妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第187話 白い艦の内側で

 

ホワイトベースの朝は、外から見れば静かだった。

 

黒い宙に白い艦体を浮かべ、何事もなかったような顔で進んでいる。だが中へ入れば、そんな静けさはどこにもない。昨夜の戦闘のあとを引きずったまま、通路にも格納庫にも人と物が詰まり、焼けた樹脂と油の匂いがまだ残っていた。

 

ブリッジも同じだった。

 

正面スクリーンの向こうに敵影はない。だが通信席では記録の整理が続き、航法席では訓練航路が引き直され、砲術席では残弾の確認が終わっていない。白い壁に囲まれた空間は明るいのに、乗員の顔色だけが少し疲れて見えた。

 

ブライト・ノアは中央の端末を前に立ち、配置図を見ていた。

 

随伴艦の位置。リック・ディアスの発進順。ネモの配置。天頂側へ回した三機の線。昨夜の遭遇戦を踏まえて引き直した図は、端末の上だけなら整っている。だが、その先で指が止まる。

 

「できたか」

 

パオロ・カシアスの声は、席に腰を下ろしたままでも低く響いた。

 

ブライトは端末を持って歩み寄る。パオロは受け取ると、ざっと目を走らせた。見ている時間は短い。だが、その短さのわりに見落としがない。

 

「穴がある」

 

ブライトは黙って聞いた。

 

「どこです」

 

「端末の中にはない」

 

端末が返ってくる。

 

「艦の中にある」

 

ブライトは受け取った端末を見下ろした。

 

「昨日、格納庫で何が詰まっていた」

 

「帰投導線です」

 

「それだけか」

 

昨夜の格納庫が頭に戻る。戻ってきたネモの脚。前へ出た整備台車。壁際に寄せたつもりの補給箱。だが、それをうまく言葉にできない。

 

パオロはそこで問いを重ねなかった。

 

「敵は外から来る」

 

短く言う。

 

「だが艦が鈍る場所は中にもある」

 

一拍置く。

 

「見てこい。自分の足で」

 

ブライトは「はい」とだけ返した。

 

返事を聞いた時には、もうパオロは前を向いている。会話は終わりだった。

 

―――

 

通路へ出ると、艦は急に大きくなったように感じられた。

 

白い壁。床に置かれた補給箱。走る通信兵。壁際へ体を寄せる搬送係。昨日までは、ただ避けるだけで精一杯だった。今日は違う。誰がどこで止まり、何がどこで流れを細くしているのか、目が勝手に拾ってしまう。

 

格納庫へ降りるハッチをくぐると、空気の匂いが変わった。

 

焼けた樹脂。油。金属の熱。点検灯の青白い光が機体の腹と脚の下に溜まり、床の鉄板には工具箱と外した装甲板が並んでいる。手前ではネモ三番機の肩が開いたままで、その脇に脚立が立っていた。

 

「そこじゃないです」

 

エマリー・オンスの声だった。

 

若い整備兵が手を止める。

 

「先に右の固定具を外してください。そっちから行くと、あとで火器リンクをもう一度つなぎ直します」

 

「でも、こっちを先に外せば――」

 

「二度手間になります」

 

言い方はきつくない。急いでいるだけだと分かる声だった。

 

整備兵は黙って工具を持ち替えた。

 

エマリーは脚立から降りる。作業服の膝に薄く埃がついている。髪は邪魔にならないようにまとめてあり、手元の動きには迷いがない。

 

ブライトは少し離れたところで立ち止まり、そのやり取りを見ていた。

 

エマリーが気づき、顔を上げる。

 

「候補生さん」

 

「見に来た」

 

「何をです」

 

「詰まる場所を」

 

エマリーは一瞬だけブライトの顔を見た。それから脚立の脇へ手をやり、少し場所を空ける。

 

「では、見てください」

 

彼女は足元を指した。

 

「いま三番機が戻るとします。ここで脚が止まります」

 

そこには壁際へ寄せた補給箱があった。人が通るには足りる。だが機体の脚幅で見れば、半歩足りない。

 

その奥には点検台車が鼻先を出している。

 

「一度切り返すことになるな」

 

ブライトが言う。

 

「はい。切り返したところへ次の機体が来ます」

 

エマリーは床の停止位置の印を指でなぞった。

 

「昨日は左脚の接地が少し遅れました。そのぶん二機目も待ちました」

 

ブライトは床を見、箱を見、ネモの脚を見比べる。端末の中では一本の線で済んでいた帰投導線が、ここでは箱の角と台車の取っ手と、人間の立つ場所に削られていた。

 

エマリーはそのまま歩き出す。

 

「発進の時はここが空いています。でも戻る時は違います」

 

ブライトも後を追う。

 

「整備班が前へ出るからか」

 

「それもあります」

 

エマリーは歩きながら言った。

 

「戻ってきた機体はすぐ見たいです。火が出る前に、緩んだところが広がる前に、人は前へ出ます」

 

「急ぐほど狭くなる」

 

「はい」

 

