サイド7の夜は、人工の灯りでできている。
窓の外に見える港湾灯は、星のようには光らない。白く、少しだけ青く、等間隔に並んでいて、荷役用のアームや移動クレーンの骨組みを照らしている。照らされるたびに鉄骨の影が長く伸び、また短くなる。遠くでシャトルの補助噴射が一度だけ鳴り、その振動が壁を細く伝ってきた。
エドワウの部屋は、港を見下ろす棟の端にあった。
広くはない。机がひとつ、棚が二つ、窓際に細長いソファがひとつ。机の上には三十バンチから上がってきた記録が、まだ片づけられないまま開いていた。外周ハッチ閉鎖の時刻。換気塔の切替記録。生存者の聞き取り。白衣の看護師がどの順で患者を動かしたかまで、几帳面な字で書かれている。
アムロは窓際のソファに座っていた。肘を膝に置き、指を組み、港の灯りを見ている。ララァは机の横に立っていた。靴を脱いでいて、床に置いた細い足の甲が白く見える。
部屋の中では誰も喋っていなかった。
三十バンチのあと、沈黙は前より重くなった。前は考えるための沈黙だったが、今は確認するための沈黙だった。連邦はそこまでやる。もう、それを疑う余地がなくなってしまったからだ。
ララァが、ふいに息を止めた。
右手を机の端に置く。薄い木の天板に、細い指が広がる。
エドワウが顔を上げた。
「来たか」
ララァは目を閉じたまま、ゆっくり頷く。
「一つじゃありません」
少し間を置いて、もう一度言った。
「同じことをする場所が、いくつもあります」
アムロがソファから身を起こす。
「どこだ」
ララァはすぐには答えない。見ているというより、触れているような顔をしていた。
「長い廊下です」
「同じ扉が、ずっと並んでいます」
「革靴の音がします」
「机の上に紙がたくさんあります」
「地図もあります」
エドワウは机の端の地球地図を引き寄せた。
ララァは続ける。
「大きな川の灯が見えます」
エドワウの指が地図の一点で止まる。
「ニューヨークか」
ララァは頷く。
「でも、そこだけじゃありません」
「土の下に、分厚い扉がたくさんある場所があります」
ジャブローだった。
「海が近いです」
「港があって、霧がかかっています」
ベルファスト。
「高い建物が多くて、明るい看板があります」
ホンコン。
「石の色が明るくて、乾いた風が吹いています」
アンマン。
「南の方です」
「広い道と、低い建物が続きます」
シドニー。
エドワウは地図の上に、静かに印をつけていった。ニューヨーク。ジャブロー。シドニー。ホンコン。ベルファスト。アンマン。離れた場所だ。だが、離れているからこそ意味がある。
アムロが低く言う。
「地球の反対側まで含めて、同じ夜にやるつもりか」
エドワウは地図から目を離さなかった。
「議会」
「軍」
「通信」
「港」
「金」
「補給」
彼はひとつずつ指先で押さえた。
「一晩で押さえる気だ」
ララァは唇を少しだけ噛んだ。
「まだ始まっていません」
「でも、決めています」
「兵隊さんが立つ場所を、もう決めています」
部屋の外を、夜勤の整備員が二人通り過ぎた。金属の台車が床の継ぎ目で小さく跳ねる音がする。その音が消えてから、アムロが聞いた。
「誰を動かす」
エドワウはそれにすぐ答えなかった。窓の外の港湾灯を見た。昔、別の名前で、別の制服を着ていた時に見た灯りを少し思い出した。艦橋。作戦室。年を取った軍人の横顔。黙って話を聞き、最後に必要なことだけを言う人だった。
「一人じゃない」
エドワウは言った。
「議員も、士官も、記録を持ってる実務官もだ」
アムロは黙っていた。
「その中でも、先に抜くべき人がいる」
「ブレックスか」
エドワウは頷く。
「前に、あの人の命令で艦を動かした」
それで十分だった。アムロはそれ以上は聞かなかった。
エドワウは地図を畳んだ。
「この人が宇宙へ出られれば、逃げた議員に行き先を出せる」
「軍の側も、散らばらずに済む」
ララァが目を開けた。少し疲れていたが、焦点はきちんと合っていた。
