格納庫の朝は、灯りの白さに反して薄暗く見えた。
白い隔壁の下の方には昨夜の煤が筋になって残り、床の鉄板には外した装甲板と空の潤滑剤缶が並んでいる。ネモの脚の下には工具箱がいくつも開いたまま置かれ、点検灯の青白い光が配線の束を照らしていた。天井のクレーンは止まっているが、整備兵の靴音と金属を当てる音が絶えず響いている。
エマリー・オンスは三番機の肩の横でしゃがみ込み、指先で装甲の継ぎ目を押した。
「そこ、開けないでください」
若い整備兵が慌てて手を引っ込めた。
「すみません」
「謝らなくていいです。先に肩の下を開けます。右腕から外すと、火器リンクをまたつなぎ直すことになります」
彼女は工具を受け取り、固定具を外した。金具がひとつ外れるたび、短い金属音が指の先で鳴る。肩の中へ手を入れ、配線束を少し持ち上げる。焦げた被膜の匂いがまだ残っていた。
「右肩、反応が遅れています」
隣で端末を見ていた整備兵が眉を寄せる。
「まだ数字、出ていません」
「いま出ます。予備ケーブルは第二ラックの下です。長い方を持ってきてください」
「はい」
整備兵は駆けていった。
エマリーは配線束の一本を爪で押した。被膜がわずかに沈む。そこだけ色が浅く変わっている。
戻ってきた整備兵に彼女は言った。
「これです」
「見ただけで分かったんですか」
「見ただけではありません。焼け方で分かります」
言いながら、古いケーブルを外し、新しいものを差し込む。手首を返す動きは速いのに、端子を痛める雑さはない。
格納庫の奥では、リック・ディアスの脚部装甲を外す音が続いていた。誰かが床に落としたレンチを拾い、別の場所では台車の車輪が鉄板の継ぎ目で鳴る。
ホワイトベースは昨夜の戦闘を艦の中に残したまま朝を迎えていた。
エマリーは肩の配線を押し込み、固定具を締める。
その時、焦げた装甲の縁に指が触れた。
昨夜、格納庫の灯りが一度だけ揺れた瞬間が戻ってくる。艦が横に振られ、頭上の影が流れた。回線の向こうから、短い声が飛んできた。
追うな。
あの一言だけが、他の音よりもはっきり残っていた。
「オンスさん?」
整備兵に呼ばれ、エマリーは顔を上げた。
「三番機、午後には戻せます」
「そんなに早くですか」
「戻します。午前のうちに右肩を終わらせてください。火器リンクは私が見ます」
立ち上がる。
作業服の膝に付いた埃を払う間もなく、彼女は次の機体へ向かった。
―――
グラナダ工場の事務区画は、艦の格納庫よりも音が乾いていた。
灰色の壁。机の上に並ぶ端末。棚に差し込まれた申請書の束。照明の光は均一で、どこを見ても同じ色をしている。搬出デッキの向こうでは、ネモの脚部が固定具に噛まれたまま静かに並んでいた。
「前倒しは無理だ」
輸送担当の男は、端末から顔も上げずに言った。
「今週は他のラインも詰まっている。君の都合だけで枠は動かせん」
エマリーは机の前に立ったまま、画面を見た。表示されている輸送枠の表には、埋まっている便と空いている便がある。空いている二本を、彼女は最初から確認していた。
「この二本、空いています」
男はそこでようやく顔を上げた。
「予定変更が入るかもしれん」
「入ってから止めてください。いまは空いています」
「言い方がきついな」
「急いでいるので」
男は息を吐いた。
若い技術者が、上の都合も知らずに無理を言っている。最初はそんな顔だった。だがエマリーの視線は机の上の数字から逸れない。
「ネモ六機、予備部材を分けても載ります。残りは別便で回せます」
「別便を押さえるのだって簡単じゃない」
「押さえます」
「君がか」
「必要なら」
男は指先で机を叩いた。
「前線、前線と君は言うがね。現場はどこも足りていない」
「止まった機体は帰ってきません」
その言葉だけ、少しだけ硬かった。
男は黙り、もう一度表を見た。
エマリーは申請書を机の手前へ引き寄せた。
「責任欄は私が書きます」
「勝手に決めるな」
「決めていません。急がせています」
別の部屋では、管理部門の女が露骨に顔をしかめた。
「この便を回したら、うちの予定が崩れます」
「崩さないように、こっちで予備部材を分けます」
「簡単に言わないで」
「簡単ではありません」
エマリーは端末を机に置いた。
「だから先に来ました」
上役の部屋ではもっと回りくどいやり取りになった。言葉は丁寧になり、拒否の形も柔らかくなったが、結論は同じだった。通せない。待て。順番だ。
エマリーはそのたびに、順番が来るまで待って壊れる機体の話をした。工場から見れば数字の一つでも、前へ出た機体には脚があり、腕があり、乗る人間がいる。
彼女は、本当の理由を一度も言わなかった。
ブライトのいる場所へ早く行きたい。
そのために機体も部材も、ひとつでも先に動かしたい。
