妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第186話 願いの先

 

 

格納庫の朝は、灯りの白さに反して薄暗く見えた。

 

白い隔壁の下の方には昨夜の煤が筋になって残り、床の鉄板には外した装甲板と空の潤滑剤缶が並んでいる。ネモの脚の下には工具箱がいくつも開いたまま置かれ、点検灯の青白い光が配線の束を照らしていた。天井のクレーンは止まっているが、整備兵の靴音と金属を当てる音が絶えず響いている。

 

エマリー・オンスは三番機の肩の横でしゃがみ込み、指先で装甲の継ぎ目を押した。

 

「そこ、開けないでください」

 

若い整備兵が慌てて手を引っ込めた。

 

「すみません」

 

「謝らなくていいです。先に肩の下を開けます。右腕から外すと、火器リンクをまたつなぎ直すことになります」

 

彼女は工具を受け取り、固定具を外した。金具がひとつ外れるたび、短い金属音が指の先で鳴る。肩の中へ手を入れ、配線束を少し持ち上げる。焦げた被膜の匂いがまだ残っていた。

 

「右肩、反応が遅れています」

 

隣で端末を見ていた整備兵が眉を寄せる。

 

「まだ数字、出ていません」

 

「いま出ます。予備ケーブルは第二ラックの下です。長い方を持ってきてください」

 

「はい」

 

整備兵は駆けていった。

 

エマリーは配線束の一本を爪で押した。被膜がわずかに沈む。そこだけ色が浅く変わっている。

 

戻ってきた整備兵に彼女は言った。

 

「これです」

 

「見ただけで分かったんですか」

 

「見ただけではありません。焼け方で分かります」

 

言いながら、古いケーブルを外し、新しいものを差し込む。手首を返す動きは速いのに、端子を痛める雑さはない。

 

格納庫の奥では、リック・ディアスの脚部装甲を外す音が続いていた。誰かが床に落としたレンチを拾い、別の場所では台車の車輪が鉄板の継ぎ目で鳴る。

 

ホワイトベースは昨夜の戦闘を艦の中に残したまま朝を迎えていた。

 

エマリーは肩の配線を押し込み、固定具を締める。

 

その時、焦げた装甲の縁に指が触れた。

 

昨夜、格納庫の灯りが一度だけ揺れた瞬間が戻ってくる。艦が横に振られ、頭上の影が流れた。回線の向こうから、短い声が飛んできた。

 

追うな。

 

あの一言だけが、他の音よりもはっきり残っていた。

 

「オンスさん?」

 

整備兵に呼ばれ、エマリーは顔を上げた。

 

「三番機、午後には戻せます」

 

「そんなに早くですか」

 

「戻します。午前のうちに右肩を終わらせてください。火器リンクは私が見ます」

 

立ち上がる。

 

作業服の膝に付いた埃を払う間もなく、彼女は次の機体へ向かった。

 

―――

 

グラナダ工場の事務区画は、艦の格納庫よりも音が乾いていた。

 

灰色の壁。机の上に並ぶ端末。棚に差し込まれた申請書の束。照明の光は均一で、どこを見ても同じ色をしている。搬出デッキの向こうでは、ネモの脚部が固定具に噛まれたまま静かに並んでいた。

 

「前倒しは無理だ」

 

輸送担当の男は、端末から顔も上げずに言った。

 

「今週は他のラインも詰まっている。君の都合だけで枠は動かせん」

 

エマリーは机の前に立ったまま、画面を見た。表示されている輸送枠の表には、埋まっている便と空いている便がある。空いている二本を、彼女は最初から確認していた。

 

「この二本、空いています」

 

男はそこでようやく顔を上げた。

 

「予定変更が入るかもしれん」

 

「入ってから止めてください。いまは空いています」

 

「言い方がきついな」

 

「急いでいるので」

 

男は息を吐いた。

 

若い技術者が、上の都合も知らずに無理を言っている。最初はそんな顔だった。だがエマリーの視線は机の上の数字から逸れない。

 

「ネモ六機、予備部材を分けても載ります。残りは別便で回せます」

 

「別便を押さえるのだって簡単じゃない」

 

「押さえます」

 

