妹に撃たれない方法   作:Brooks

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久しぶりに村上春樹風って入れて見たんですが、テイストが違う気がする。


第164話 裂ける連邦

 

 

総帥府の朝は、いつも少しだけ冷えすぎている。

 

石の廊下は磨き込まれていて、窓の外の光を薄く返していた。足音はよく響くのに、人の気配はどこかで吸い取られてしまう。そういう建物だった。国家の中心にある建物というのは、たいていそういうふうにできている。音を通しても、感情は通さない。

 

ギレンの執務室の机の上には、三十バンチから回収されたものが、ひとつずつ距離を置いて並べられていた。

 

銀色の散布ユニットの破片。

 

換気塔接続部の固定具。

 

補助換気ラインの切替記録。

 

外部ハッチ閉鎖の時刻表。

 

成分表。

 

濃度表。

 

内部監視映像の抜き出し。

 

学校と診療所の生存者証言。

 

そして少し離れたところに、生活便への発砲映像。

 

どれも紙や金属の形をしていたけれど、机の上にあるせいでかえって生々しかった。散布ユニットの破片には、焼けた縁が残っていた。指でなぞればざらつくはずだった。成分表の用紙には赤い印がいくつも付けられていて、そこに書かれているのは薬品名ではなく、ほとんど死に方の一覧だった。密閉区画使用時の致死率上昇。児童、高齢者、既往症患者への重大危険。換気停止状態での使用禁止。

 

禁止事項の方が、その薬剤の本当の顔をよく語っていた。

 

ギレンは椅子に座らず、机の横に立っていた。立ったまま資料を二つの束に分けていた。

 

ひとつは、地球へ返すための束だった。

 

もうひとつは、宇宙へ見せるための束だった。

 

扉が静かに開いて、キシリアが入ってきた。紫の軍装は朝の光を吸い込み、胸元の金具だけが小さく冷たく光っていた。彼女は机の上を一目見て、何も言わずに近づいた。

 

しばらく資料を眺め、それから言った。

 

「生活便の時より、ずっと悪いですわね」

 

ギレンは散布ユニットの破片を指先で軽く押さえた。

 

「悪い、では済まん」

 

「今回は段取りがある」

 

キシリアは成分表を一枚めくった。紙の擦れる音が、広い部屋の中でやけに小さく聞こえた。

 

「兵を外へ出し、扉を閉め、空気を変える」

 

「住民だけを残すつもりだった」

 

「ああ」

 

ギレンは短く答えた。

 

キシリアは視線を上げる。

 

「それでも、使えるのですね」

 

「使う」

 

ギレンはそう言った。

 

声に熱はなかった。ただ、刃物を研ぐ時のような静かな手応えだけがあった。

 

「一度目は、薬剤と教材と患者搬送へ砲を向けた」

 

「二度目は、学校と診療所と居住区画へ毒を入れた」

 

「ここで連邦の顔は割れる」

 

窓の外では、ズムシティの朝の交通が動き始めていた。整った光の筋が、規則正しく交差している。下では人が仕事へ向かい、港では荷が動き、学校へ子どもが吸い込まれていく。そういう秩序が、ここで作られた文書ひとつで崩れることがある。

 

ギレンは机の端に置かれた呼び出し端末へ手を伸ばした。

 

「レビルを呼べ」

 

少し間を置いて、続けた。

 

「マ・クベもだ」

 

キシリアはそれ以上何も言わなかった。ただ机の上に並んだ資料をもう一度見た。生活便の焼けた船腹と、三十バンチの換気塔。線で繋げば、そこにあるのは同じ手つきだった。名前が違うだけで、中身は同じだ。そういうものを彼女は前世でもいくつか見ている。

 

「面白くなってきましたわね」

 

半分だけ冗談のように言う。

 

ギレンは机の上の公開声明文案へ目を移した。

 

「面白い、で済むなら結構なことだ」

 

――――――

 

地下の面会室には窓がなかった。

 

白い壁と白い天井灯と、金属の机と椅子。それだけで部屋はできていた。飾り気がないというより、余計なものを一枚ずつ剥がしていった末に残った形のようだった。そこで人が話すと、声は少しだけ平たくなる。感情が削られるのではなく、輪郭だけが前へ出る。

 

レビルはすでに椅子に座っていた。

 

