サイド7の居間には、生活というものの音がしていた。
窓の外では、搬送車両が短い警告音を鳴らしながら曲がっていく。建設用のモビルワーカーが、長い資材を抱えたまま器用に向きを変える。遠くでシャトルの減速音が響き、そのたびに窓ガラスが、ぶうん、と小さく鳴った。まだ作りかけのコロニーらしい、金属と樹脂のにおいが換気口から薄く流れ込んでくる。
そんな中で、ミライは卓上端末の明細を見て、ううん、と唸っていた。
「食費も上がってるのよねえ」
「また?」
アムロが顔をしかめる。
「また」
ミライは真顔だった。
「輸送費が上がれば食べ物も上がるし、人が増えれば足りなくなるし、足りなくなればまた上がるし」
「嫌な話だなあ」
「嫌な話よ。しかもね」
ミライは端末を指で送る。
「電気代もじわじわ上がってるの」
アムロが身を乗り出した。
「うわ、本当だ」
「まだこれからよ」
セイラが静かに言った。
「仮設区画も増えるし、空調も照明も搬送設備も使う。人が増えれば、そのぶん消費も増えるもの」
「つまり」
アムロがまとめる。
「何をしても高くなる?」
「雑だけど、だいたいそうね」
「最悪だ」
ララァは、少し離れたところで端末を見ていた。
画面の中では、例の日本人のおじさんが、やたらと安心させる声で話している。
「いいですか、皆さん。物価が上がるとき、何が起きるか」
アムロが横目で見る。
「また見てるのか」
「はい」
ララァは素直にうなずいた。
「分かりやすいです」
画面の中のおじさんは続ける。
「支出は増えます。でも同時に、その流れで伸びる会社もあります」
「流れで伸びる会社」
ミライが、つい画面を覗き込む。
「例えば電気代が上がる。そうすると、電力会社や関連企業はどうなるか」
「単純に考えれば、利益が増える可能性があります」
セイラが小さくうなずいた。
「理屈としてはそうね」
「つまり」
おじさんは、ここぞという顔になった。
「払うだけではなく、その流れに乗る、という考え方もあるのです」
ララァが、そこでぱち、とまばたきをした。
それから、静かに言った。
「……電気代が上がります」
アムロが顔をしかめる。
「その言い方やめろよ。妙に本当っぽいんだよ」
「本当です」
「やめろって!」
ミライが、こわごわ聞く。
「どのくらい?」
「少しずつですが、続きます」
セイラが明細を見たまま言う。
「需要増、設備負担、資材高。十分あり得るわね」
ミライは深いため息をついた。
「節約しないと」
ララァがすぐに言う。
「では、無駄を減らします」
「お」
アムロがちょっと感心した顔をする。
「今のは普通だな」
「普通ね」
セイラも同意する。
ララァはすっと立ち上がると、まず照明を一つ落とした。
次に、誰も使っていない端末の待機状態を切った。
続いて、空調の設定を一段だけ見直す。
それから少し考えて、台所の補助灯を消そうとして、ミライに止められた。
「それはだめ。料理の時に困る」
「はい」
また少し考え、今度はアムロの机の上の作業灯に手を伸ばした。
「それもだめ!」
アムロが慌てて止める。
「今いじってる途中なんだよ!」
「でも、今は使っていません」
「あとで使うんだよ!」
「あとで」
ララァは素直に手を引っ込めた。
それから部屋を見回して、しばらく本気で考え込み、やがて言った。
「……でも、必要な分は減らせません」
「そうなのよ」
ミライが即座に答えた。
「そこなの。無駄は減らせても、必要な分ってあるのよ」
「生きてる限り電気は使うしな」
アムロが言う。
「だから厄介なんだよ」
ララァは少しだけ黙った。
画面の中のアサクラが、ちょうど言う。
(なおこの動画主はジオンのアサクラとは別人である。胡散臭さは似ているが。)
「払うだけではなく、その流れに乗る」
ララァは、その言葉に、はっとしたように顔を上げた。
「……では、減らすのではなく、増やします」
部屋が静かになった。
アムロがゆっくり聞く。
「何を」
ララァは真顔で答えた。
「電気代です」
さらに静かになった。
ミライが瞬きをする。
「ごめん、もう一回」
「電気代を増やします」
「全然分からない」
アムロが言う。
「意味が分からない」