「日にちは、もう見えています」
エドワウは短く言う。
「諜報と合わせる」
――――――
四日後の夜、ルシファー商会の偽装倉庫にはいつもより多くの車が止まっていた。
場所はニューヨーク港湾地区の外れだ。古いレンガ壁と、塩を噴いた鉄骨と、油の匂いが残る低い倉庫が並んでいる。その一つがルシファー商会の名義になっている。昼間は整備部材と洗濯済みの作業服と、民間輸送の小さな荷が出入りする。夜になると、港は音を減らす。遠くで汽笛が鳴り、岸壁に当たる水の音がよく聞こえるようになる。
倉庫の中には折り畳み机が二つ並べられ、その上に地図と書類が広げられていた。
ニューヨーク中心部の地図。 議会宿舎。 軍庁舎別館。 通信局。 議員会館。 河岸の小型艇乗り場。 医療搬送口。 整備搬入口。
それぞれに赤と青の印がついている。
その横にあるのは三種類の紙だった。
ルシファー商会の搬送票。 ルオ商会経由の送金指示。 アナハイム・エレクトロニクスの社内搬送許可証。
紙の質が違う。文字の癖も違う。ルオ商会のものは紙が薄く、数字が細かい。アナハイムのものは活字がきっちりしていて、認証印が無駄に大きい。ルシファー商会の搬送票は、雑に見えて必要な数字だけはやけに正確だ。
現地責任者の男が、耳の端末に手を当てたまま言う。
「議会宿舎の裏の清掃搬出口は二十分だけ空けられます」
痩せた女が、地図の別の場所を指先で押さえた。
「軍庁舎別館は整備搬送名目の車両なら通せる」
「ただし二台が限界です」
若い男が、河岸の図面をめくりながら続ける。
「小型艇は三往復です」
「一度に乗せすぎると目立ちます」
机の端に置かれた端末から、サイド7のエドワウの声がした。
「議会宿舎の裏口を押さえろ」
誰も喋らずに聞く。
「表の車列は囮に使う」
「軍の士官は議員列に混ぜるな」
「記録を持ってる人間を先に出せ」
少し間があって、最後に言う。
「説明する時間は短い」
「でも、逃がす」
現地責任者が短く返す。
「了解」
その夜に抜く対象は、最初から決められていた。
ブレックス・フォーラ。 三十バンチ調査に名前を連ねた連邦議員。 レビル派の将校と副官。 回線ログを持つ通信担当。 燃料割当記録を持つ補給担当。 保険停止と資金凍結の指示を見た口座担当。 艦艇整備に関わる実務士官。 放送局の技術者。
全員ではない。そんなことはできない。だから最初から、何を持っている人間かで分けた。
現地責任者の男が、一覧表を見ながら言う。
「議員会館からは三人まで」
「補佐官は資料持ちを優先します」
女がルオ商会の送金表を指で叩く。
「宿舎職員二名、清掃搬出口一名、河岸検問二名」
「金は別口から落とします。一本で繋がりません」
アナハイムの男が認可証を一枚持ち上げた。
「整備部材回収の名目で軍庁舎別館に入る」
「運転手はうちの名簿にいます」
エドワウの声がまた入る。
「議員章は外させろ」
「襟章も外せ」
「私服に着替えられない連中にはコートを渡せ」
目立つものは全部置いていく。そういう夜だった。
――――――
サイド7では、ララァが通信卓の前に座っていた。
机の上には水の入ったコップと、紙が一枚あるだけだ。余計なものがあると、邪魔になるからだった。ヘッドセットはつけていない。必要ない。彼女が拾うのは音そのものではなく、音の置かれ方だ。
エドワウが横に立つ。アムロは少し後ろで腕を組んでいる。
ララァが静かに言う。
「兵が増えています」
「正門です」
エドワウはニューヨーク班へそのまま流す。
「正面は切れ」
ララァは続ける。
「黒い車が、昨日より多いです」
「宿舎の前に、三列です」
現地の責任者が小さく舌打ちする気配が回線の向こうで混じる。
「予定より二台多い」
「囮を増やす」
エドワウは答える。
「増やせ」
ララァは目を閉じたまま、さらに言う。
「電話が切れます」
「同じ階で、まとめて切れます」
「下の階ではまだ生きています」
エドワウが地図の上で指を動かす。