二人は発進カタパルト側から、帰投位置まで実際に歩いた。エマリーは途中で何度か止まり、箱の角、脚の止まる位置、台車を引く時の向きを示す。ブライトはそのたびに頭の中の配置図を書き換えていった。

 

「昨日、ネモが少し流れた」

 

「左脚の接地が遅かったからです」

 

「そこまで見ていたのか」

 

「見ます」

 

エマリーはそこで一度だけ足を止めた。

 

「戻ってくるなら」

 

短い言葉だった。

 

格納庫の騒音の中では、ただの整備の言葉にしか聞こえない。だがブライトには少しだけ強く残った。

 

戻ってくるなら。

 

そう言う彼女の横顔は落ち着いて見える。落ち着いて見えるが、十六歳だ。自分より三つ下の少女が、格納庫の真ん中で台車と機体の脚の間を見ている。

 

ブライトは喉の奥で小さく息を吐いた。

 

勝手に話を大きくするな。

 

そう思ってから、ようやく口を開く。

 

「三番機は夜までに戻るのか」

 

「通電確認までなら行けます」

 

声はいつも通りだった。

 

ブライトは頷いた。それで十分だと思った。

 

―――

 

その場でブライトは端末を閉じた。

 

「この箱、壁に寄せろ」

 

補給兵が振り向く。

 

「ここまでですか」

 

「もっとだ。台車が通る幅だけ残せ」

 

別の整備兵へ視線を向ける。

 

「二番機の停止位置を半歩ずらす」

 

「半歩ですか」

 

「三機目の脚が引っかからない位置まで」

 

言いながら、自分でも床へ歩いて確認する。昨日までならブリッジで言葉を飛ばすだけだった命令が、今日は自分の靴の位置と同じ高さで決まっていく。

 

整備兵たちは最初少し驚いた顔をした。候補生が格納庫に降りてきて、箱の位置や台車の向きまで言い始めたのだから当然だ。

 

だがエマリーが何も否定しない。

 

それどころか、移動した箱の位置を見て一度だけ言う。

 

「その位置なら三機目まで流せます」

 

ブライトは頷いた。

 

「じゃあ、それで決める」

 

箱が押され、台車が奥へ回され、床に引かれた停止位置の印まで少しだけ書き換わっていく。

 

ブライトはその動きを見た。

 

艦を動かすのはブリッジから飛ばす言葉だけでは足りない。言葉の通る先にある床と箱と台車まで見なければ、実際には動かない。

 

その横で、エマリーは三番機の肩部パネルを持ったまま、ブライトの声と整備兵の動きを聞いていた。

 

嬉しい、と素直に思う。

 

目の前の候補生は、端末の中の線だけで終わらない。箱の位置を変え、床の幅を確かめ、機体の脚の止まる場所まで自分の目で見ようとしている。

 

その嬉しさのあとで、胸の奥が少しだけ冷えた。

 

手の中のパネルの端を強く握る。

 

すぐに離す。

 

「オンスさん、ここ閉めますか」

 

「いま閉めます」

 

声は崩さない。

 

それだけは、もうずっと決めている。

 

―――

 

夕方の脇通路は、昼の騒がしさが少し引いていた。

 

壁際に寄せられた箱の列が朝より整って見える。移動した台車も格納庫の奥へ回され、床に引き直した停止位置の印がまだ新しい。人の流れが一段細くなったぶん、柱や配管の出っ張りまで目に入る。

 

ブライトは一人でその通路を見直していた。

 

箱の位置。

 

台車の向き。

 

機体がどう曲がるか。

 

朝には見えていなかったものが、いまは少しずつ遅れの原因として見えてくる。

 

「まだ見ていたんですか」

 

振り向くと、エマリーが工具箱を持って立っていた。

 

「見ておきたかった」

 

「几帳面ですね」

 

「失敗したくないだけだ」

 

エマリーは少し笑った。

 

「それでいいと思います」

 

二人の声は自然と小さくなる。通路の向こうに人影はあるが、まだここまでは来ない。

 

ブライトは床の印を見たまま言った。

 

「端末の中だと、全部ちゃんと動くんだが」

 

「現場は端末より幅を取ります」

 

「人間の分だけ、か」

 

「焦る分だけ、です」

 

ブライトは顔を上げた。

 

「焦るか」

 

「焦ります」

 

エマリーは当たり前のことのように言う。

 

「戻ってきた機体は急いで止めたいですし、火が出ていたらなおさらです。人は前へ出ます。台車も前へ出ます」

 

「だから、線が膨らむ」

 

「はい」

 

何でもない実務の話のはずだった。なのに、言葉の間だけが妙に静かだった。

 

エマリーはその静けさを感じて、少しだけ視線を外した。

 

危ない、と思う。

 

こういう狭い通路で、人が途切れて、声が小さくなる時がいちばん危ない。

 

相手は十九歳の候補生で、自分より三つ上だ。年は近い。近いが、それでも自分はまだ十六だ。彼の方も、それを分かっているはずだ。

 

だから余計な顔は見せない。

 

