウの声だけで急変を察した顔をした。

 

「サイド1、三十バンチで、連邦が住民ごと潰す措置へ出る可能性が高い」

 

「時間がない」

 

「こちらはシャトルで先行する」

 

「公国軍は艦隊を出してほしい」

 

画面の向こうが一度静まる。

 

「根拠は」

 

エドワウは間を置かなかった。

 

「連邦側の文書断片です」

 

「三十バンチの区画封鎖案が動いている」

 

「生活便への発砲で抗議が広がった直後に、投入戦力が過剰すぎる」

 

「しかも起案名が悪い」

 

少し置いて、言う。

 

「バスク・オムです」

 

それだけで向こうの空気が変わった。

 

返答は早い。

 

「シャトルを使え」

 

「艦隊は別経路で向かわせる」

 

「まず止めろ」

 

回線が切れる。

 

エドワウはもう次の手順へ移っていた。

 

――――――

 

格納区画は、赤い作業灯の下で走る人間の影だらけだった。

 

ガンダムの固定具が外される。 ネモの外部フィルターが交換される。 対毒カートリッジ、簡易救護パック、予備の酸素ボンベが荷箱へ放り込まれる。 工具の落ちる音が何度も響く。

 

シャトルの腹は広くない。 その狭い空間で、整備員たちが肩をぶつけながら動いていた。

 

エドワウが声を張る。

 

「シャトルは三十バンチ外縁の死角へ隠す」

 

「前へ出すな」

 

「発見されたら、それで終わりだ」

 

アムロがヘルメットを受け取りながら言う。

 

「もし、もう始まってたら」

 

「止められる系統を止める」

 

エドワウは振り向かずに答えた。

 

「開けられる出口を開ける」

 

「逃がせる人数だけでも逃がす」

 

ララァはシャトルに残る。

 

額に薄い汗を浮かべたまま、それでも目だけは真っ直ぐだった。

 

「今なら、まだ少しだけ」

 

シャトルが離床すると、床が低く震えた。

 

――――――

 

三十バンチに近づいた時、コロニーの外壁灯はいつもと同じ色をしていた。

 

それが余計に嫌だった。

 

外から見ただけでは、中で何が起きようとしているのか分からない。

 

シャトルはデブリ帯の陰へ身を潜めるようにして止まった。前へ出るのはMSだけだ。

 

ガンダム。 ネモ隊。

 

ララァの声が通信へ乗る。

 

「上です」

 

「銀色の筒です」

 

「空気の通るところです」

 

外壁沿いの換気塔の周りに、連邦の作業員が大きな円筒を取りつけていた。普通の整備資材とは違う鈍い光沢。脇の制御端末には換気経路図が出ている。赤い点灯が、学校、診療所、居住区画へ向かうラインを順番に照らしていた。

 

港湾ハッチは閉鎖。 非常通路の表示灯も赤。 外周には連邦艦艇が散り、マラサイが主要ハッチと換気塔の周辺を押さえている。

 

そして決定的だったのは、治安部隊や連邦の作業員を乗せた小型艇が、コロニー外へ離れつつあることだった。

 

アムロが低く言う。

 

「兵が先に外へ出てる」

 

エドワウが吐き捨てる。

 

「違う」

 

「鎮圧じゃない」

 

「住民だけ残すつもりだ」

 

その瞬間、ガンダムとネモ隊が飛び出した。

 

――――――

 

「換気塔を止める班は俺について来い」

 

「外部制御盤を切る班は右へ回れ」

 

「脱出口をこじ開ける班は港湾ハッチ側へ入れ」

 

「ガンダムは上を押さえろ」

 

「マラサイを換気塔とハッチの上から剥がせ」

 

命令と同時に、ネモ隊が外壁沿いへ散る。

 

換気塔の根元では、銀色の散布ユニットがすでに接続され、圧力表示が上がっていた。ネモの一機がそこへ撃ち込み、筒が裂ける。白い蒸気が一気に吹き出し、作業員が弾かれたように外へ跳ぶ。

 

別のネモは配電盤を撃ち抜き、回り始めていたファンを鈍く止めた。

 

港湾ハッチ側へ回ったネモは、外部非常開放装置のカバーを吹き飛ばし、緊急開放レバーを強引に引き上げる。厚いハッチがゆっくり外側へずれ、わずかな隙間ができる。

 

だが全部は止まらない。

 

別系統の散布ラインはすでに開いていた。

 

監視カメラの映像越しに、居住区画の通路で白いガスが流れ始める。 通路を走っていた男が咳き込み、壁へ手をつく。 診療所では看護師が患者の口元へ布を押し当てる。 母親が子どもの頭を胸へ抱え込む。

 

ララァの声が震える。

 

「もう流れました」

 

エドワウが歯を食いしばる。

 