セイラだけが、少し考えてから言った。
「……電力株ね」
ララァがそちらを見る。
「はい」
ミライがセイラを見る。
「待って、どういうこと?」
「払う分が増えるなら、その前に、その流れで上がる会社の株を少し持っておく」
セイラは落ち着いて説明する。
「電気代の上昇そのものは止められなくても、そこで出る負担を、別の形で相殺するという考え方ね」
ミライが、あ、と顔をした。
「払うお金を、先に稼ぐってこと?」
「そう」
セイラがうなずく。
ララァも真面目にうなずく。
「はい」
アムロは頭を抱えた。
「理屈は分かる。分かるけど、やってることは怖い」
「怖くありません」
ララァが言う。
「電気代です」
「そこなんだよ! その言い方が怖いんだよ!」
アサクラは画面の中で、にこにこしている。
何だか少し腹が立つ。
―――――
その日の午後、テーブルの上には四台の端末が並んだ。
並びだけ見ると、普通の勉強会か家計相談みたいだった。やっていることだけが普通ではない。
「いい?」
ミライが腕を組む。
「本当に少しだけよ」
「はい」
ララァは素直に返事をした。
その素直さが、最近は逆に怖い。
セイラが端末を覗き込む。
「同じ“電気”でも会社はいろいろあるわ。電気を作る会社、送る設備に関わる会社、燃料に関わる会社、空調や制御装置を作る会社」
「もうこの時点で難しい」
アムロが言う。
「初心者向けじゃない」
「初心者向けに言うと」
ミライが指を折る。
「電気代が上がる時に得しそうな会社、ってこと」
「それなら分かる」
「雑だけどね」
セイラが言う。
ララァは銘柄一覧を静かに見ていた。
指先が、いくつかの名前の上で止まって、また動く。
「これは先に上がります」
「うん」
アムロが疲れた顔で返す。
「さらっと言うな」
「こちらはあとです」
「うん」
「これは、思ったほど上がりません」
「うん……って、何でそんな普通に仕分けしてるんだよ」
ララァは一覧を見たまま答える。
「違うからです」
「雑!」
「でも、そういう答え方する時って当たるのよね」
ミライが言う。
「嫌よね」
セイラも同意する。
ララァの指が、一つの銘柄で止まった。
「これです」
「少しだけよ」
ミライが念を押す。
「はい」
ぽん、と軽く触れる。
アムロが身を乗り出した。
「ちょっと待て。今ので買ったのか?」
「はい」
「軽い! やることのわりに動きが軽い!」
「少しだけです」
「その“少しだけ”が信用できないんだって!」
ララァは買付完了の画面を見て、少し安心したようにうなずいた。
「これで電気代は大丈夫です」
「消えたわけじゃないからな!?」
アムロが言う。
「なくなってはいないからな!?」
「相殺しようとしてるだけよ」
ミライも言う。
ララァは、はい、とまた素直にうなずいた。
たぶん分かっていない。
―――――
証券会社の監視部門は、今日もだいたい退屈で、たまにだけ退屈ではなかった。
「またこの口座です」
若い担当が言う。
「また?」
隣のベテランが顔を上げた。
「また、です」
画面に出た約定履歴を見て、ベテランの眉が少し動く。
「今度は電力セクターか」
「小口です。でもタイミングが早すぎます」
「毎回そうだな」
若手が画面を拡大する。
「内部情報でしょうか」
「違うな」
ベテランは即答した。
「違いますか」
「情報を持ってる人間の買い方じゃない。もっと雑で、もっと素直すぎる」
「素直すぎる?」
「結果だけ見て、そこに触ってるみたいな買い方だ」
若手はちょっと嫌そうな顔をした。
「怖い言い方やめてください」
「怖いから仕方ない」
ベテランは別の画面を開く。
「それよりこっちだ。この銘柄、このあと大きい資金が入る予定の流れになってる」
「大口ですか」
「ああ。何か準備してる」
若手はララァ口座の小さな買いと、その先に控えている出来高の波を見比べた。
「……嫌な予感しかしません」
「うん」
ベテランが言う。
「今のところ、毎回当たってる」
―――――
別の場所では、別の種類の退屈しない人間たちがいた。
「この銘柄、先に拾ってる小口がいる」
広い机の向こうで、資料を見ていた男が言う。
「前もいたな」