「三階を切られてる」
「地下へ回せ」
ララァの指が机の布を少し掴む。
「正面の扉には人が立ちます」
「裏は、まだ細く空いています」
「清掃の女が台車を押して通るところです」
これなら具体だった。誰が通るかが見える。
エドワウは現地へ流す。
「裏の清掃搬出口を使え」
「照明が落ちる前に一人目を入れろ」
ララァは少し息を整え、それからまた言う。
「川の方はまだ空いています」
「でも、長くは開きません」
アムロがそこで初めて口を開く。
「どこから先に詰まる」
ララァはすぐ答えた。
「宿舎より先に、軍の建物です」
「そのあと通信」
エドワウはうなずく。
「順番まで決めてる」
その順番がわかるだけで、何人かは助かる。世界はそういうふうにできていた。
――――――
ブレックス・フォーラは、議員室の机で書類を読んでいた。
部屋は広くないが、天井が高い。窓は大きく、そこからニューヨークの夜の灯りが見える。大きな川の向こうに橋の光が並び、遠くの建物の上に赤い航空灯が点滅していた。机の上には三十バンチの証言要約と、レビル名義の公開声明の写しと、明日提出する予定だった調査要求書が並んでいる。
彼は一枚ずつ読み返し、必要な箇所に印をつけていた。手の動きは遅くないが、急いでもいない。長く議場にいた人間の手だった。焦って紙をめくることがない。
そのとき、職員が一枚の紙を置いて去った。
白い紙に一行だけ。
今夜、宿舎を離れてください。
差出人はない。
ブレックスはその紙をしばらく見ていた。それから窓の外を見る。軍庁舎の方角に、黒い車列が増えている。議会宿舎の正門では、警備の交代にしては人数が多すぎた。通信局の屋上にも兵が立っている。
もう十分だった。
「来るか」
彼はそう言って立ち上がる。
机の上の書類を一枚ずつ鞄に入れる。三十バンチ証言。レビル公開声明。調査要求書。議員章は外して内ポケットへ入れた。認証札も外した。机の引き出しに予備の眼鏡と小型端末が入っているのを確認し、それも持つ。
そのあと、同じ派閥の議員に短い伝言を送る。
正面へ出るな。 資料を持て。 宿舎を変えろ。 一人で動くな。
返事は待たない。待てば遅くなる。
彼はすぐに部屋を出なかった。廊下の気配を聞いていた。遠くで革靴の音が揃って動く。階下で電話が切れた音がする。誰かが急ぎ足で階段を上がってくる。
時間が削られていく音だった。
――――――
正面では黒塗りの車列が動き始めた。
窓の暗さまで普段の議員送迎車と同じに作られている。正門の兵たちの視線はそちらへ向く。名簿確認が始まり、運転手の顔を照明が白く照らす。
その裏で、清掃搬出口の鍵が外れた。
白い作業服の女が台車を押して出てくる。積んでいるのは洗濯袋に見える。袋の下には空洞があり、書類ケースが入る。後ろに帽子を深くかぶった男が一人、そのさらに後ろにコートを着た議員が二人続く。誰も急がない。急げば視線が集まる。視線が集まれば終わる。
通路の灯りが、一瞬だけ落ちた。
ララァの言った通りだった。
暗がりの中で、搬送車の後部扉が開く。三人が乗り込む。台車はそのまま残される。扉が閉まり、車は何もなかったように動き出す。
同じ頃、軍庁舎別館では整備部材回収の車が横付けされていた。襟章を外した副官が工具箱を持ったふりをして後部へ乗り込む。その横に燃料割当記録を抱えた補給担当が滑り込む。通信局では若い技官が保守員証を見せ、回線ログの媒体を洗濯袋へ入れて裏階段へ消える。
全部が上手くいくわけではない。
議員会館の裏では、一人の老議員が足を止めた。
「私は残る」
そう言い張る。
案内役は短く言った。
「残っても、明日の議場には入れません」
だが男は首を振る。時間が足りない。若い秘書が泣きそうな顔で資料ケースだけを受け取り、先に走る。老議員はその場に残った。
通信局では、技官が一人遅れた。最後のログを抜き切ろうとして数分を失ったのだ。彼は媒体だけを同僚へ渡し、自分は別の階段へ走った。助かったかどうかは、その時点では誰にもわからない。
