サイド7の居間は、このところ少しだけ平和だった。
少しだけ、である。
窓の外では、搬送車両が今日も忙しそうに行き来し、建設用モビルワーカーが長い資材を抱えたまま器用に向きを変えている。遠くでシャトルの減速音が響くたびに、窓ガラスがぶうんと小さく鳴った。まだ作りかけのコロニーらしい金属と樹脂のにおいが、換気口から薄く流れ込んでくる。
ただ、少なくとも今日の昼までは、株で何かが起きる気配はなかった。
ミライは、その平和を大事にしたかった。
「とりあえず」
ミライはテーブルの向こうで、びし、と人差し指を立てた。
「しばらく株はお休みね」
「そうだな」
アムロがすぐにうなずく。
「もう十分だろ。電気代の件でだいぶやらかしたし」
「やらかしてはいません」
ララァが真顔で言う。
「結果は出ています」
「そこが問題なんだよ!」
アムロが言った。
セイラが静かに続ける。
「一度距離を置くのも必要よ」
「はい」
ララァは素直にうなずいた。
その素直さに、全員が少しだけ不安になる。
ララァは、そのまま静かに端末を見ていた。
アムロの目がすうっと細くなる。
「……何見てる?」
「動画です」
「嫌な予感しかしない」
「まだ始まっていません」
「始まる前から嫌なんだよ!」
ララァは端末を少しだけ持ち上げた。
「オジキです」
アムロの動きが止まった。
「……誰?」
「オジキです」
「だから誰だよ!」
端末の画面には、あの見慣れた年配の男性が映っていた。きちんとしたネクタイに、少し目立つ柄の上着。背後の大型画面にはチャートが出ている。
ミライが吹き出す。
「またあの人?」
「はい」
ララァは少し嬉しそうに答えた。
「オジキです」
「呼び方が完全に定着してる……」
アムロが嫌そうな顔をする。
ララァは画面を少し傾けた。
「みなさん、そう呼んでいます」
コメント欄には、流れる文字。
オジキ来た
今日もオジキ頼む
オジキ信じてる
ミライが肩を震わせる。
「ほんとにオジキだわ」
「親しみと敬意が混ざっているのね」
セイラが、少しだけ面白そうに言う。
その時、画面の中のオジキが、穏やかな顔で言った。
「いいですか、皆さん。株にはもう一つの方法があります」
アムロが即座に反応する。
「やめろ」
「まだです」
「今からだろ!」
オジキは、にこやかに続けた。
「それは、持っていない株を売る方法です」
部屋が止まった。
「え?」
ミライが先に声を出す。
「……信用取引ね」
セイラが小さく言う。
「はい終了!」
アムロが立ち上がった。
「動画終了! はいおしまい!」
ララァが端末を守るように抱える。
「まだ説明の途中です」
「途中で止めるべきやつなんだよ!」
しかしオジキは止まらない。
「将来、株価が下がると思うなら、先に売って、あとで安く買い戻す」
「それによって利益を狙うことができるのです」
ララァの目が、静かに大きくなった。
「持っていないものも売れます」
「そのまま言うな!」
アムロが叫ぶ。
「言葉にすると余計に危ない!」
―――――
動画を止めたあとも、部屋の空気はしばらく止まったままだった。
最初に口を開いたのはミライだった。
「ええと」
ミライは慎重に言葉を選ぶ。
「今のはつまり、下がる方でも儲けられるってこと?」
「そうね」
セイラが答える。
「株を借りて売って、あとで安く買い戻せば、その差額が利益になる」
「怖い」
ミライが即答する。
「怖いわね」
セイラもすぐに同意した。
「失敗した時の損失が大きい」
アムロが腕を組む。
「上がる方だけでも十分危ないのに、何で逆まで増やすんだよ」
ララァは真顔で、今の説明を自分の中にきちんと入れていた。
「減る前に売れます」
「その言い方やめようか!」
アムロが言う。
「普通の人はそれができないから苦労するんだよ!」
「できます」
ララァは静かに言った。
また部屋が止まった。
セイラが小声で言う。
「できるのが問題なのよね」
「そうなのよねえ……」
ミライも遠い目でうなずく。
ララァは、少しだけためらってから言った。
「……実は」
アムロが嫌そうな顔になる。
「嫌な前置きだな」
「黙っていましたが」
「さらに嫌だな!」
ララァは端末を操作した。
「信用口座が使えるようになっていました」
沈黙。
「は?」
アムロ。
「え?」
ミライ。
セイラが、ゆっくり聞く。
「……いつから?」
「少し前です」
「少し前っていつだよ!」
アムロが叫ぶ。
ララァは、淡々と通知画面を見せた。
そこには丁寧な文面が並んでいた。
お客様の取引実績に基づき、信用取引のご利用が可能となりました。
ミライが頭を抱えた。
「何で通るのよこれ!」
「普通は審査があるはずだけど……」
セイラも眉をひそめる。
ララァは素直に言った。
「通りました」
「通るな!」