向こうから足音が近づいてくる。

 

その気配に助けられるように、エマリーは仕事の声へ戻った。

 

「三番機、夜には通電確認まで行きます」

 

「助かる」

 

「助けるのが仕事です」

 

そこまでは軽く言えた。

 

だが最後の一言だけ、どうしても少し重くなる。

 

ブライトはそれを聞き取り、一瞬だけ目を向けた。けれどすぐ、自分の中でひとつ線を引く。

 

十六だ。

 

落ち着いて見えても、そこで終わりだ。

 

そう思ってから、静かに頷く。

 

「分かった」

 

それで十分だった。

 

エマリーは工具箱を持ち直し、格納庫へ戻っていく。ブライトはその背中を見送り、しばらくしてから自分も歩き出した。

 

言葉が残る。

 

残るが、そこに余計な意味をのせる気はなかった。

 

―――

 

夜の格納庫は、昼よりも広く感じられた。

 

作業灯は必要な場所だけ点いていて、ネモの脚もリック・ディアスの胸も、影の方が大きい。遠くでレンチが一度だけ鳴り、それが止むと送風の低い音がよく通る。

 

エマリーは三番機の肩部パネルを閉じた。

 

固定具を締め、指先で継ぎ目をなぞる。朝の焦げ跡は、上から見るともう目立たない。だが彼女の手は、そこに残っていた熱を覚えている。

 

整備台の端に置いた端末には、補給遅延の一覧と、アナハイムからの返答が並んでいた。必要なものはまだ足りない。予備コネクタも、冷却配管も、全部は揃わない。

 

それでも今日、艦の中で動いたことが一つある。

 

ブライトが格納庫へ降りてきた。

 

箱の位置を見た。

 

台車の向きを変えた。

 

帰投導線を自分の足で覚えようとした。

 

それが嬉しかった。

 

本当に嬉しい。

 

会いたかった人がここにいて、その人がただ若いだけの士官ではなく、ちゃんと前を見て、自分で見ようとしている。

 

神様ありがとう、と言いたくなるほど早く。

 

そう思う。

 

思うのに、そのすぐ後ろで別のものが目を覚ます。

 

昼間、ブリッジから降りてきた時より、今日の終わりの方が彼は一歩前にいる。格納庫の床幅を見て、箱の位置を変えて、自分で決めた。そういうことを一度覚えた人間は、次も呼ばれる。

 

エマリーは工具を置き、冷えた装甲に手を置いた。

 

連邦軍は崩れかけている。

 

物は遅れ、人は足りず、前へ出る者にその分の重さが集まる。会えたことだけで、この人を守れるわけではない。

 

だったら、やることは一つしかない。

 

ただ機体を直すだけでは足りない。

 

この艦の中で、彼の前に転がる箱を先にどける。導線が詰まるなら空ける。部材が足りないならねじ込む。整備兵の手が足りないなら、自分で動く。

 

恋を言うのは後でいい。

 

会えたと泣くのも後でいい。

 

いま先にやるのは、戻ってくる機体の脚が箱に当たらないようにすることだ。

 

装甲の下の冷えた感触が、掌から腕へゆっくり上がってくる。

 

エマリーはその感触で、自分の決めたことを確かめた。

 

―――

 

同じ頃、ブライトはブリッジ後方の小さな机で端末に向かっていた。

 

昼に見た格納庫の床幅、箱の位置、停止位置の印。そういうものが頭から離れない。端末の中の配置図に、今日は新しい線が増えていた。随伴艦の位置やMSの発進順だけではない。格納庫の導線、帰投の間隔、発進後の待機位置まで書き足されている。

 

昨日の戦闘では見えていなかったものが、今日一つ見えた。

 

それだけのことだ。

 

だが、その一つで図面の組み方まで変わる。

 

ブライトは端末から目を上げ、正面スクリーンの黒い宙を見た。

 

使える人間だ、と思う。

 

それで十分なはずだ。

 

十六の整備士だ。落ち着いて見えても、まずそこだ。妙に気になるからといって、自分で勝手に話を膨らませるのは違う。

 

ブライトは少しだけ眉を寄せた。

 

そう考えたあとでも、格納庫で箱の角と機体の脚のことを先に見るあの横顔が、まだ引っかかっている。

 

若いな、と自分で思う。

 

それでも視線を端末へ戻した。

 

書くべきことは増えていた。

 

―――

 

格納庫で、エマリーは最後の点検灯を落とした。

 

白い壁の明るさが一段落ちる。整備兵たちは帰り支度を始め、工具箱の蓋が閉じる音が短く響く。

 

彼女は歩き出す。

 

会えた、その先をようやく歩き始めたのだと思った。

 

ただそばに立つだけでは足りない。

 

ただ喜ぶだけでも足りない。

 

この艦の中で、自分にできることを増やす。

 

その先で、もしまだ願っていい時間が来るなら、その時に初めて言えばいい。

 

いまはまだ言わない。

 

格納庫の奥から差す作業灯の残り光が、エマリーの影を長く床へ引いていた。

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