全部は救えない。
それでも救う。
その線だけは切らなかった。
ブレックスは最後の方で動いた。若い議員と資料持ちの補佐官を先に出し、自分は一番遅い車に乗った。コートの襟を立て、帽子を深くかぶる。議員章はない。鞄だけがいつもより重い。
搬送車の中には、すでに二人の士官と一人の補佐官がいた。誰も喋らない。車体が小さく軋む。外で兵の声がしたが、扉は開かなかった。運転手が何か書類を見せ、相手がそれをライトで照らし、数秒の沈黙のあとで車がまた動き出す。
その数秒が、やけに長かった。
――――――
河岸へ出ると、風が少し冷たかった。
川の水は黒く、その上に街灯の色だけが揺れていた。小型艇が一隻、岸壁に低く寄せてある。船体は古びて見えるが、機関はよく整備されていた。夜に目立たないためには、速さより見た目の鈍さの方が大切なことがある。
搬送車から降りた人間は、何人かずつ分けられた。
ブレックス。 若い議員二人。 副官。 補給担当。 資料を抱えた補佐官。
別の車からは通信技官と保険記録を持つ口座担当が来る。さらに少し離れた場所では、別ルートで抜けた者たちが別の小型艇へ乗り込んでいた。
ブレックスが案内役に聞く。
「誰が動かした」
案内役は短く答えた。
「エドワウ・マスです」
ブレックスはその名を聞き、すぐには何も言わなかった。知らない若者の名前ではない。だが、どこに置くべき名前かを考えるには、今は時間がなかった。
「そうか」
それだけ言って、小型艇へ乗り込む。
小型艇は岸を離れた。ニューヨークの灯りが少しずつずれていく。軍庁舎の方向には黒い車列。通信局の屋上にはまだ兵が立っている。街そのものは変わらないように見えるのに、見えないところから順に鍵が変わり、回線が切り替わり、人の立つ場所が入れ替わっていく。
遠くで霧笛が鳴った。
ブレックスはコートの襟を押さえた。隣には襟章を外した士官が座っている。向こう側では若い補佐官が資料ケースを胸に抱いていた。誰も喋らない。必要な話はもう終わっている。今はただ、川を渡り、次の車へ乗り換え、朝までに宇宙便へ載ることだけを考えればよかった。
――――――
サイド7へ戻ると、三十バンチの記録はまだ机の上に開いたままだった。
成分表。 ハッチ閉鎖記録。 換気塔切替時刻。 白衣の看護師の証言。
その横に、地球からの短い報告が並ぶ。
ニューヨーク班、最優先対象確保。 議員八、士官五、実務官六。 ホンコン班、口座担当二、記録持ち一。 ベルファスト班、整備士官二。 アンマン班、補給実務官三。 シドニー班、報道技術者二、行政補佐一。
予定の六割だった。
アムロが窓のそばで息を吐く。
「助けきれなかったな」
エドワウは報告書を一枚ずつ見ていった。名前の横に赤い印のある者もいる。行方不明。連絡途絶。残留。そこまで書いてある。
「今夜は、宿舎と庁舎から人を抜いただけだ」
エドワウはそう言った。
「地球そのものは、これから閉じる」
ララァが小さく頷く。
「まだ終わっていません」
「ああ」
エドワウは短く答えた。
机の上の地図を引き寄せる。ニューヨーク。ジャブロー。シドニー。ホンコン。ベルファスト。アンマン。そこから宇宙へ向かう細い線を、彼は指先でなぞった。
抜いたのは、人だった。
議員。 士官。 技官。 補給担当。 記録持ち。
艦も、兵も、首都も、まだ向こうにある。だからこそ、その人たちが必要だった。
窓の外では、シャトル発着場の誘導灯がひとつ消え、またひとつ点いた。夜勤の整備員が小さな搬送車を押して通っていく。いつもの夜と同じように見える。だが地球では、今まさに別の手が、別の灯りを消しにかかっていた。
エドワウは地図から手を離さなかった。
「明日の朝には、名前を持つだろうな」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、アムロもララァも、その意味を聞き違えなかった。