ホワイトベースの朝は、外から見れば静かだった。
黒い宙に白い艦体を浮かべ、何事もなかったような顔で進んでいる。だが中へ入れば、そんな静けさはどこにもない。昨夜の戦闘のあとを引きずったまま、通路にも格納庫にも人と物が詰まり、焼けた樹脂と油の匂いがまだ残っていた。
ブリッジも同じだった。
正面スクリーンの向こうに敵影はない。だが通信席では記録の整理が続き、航法席では訓練航路が引き直され、砲術席では残弾の確認が終わっていない。白い壁に囲まれた空間は明るいのに、乗員の顔色だけが少し疲れて見えた。
ブライト・ノアは中央の端末を前に立ち、配置図を見ていた。
随伴艦の位置。リック・ディアスの発進順。ネモの配置。天頂側へ回した三機の線。昨夜の遭遇戦を踏まえて引き直した図は、端末の上だけなら整っている。だが、その先で指が止まる。
「できたか」
パオロ・カシアスの声は、席に腰を下ろしたままでも低く響いた。
ブライトは端末を持って歩み寄る。パオロは受け取ると、ざっと目を走らせた。見ている時間は短い。だが、その短さのわりに見落としがない。
「穴がある」
ブライトは黙って聞いた。
「どこです」
「端末の中にはない」
端末が返ってくる。
「艦の中にある」
ブライトは受け取った端末を見下ろした。
「昨日、格納庫で何が詰まっていた」
「帰投導線です」
「それだけか」
昨夜の格納庫が頭に戻る。戻ってきたネモの脚。前へ出た整備台車。壁際に寄せたつもりの補給箱。だが、それをうまく言葉にできない。
パオロはそこで問いを重ねなかった。
「敵は外から来る」
短く言う。
「だが艦が鈍る場所は中にもある」
一拍置く。
「見てこい。自分の足で」
ブライトは「はい」とだけ返した。
返事を聞いた時には、もうパオロは前を向いている。会話は終わりだった。
―――
通路へ出ると、艦は急に大きくなったように感じられた。
白い壁。床に置かれた補給箱。走る通信兵。壁際へ体を寄せる搬送係。昨日までは、ただ避けるだけで精一杯だった。今日は違う。誰がどこで止まり、何がどこで流れを細くしているのか、目が勝手に拾ってしまう。
格納庫へ降りるハッチをくぐると、空気の匂いが変わった。
焼けた樹脂。油。金属の熱。点検灯の青白い光が機体の腹と脚の下に溜まり、床の鉄板には工具箱と外した装甲板が並んでいる。手前ではネモ三番機の肩が開いたままで、その脇に脚立が立っていた。
「そこじゃないです」
エマリー・オンスの声だった。
若い整備兵が手を止める。
「先に右の固定具を外してください。そっちから行くと、あとで火器リンクをもう一度つなぎ直します」
「でも、こっちを先に外せば――」
「二度手間になります」
言い方はきつくない。急いでいるだけだと分かる声だった。
整備兵は黙って工具を持ち替えた。
エマリーは脚立から降りる。作業服の膝に薄く埃がついている。髪は邪魔にならないようにまとめてあり、手元の動きには迷いがない。
ブライトは少し離れたところで立ち止まり、そのやり取りを見ていた。
エマリーが気づき、顔を上げる。
「候補生さん」
「見に来た」
「何をです」
「詰まる場所を」
エマリーは一瞬だけブライトの顔を見た。それから脚立の脇へ手をやり、少し場所を空ける。
「では、見てください」
彼女は足元を指した。
「いま三番機が戻るとします。ここで脚が止まります」
そこには壁際へ寄せた補給箱があった。人が通るには足りる。だが機体の脚幅で見れば、半歩足りない。
その奥には点検台車が鼻先を出している。
「一度切り返すことになるな」
ブライトが言う。
「はい。切り返したところへ次の機体が来ます」
エマリーは床の停止位置の印を指でなぞった。
「昨日は左脚の接地が少し遅れました。そのぶん二機目も待ちました」
ブライトは床を見、箱を見、ネモの脚を見比べる。端末の中では一本の線で済んでいた帰投導線が、ここでは箱の角と台車の取っ手と、人間の立つ場所に削られていた。
エマリーはそのまま歩き出す。
「発進の時はここが空いています。でも戻る時は違います」
ブライトも後を追う。
「整備班が前へ出るからか」
「それもあります」
エマリーは歩きながら言った。
「戻ってきた機体はすぐ見たいです。火が出る前に、緩んだところが広がる前に、人は前へ出ます」
「急ぐほど狭くなる」
「はい」