そんな言葉を口にしたところで、通るわけがない。
だから彼女は、数字と枠と責任欄だけで押した。
押し切った。
若いくせに面倒な女だ、と何人かが思ったはずだ。
それでよかった。
―――
傾いた床の上で、靴が滑った。
壁のどこかが破れ、そこから火花が吹いた。赤い警報灯が点いては消え、煙の中で形を失う。ひと息吸うたび胸の奥が焼けるように痛んだ。誰かが遠くで叫んでいる。何を言っているのかは分からない。
視界の端で、天井の配管が外れた。
次に来る衝撃を待つしかない、そんな一瞬だった。
そこで浮かんだのは、立派な言葉ではなかった。
任務でも、忠誠でも、意地でもない。
もう少し早く。
もう少し近く。
ただそれだけだった。
もっと早い時間に。
もっと近い場所で。
あの人のそばにいたかった。
その願いだけが、息の苦しさよりも先に来た。
口の中に鉄の味が広がる。
光が裏返る。
音が遠のく。
その最後まで、彼女が手放さなかったのは、その願いだった。
―――
ホワイトベースの通路は、昼になるとさらに狭くなった。
壁際に積まれた補給箱が通る幅を削り、搬送係が肩をすぼめて抜けていく。通信兵が端末を抱えて走り、整備兵が長い工具を持って曲がり角を回る。まだ新しい艦は、人を歩かせる順番を覚えていない。
エマリーは端末を片手に、その隙間を抜けた。
前からブライト・ノアが歩いてくる。
資料端末を持ち、視線は少し下を向いている。だが足は止まらない。前を横切る搬送係と、壁際の箱と、右から出てくる通信兵をまとめて見て、ぶつからない幅だけ残して進んでくる。
「候補生さん」
ブライトが足を止めた。
「ネモ三番機、午後には戻せます」
「早いな」
「急がせました」
「君がか」
「必要だったので」
その時、二人の間を搬送係が抜けた。箱の角がブライトの肘に当たりかけ、彼は半歩だけ避ける。
エマリーはそこで次の話へ移る。
「格納庫の帰投導線、まだ詰まっています。今のままだと戻った機体の脚が箱に当たります」
「夕方までに空けさせる」
「お願いします」
それだけだった。
通路には人がいる。
彼女は仕事の顔のまま横へ退く。ブライトも立ち止まらずに進む。すれ違う瞬間、彼の制服の袖に金属の匂いが少しだけ移っているのに気づいた。ブリッジの椅子に座り続けた男ではなく、艦の中を歩き回ってきた男の匂いだった。
エマリーは視線を正面へ戻した。
そのまま歩く。
だが、胸の中では別の声が立ち上がっていた。
会えた。
本当に。
こんなに早く。
こんなに近く。
神様ありがとう、と言いたくなるほど早く。
その言葉が胸の中で形になりかける。
けれど、通路を曲がった先の壁際に出ていた補給遅延の一覧が、それを止めた。
予備コネクタ、冷却配管、装甲材、弾薬補充。
並んだ数字を見るだけで分かる。
連邦軍は崩れかけている。
物が遅れ、人が足りず、前へ出る者にそのしわ寄せが集まる。昨日の戦闘で通った声は、次も使われる。短い命令を出せる者は、次の戦闘でも前へ立たされる。
会えた喜びのすぐあとに、その現実が来る。
エマリーは端末を閉じた。
そしてまた歩き出した。
―――
食堂の片隅は、格納庫より少しだけ人間の匂いが濃い。
金属の皿に固いパンと薄いスープ。若い整備兵とパイロットが肩をぶつけるように座り、短い笑い声があちこちで立っては消える。
エマリーは空いた席に腰を下ろした。
篠崎アレンが先に口を開く。
「昨日、あれでよく戻れましたよ」
「戻ってきたから言えますね」
エマリーはスプーンを持ったまま答えた。
「冷たいなあ」
「甘くするとまた壊します」
ミゲル・ソアレスが横で小さく笑う。
「それはそうだ」
向かいの整備兵が言った。
「候補生、案外やりますね」
エマリーの手が止まった。
スプーンの先から、スープが皿に一滴落ちる。
「案外、じゃ」
そこまで言って、彼女は言葉を切った。
篠崎が首を傾げる。
「え?」
エマリーはスプーンを置いた。
「……昨日は、よかったです」
「そこ、言い直すところですか」
「あります」
「何でです」
「命令が短い人は助かります。現場は忙しいので」
言いながら、彼女は皿を少し押した。
本当は違う。
命令が短いから助かる、だけではない。
あの声を、彼女は知っている。
まだ若く、まだ細い。けれど芯だけは同じだった。
ミゲルはその先を聞かなかった。若いくせに、そのあたりの止め方を知っている顔だった。
食堂の向こうで誰かがトレーを落とし、怒鳴られている。日常の音が戻ってきている。その中で、エマリーだけが少し静かだった。
―――
ブリッジでは、戦闘記録が無音で再生されていた。
正面スクリーンの端に敵艦の動き。下に味方の位置。右端に損傷報告。ブライトは中央で立ち、腕を組まずにそれを見ている。目だけが動いていた。