アムロが机を叩く。
「勝手に通るな!」
「優しいです」
「違う意味で怖い!」
ララァは少し考えてから、静かに付け足した。
「オジキも、可能性が広がりますと言っていました」
「そのオジキはお前に広げてほしくない!」
―――――
証券会社の監視部門では、その「可能性」は別の意味で広がっていた。
「信用、開きましたね」
若い担当が言う。
「開けたな」
隣のベテランが、画面から目を離さず答える。
「よかったんですか?」
「よくはない」
「ですよね」
画面にはララァの口座情報と、過去の取引履歴が並んでいる。
勝率が高い。
損切りが異常に早い。
利確が妙に機械的に正確だ。
「ただ」
ベテランが短く言った。
「見えるようにはなった」
「観察ですか」
「そうだ」
「嫌な言い方ですね」
「仕事だ」
若手は口を曲げる。
「仕事でも嫌です」
「俺も嫌だ」
ベテランは、淡々と別画面を開いた。
「問題はここからだ。現物ならまだ規模が小さい」
「信用だと違いますか」
「上下どちらでも取れる」
「はい」
「つまり、誰かがこの口座を見ていた場合、使い道が増える」
若手は顔をしかめた。
「嫌な言い方ですね」
「だから仕事だ」
ベテランは繰り返したが、声の半分くらいは本音だった。
―――――
別の場所でも、別の人間たちが、嫌そうな顔をしていた。
「例の口座、信用に入りました」
大きな机の向こうで端末を見ていた男が言う。
「売りでも使えるようになったのか」
「そうです」
「面倒だな」
「かなり」
別の男が、短く息を吐く。
「これまでは買いの目印だった。今度は売りの目印にもなる」
「目印として優秀すぎるな」
「優秀なのが一番困る」
短い沈黙。
「追うだけでは危険かもしれません」
「分かっている」
「なら」
「まず見る。次に考える」
言葉は短かったが、空気は重かった。
ララァは知らない。
自分の小さな売買が、大きな人間たちに「目印」として扱われ始めていることを。
―――――
居間では、そんなことは知らないまま、アムロが最後の抵抗を試みていた。
「やるなよ?」
アムロは、両手を前に出した。
「本当にやるなよ?」
「少しだけです」
「その言葉、もう禁止にしたい」
「確認だけしてみるのはいいんじゃない?」
ミライが言う。
「確認だけ」
アムロが振り向く。
「確認だけ?」
「確認だけよ」
ミライは、たぶん本気でそう思っていた。
「どの銘柄でも空売りできるわけじゃないわ」
セイラが一覧を見ながら言う。
「そして、下がると思っても、その前に一度踏み上げられることもある」
「もう十分怖い」
アムロがぼやく。
「初心者向けじゃない」
「初心者向けじゃないことを、初心者が覚えちゃったのよ」
ミライが言う。
ララァは静かに一覧を見つめていた。
「これは下がります」
「うん」
アムロが疲れた声で返す。
「さらっと言うな」
「これは途中で少し上がります」
「嫌な情報が増えた」
「これは急ぎます」
「何が」
「売る人たちです」
セイラが小さく息を吐いた。
「売り圧力の流れを感じているのね」
「その表現も怖い!」
アムロが言う。
ララァの指が、一つの銘柄で止まった。
「これです」
「やるの?」
ミライが聞く。
「はい」
「やるのね……」
ぽん、と。
軽い音がした気がした。
もちろん実際には、音などしない。
でも、全員の気持ちとしては、そうだった。
「売れました」
「その報告の仕方も怖い!」
アムロが言う。
「何でそんな可愛い声で危ないことができるんだよ!」
ララァは少し考えた。
「危なくないです」
「危ないんだよ!」
―――――
下がった。
しかも、嫌なくらい綺麗に下がった。
ララァは端末を見て、小さくうなずく。
「増えました」
「方向が逆なだけでやってること同じ!」
アムロが叫ぶ。
「何でそんな綺麗に取れるんだよ!」
「減る前に売ったからです」
「だからその言い方をやめろ!」
ミライも端末をのぞき込み、顔をしかめた。
「今回、下げが強いわね……」
「ええ」
セイラも画面を見たまま答える。
「ララァの規模では動かない。誰かが乗っているわ」
「やっぱりか」
アムロが嫌そうな顔になる。
ララァは端末を見つめたまま、少し考える。
「たくさん持っている人たちです」
「またその人たちか」
「はい」
ララァは真顔だ。
「急いでいます」
「嫌だなあ……」
アムロが言った。
「何でそんなのまで分かるんだよ……」
株価はさらに下がった。
ララァは、ちょうど良さそうなところで利確する。
「ここで戻ります」
「何が」
「値段です」
本当に、そのあと少し戻した。
ミライが両手で顔を覆う。
「嫌な精度」
「うん」
アムロも同意する。
「すごく嫌」
セイラは画面の値動きを見ながら、眉を寄せた。
「……下げ方が雑ね」