二人は発進カタパルト側から、帰投位置まで実際に歩いた。エマリーは途中で何度か止まり、箱の角、脚の止まる位置、台車を引く時の向きを示す。ブライトはそのたびに頭の中の配置図を書き換えていった。
「昨日、ネモが少し流れた」
「左脚の接地が遅かったからです」
「そこまで見ていたのか」
「見ます」
エマリーはそこで一度だけ足を止めた。
「戻ってくるなら」
短い言葉だった。
格納庫の騒音の中では、ただの整備の言葉にしか聞こえない。だがブライトには少しだけ強く残った。
戻ってくるなら。
そう言う彼女の横顔は落ち着いて見える。落ち着いて見えるが、十六歳だ。自分より三つ下の少女が、格納庫の真ん中で台車と機体の脚の間を見ている。
ブライトは喉の奥で小さく息を吐いた。
勝手に話を大きくするな。
そう思ってから、ようやく口を開く。
「三番機は夜までに戻るのか」
「通電確認までなら行けます」
声はいつも通りだった。
ブライトは頷いた。それで十分だと思った。
―――
その場でブライトは端末を閉じた。
「この箱、壁に寄せろ」
補給兵が振り向く。
「ここまでですか」
「もっとだ。台車が通る幅だけ残せ」
別の整備兵へ視線を向ける。
「二番機の停止位置を半歩ずらす」
「半歩ですか」
「三機目の脚が引っかからない位置まで」
言いながら、自分でも床へ歩いて確認する。昨日までならブリッジで言葉を飛ばすだけだった命令が、今日は自分の靴の位置と同じ高さで決まっていく。
整備兵たちは最初少し驚いた顔をした。候補生が格納庫に降りてきて、箱の位置や台車の向きまで言い始めたのだから当然だ。
だがエマリーが何も否定しない。
それどころか、移動した箱の位置を見て一度だけ言う。
「その位置なら三機目まで流せます」
ブライトは頷いた。
「じゃあ、それで決める」
箱が押され、台車が奥へ回され、床に引かれた停止位置の印まで少しだけ書き換わっていく。
ブライトはその動きを見た。
艦を動かすのはブリッジから飛ばす言葉だけでは足りない。言葉の通る先にある床と箱と台車まで見なければ、実際には動かない。
その横で、エマリーは三番機の肩部パネルを持ったまま、ブライトの声と整備兵の動きを聞いていた。
嬉しい、と素直に思う。
目の前の候補生は、端末の中の線だけで終わらない。箱の位置を変え、床の幅を確かめ、機体の脚の止まる場所まで自分の目で見ようとしている。
その嬉しさのあとで、胸の奥が少しだけ冷えた。
手の中のパネルの端を強く握る。
すぐに離す。
「オンスさん、ここ閉めますか」
「いま閉めます」
声は崩さない。
それだけは、もうずっと決めている。
―――
夕方の脇通路は、昼の騒がしさが少し引いていた。
壁際に寄せられた箱の列が朝より整って見える。移動した台車も格納庫の奥へ回され、床に引き直した停止位置の印がまだ新しい。人の流れが一段細くなったぶん、柱や配管の出っ張りまで目に入る。
ブライトは一人でその通路を見直していた。
箱の位置。
台車の向き。
機体がどう曲がるか。
朝には見えていなかったものが、いまは少しずつ遅れの原因として見えてくる。
「まだ見ていたんですか」
振り向くと、エマリーが工具箱を持って立っていた。
「見ておきたかった」
「几帳面ですね」
「失敗したくないだけだ」
エマリーは少し笑った。
「それでいいと思います」
二人の声は自然と小さくなる。通路の向こうに人影はあるが、まだここまでは来ない。
ブライトは床の印を見たまま言った。
「端末の中だと、全部ちゃんと動くんだが」
「現場は端末より幅を取ります」
「人間の分だけ、か」
「焦る分だけ、です」
ブライトは顔を上げた。
「焦るか」
「焦ります」
エマリーは当たり前のことのように言う。
「戻ってきた機体は急いで止めたいですし、火が出ていたらなおさらです。人は前へ出ます。台車も前へ出ます」
「だから、線が膨らむ」
「はい」
何でもない実務の話のはずだった。なのに、言葉の間だけが妙に静かだった。
エマリーはその静けさを感じて、少しだけ視線を外した。
危ない、と思う。
こういう狭い通路で、人が途切れて、声が小さくなる時がいちばん危ない。
相手は十九歳の候補生で、自分より三つ上だ。年は近い。近いが、それでも自分はまだ十六だ。彼の方も、それを分かっているはずだ。
だから余計な顔は見せない。
向こうから足音が近づいてくる。