捕虜になってから痩せたが、背筋はまだ軍人のそれだった。肩の線も、机に置いた手も、崩れていない。ただ、目の奥にあるものだけが少し変わっていた。勝ち負けの計算ではなく、もっと古い種類の疲労がそこにあった。

 

ギレンは座らなかった。机の向こう側に立ったまま、端末の再生装置へ手を置く。

 

「見てもらう」

 

レビルは何も返さない。だが視線は端末へ向く。

 

最初に流れたのは生活便の映像だった。

 

夜の航路。 進路を塞ぐ連邦艦。 停止命令。 積荷一覧。

 

診療所向け薬剤。 学校向け教材。 患者搬送。

 

そこへ落ちるビーム砲。

 

右舷外板を吹き飛ばす二発目。

 

その間へ割り込む白い機体。

 

護衛のネモ。

 

焼けた船腹。

 

映像が止まる。

 

レビルはすぐには何も言わなかった。机の上に置いた手の指が、わずかに動いた。

 

やがて、低い声で言う。

 

「患者搬送便へ砲を向ける命令はない」

 

「これは正規の交戦対象ではない」

 

ギレンはうなずきもせず、次の映像へ移る。

 

今度は三十バンチだった。

 

学校前に集まる親子。

 

診療所の廊下。

 

港湾通路の帰宅風景。

 

それから、外へ離れていく小型艇。

 

閉じるハッチ。

 

換気塔へ接続される銀色の筒。

 

切り替わる補助換気ライン。

 

監視映像の中で、通路へ流れ始める白いガス。

 

咳き込み、壁へ手をつく男。

 

布で口元を押さえられる子ども。

 

担架の横で倒れ込む看護師。

 

廊下に止まったままの搬送車。

 

そして最後に、小さな覗き窓越しの映像になる。外へ出られないままハッチを叩く手。その向こうで、赤い表示灯だけが規則正しく点いている。

 

ギレンは、映像が終わるまで一言も挟まなかった。

 

白い画面に戻る。

 

面会室の空気が少しだけ重くなる。

 

机の上には、成分表と、外部ハッチ閉鎖記録と、補助換気ライン切替時刻の一覧が並べられていた。感情を挟まなくても、数字だけで十分に冷酷だった。

 

ギレンが口を開く。

 

「これでも連邦軍の正義か」

 

レビルは答えない。

 

成分表を見る。

 

ハッチ閉鎖記録を見る。

 

連邦小型艇退避時刻。 港湾ハッチ閉鎖時刻。 補助換気ライン切替時刻。

 

数字の並びが、偶然ではないことを物語っていた。

 

レビルは目を閉じた。ほんの短い時間だったが、その短さがかえって深かった。

 

「これは鎮圧ではない」

 

ギレンは一歩だけ詰めた。

 

「続けろ」

 

レビルは目を開けた。

 

「禁止兵器の使用だ」

 

「しかも住民を閉じ込めた上で使っている」

 

「連邦軍の名で隠してはならん」

 

その言葉が部屋の中に落ちると、壁そのものが少し硬くなったように感じられた。

 

ギレンは机の端から一枚の文案を取り上げ、レビルの前へ滑らせた。

 

「ならば、連邦軍の名で言え」

 

表題は簡潔だった。

 

連邦軍に対する公開声明。

 

本文はもっと簡潔だ。

 

三十バンチにおける神経ガス使用の即時調査要求。 関係部隊の行動凍結。 現地証拠保全。 宇宙方面軍の独自行動禁止。 連邦議会への正式報告提出。

 

レビルは黙ってそれを読み、二か所だけ指で押さえた。

 

「ここは変える」

 

ギレンは目だけで先を促した。

 

「使用疑惑、ではない」

 

「使用だ」

 

それからもう一か所。

 

「不幸な事故、もいらん」

 

「住民死傷を伴う区画作戦、で十分だ」

 

書記官がその場で書き換える。紙にペン先が走る音が、やけに鮮明に聞こえた。

 

修正後の文面を見て、レビルはようやく顔を上げる。

 

「これを見てなお黙るなら、連邦軍は自分で自分を殺す」

 

ギレンは、そこで初めてうなずいた。

 

「そうだ」

 

しばらく、誰も喋らなかった。

 

レビルは机の上の生活便の映像記録をちらりと見た。そして三十バンチの資料を見た。

 

「同じ手だな」

 

「一度目は便を止め、二度目は空気を止める」

 

「そういう軍になったのか」

 

ギレンは答えなかった。

 

答える必要もなかった。

 

