サイド7の居間は、昼でも少し落ち着きがなかった。
窓の外では、建設用のモビルワーカーが長い資材を抱えて歩き、搬送車両が決められた軌道の上をせわしなく行き来している。遠くではシャトルの減速音が響き、そのたびに窓ガラスがわずかに震えた。まだ作りかけのコロニーらしい、金属と樹脂のにおいが換気口から薄く流れ込んでくる。
そんな部屋の空気とまるで関係なく、ニュース端末の画面の中の女性アナウンサーだけは、妙にさわやかな笑顔だった。
「本日より、スペースノイド向け金融制度改革が施行されます。これにより、一定の条件を満たせば、従来よりも簡単に証券口座を開設できるようになります」
アムロが、分解していた小型端末から顔を上げた。
「うわ」
「何、その声」
セイラがカップを持ったまま言う。
「なんか嫌な制度が始まった時の声」
「ぴったりね」
画面には、親切そうな図が出ていた。企業へ投資。少額から参加。未来の資産形成。いかにも立派で、いかにも分かりやすくて、いかにも後で面倒になる言葉が並んでいる。
ララァは、画面の文字をじっと追っていた。
「しょうけん、こうざ」
セイラがララァの方を向く。
「会社にお金を出す仕組みよ。うまくいけば、その会社が大きくなって、持っている人にも得があるの」
「大きくならなかったら?」
「減るわ」
アムロが横から言った。
「そのへんは、ものすごくはっきり減る」
ララァは少し考えた。
「増えたお金は、家族にも送れますか」
セイラの手が止まり、アムロも口を閉じた。
ボンベイの家族のことだと、二人ともすぐに分かった。
「増えれば、ね」
セイラはやわらかく答えた。
「でも、減ることもあるわ」
ララァは小さくうなずいた。そして、本当に何でもないように言った。
「上がる前と、下がる前が分かれば、少しだけ増やせます」
アムロの手が止まった。
セイラは静かにカップを置いた。
数秒の沈黙のあと、アムロが言った。
「待て」
「はい」
「今、すごく危ないこと言った」
ララァはきょとんとした。
「危ない、ですか」
「危ない」
アムロは断言した。
「普通の人は、それが分からない前提でやるんだよ」
「そうね」
セイラも言う。
「だから迷うし、失敗もするの。見えるものではないのよ」
ララァは真面目な顔でニュース端末を見直した。
「……では、難しいのですね」
「そう。だからみんな、やる前は夢を見て、やった後で青くなるんだ」
「それはアムロの感想でしょう」
「感想だけど、たぶん当たってる」
アムロはそう言ってから、ふと眉をひそめた。
「いや待て。誰がそんなこと教えたんだよ」
―――――
ララァは薄い端末を取り上げた。
「動画で教わりました」
「動画ぁ?」
アムロの声が見事に裏返った。
ララァが画面を開く。すぐに、よく日に焼けた日本人の中年男が現れた。背景には観葉植物。笑顔はやたら明るい。声はやたら親切そうだ。
「いいですか、皆さん。株はむずかしくありません」
アムロが即座に顔をしかめた。
「もう怪しい」
「どうしてですか」
ララァが聞く。
「最初に“むずかしくありません”って言う人、だいたい怪しい」
セイラが少しだけ笑う。
画面の中の男は、身ぶりつきで続けた。
「安いときに買って、高いときに売る。それだけです」
「それだけなら、全員もう金持ちだろ」
アムロが言う。
だが男は、動じない。たぶん慣れている。
「最初は少額で始めましょう」
「いきなり大きく儲けようとしてはいけません」
「一つに全部入れず、分けて持ちましょう」
「利益が出たら、一部は欲張らずに確定しましょう」
そこまでは、セイラもわずかにうなずいていた。
だが次の瞬間、男はにっこり笑って言った。
「そして最後に。いまの流れでは、株はもう下がりません」
アムロが端末を指差した。
「最後だけ急に崖から飛んだぞこの人」
ララァは画面の中のおじさんをじっと見ていた。
「この人は、うそを言っていません」
「なんで分かるんだよ」
アムロが聞く。