「君がか」

 

「必要なら」

 

男は指先で机を叩いた。

 

「前線、前線と君は言うがね。現場はどこも足りていない」

 

「止まった機体は帰ってきません」

 

その言葉だけ、少しだけ硬かった。

 

男は黙り、もう一度表を見た。

 

エマリーは申請書を机の手前へ引き寄せた。

 

「責任欄は私が書きます」

 

「勝手に決めるな」

 

「決めていません。急がせています」

 

別の部屋では、管理部門の女が露骨に顔をしかめた。

 

「この便を回したら、うちの予定が崩れます」

 

「崩さないように、こっちで予備部材を分けます」

 

「簡単に言わないで」

 

「簡単ではありません」

 

エマリーは端末を机に置いた。

 

「だから先に来ました」

 

上役の部屋ではもっと回りくどいやり取りになった。言葉は丁寧になり、拒否の形も柔らかくなったが、結論は同じだった。通せない。待て。順番だ。

 

エマリーはそのたびに、順番が来るまで待って壊れる機体の話をした。工場から見れば数字の一つでも、前へ出た機体には脚があり、腕があり、乗る人間がいる。

 

彼女は、本当の理由を一度も言わなかった。

 

ブライトのいる場所へ早く行きたい。

 

そのために機体も部材も、ひとつでも先に動かしたい。

 

そんな言葉を口にしたところで、通るわけがない。

 

だから彼女は、数字と枠と責任欄だけで押した。

 

押し切った。

 

若いくせに面倒な女だ、と何人かが思ったはずだ。

 

それでよかった。

 

―――

 

傾いた床の上で、靴が滑った。

 

壁のどこかが破れ、そこから火花が吹いた。赤い警報灯が点いては消え、煙の中で形を失う。ひと息吸うたび胸の奥が焼けるように痛んだ。誰かが遠くで叫んでいる。何を言っているのかは分からない。

 

視界の端で、天井の配管が外れた。

 

次に来る衝撃を待つしかない、そんな一瞬だった。

 

そこで浮かんだのは、立派な言葉ではなかった。

 

任務でも、忠誠でも、意地でもない。

 

もう少し早く。

 

もう少し近く。

 

ただそれだけだった。

 

もっと早い時間に。

 

もっと近い場所で。

 

あの人のそばにいたかった。

 

その願いだけが、息の苦しさよりも先に来た。

 

口の中に鉄の味が広がる。

 

光が裏返る。

 

音が遠のく。

 

その最後まで、彼女が手放さなかったのは、その願いだった。

 

―――

 

ホワイトベースの通路は、昼になるとさらに狭くなった。

 

壁際に積まれた補給箱が通る幅を削り、搬送係が肩をすぼめて抜けていく。通信兵が端末を抱えて走り、整備兵が長い工具を持って曲がり角を回る。まだ新しい艦は、人を歩かせる順番を覚えていない。

 

エマリーは端末を片手に、その隙間を抜けた。

 

前からブライト・ノアが歩いてくる。

 

資料端末を持ち、視線は少し下を向いている。だが足は止まらない。前を横切る搬送係と、壁際の箱と、右から出てくる通信兵をまとめて見て、ぶつからない幅だけ残して進んでくる。

 

「候補生さん」

 

ブライトが足を止めた。

 

「ネモ三番機、午後には戻せます」

 

「早いな」

 

「急がせました」

 

「君がか」

 

「必要だったので」

 

その時、二人の間を搬送係が抜けた。箱の角がブライトの肘に当たりかけ、彼は半歩だけ避ける。

 

エマリーはそこで次の話へ移る。

 

「格納庫の帰投導線、まだ詰まっています。今のままだと戻った機体の脚が箱に当たります」

 

「夕方までに空けさせる」

 

「お願いします」

 

それだけだった。

 

通路には人がいる。

 

彼女は仕事の顔のまま横へ退く。ブライトも立ち止まらずに進む。すれ違う瞬間、彼の制服の袖に金属の匂いが少しだけ移っているのに気づいた。ブリッジの椅子に座り続けた男ではなく、艦の中を歩き回ってきた男の匂いだった。

 