――――――

 

マ・クベの部屋には、いつも少しだけ美術館のような匂いがある。

 

磨かれた木材と、上等な紙と、古いインクの匂いだ。戦場の指揮室よりも、展示室の裏方に近い。だが机の上に並んだものは、展示品ではなく全部が武器だった。

 

暴徒鎮圧用神経ガス。

 

そう印字された表紙の下に、成分表、濃度表、使用環境一覧が積まれている。

 

高濃度使用時の呼吸障害。 密閉区画使用時の致死率上昇。 児童、高齢者、既往症患者への重大危険。 換気停止状態での使用禁止。

 

さらにその横には、三十バンチで実際に使われた場所の一覧がある。

 

学校区画。 診療所区画。 居住区画。

 

マ・クベは白手袋をした指で、紙を一枚ずつずらしていく。その手つきは料理人のようでもあり、葬儀屋のようでもあった。順番を間違えないことがすべてだという静けさがある。

 

キシリアが少し離れたところで見ていた。

 

「名前だけは立派ですわね」

 

「暴徒鎮圧用神経ガス」

 

マ・クベは、目を上げずに答えた。

 

「名を変えても毒は毒です」

 

「条約違反を鎮圧と書き換えても、死傷者は戻りません」

 

それから彼は、成分表と使用環境一覧を並べ替えた。連邦が逃げようとする順番を、先に塞いでいくのだ。

 

「彼らは名前で逃げる」

 

「なら、こちらは態様で詰める」

 

ペンを取り、短い文を作る。

 

「名称にかかわらず、実施態様は毒ガスによる住民殺傷であり、南極条約違反に該当する」

 

キシリアはその一行を読んで、唇の端だけで笑った。

 

「身も蓋もありませんわね」

 

「身も蓋もないのが事実ですから」

 

そこへギレンが入ってくる。

 

文書へ視線を落とし、一度だけ目を通す。

 

「宇宙向けには証言を前へ出せ」

 

「地球向けにはこれを使う」

 

マ・クベは軽く頭を下げた。

 

「感情で動く相手と、条約で動く相手は分けた方がよろしい」

 

「そのつもりだ」

 

ギレンは文書を持ち上げる。

 

「三十バンチで死んだのは住民だけではない」

 

「連邦政府の建前も一緒に死ぬ」

 

マ・クベはその言葉に何も返さなかった。返す必要がない種類の言葉だった。

 

――――――

 

定例の通信会議は、その日だけ空気が違った。

 

今までは港湾の便数や診療所搬送の枠を詰める場だった。誰がどこまで受け入れるか、どの時間帯なら混まないか、そういう話をする会議だった。

 

だがその日、画面に並ぶ各サイドの代表たちは、誰一人そんな顔をしていなかった。

 

サイド1。

 

サイド2。

 

サイド6。

 

そのほか、いくつかのコロニーの責任者。

 

最初に流されたのは、三十バンチの短い映像だった。

 

学校前の親子。 診療所の担架。 外周ハッチ閉鎖。 換気塔接続。 白いガスの後の通路。 生き残った教師の証言。 白衣の看護師の声。

 

映像が切れたあとも、しばらく誰も口を開かなかった。

 

最初に喋ったのはサイド1の代表だった。声に怒りと疲労が混じっている。

 

「連邦軍を今すぐ退去させたいのは分かっている」

 

「だが、追い出した後をどうする」

 

ギレンは待っていたように答える。

 

「空白期間は公国軍が受ける」

 

「外周警備、換気塔防衛、非常ハッチ管理、期間限定だ」

 

サイド2の代表は、怒るより先に条件を詰めた。

 

「限定とは何日だ」

 

「港湾の中までは入るのか」

 

「撤収条件は誰が決める」

 

ギレンは、永久駐留を匂わせるような言葉は一つも使わなかった。

 

「安全保障空白の暫定受託だ」

 

「期間と範囲は文書で切る」

 

「港湾の中まで入る必要があるなら、その理由を先に書く」

 

サイド6の代表が口を開く。

 

「三十バンチは特別な例だと言われた」

 

「だが、生活便への発砲の後にこれです」

 

「次に特別と言われた場所が、また潰されるのでは意味がない」

 

ギレンは短く返す。

 

「三十バンチは特別な事故ではない」

 

「換気塔、外周ハッチ、非常通路。その鍵をまだ地球側へ預けるなら、次は別のバンチで起こる」

 