ララァはきらきらした目で答えた。
「わかります」
「その“わかります”が一番危ないんだって!」
セイラが端末をのぞき込む。
「全部が嘘ではないわ。言い方がずいぶん乱暴なだけ」
「でも、だいたい合っています」
ララァは真顔だった。
「このあと、本当にそうなります」
アムロは天井を見上げた。
「嫌だなあ。未来が見える人が初心者向け動画を見て確信を深めるの」
ララァは首をかしげる。
「いけませんか」
「いけないわけじゃないけど、いけない方向に行ってる」
「それは、いけないのでは」
「そうなんだよ!」
アムロは思わず言った。
セイラは小さく息をつく。
「少額で始めること。増えたら一部を売ること。そこは守るべきね」
「はい」
ララァは素直にうなずく。
「少額で、少しだけ増やします」
アムロが低い声で言った。
「その“少しだけ”が全然信用できないんだよ……」
―――――
翌日、中央ブロックの仮設金融窓口の前には、すでに列ができていた。
まだ看板も新しく、通路の継ぎ目も完全には揃っていない。工員の作業着のまま並んでいる男もいれば、買い物ついでらしい母親もいる。何となく来てみた顔の老人もいた。
入口の横には、大きな字で注意書きが貼られている。
未成年は後見人の同意が必要。
アムロがそれを見て、ぴたりと止まった。
「はい、解散」
「まだ何もしていません」
ララァが言う。
「したも同然だよ。未成年だめって書いてある」
セイラもそれを読んだ。
「後見人の同意、ね」
ララァは少し考えて、自然に言った。
「では、エドワウに頼みます」
「だめ」
アムロが即答した。
「だめね」
セイラも同時に言った。
ララァが二人を見る。
「どうしてですか」
「どうしてもこうしてもない」
アムロは顔をしかめる。
「その話した瞬間に全部ばれるし、絶対止められる」
「しかも理由まで聞かれるでしょうね」
セイラが言う。
「そこで“上がる前と下がる前が分かるから”とは言えないわ」
ララァはそこで少しだけ困った顔をした。
ちょうどその時、通路の向こうから聞き覚えのある声がした。
「だから、その箱は先に左へ寄せてって言ったでしょ。人が通れないと余計に遅くなるの」
ミライだった。作業員に指示を出しながら歩いてきて、三人を見る。
「あれ? 何してるの、こんなところで」
アムロが張り紙を指差した。
「見ての通り。詰んでる」
ミライは事情を聞いて、最初はあきれたような顔をした。
「ララァちゃん、株?」
「はい。ボンベイに送ります」
その一言で、ミライの顔つきが少し変わった。
「……そう」
少し考えてから、ララァに聞く。
「本当に、少しだけ?」
「はい」
「欲張らない?」
「はい」
「増えたからって、また全部入れたりしない?」
ララァは少し考えた。
「送る分を、先に置いておきます」
ミライは腕を組んで、アムロとセイラを見た。
「止める?」
アムロはすぐに答えた。
「止めたい」
セイラは少しだけ口元をゆるめた。
「でも、理由がね」
ミライは短く息を吐いた。
「分かった。後見人、私がやる」
アムロが固まる。
「えっ」
「ただし条件つき」
ミライは指を一本立てる。
「元手は少し」
二本目。
「送る分ができたら先に分ける」
三本目。
「変な勝ち方したら即終了」
アムロがぼそっと言う。
「最初から変な勝ち方する気がするんだけど」
「私もそう思うわ」
セイラが静かに言った。
ララァだけが、まじめにうなずく。
「少しだけです」
「その台詞、今日だけで四回目だぞ」
「増えました」
「まだ増えてない!」
アムロが即座に突っ込んだ。
ミライが吹き出す。
「早いわね」
―――――
窓口の中は、外よりさらに落ち着きがなかった。
係員が慣れない手つきで端末を操作し、別の係員が大きな声で説明している。
「えー、口座の開設が終わりましたら、売買はご自身の端末から行っていただきます」
「利益は売ってはじめて確定します」
「配当は毎日ではありません」