別の男が答える。
「同じ口座です」
「同じ?」
「ええ。以前、資材関連でも、輸送でも、妙に早く入っていた」
短い沈黙があった。
誰かが言う。
「情報漏れか?」
「そういう買い方じゃない」
「偶然?」
「偶然にしては回数が多い」
先に気づいた男が、指先で画面を叩く。
「……この口座を基準にしよう」
「は?」
「こちらの予定は変えない。ただ、この口座が先に入ったものは、優先順位を一段上げる」
「個人口座を?」
「個人だろうが何だろうが、先に見つけてるなら使える」
言い方は軽かったが、やることは軽くなかった。
こうして、ララァの小さな買いのあとに、大きな資金が静かに流れ込むことになった。
ララァは知らない。
知っていたところで、たぶん困るだけだ。
―――――
上がった。
しかも、思ったより勢いよく上がった。
ララァは端末を見て、小さく目を丸くした。
「増えました」
「早すぎる!」
アムロが叫ぶ。
「何でそんなすぐ反応するんだよ!」
「今回もなの?」
ミライが頭を抱える。
セイラは画面を見て、少し首をかしげた。
「でも、今回は上がり方が強いわね」
「強いです」
ララァはうなずく。
「電気代が出ます」
「だから言い方が怖い!」
アムロが言う。
「利益だからな! 電気代そのものが生えてきたわけじゃないからな!」
「生えません」
ララァが真顔で答える。
「そうだよ!」
ミライが吹き出す。
「会話が全然整理されない」
ララァは端末を見つめ、しばらく考えたあと、静かに言った。
「少し余りました」
アムロが即答した。
「余るな」
「では近くの人の分も」
「やめろ」
「このブロックも」
「広げるな!」
ミライも慌てて止める。
「ララァちゃん、それはもう家計じゃないの。公共料金の思想なの」
「こうきょう」
ララァは少し考える。
「大きいですか」
「大きいわよ」
セイラが答える。
「とても」
ララァは素直にうなずいた。
「では、近くの人までにします」
「縮めたようで全然縮まってない!」
アムロが言う。
ミライは額を押さえた。
「なんでこの子、善意で規模を壊すのかしら……」
―――――
証券会社の監視部門では、退屈しない時間がさらに増していた。
「入ってきました」
若手が言う。
「来たか」
ベテランが画面を見る。
ララァ口座のあとに、大きな買いが何本も続いている。
「やっぱり大口が乗った」
「この口座、利用されてるんですか?」
「逆だな」
ベテランは首を振る。
「利用してる側が、この口座を見てる」
若手が引いた。
「そんなことあります?」
「ある時はある」
「嫌ですね」
「嫌だな」
ベテランも同意する。
「小口の個人口座が、大口にとって“変な目印”になってる」
若手はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「そろそろ接触を考えた方がいいのでは」
「違法の証拠はない」
「でも危ない」
「危ないな」
ベテランは約定履歴を見て、ゆっくり言った。
「口座そのものじゃなく、保護者か責任者に話を通せるなら、その方が早いかもしれない」
若手は口座情報を開き、また嫌そうな顔になった。
「未成年」
「だろうな」
「さらに嫌です」
「うん」
ベテランは小さくため息をついた。
「すごく嫌だ」
―――――
家では、利益確定をめぐって小さな会議が始まっていた。
「今回はまだ上がるんじゃないか?」
珍しくアムロがそう言った。
「早すぎるかも」
ミライも迷う。
セイラは画面の波を見ている。
「誰か大きいのが入っているのかもしれないわね」
ララァは静かにうなずいた。
「はい」
「はい?」
アムロが聞き返す。
「あと少し上がります。でも、そのあと急ぎます」
「何が」
ララァは真顔で答えた。
「たくさん持っている人たちです」
部屋が少しだけ静かになった。
ミライが、おそるおそる言う。
「前にも言ってたわよね、その“たくさん持っている人たち”」
「はい」
「見えるの?」
「動きます」
ララァは簡単に言う。
「大きく」
セイラが小さく息を吐いた。
「機関の買いを感じてるのね」
「普通に言うけど、普通じゃないからなそれ」
アムロが言う。
