商船は遅かった。
外縁航路を進むその船体は、腹の中に重い荷を詰めこんでいる。推進光は細く、反応も鈍い。急げと言われて急げる船ではない。商船とはそういうものだった。戦争が始まる前から物を運び、戦争が始まったあとも物を運び、撃たれる時だけ軍艦より遅い。
護衛のムサイは、その斜め後ろについていた。
艦長は若くはなかった。顔には疲れが刻まれている。だが、疲れた顔の者ほど、警戒を怠らない場合がある。彼は艦橋の正面表示を見ながら、十数秒ごとに視線だけを粒子濃度の欄へ落としていた。
十分おきの自動報告。
人を介さず、測定値がそのままソロモン方面軍とザンジバル改へ送られる。艦橋の誰もが、その仕組みを知っている。便利な仕組みではない。便利というより、嘘をつく余地をなくす仕組みだった。
そして、嘘をつけない数値は時に人間より残酷である。
警報が鳴った。
ミノフスキー粒子濃度、急上昇。
艦橋の照明が警戒色へ変わる。通信席の兵が、顔を強張らせながら声を上げた。
「粒子濃度、規定値超過」
一拍。
「自動通報、送信済み」
艦長は目を閉じなかった。
閉じれば、その一瞬で遅れる。
「商船を反転させろ」
声は荒くない。
「ザク隊、発進」
格納ブロックでは、待機していたザク五機が動き出した。機体固定具が外れ、カタパルトへ乗る。パイロットたちは冗談を言わなかった。ここで冗談が出るような相手ではないと、全員が分かっている。
一機目が出る。
続いて二機目、三機目。
五機のザクは、商船の周囲へ散った。
二機が商船の進路変更を誘導する。鈍い商船の前へ出て、推進光で進路を示し、通信で反転を急がせる。一機はムサイの前方へ出た。残り二機が左右へ広がる。
ムサイは艦首を、粒子濃度が高まった方向へ向けた。
艦長は分かっていた。
勝つ必要はない。
商船を逃がす。
それだけでいい。
だが、それだけが一番難しい時もある。
商船の船体が、重々しく向きを変え始めた。遅い。見ているだけで腹が立つほど遅い。だがそれが現実だった。
ムサイ艦長は、正面表示から目を離さなかった。
「時間を稼ぐ」
それは誰に向けた言葉でもない。
艦長自身に向けた言葉だった。
――――――
岩礁宙域の影に、ティターンズの艦隊が沈んでいた。
外部灯は落とされ、排熱も絞られている。艦影はデブリの陰に紛れ、ただの黒い塊に見えた。周囲にはミノフスキー粒子がゆっくり広がっていく。視界と通信を曇らせるための白い霧。それは戦場を隠すための幕であり、獲物を迷わせるための煙でもあった。
バーザムリーダーのコックピットで、ヴィクトル・ハウザー大尉は計器を見ていた。
軍服と同じく、彼の表情は整っている。声を荒らすことは少ない。命令系統を乱すことを嫌い、手順を信用し、手順を守れることを自分の強みだと考える男だった。
悪い士官ではない。
むしろ、平時ならば有能と言われる種類の男である。
だが、彼の胸の奥には、かすかな棘が刺さっていた。
ヤザン・ゲーブル。
あの男は荒い。規律にも馴染まない。上官へ愛想よく笑うこともない。だが結果を出した。結果を出した者に軍は報いる。分かっている。分かっているからこそ、腹の底が冷たくなる。
「ゲーブルに扱えて、俺に扱えないはずがない」
その言葉は、通信には乗せなかった。
自分の中だけに置いた。
ハウザーは手順を確認する。
距離。
射線。
標的優先順位。
リーダー機の照準と機動に、四機のバーザム改が追従する。音声で命じる必要はない。彼がリーダー機を動かし、目標を固定し、照準を合わせる。その情報が無人機へ渡り、四機が位置を補う。
ハウザーは操縦桿を握り直した。
リーダー機が静かに動く。
それに合わせ、四機のバーザム改が前方、左右、後方へ散った。動きは揃っている。硬いが、乱れてはいない。規定に忠実な動きだった。
ヤザンなら、そこにもう一拍の遅速を入れただろう。
ヤザンなら、敵が嫌がる間を嗅ぎ取っただろう。
ハウザーは違う。
表示された距離と角度を見る。
最適値に合わせる。
それが彼の戦い方だった。
岩礁の影から、五機のバーザムが出た。
白い粒子の薄幕の中、ビーム砲を構える。
獲物は、もうこちらを見ている。
――――――
ザンジバル改の艦橋に、粒子濃度急上昇のアラートが入った。
待っていた音だった。
シーマ・ガラハウは、艦橋へ出る前からそれを聞いていた。三日間、岩礁の陰で息を殺していた。苛立ちは溜まっている。だが、いざ獲物が噛まれたと分かると、胸の奥に別のものが走った。
安堵ではない。
喜びでもない。
ようやく動ける、という感触だった。
同時に、腹立たしさもある。
噛まれているのは味方だ。
こっちは、それを待っていた。
その構図が気に入らない。
「針路、最短」
シーマの声が艦橋へ飛んだ。
「デブリ帯を抜けるよ」
操舵員が顔を上げる。
「艦長、通常航路から外れます」
「だから言ったんだ。抜けるってね」
ザンジバル改の艦尾で、ミノフスキードライブ補助機構が起動する。艦体がわずかに震えた。通常なら避ける岩礁の隙間へ、艦は鼻先を突っ込む。外壁の装甲が細かな破片を弾き、艦橋の照明が一瞬揺れる。
「到達予定」
「三十分」
シーマは奥歯を噛んだ。
三十分。
戦場では長い。
死ぬには十分すぎる。
「聞こえるかい、木星帰り」
通信を開く。