パオロ・カシアスは席を立たずに言った。
「午後までに次の配置案を出せ」
「はい」
「昨日と同じでは駄目だ。相手も見る」
「分かっています」
「口で分かるな。紙にしろ」
「はい」
ブライトは端末を持って振り返った。
候補生として艦に上がった若者は、もう見て覚えるだけの立場ではない。昨日の戦闘で前へ出た声は、次の紙を書かされる場所まで押し上げられている。
そのことを、エマリーはその場で見てはいなかった。
だが、見なくても分かる。
昨日の声は、次を呼ぶ。
―――
夜の格納庫は、昼よりも音がよく響いた。
作業灯は必要な場所だけ点いていて、ネモの脚とリック・ディアスの胸の影が床に長く落ちている。遠くでレンチが一度鳴り、しばらくしてからまた静かになる。
エマリーは整備台の端に端末を置き、戦闘記録の音声を再生した。
追うな。
艦の前を空けるな。
右を半歩下げろ。
短い。
無駄がない。
彼女は一度止め、また最初から再生する。
言葉の数は少ないのに、艦と機体が動いているのが分かる声だった。前へ出させるところと、止めるところがきちんと分かれている。
エマリーは端末を伏せなかった。
もう一度だけ再生する。
そのたびに胸の中で二つのものが起きる。
ひとつは喜びだ。
前の人生で見た男の片鱗が、こんなに早くここにある。まだ若く、まだ出来上がっていないのに、もうそこへ繋がっている。
もうひとつは、もっと冷たいものだった。
この声が通るほど、彼は前へ押し出される。誰より先に判断を求められ、誰より先に責任を背負わされる。
会いたかった。
そのために戻ってきた。
だが、会えたことそのものが、彼を楽にするわけではない。
願ったのは自分だ。
早く近くで会いたい、と。
その願いが叶った場所は、甘い再会のための場所ではなく、壊れかけた軍の艦の中だった。
エマリーは端末の音を止めた。
指先に力が入り、関節が白くなる。
それでも画面は消さない。
見なければいけないと思った。
会えたのなら、その先も見なければならない。
―――
格納庫へ降りる脇通路は、人の流れが切れやすい。
壁の照明は昼より落ちていて、床の端にだけ白い線のように光が残る。エマリーが曲がり角を回ると、向こうからブライトが来た。
二人とも少しだけ足を止める。
「記録、見ました」
エマリーが言うと、ブライトは少しだけ眉を上げた。
「悪いところばかりだっただろう」
「そんなことありません」
彼女はそこで半歩だけ近づきかけて、止まった。
誰もいない。
だからこそ、距離を間違えると壊れる。
「……ああいう声を、最初から出せる人は多くないです」
ブライトは返事の前に一拍置いた。
「そういうものか」
「そういうものです」
向こうから足音が近づいてくる。
エマリーはすぐ横へ退いた。
「三番機、明日には出せます」
「助かる」
「助けます」
その一言だけ、少し強くなった。
ブライトは何か言いかけた。
だが、曲がり角の向こうから整備兵が現れたので、エマリーは先に会釈して通り過ぎる。
ブライトはその背中を見た。
助けます。
技術者としてなら当然の言葉だ。
なのに、妙に残る。
彼にはまだ、その理由が分からない。
―――
格納庫の隅で、エマリーはネモの装甲に手を置いた。
冷えた金属の感触が掌に返る。遠くで作業灯がひとつ落ち、白い壁の明るさが少しだけ弱くなる。整備兵の笑い声が短く聞こえ、誰かがあくびをした。
その中で、彼女だけがまだ動かない。
ブライトに会うためだけに戻ってきた。
そのことだけは、もう言い逃れしない。
勉強も、仕事も、アナハイムでの立ち回りも、輸送枠をねじ込んだことも、全部そのためだった。死ぬ間際に残った願いがそれしかなかったのだから、他に組みようがない。
願いは叶った。
驚くほど早く。
神様ありがとう、と胸の中で言いたくなるほど早く。
だが、人生はそこから先の方が長い。
連邦軍は崩れかけている。
艦は削られ、物は遅れ、彼はもう前へ出され始めている。
ならば、やることは一つだ。
恋を言うのはまだ早い。
泣くのも、縋るのも、願いが叶ったと喜ぶのも、全部まだ早い。
先にやるのは、三番機を戻すことだ。
次の戦闘までに導線を空けることだ。
必要な部材をねじ込み、整備兵の手を足し、戻ってくる機体の脚が箱に当たらないようにすることだ。
彼が余計な穴を背負わずに済むように、先に埋めることだ。
それが今の自分の仕事だと、エマリーは掌の下の金属で確かめた。
手を離す。
そして歩き出す。
格納庫の奥では、まだ消していない作業灯が彼女の影を長く床へ引いていた。
何かZZの脚本書いていた人って女性らしく、子供には良くわからない世界を出してたな。
それをよしとしちゃうあの年代もどうだったかと思うけど。