ララァは画面を見つめ、ちょうどいいところで半分を利確した。
数分後、さらに少しだけ上がった。
アムロが言う。
「ほら、やっぱりもうちょっと待てたじゃないか」
「でも、このあと揺れます」
本当に、そのあと揺れた。
上がって、下がって、また戻して、忙しい。
ミライが端末を見て目を丸くする。
「……嫌になるくらいちょうどいい」
「うん」
アムロはもう、ちょっと遠い目をしていた。
「嫌になるな」
―――――
帰り道、仮設窓口の建物の前を通ったところで、後ろから静かな声がした。
「ずいぶん楽しそうだね」
全員が止まった。
アムロは目を閉じる。
「来た」
セイラは視線を横へそらす。
ミライは肩をすくめる。
ララァだけが、少し嬉しそうに振り向いた。
「エドワウ」
エドワウは四人の前で立ち止まり、ララァの端末に視線を落とした。
「見せてくれるかい」
ララァは素直に差し出す。
「増えました」
「そうだろうね」
エドワウは画面を見る。
約定履歴。
利益。
出来高。
その周辺の流れ。
少しの沈黙。
長くはないのに、まるで長い。
「……今回は、誰かが君を見ている」
ミライが青ざめる。
「やっぱり?」
アムロが言う。
「やっぱりなのかよ……」
ララァは首をかしげた。
「見られていましたか」
「そこじゃない!」
アムロがすかさず突っ込む。
エドワウは端末を返しながら言う。
「君の読みは正しかった。だが、そのあとに入ってきた資金がある」
「たくさん持っている人たちです」
ララァが答える。
「そう」
エドワウは静かにうなずいた。
「そして、その連中が君の動きを目印にしている可能性がある」
ミライが嫌そうな顔をする。
「それ、かなり嫌な話よね」
「かなり嫌だね」
エドワウも珍しく即答した。
ララァは少しだけしょんぼりした顔になる。
「では、買わない方が良かったですか」
アムロが黙る。
ミライも黙る。
セイラが静かにララァを見る。
エドワウはすぐには答えなかった。
その間が、少しだけ優しかった。
「目的自体は間違っていない」
やがてエドワウは言った。
「だが、やり方は考えないといけない。君が正しくても、周りが正しく動くとは限らないからね」
ララァは小さくうなずいた。
「はい」
それから、少しだけためらって言う。
「でも、電気代は用意できました」
エドワウが、そこで初めて少しだけ表情を変えた。
「……その必要はない」
「はい?」
今度はアムロが聞き返した。
ミライも目を丸くする。
セイラは、あ、という顔をした。
エドワウは淡々と言う。
「この家の電気代は、すでにこちらで処理している」
沈黙。
風が通路を抜ける。
遠くで搬送車両の警告音が鳴る。
誰も、すぐには何も言えなかった。
最初に声を出したのはアムロだった。
「は?」
ミライも続く。
「え?」
ララァはきょんとした顔でエドワウを見る。
「……では」
少し考える。
かなり真面目に考える。
それから、静かに言った。
「利益が残りました」
アムロが天を仰いだ。
「そうなるよな!」
ミライが笑いながら額を押さえる。
「そうなるわよねえ!」
セイラは口元を押さえて笑った。
「本末転倒ね」
ララァは困ったようにエドワウを見る。
「いけませんでしたか」
「いけない、というより」
エドワウは少しだけ疲れた顔で言う。
「方向がずれていた」
「でも、増えました」
「増えたね」
「はい」
「そうだね」
アムロが横から言う。
「納得するなよ!」
ミライがまだ笑っている。
「だって、怒りにくいのよこの子。善意しかないんだもの」
「善意で市場を触るなよ……」
アムロの声は、半分くらい本気だった。
ララァはしばらく考え込み、それから顔を上げた。
「……では、次は食費を先に」
全員が止まった。
アムロが叫ぶ。
「何も学んでない!」
ミライも慌てる。
「待って待って、今、米とか輸送とか考えてる顔してる!」
セイラが目を閉じた。
「早いわ」
エドワウだけが、深く深くため息をついた。
ララァは本気で善意しかない顔で言う。
「必要です」
その必要は、たぶんある。
あるのだが。
あるのだが、それをララァに考えさせていいのかどうかは、また別の話だった。