総帥府の朝は、いつも少しだけ冷えすぎている。
石の廊下は磨き込まれていて、窓の外の光を薄く返していた。足音はよく響くのに、人の気配はどこかで吸い取られてしまう。そういう建物だった。国家の中心にある建物というのは、たいていそういうふうにできている。音を通しても、感情は通さない。
ギレンの執務室の机の上には、三十バンチから回収されたものが、ひとつずつ距離を置いて並べられていた。
銀色の散布ユニットの破片。
換気塔接続部の固定具。
補助換気ラインの切替記録。
外部ハッチ閉鎖の時刻表。
成分表。
濃度表。
内部監視映像の抜き出し。
学校と診療所の生存者証言。
そして少し離れたところに、生活便への発砲映像。
どれも紙や金属の形をしていたけれど、机の上にあるせいでかえって生々しかった。散布ユニットの破片には、焼けた縁が残っていた。指でなぞればざらつくはずだった。成分表の用紙には赤い印がいくつも付けられていて、そこに書かれているのは薬品名ではなく、ほとんど死に方の一覧だった。密閉区画使用時の致死率上昇。児童、高齢者、既往症患者への重大危険。換気停止状態での使用禁止。
禁止事項の方が、その薬剤の本当の顔をよく語っていた。
ギレンは椅子に座らず、机の横に立っていた。立ったまま資料を二つの束に分けていた。
ひとつは、地球へ返すための束だった。
もうひとつは、宇宙へ見せるための束だった。
扉が静かに開いて、キシリアが入ってきた。紫の軍装は朝の光を吸い込み、胸元の金具だけが小さく冷たく光っていた。彼女は机の上を一目見て、何も言わずに近づいた。
しばらく資料を眺め、それから言った。
「生活便の時より、ずっと悪いですわね」
ギレンは散布ユニットの破片を指先で軽く押さえた。
「悪い、では済まん」
「今回は段取りがある」
キシリアは成分表を一枚めくった。紙の擦れる音が、広い部屋の中でやけに小さく聞こえた。
「兵を外へ出し、扉を閉め、空気を変える」
「住民だけを残すつもりだった」
「ああ」
ギレンは短く答えた。
キシリアは視線を上げる。
「それでも、使えるのですね」
「使う」
ギレンはそう言った。
声に熱はなかった。ただ、刃物を研ぐ時のような静かな手応えだけがあった。
「一度目は、薬剤と教材と患者搬送へ砲を向けた」
「二度目は、学校と診療所と居住区画へ毒を入れた」
「ここで連邦の顔は割れる」
窓の外では、ズムシティの朝の交通が動き始めていた。整った光の筋が、規則正しく交差している。下では人が仕事へ向かい、港では荷が動き、学校へ子どもが吸い込まれていく。そういう秩序が、ここで作られた文書ひとつで崩れることがある。
ギレンは机の端に置かれた呼び出し端末へ手を伸ばした。
「レビルを呼べ」
少し間を置いて、続けた。
「マ・クベもだ」
キシリアはそれ以上何も言わなかった。ただ机の上に並んだ資料をもう一度見た。生活便の焼けた船腹と、三十バンチの換気塔。線で繋げば、そこにあるのは同じ手つきだった。名前が違うだけで、中身は同じだ。そういうものを彼女は前世でもいくつか見ている。
「面白くなってきましたわね」
半分だけ冗談のように言う。
ギレンは机の上の公開声明文案へ目を移した。
「面白い、で済むなら結構なことだ」
――――――
地下の面会室には窓がなかった。
白い壁と白い天井灯と、金属の机と椅子。それだけで部屋はできていた。飾り気がないというより、余計なものを一枚ずつ剥がしていった末に残った形のようだった。そこで人が話すと、声は少しだけ平たくなる。感情が削られるのではなく、輪郭だけが前へ出る。
レビルはすでに椅子に座っていた。