エマリーは視線を正面へ戻した。

 

そのまま歩く。

 

だが、胸の中では別の声が立ち上がっていた。

 

会えた。

 

本当に。

 

こんなに早く。

 

こんなに近く。

 

神様ありがとう、と言いたくなるほど早く。

 

その言葉が胸の中で形になりかける。

 

けれど、通路を曲がった先の壁際に出ていた補給遅延の一覧が、それを止めた。

 

予備コネクタ、冷却配管、装甲材、弾薬補充。

 

並んだ数字を見るだけで分かる。

 

連邦軍は崩れかけている。

 

物が遅れ、人が足りず、前へ出る者にそのしわ寄せが集まる。昨日の戦闘で通った声は、次も使われる。短い命令を出せる者は、次の戦闘でも前へ立たされる。

 

会えた喜びのすぐあとに、その現実が来る。

 

エマリーは端末を閉じた。

 

そしてまた歩き出した。

 

―――

 

食堂の片隅は、格納庫より少しだけ人間の匂いが濃い。

 

金属の皿に固いパンと薄いスープ。若い整備兵とパイロットが肩をぶつけるように座り、短い笑い声があちこちで立っては消える。

 

エマリーは空いた席に腰を下ろした。

 

篠崎アレンが先に口を開く。

 

「昨日、あれでよく戻れましたよ」

 

「戻ってきたから言えますね」

 

エマリーはスプーンを持ったまま答えた。

 

「冷たいなあ」

 

「甘くするとまた壊します」

 

ミゲル・ソアレスが横で小さく笑う。

 

「それはそうだ」

 

向かいの整備兵が言った。

 

「候補生、案外やりますね」

 

エマリーの手が止まった。

 

スプーンの先から、スープが皿に一滴落ちる。

 

「案外、じゃ」

 

そこまで言って、彼女は言葉を切った。

 

篠崎が首を傾げる。

 

「え?」

 

エマリーはスプーンを置いた。

 

「……昨日は、よかったです」

 

「そこ、言い直すところですか」

 

「あります」

 

「何でです」

 

「命令が短い人は助かります。現場は忙しいので」

 

言いながら、彼女は皿を少し押した。

 

本当は違う。

 

命令が短いから助かる、だけではない。

 

あの声を、彼女は知っている。

 

まだ若く、まだ細い。けれど芯だけは同じだった。

 

ミゲルはその先を聞かなかった。若いくせに、そのあたりの止め方を知っている顔だった。

 

食堂の向こうで誰かがトレーを落とし、怒鳴られている。日常の音が戻ってきている。その中で、エマリーだけが少し静かだった。

 

―――

 

ブリッジでは、戦闘記録が無音で再生されていた。

 

正面スクリーンの端に敵艦の動き。下に味方の位置。右端に損傷報告。ブライトは中央で立ち、腕を組まずにそれを見ている。目だけが動いていた。

 

パオロ・カシアスは席を立たずに言った。

 

「午後までに次の配置案を出せ」

 

「はい」

 

「昨日と同じでは駄目だ。相手も見る」

 

「分かっています」

 

「口で分かるな。紙にしろ」

 

「はい」

 

ブライトは端末を持って振り返った。

 

候補生として艦に上がった若者は、もう見て覚えるだけの立場ではない。昨日の戦闘で前へ出た声は、次の紙を書かされる場所まで押し上げられている。

 

そのことを、エマリーはその場で見てはいなかった。

 

だが、見なくても分かる。

 

昨日の声は、次を呼ぶ。

 

―――

 

夜の格納庫は、昼よりも音がよく響いた。

 

作業灯は必要な場所だけ点いていて、ネモの脚とリック・ディアスの胸の影が床に長く落ちている。遠くでレンチが一度鳴り、しばらくしてからまた静かになる。

 

エマリーは整備台の端に端末を置き、戦闘記録の音声を再生した。

 

追うな。

 

艦の前を空けるな。

 

右を半歩下げろ。

 

短い。

 

無駄がない。

 

彼女は一度止め、また最初から再生する。

 

言葉の数は少ないのに、艦と機体が動いているのが分かる声だった。前へ出させるところと、止めるところがきちんと分かれている。

 