その気配に助けられるように、エマリーは仕事の声へ戻った。
「三番機、夜には通電確認まで行きます」
「助かる」
「助けるのが仕事です」
そこまでは軽く言えた。
だが最後の一言だけ、どうしても少し重くなる。
ブライトはそれを聞き取り、一瞬だけ目を向けた。けれどすぐ、自分の中でひとつ線を引く。
十六だ。
落ち着いて見えても、そこで終わりだ。
そう思ってから、静かに頷く。
「分かった」
それで十分だった。
エマリーは工具箱を持ち直し、格納庫へ戻っていく。ブライトはその背中を見送り、しばらくしてから自分も歩き出した。
言葉が残る。
残るが、そこに余計な意味をのせる気はなかった。
―――
夜の格納庫は、昼よりも広く感じられた。
作業灯は必要な場所だけ点いていて、ネモの脚もリック・ディアスの胸も、影の方が大きい。遠くでレンチが一度だけ鳴り、それが止むと送風の低い音がよく通る。
エマリーは三番機の肩部パネルを閉じた。
固定具を締め、指先で継ぎ目をなぞる。朝の焦げ跡は、上から見るともう目立たない。だが彼女の手は、そこに残っていた熱を覚えている。
整備台の端に置いた端末には、補給遅延の一覧と、アナハイムからの返答が並んでいた。必要なものはまだ足りない。予備コネクタも、冷却配管も、全部は揃わない。
それでも今日、艦の中で動いたことが一つある。
ブライトが格納庫へ降りてきた。
箱の位置を見た。
台車の向きを変えた。
帰投導線を自分の足で覚えようとした。
それが嬉しかった。
本当に嬉しい。
会いたかった人がここにいて、その人がただ若いだけの士官ではなく、ちゃんと前を見て、自分で見ようとしている。
神様ありがとう、と言いたくなるほど早く。
そう思う。
思うのに、そのすぐ後ろで別のものが目を覚ます。
昼間、ブリッジから降りてきた時より、今日の終わりの方が彼は一歩前にいる。格納庫の床幅を見て、箱の位置を変えて、自分で決めた。そういうことを一度覚えた人間は、次も呼ばれる。
エマリーは工具を置き、冷えた装甲に手を置いた。
連邦軍は崩れかけている。
物は遅れ、人は足りず、前へ出る者にその分の重さが集まる。会えたことだけで、この人を守れるわけではない。
だったら、やることは一つしかない。
ただ機体を直すだけでは足りない。
この艦の中で、彼の前に転がる箱を先にどける。導線が詰まるなら空ける。部材が足りないならねじ込む。整備兵の手が足りないなら、自分で動く。
恋を言うのは後でいい。
会えたと泣くのも後でいい。
いま先にやるのは、戻ってくる機体の脚が箱に当たらないようにすることだ。
装甲の下の冷えた感触が、掌から腕へゆっくり上がってくる。
エマリーはその感触で、自分の決めたことを確かめた。
―――
同じ頃、ブライトはブリッジ後方の小さな机で端末に向かっていた。
昼に見た格納庫の床幅、箱の位置、停止位置の印。そういうものが頭から離れない。端末の中の配置図に、今日は新しい線が増えていた。随伴艦の位置やMSの発進順だけではない。格納庫の導線、帰投の間隔、発進後の待機位置まで書き足されている。
昨日の戦闘では見えていなかったものが、今日一つ見えた。
それだけのことだ。
だが、その一つで図面の組み方まで変わる。
ブライトは端末から目を上げ、正面スクリーンの黒い宙を見た。
使える人間だ、と思う。
それで十分なはずだ。
十六の整備士だ。落ち着いて見えても、まずそこだ。妙に気になるからといって、自分で勝手に話を膨らませるのは違う。
ブライトは少しだけ眉を寄せた。
そう考えたあとでも、格納庫で箱の角と機体の脚のことを先に見るあの横顔が、まだ引っかかっている。
若いな、と自分で思う。
それでも視線を端末へ戻した。
書くべきことは増えていた。
―――
格納庫で、エマリーは最後の点検灯を落とした。
白い壁の明るさが一段落ちる。整備兵たちは帰り支度を始め、工具箱の蓋が閉じる音が短く響く。
彼女は歩き出す。
会えた、その先をようやく歩き始めたのだと思った。
ただそばに立つだけでは足りない。
ただ喜ぶだけでも足りない。
この艦の中で、自分にできることを増やす。
その先で、もしまだ願っていい時間が来るなら、その時に初めて言えばいい。
いまはまだ言わない。
格納庫の奥から差す作業灯の残り光が、エマリーの影を長く床へ引いていた。