「一つに全部を入れると危険です」
「最初は少額からお願いします」
前の列の男が真剣な顔で聞いていた。
「昨日買えば、今日もうかってたんですか」
「そういう日もありますが、逆もあります」
別の女性が不安そうに言う。
「減るなら、やらない方がよくないですか」
「その判断もあります」
アムロが小声で言った。
「ほら、もう不安そうな人と夢見てる人が同じ列にいる」
「制度だけ先に来たのね」
セイラが答える。
係員が、やや疲れた声で続ける。
「こちらで本人確認を行います。売買は各自の端末でお願いします」
アムロが、ほっとしたように言った。
「よかった……ここでいきなり買い始めるのかと思った」
「してはいけないのですか」
ララァが聞く。
「いけなくはないけど、心の準備が追いつかない」
「誰のですか」
「僕のだよ!」
手続きが進む間、ララァは少し目を伏せていた。周囲のざわめきとは別のものを聞いている顔だった。
「これから、もっと物が動きます」
セイラがララァを見る。
「何が」
「鉄も。空気を送る機械も。食べ物も。薬も。運ぶ船も」
ララァは静かに言った。
「急いで、たくさん」
セイラの表情がそこで少しだけ変わる。
「……戦争ね」
ララァはうなずいた。
アムロが顔をしかめる。
「最悪だな」
ミライも言葉を失った顔になる。
セイラがララァをまっすぐ見た。
「戦争で上がるお金を使うことになるわよ」
ララァは少しだけ黙った。
それから、はっきり答えた。
「それでも、送ります」
その返事は静かで小さかった。
でも、迷ってはいなかった。
アムロは頭をかいた。
「ずるいんだよな、そういう言い方」
「ずるくないです」
ララァは真顔で言う。
「必要です」
ミライが、ふっと笑ってしまった。
「うん。そういうところよね、ララァちゃん」
―――――
手続きを終え、四人は家に戻った。
テーブルの上には端末が並び、その並び方だけ見ると、何だか普通の勉強会みたいだった。内容だけが普通ではない。
ミライが腕を組む。
「いい? 本当に少しだけよ」
「はい」
ララァは真剣にうなずく。
セイラが言う。
「最初は、必要が増えるものから考えましょう。建設、輸送、医療、食料」
「ここはまだ何も足りていないもの」
ミライが補足する。
「建てるにも直すにも運ぶにも、まずそこ」
「みんな必要そうなものから考えるんだな」
アムロが端末をのぞき込んで言う。
「だって、難しいこと分からないし」
「それ、今すごく信用できる初心者の言葉」
アムロが言うと、ミライが肩をすくめた。
「初心者なんだからしょうがないでしょ」
ララァは一覧を見つめ、ある銘柄で指を止めた。
「これは上がります」
「へえ」
アムロはもう驚くより先に疲れた声になっていた。
「何で」
「このあと、慌てて買う人が増えます」
「どうして」
「足りないからです」
「雑だなあ!」
「でも合ってる気はするわね」
セイラが言う。
ミライがララァの手元を見た。
「少しだけよ」
「はい」
ぽん、とララァが軽く触れる。
アムロが身を乗り出した。
「ちょっと待て。今ので買ったのか?」
「はい」
「軽すぎるだろ」
「少しだけです」
「その“少しだけ”が信用できないんだって!」
―――――
上がった。
妙なくらい、きれいに上がった。
ララァは端末を見て、小さく目を丸くした。
「増えました」
それだけの言い方なのに、何だか嬉しそうだった。
ミライが端末を引き寄せる。
「ほんとだ……」
セイラも見て、静かに息を吐く。
「最初でこれは、少しできすぎね」
アムロは腕を組んだまま、画面をにらんでいる。
「たまたまだろ」
「たまたまではありません」
ララァが答える。
「言い切るなよ!」
ララァは昨日の動画を思い出したように言った。
「利益が出たら、一部は確定します」
「え」
ミライが聞き返す。
「半分だけ売ります」
ぽん、と操作する。
アムロが目をしばたたいた。
「そこはちゃんと守るのか」
「はい。欲張らないのです」