捕虜になってから痩せたが、背筋はまだ軍人のそれだった。肩の線も、机に置いた手も、崩れていない。ただ、目の奥にあるものだけが少し変わっていた。勝ち負けの計算ではなく、もっと古い種類の疲労がそこにあった。
ギレンは座らなかった。机の向こう側に立ったまま、端末の再生装置へ手を置く。
「見てもらう」
レビルは何も返さない。だが視線は端末へ向く。
最初に流れたのは生活便の映像だった。
夜の航路。 進路を塞ぐ連邦艦。 停止命令。 積荷一覧。
診療所向け薬剤。 学校向け教材。 患者搬送。
そこへ落ちるビーム砲。
右舷外板を吹き飛ばす二発目。
その間へ割り込む白い機体。
護衛のネモ。
焼けた船腹。
映像が止まる。
レビルはすぐには何も言わなかった。机の上に置いた手の指が、わずかに動いた。
やがて、低い声で言う。
「患者搬送便へ砲を向ける命令はない」
「これは正規の交戦対象ではない」
ギレンはうなずきもせず、次の映像へ移る。
今度は三十バンチだった。
学校前に集まる親子。
診療所の廊下。
港湾通路の帰宅風景。
それから、外へ離れていく小型艇。
閉じるハッチ。
換気塔へ接続される銀色の筒。
切り替わる補助換気ライン。
監視映像の中で、通路へ流れ始める白いガス。
咳き込み、壁へ手をつく男。
布で口元を押さえられる子ども。
担架の横で倒れ込む看護師。
廊下に止まったままの搬送車。
そして最後に、小さな覗き窓越しの映像になる。外へ出られないままハッチを叩く手。その向こうで、赤い表示灯だけが規則正しく点いている。
ギレンは、映像が終わるまで一言も挟まなかった。
白い画面に戻る。
面会室の空気が少しだけ重くなる。
机の上には、成分表と、外部ハッチ閉鎖記録と、補助換気ライン切替時刻の一覧が並べられていた。感情を挟まなくても、数字だけで十分に冷酷だった。
ギレンが口を開く。
「これでも連邦軍の正義か」
レビルは答えない。
成分表を見る。
ハッチ閉鎖記録を見る。
連邦小型艇退避時刻。 港湾ハッチ閉鎖時刻。 補助換気ライン切替時刻。
数字の並びが、偶然ではないことを物語っていた。
レビルは目を閉じた。ほんの短い時間だったが、その短さがかえって深かった。
「これは鎮圧ではない」
ギレンは一歩だけ詰めた。
「続けろ」
レビルは目を開けた。
「禁止兵器の使用だ」
「しかも住民を閉じ込めた上で使っている」
「連邦軍の名で隠してはならん」
その言葉が部屋の中に落ちると、壁そのものが少し硬くなったように感じられた。
ギレンは机の端から一枚の文案を取り上げ、レビルの前へ滑らせた。
「ならば、連邦軍の名で言え」
表題は簡潔だった。
連邦軍に対する公開声明。
本文はもっと簡潔だ。
三十バンチにおける神経ガス使用の即時調査要求。 関係部隊の行動凍結。 現地証拠保全。 宇宙方面軍の独自行動禁止。 連邦議会への正式報告提出。
レビルは黙ってそれを読み、二か所だけ指で押さえた。
「ここは変える」
ギレンは目だけで先を促した。
「使用疑惑、ではない」
「使用だ」
それからもう一か所。
「不幸な事故、もいらん」
「住民死傷を伴う区画作戦、で十分だ」
書記官がその場で書き換える。紙にペン先が走る音が、やけに鮮明に聞こえた。
修正後の文面を見て、レビルはようやく顔を上げる。
「これを見てなお黙るなら、連邦軍は自分で自分を殺す」
ギレンは、そこで初めてうなずいた。
「そうだ」
しばらく、誰も喋らなかった。
レビルは机の上の生活便の映像記録をちらりと見た。そして三十バンチの資料を見た。
「同じ手だな」
「一度目は便を止め、二度目は空気を止める」
「そういう軍になったのか」
ギレンは答えなかった。
答える必要もなかった。
――――――
マ・クベの部屋には、いつも少しだけ美術館のような匂いがある。