反論はなかった。

 

賛成も、まだない。

 

だが議題は完全に変わっていた。

 

便をどう回すか。 薬をどう通すか。

 

その話の上に、誰が換気塔を守るか、誰が外周を見張るか、非常ハッチの鍵を誰が持つか、という話が乗ってきた。

 

三十バンチは、それを強制した。

 

――――――

 

レビル名義の公開声明が出たのは、その日の午後だった。

 

言葉は短かった。

 

三十バンチにおける神経ガス使用の即時調査要求。 関係部隊の凍結。 現地証拠保全。 連邦議会への正式報告。

 

それは単なる抗議文ではなかった。

 

連邦軍の中にいる者たちにとっては、残れという命令ではなく、もう残るなという合図に見えた。

 

宇宙方面軍の補給基地で、燃料割当表を管理していた中佐が、終業前に机の引き出しから小さな記録媒体を抜いた。そこには、三十バンチ以後の物資移動と、どの部隊へ何が優先配分されたかが全部入っている。彼は書類を机の上へきれいにそろえてから、裏口へ消えた。

 

哨戒艦の副長は、当直交代の少し前に、信頼できる乗員だけを呼んだ。制服の上着を脱がせ、認証札を回収し、非常脱出艇の点検を口実に格納庫へ降ろした。そこから先は、艦へ戻らなかった。

 

通信管制の少佐は、公開声明の全文を一度だけ読み返し、端末の画面を閉じた。彼は夜勤の引き継ぎを終えると、そのまま回線保守員の通路へ入り、翌朝まで戻らなかった。

 

地球では、議会付きの連邦軍士官が、制服の襟章だけ外して議員団の避難列に紛れた。連邦を捨てたのではない。だが、強硬派の指揮下へ戻る気もなかった。

 

一斉蜂起は起きない。

 

艦を奪って旗を立てる者もいない。

 

その代わり、連邦軍の神経と血管の一部が、一晩で静かに抜けていく。

 

翌朝、帳簿はあるのに中身を知る者がいない。 艦はあるのに動かし方を知る副長がいない。 回線はあるのに、繋ぎ直せる士官がいない。

 

強硬派から見れば、それは裏切りだった。

 

だが、抜けた側にとっては違う。

 

連邦を捨てたのではない。

 

強硬派に乗っ取られた連邦軍から退避しただけだった。

 

――――――

 

ニューヨークの夜は、静かすぎた。

 

軍庁舎の外壁を撫でる風は弱く、議会宿舎の窓にはいつも通り灯りがともっている。表向きは平穏だ。だが、平穏のふりをしている場所ほど、崩れる時は音を立てない。

 

放送局の裏口に黒い車両が止まる。 通信局の屋上に、警備を名目に増員された兵が立つ。 議会宿舎の前には、見慣れない制服の一団が交代を理由に配置される。 軍庁舎の地下では、幹線回線の切替試験が夜間保守の名目で始まっていた。

 

まだ何も起きていない。

 

だが押さえる場所は全部決まっている。

 

その夜、ブレックス・フォーラは議員室に残っていた。

 

机の上には、三十バンチ資料。 レビル名義の公開声明の写し。 調査要求書の下書き。

 

彼は一枚ずつ読むほど、顔を硬くしていった。

 

三十バンチ。 禁止兵器。 住民死傷。 軍内部の割れ。 議会調査要求。

 

最後の紙を置いた時、彼はほんの少しだけ目を閉じた。

 

「遅すぎたか」

 

誰に向けた言葉でもなかった。

 

だがその部屋の空気は、それを聞いたように重くなった。

 

そこへ、一枚の短い連絡が届く。

 

封も差出人もない。 ただ、白い紙に一行だけ書かれている。

 

今夜、宿舎を離れてください。

 

ブレックスはそれを見て、しばらく無言でいた。

 

それから机の上の資料を一枚ずつ鞄へ入れ始める。

 

三十バンチの証言要約。 レビルの公開声明。 調査要求書。 認証札。 連邦議会議員章。

 

最後に、机の灯りを落とす前にもう一度だけ窓の外を見た。

 

軍庁舎の方向に、黒い車列が増えている。

 

議会宿舎の正門では、警備の交代には多すぎる人数が並び、通信局の屋上には夜間保守の名目で兵が立っていた。

 

それだけで十分だった。

 

「来るか」

 

その一言だけが、暗くなりかけた部屋に残った。

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