「主系統を切る!」

 

「開く出口を増やす!」

 

「一人でも多く外へ出す!」

 

学校の上空では、ガンダムがマラサイへ切り込んでいた。

 

灰色の新型機が、換気塔とハッチの上から外周を見下ろしている。 そこへガンダムが横から滑り込み、機体の向きをわずかにずらす。 その一瞬で、港湾ハッチ前の空が少しだけ空いた。

 

内部では、警報の鳴る中を人が走り始める。

 

――――――

 

その時、宙域の外側へ巨大な影が入った。

 

ザンジバル改。シーマ艦隊の旗艦。

 

対連邦の作戦は、ここで一気に実戦へ変わる。

 

シーマの声が通信へ飛ぶ。

 

「居住区に毒ガスかい」

 

「ずいぶん急いだもんだねえ」

 

ザンジバル改の艦腹が開き、緑の機体が次々に飛び出した。

 

ザクⅡ隊。

 

公国軍の兵が最も多く乗り、最も手に馴染ませている主力が、まとまって空へ広がる。換気塔の外周へ。港湾ハッチの前へ。非常脱出口の上へ。ガンダムとネモだけでは押さえきれなかった空が、一気に厚くなった。

 

シーマが命じる。

 

「換気塔の外周を押さえな」

 

「港湾ハッチの前を空けろ」

 

「黒猫共だけに押しつけるんじゃないよ」

 

ザクⅡは一対一の性能勝負をしない。

 

換気塔の上へ居座るマラサイの位置をずらす。 港湾ハッチの発進線を切ろうとする連邦機を押し返す。 非常脱出口へ近づく小型艇の進路を塞ぐ。

 

ハッチの隙間からようやく外へ出た男が、宇宙服のバイザー越しに空を見上げて息を呑む。

 

「ザク……」

 

その声には、兵器名を見た驚きより、援軍が来た安堵が混じっていた。

 

アムロがマラサイの動きを見て言う。

 

「速いな」

 

エドワウが返す。

 

「新型だ」

 

「だが守る場所が決まってる」

 

つまり、連邦側は換気塔とハッチを守る固定防衛から動いている。そこをガンダムが剥がし、ネモが設備を止め、ザクⅡ隊が空間を埋める。

 

シーマ艦隊はさらに外側で連邦艦を押さえ、増援を入れさせない。

 

三十バンチの外周は、もう完全に戦場だった。

 

――――――

 

それでも、三十バンチは無傷では済まなかった。

 

主系統の散布は止めた。

 

だが一部ラインは動いてしまった。

 

避難しきれなかった者もいる。

 

死傷者も出た。

 

校門の前には、途中で落とされた教材箱が口を開けたまま転がっていた。 診療所の入口には、担架が半分だけ廊下へ出たまま止まり、白衣の裾が床に広がっている。 居住区画の通路には、買い物袋、工具袋、子どもの上着、片方だけの靴が、人のいなくなった床に散っていた。

 

三十バンチは潰れきってはいない。

 

学校も診療所も建物は残っている。

 

だが、連邦が住民ごと殺すつもりで毒ガスを使ったことを、このコロニーの人間は自分の目で見てしまった。

 

それまでの三十バンチには、もう戻れない。

 

血のついた白衣のまま、地面に膝をついた看護師が顔を上げる。 近くでは、教材箱を抱えた教師が座り込んでいた。 母親が子どもを胸へ引き寄せ、震えながら呼吸を整えている。

 

その中で、誰かが絞り出すように言った。

 

「連邦軍は宇宙から出ていけ」

 

今度の声は前より重かった。

 

怒りだけではない。 目の前で見たものを、そのまま言葉にした声だった。

 

周囲が拾う。

 

「連邦軍は宇宙から出ていけ!」

 

また別の声が重なる。

 

「連邦軍は宇宙から出ていけ!」

 

その言葉は、もう広場だけのものではなかった。

 

学校と診療所と港を抱えた一つのコロニーが、自分たちの喉から初めて吐き出した、生き残るための声だった。

 

エドワウは、その声を背にして立っていた。

 

連邦は、自分たちを守りに来たのではない。 見せしめに殺すつもりで来た。 そしてジオン側は、少なくとも止めに来た。

 

その差を、住民は自分の目で見てしまった。

 

ここから先は、もう生活便の話だけでは済まない。

 

次の会議は、便利さを守るための話ではない。

 

次にどのコロニーを殺されないようにするかを決める話になる。

 

エドワウは、薄く残るガスの向こうに見える校舎の影を見た。

 

「もう戻れないな」

 

誰に向けた言葉でもなかった。

 

だが、その場にいたアムロも、シーマも、白衣の看護師も、教材箱を抱えた教師も、同じ意味でそれを聞いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。