磨かれた木材と、上等な紙と、古いインクの匂いだ。戦場の指揮室よりも、展示室の裏方に近い。だが机の上に並んだものは、展示品ではなく全部が武器だった。
暴徒鎮圧用神経ガス。
そう印字された表紙の下に、成分表、濃度表、使用環境一覧が積まれている。
高濃度使用時の呼吸障害。 密閉区画使用時の致死率上昇。 児童、高齢者、既往症患者への重大危険。 換気停止状態での使用禁止。
さらにその横には、三十バンチで実際に使われた場所の一覧がある。
学校区画。 診療所区画。 居住区画。
マ・クベは白手袋をした指で、紙を一枚ずつずらしていく。その手つきは料理人のようでもあり、葬儀屋のようでもあった。順番を間違えないことがすべてだという静けさがある。
キシリアが少し離れたところで見ていた。
「名前だけは立派ですわね」
「暴徒鎮圧用神経ガス」
マ・クベは、目を上げずに答えた。
「名を変えても毒は毒です」
「条約違反を鎮圧と書き換えても、死傷者は戻りません」
それから彼は、成分表と使用環境一覧を並べ替えた。連邦が逃げようとする順番を、先に塞いでいくのだ。
「彼らは名前で逃げる」
「なら、こちらは態様で詰める」
ペンを取り、短い文を作る。
「名称にかかわらず、実施態様は毒ガスによる住民殺傷であり、南極条約違反に該当する」
キシリアはその一行を読んで、唇の端だけで笑った。
「身も蓋もありませんわね」
「身も蓋もないのが事実ですから」
そこへギレンが入ってくる。
文書へ視線を落とし、一度だけ目を通す。
「宇宙向けには証言を前へ出せ」
「地球向けにはこれを使う」
マ・クベは軽く頭を下げた。
「感情で動く相手と、条約で動く相手は分けた方がよろしい」
「そのつもりだ」
ギレンは文書を持ち上げる。
「三十バンチで死んだのは住民だけではない」
「連邦政府の建前も一緒に死ぬ」
マ・クベはその言葉に何も返さなかった。返す必要がない種類の言葉だった。
――――――
定例の通信会議は、その日だけ空気が違った。
今までは港湾の便数や診療所搬送の枠を詰める場だった。誰がどこまで受け入れるか、どの時間帯なら混まないか、そういう話をする会議だった。
だがその日、画面に並ぶ各サイドの代表たちは、誰一人そんな顔をしていなかった。
サイド1。
サイド2。
サイド6。
そのほか、いくつかのコロニーの責任者。
最初に流されたのは、三十バンチの短い映像だった。
学校前の親子。 診療所の担架。 外周ハッチ閉鎖。 換気塔接続。 白いガスの後の通路。 生き残った教師の証言。 白衣の看護師の声。
映像が切れたあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に喋ったのはサイド1の代表だった。声に怒りと疲労が混じっている。
「連邦軍を今すぐ退去させたいのは分かっている」
「だが、追い出した後をどうする」
ギレンは待っていたように答える。
「空白期間は公国軍が受ける」
「外周警備、換気塔防衛、非常ハッチ管理、期間限定だ」
サイド2の代表は、怒るより先に条件を詰めた。
「限定とは何日だ」
「港湾の中までは入るのか」
「撤収条件は誰が決める」
ギレンは、永久駐留を匂わせるような言葉は一つも使わなかった。
「安全保障空白の暫定受託だ」
「期間と範囲は文書で切る」
「港湾の中まで入る必要があるなら、その理由を先に書く」
サイド6の代表が口を開く。
「三十バンチは特別な例だと言われた」
「だが、生活便への発砲の後にこれです」
「次に特別と言われた場所が、また潰されるのでは意味がない」
ギレンは短く返す。
「三十バンチは特別な事故ではない」
「換気塔、外周ハッチ、非常通路。その鍵をまだ地球側へ預けるなら、次は別のバンチで起こる」
反論はなかった。