エマリーは端末を伏せなかった。

 

もう一度だけ再生する。

 

そのたびに胸の中で二つのものが起きる。

 

ひとつは喜びだ。

 

前の人生で見た男の片鱗が、こんなに早くここにある。まだ若く、まだ出来上がっていないのに、もうそこへ繋がっている。

 

もうひとつは、もっと冷たいものだった。

 

この声が通るほど、彼は前へ押し出される。誰より先に判断を求められ、誰より先に責任を背負わされる。

 

会いたかった。

 

そのために戻ってきた。

 

だが、会えたことそのものが、彼を楽にするわけではない。

 

願ったのは自分だ。

 

早く近くで会いたい、と。

 

その願いが叶った場所は、甘い再会のための場所ではなく、壊れかけた軍の艦の中だった。

 

エマリーは端末の音を止めた。

 

指先に力が入り、関節が白くなる。

 

それでも画面は消さない。

 

見なければいけないと思った。

 

会えたのなら、その先も見なければならない。

 

―――

 

格納庫へ降りる脇通路は、人の流れが切れやすい。

 

壁の照明は昼より落ちていて、床の端にだけ白い線のように光が残る。エマリーが曲がり角を回ると、向こうからブライトが来た。

 

二人とも少しだけ足を止める。

 

「記録、見ました」

 

エマリーが言うと、ブライトは少しだけ眉を上げた。

 

「悪いところばかりだっただろう」

 

「そんなことありません」

 

彼女はそこで半歩だけ近づきかけて、止まった。

 

誰もいない。

 

だからこそ、距離を間違えると壊れる。

 

「……ああいう声を、最初から出せる人は多くないです」

 

ブライトは返事の前に一拍置いた。

 

「そういうものか」

 

「そういうものです」

 

向こうから足音が近づいてくる。

 

エマリーはすぐ横へ退いた。

 

「三番機、明日には出せます」

 

「助かる」

 

「助けます」

 

その一言だけ、少し強くなった。

 

ブライトは何か言いかけた。

 

だが、曲がり角の向こうから整備兵が現れたので、エマリーは先に会釈して通り過ぎる。

 

ブライトはその背中を見た。

 

助けます。

 

技術者としてなら当然の言葉だ。

 

なのに、妙に残る。

 

彼にはまだ、その理由が分からない。

 

―――

 

格納庫の隅で、エマリーはネモの装甲に手を置いた。

 

冷えた金属の感触が掌に返る。遠くで作業灯がひとつ落ち、白い壁の明るさが少しだけ弱くなる。整備兵の笑い声が短く聞こえ、誰かがあくびをした。

 

その中で、彼女だけがまだ動かない。

 

ブライトに会うためだけに戻ってきた。

 

そのことだけは、もう言い逃れしない。

 

勉強も、仕事も、アナハイムでの立ち回りも、輸送枠をねじ込んだことも、全部そのためだった。死ぬ間際に残った願いがそれしかなかったのだから、他に組みようがない。

 

願いは叶った。

 

驚くほど早く。

 

神様ありがとう、と胸の中で言いたくなるほど早く。

 

だが、人生はそこから先の方が長い。

 

連邦軍は崩れかけている。

 

艦は削られ、物は遅れ、彼はもう前へ出され始めている。

 

ならば、やることは一つだ。

 

恋を言うのはまだ早い。

 

泣くのも、縋るのも、願いが叶ったと喜ぶのも、全部まだ早い。

 

先にやるのは、三番機を戻すことだ。

 

次の戦闘までに導線を空けることだ。

 

必要な部材をねじ込み、整備兵の手を足し、戻ってくる機体の脚が箱に当たらないようにすることだ。

 

彼が余計な穴を背負わずに済むように、先に埋めることだ。

 

それが今の自分の仕事だと、エマリーは掌の下の金属で確かめた。

 

手を離す。

 

そして歩き出す。

 

格納庫の奥では、まだ消していない作業灯が彼女の影を長く床へ引いていた。




何かZZの脚本書いていた人って女性らしく、子供には良くわからない世界を出してたな。
それをよしとしちゃうあの年代もどうだったかと思うけど。
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