ミライが思わず吹き出した。
「えらい。そこはえらい」
セイラも笑う。
「初心者講座を一番まじめに聞いているのは、たぶんララァね」
「聞き方が変なんだよ」
アムロが言った。
「前提がおかしいんだよ」
ララァは端末を見ながら、少し考えた。
「……みんな、どうして見えないのに買うのですか」
三人が一瞬黙る。
ミライが最初に言った。
「見えないから、考えるのよ」
セイラが続ける。
「見えないから失敗もするし、当たった時はうれしいの」
アムロはぼそっと付け足した。
「だいたいは失敗するけど」
「夢がないわね」
「現実は大体そうだよ」
―――――
数日後には、ボンベイに送る分はきちんと確保できてしまった。
ミライはそこで、きっぱり言った。
「はい、終了」
ララァは素直にうなずいた。
「はい」
アムロが、ほっと息をつく。
「やっと終わった……」
だが、ララァは続けた。
「では次は、みなさんの生活費が上がる前に、少し増やします」
アムロが、がばっと顔を上げた。
「なんでそうなるんだよ!」
「食べ物も、電気も、これから高くなります」
ララァは真顔で言う。
「だから、その前に少し」
「だめ」
ミライが即答した。
「では、もう一回だけ」
「その“もう一回だけ”が一番危ないんだって!」
アムロが叫ぶ。
セイラは笑いをこらえながら言った。
「ララァは欲がないのに、止まらないのよね」
「欲がないから止まらないんだよ!」
アムロが返す。
「自分のためじゃないって顔でどんどん行くじゃないか!」
ララァは少し考えた。
「……いけませんか」
三人が黙る。
そこがずるいのだ。
本人に悪気がない上に、言っていることのかなりの部分が正しい。
ミライが額に手を当てた。
「こういう時に限って正論を混ぜてくるのやめて」
「混ぜていません」
ララァは真顔だった。
「最初からです」
「そういうところ!」
―――――
問題は、証券会社の向こう側でも起きていた。
端末での売買記録はきちんと残る。
口座開設直後。
少額。
異様に高い勝率。
しかも欲張らず、機械みたいに一部を利確している。
ララァ本人はまったく気づいていなかった。
「少し増やして、送って、残りを置いてあるだけです」
本当に、そのくらいの感覚なのだ。
だからこそ、仮設窓口の建物を出たところで、後ろから聞こえた静かな声に、少し嬉しそうに振り向いた。
「何を置いてあるんだい」
全員が固まった。
エドワウだった。
アムロは目を閉じた。
終わった、という顔だった。
セイラは視線をそらす。
ミライは、観念したように片手を上げたくなるのをこらえている。
ララァだけが、少しだけ笑って言う。
「エドワウ。増えました」
エドワウは端末を受け取り、画面を見る。
約定履歴。
利益。
勝率。
長くはない沈黙が落ちた。
けれど、その長くなさが逆に怖い。
「……誰が口座を作らせた」
静かな声だった。
ミライが、おそるおそる手を挙げる。
「私」
アムロは目をそらす。
セイラは、今ここに紅茶があれば少しはましなのに、という顔をしていた。
ララァは空気を読まず、端末をもう一つ差し出す。
「でも、この人はうそを言っていませんでした」
そこにはK・アサクラの動画が開かれていた。
ちょうど画面の中のおじさんが、にこやかに言う。
「株はもう下がりません!」
エドワウが無言になる。
アムロが両手で顔を覆った。
「最悪だ……」
ララァはきらきらした目でエドワウを見上げた。
「次は、下がる前に売ります」
「だからそれを普通に言うな!」
アムロの声が、仮設窓口前の通路にきれいに響いた。
通りかかった作業員が、何ごとかという顔でこちらを見た。
ララァは少しだけ驚いた顔をしたあと、小さく首をかしげる。
「でも、その方が安全です」
エドワウは、画面の数字とララァの顔を交互に見た。
それから、ゆっくり言った。
「……とりあえず、今日は全部話してもらおうか」
アムロは心の底から思った。
ああ、やっぱりこうなった、と。