賛成も、まだない。
だが議題は完全に変わっていた。
便をどう回すか。 薬をどう通すか。
その話の上に、誰が換気塔を守るか、誰が外周を見張るか、非常ハッチの鍵を誰が持つか、という話が乗ってきた。
三十バンチは、それを強制した。
――――――
レビル名義の公開声明が出たのは、その日の午後だった。
言葉は短かった。
三十バンチにおける神経ガス使用の即時調査要求。 関係部隊の凍結。 現地証拠保全。 連邦議会への正式報告。
それは単なる抗議文ではなかった。
連邦軍の中にいる者たちにとっては、残れという命令ではなく、もう残るなという合図に見えた。
宇宙方面軍の補給基地で、燃料割当表を管理していた中佐が、終業前に机の引き出しから小さな記録媒体を抜いた。そこには、三十バンチ以後の物資移動と、どの部隊へ何が優先配分されたかが全部入っている。彼は書類を机の上へきれいにそろえてから、裏口へ消えた。
哨戒艦の副長は、当直交代の少し前に、信頼できる乗員だけを呼んだ。制服の上着を脱がせ、認証札を回収し、非常脱出艇の点検を口実に格納庫へ降ろした。そこから先は、艦へ戻らなかった。
通信管制の少佐は、公開声明の全文を一度だけ読み返し、端末の画面を閉じた。彼は夜勤の引き継ぎを終えると、そのまま回線保守員の通路へ入り、翌朝まで戻らなかった。
地球では、議会付きの連邦軍士官が、制服の襟章だけ外して議員団の避難列に紛れた。連邦を捨てたのではない。だが、強硬派の指揮下へ戻る気もなかった。
一斉蜂起は起きない。
艦を奪って旗を立てる者もいない。
その代わり、連邦軍の神経と血管の一部が、一晩で静かに抜けていく。
翌朝、帳簿はあるのに中身を知る者がいない。 艦はあるのに動かし方を知る副長がいない。 回線はあるのに、繋ぎ直せる士官がいない。
強硬派から見れば、それは裏切りだった。
だが、抜けた側にとっては違う。
連邦を捨てたのではない。
強硬派に乗っ取られた連邦軍から退避しただけだった。
――――――
ニューヨークの夜は、静かすぎた。
軍庁舎の外壁を撫でる風は弱く、議会宿舎の窓にはいつも通り灯りがともっている。表向きは平穏だ。だが、平穏のふりをしている場所ほど、崩れる時は音を立てない。
放送局の裏口に黒い車両が止まる。 通信局の屋上に、警備を名目に増員された兵が立つ。 議会宿舎の前には、見慣れない制服の一団が交代を理由に配置される。 軍庁舎の地下では、幹線回線の切替試験が夜間保守の名目で始まっていた。
まだ何も起きていない。
だが押さえる場所は全部決まっている。
その夜、ブレックス・フォーラは議員室に残っていた。
机の上には、三十バンチ資料。 レビル名義の公開声明の写し。 調査要求書の下書き。
彼は一枚ずつ読むほど、顔を硬くしていった。
三十バンチ。 禁止兵器。 住民死傷。 軍内部の割れ。 議会調査要求。
最後の紙を置いた時、彼はほんの少しだけ目を閉じた。
「遅すぎたか」
誰に向けた言葉でもなかった。
だがその部屋の空気は、それを聞いたように重くなった。
そこへ、一枚の短い連絡が届く。
封も差出人もない。 ただ、白い紙に一行だけ書かれている。
今夜、宿舎を離れてください。
ブレックスはそれを見て、しばらく無言でいた。
それから机の上の資料を一枚ずつ鞄へ入れ始める。
三十バンチの証言要約。 レビルの公開声明。 調査要求書。 認証札。 連邦議会議員章。
最後に、机の灯りを落とす前にもう一度だけ窓の外を見た。
軍庁舎の方向に、黒い車列が増えている。
議会宿舎の正門では、警備の交代には多すぎる人数が並び、通信局の屋上には夜間保守の名目で兵が立っていた。
それだけで十分だった。
「来るか」
その一言だけが、暗くなりかけた部屋に残った。