「雑?」
アムロが聞き返す。
「売りが売りを呼んでいる感じ。誰かが慌てて逃げている」
ララァは静かに言う。
「長く持っている人たちです」
「それ、機関?」
ミライが聞く。
「たぶん」
セイラが答えた。
「しかも、あまり身軽じゃない側の」
アムロは何だか嫌な気持ちになった。
「身軽じゃないって、どういう」
「年金とか、長期資金とか」
セイラはあっさり言った。
「簡単に逃げられないお金」
部屋が少しだけ静かになった。
ララァは端末を見ていた。
「……いけませんでしたか」
「いや」
アムロはすぐには言えなかった。
「ララァのせいっていうか、その……」
「市場が過剰反応したのね」
セイラが静かに言う。
「ララァの売りはきっかけで、そのあと大きいお金が勝手に崩れただけ」
「でも嫌だわ」
ミライが言う。
「結果だけ見るとすごく嫌」
―――――
連邦軍関連年金運用部門では、誰も可愛い顔はしていなかった。
「まだ切れていないのか」
「長期保有前提です。すぐには」
「下げが加速している」
「売りが連鎖しています」
「何が始点だ」
「小口です」
「小口?」
「ええ。小さい売りが先に入って、そのあとに大口の追随が」
部屋が冷える。
「ふざけているのか」
「ふざけていません」
「連邦軍年金のポジションが、小口の先回りで崩れたと言うのか」
「正確には、その小口を見た別の資金が」
「同じことだ!」
机を叩く音が響く。
報告書の束が少しだけ揺れた。
「評価損の見込みは」
「……大きいです」
「どのくらい」
答えた数字に、誰もすぐには何も言わなかった。
言っても減らないからだ。
―――――
夕方のニュース端末は、いつもより少し真面目な声をしていた。
「本日の宇宙圏インフラ関連銘柄の急落を受け、連邦軍関連年金運用の一部に大幅な評価損が生じた可能性があることが分かりました」
アムロが固まる。
「え」
ミライが端末を見る。
「ええ」
セイラは目を細めた。
「やっぱり、そこまで行ったのね」
ララァはニュース端末を見て、それから自分の端末を見た。
「……増えました」
「そこだけブレないのやめろ!」
アムロが叫ぶ。
「ララァのせいじゃないけど怖いんだよ!」
「結果だけ見ると最悪なのよ!」
ミライも言う。
ララァはしょんぼりした顔になる。
「いけませんでしたか」
「ララァが悪いわけではないわ」
セイラが静かに言う。
「悪いのは、市場を追いかけて崩れた連中の方」
「でも、すごく後味が悪い」
アムロが言う。
「すごく分かる」
ミライも同意した。
―――――
「……今度は何をしたんだい」
その声で、全員が止まった。
アムロは、ああ来た、という顔で目を閉じる。
ミライは肩をすくめる。
セイラは静かに姿勢を正した。
ララァだけが、少し嬉しそうに顔を上げる。
「エドワウ」
「うん」
エドワウは四人の前で立ち止まり、端末とニュース画面を見比べた。
「見せてくれるかい」
ララァは素直に差し出す。
「減る前に売りました」
「そういう問題ではない」
エドワウが即答したので、アムロは少しだけ安心した。
そこはすぐ否定してくれるらしい。
エドワウは履歴を見る。
信用取引。
利確の位置。
値動き。
ニュース。
少しの沈黙。
短いのに、やはり怖い。
「……信用は禁止だ」
「当然!」
アムロが元気よく言う。
「ほんとそれ!」
ミライもすぐに同意する。
ララァは素直にうなずいた。
「はい」
その素直さに、誰も安心できない。
エドワウは静かに言った。
「今回は、君の動きを見ていた連中がいた。そして、そのさらに外側で、大きな資金が巻き込まれた」
「連邦軍年金ファンドね」
セイラが言う。
「そう」
エドワウはうなずいた。
「ララァが崩したわけではない。だが、きっかけの一つにはなった」
ララァは少しだけしょんぼりした。
「では、いけませんでしたか」
「目的が悪いわけではない」
エドワウはすぐには責めなかった。
「だが、使われる側に回るのは危険だ」
ララァは小さくうなずく。
「はい」
それから、少しだけ考えて言った。
「……では、下がる前はやめます」
「えらい!」
ミライがぱっと言う。
アムロも一瞬だけ明るい顔になる。
「お、学んだ?」
ララァは真顔で続けた。
「上がる前だけにします」
「戻るな!」
アムロが叫ぶ。
「一歩進んで半歩どころか元の場所に帰るな!」
ミライが笑ってしまう。
「だめだ、かわいいのにだめだ」
セイラはため息まじりに言った。
「根本が変わっていないわね」
エドワウだけが、深く、ほんとうに深くため息をついた。
ララァは本気で善意しかない顔で言う。
「必要です」
必要なのは、分かる。
分かるのだが。
その必要と、市場に手を出すことの間には、大人が思っているよりずっと深い溝があるらしかった。