「出番まであと少しだよ。準備しときな」
シャリア・ブルの声は静かだった。
「承知した」
その落ち着きが、今は少しだけ頼もしい。
シーマはそう思った自分に、少し腹を立てた。
外部接続フレームでは、ブラウ・ブロの起動準備が進んでいる。まだ切り離さない。まだ動かさない。戦場まで自力で動けば、そこで戦う時間が減る。
Iフィールドを張ればエネルギーを食う。
ミノフスキードライブを使えばエネルギーを食う。
ビームを受ければ、さらに食う。
この機体は長く戦うものではない。
シーマはそれを理解していた。
だからこそ、間に合わせなければならない。
「機関、持たせな」
「了解」
ザンジバル改は岩礁の隙間へ突っ込んでいった。
外では、デブリが艦体すれすれを流れていく。
内では、ブラウ・ブロの外装に警告灯の赤が反射していた。
――――――
ムサイはすでに被弾していた。
左舷装甲が焼け、艦体の一部から火花が散っている。推進力も落ちている。だが艦長は艦首を敵方向へ向け続けていた。商船との間に自艦を置く。大きな盾として使う。それしかない。
商船は反転を終えつつあった。
鈍い船体が、ザク二機の誘導に従って戦域から離れ始めている。商船の推進光は頼りなく、見ているだけで苛立つ。だが、動いている。まだ逃げている。
それだけが救いだった。
ザク隊は五機から三機に減っていた。
バーザム五機は、最初こそ硬かった。だが戦闘が続くにつれ、ハウザーは動きに慣れてきている。リーダー機が距離を取る。四機のバーザム改が開く。照準が一機へ集まる。手順は正しい。
彼は下手ではない。
ただ、硬い。
硬いものも、時間があれば人を殺す。
一機のザクが選ばれた。
正面ではない。
斜め前、横、後方寄り。三つの角度からビームが重なる。ザクのパイロットは反応した。一発目を避ける。二発目を機体を捻って外す。
三発目が左に入った。
シールドが一瞬で裂けた。左腕が持っていかれる。機体が回る。パイロットは叫びながら姿勢を立て直そうとしたが、そこへ次の射線が来た。
ザクは爆ぜた。
残り二機は離れた。
密集すればまとめて削られる。そう判断したのだ。各自攻撃に移る。片方が右から、もう片方が左から。正しい動きだった。
ハウザーはそれを見て、操縦桿を引いた。
リーダー機が下がる。
四機のバーザム改も距離を取る。
無理に追わない。
中距離へ戻し、照準を重ねる。
ハウザーは標的を固定した。リーダー機の照準が一機のザクへ吸い付く。四機の火線がそこへ集まる。
一斉射撃。
ザクが被弾し、爆散する。
残り一機。
ムサイ艦橋に、商船の報告が入った。
「商船、離脱圏へ」
艦長は短く息を吐いた。
その直後、艦が揺れる。
新たな被弾だった。
「まだ沈むな」
艦長は呟いた。
「まだだ」
最後のザクがムサイの前に出る。
バーザム五機の火線が、ゆっくりとその周囲を狭めていった。
――――――
ザンジバル改が、戦域手前で急減速した。
「切り離し」
シーマが言う。
外部接続フレームが開く。
ブラウ・ブロが解放された。
巨大な機体が、黒い宇宙へ滑り出す。
次の瞬間、ミノフスキードライブが起動した。
機体の周囲に淡い光が生じる。Iフィールドが展開され、外側の粒子が薄く揺れる。通常の推進とは違う動きだった。後ろから押されるのではない。空間の上を滑るように、ブラウ・ブロは戦場へ入っていく。
シャリアはコックピットで目を閉じた。
計器は見えている。
警告も見えている。
だが、それとは別に、前方の気配を探る。
五機。
だが、五つではない。
「一人です」
通信の向こうで、シーマが聞き返した。
「一人?」
「五機あります」
シャリアは目を開ける。
「しかし、動かしている意思は一つです」
シーマは息を止めた。
それがどういう意味か、完全には分からない。だが重要な報告だということは分かる。
「なら、その一人を潰せばいいんだね」
「はい」
バーザム隊が反応した。
ハウザーは新手を確認し、すぐにリーダー機の機動を変えた。巨大な目標。高機動。正体不明。まず距離。次に集中。彼は手順どおりに動いた。
バーザム改四機が開く。
ブラウ・ブロへ複数方向からビームが走る。
ビームはIフィールドに触れ、歪み、散る。
外から見れば、効いていないように見えた。
だがコックピット内では、エネルギー残量が確実に落ちていた。
一発。
減る。
二発。
さらに減る。
同時に四方向。
大きく減る。
シャリアは数値を見た。
「この減り方は、長く持ちません」
声は乱れない。
だが状況は悪い。
残ったザクが撤退していく。
シャリアは見ない。
「あれではありません」
敵は中央。
意思の中心。
バーザムリーダー。
ブラウ・ブロの有線メガ粒子砲塔が展開する。太いケーブルが伸び、砲塔が本体から離れる。四方へ散る。火線が広がる。
五機で作る包囲に対し、一機が複数の角度を作る。
ハウザーはそれを見て、リーダー機を引いた。四機のバーザム改がその動きに追従し、ブラウ・ブロの砲塔を遮る位置へ入る。
正しい。
正しいが、半拍遅い。
ハウザーは表示された距離と角度を見ていた。
シャリアは、意思の向きを見ていた。
ブラウ・ブロが滑る。
ビームが来る。
Iフィールドで受ける。
エネルギーが減る。
有線砲塔の一本が被弾し、制御が乱れる。砲塔が火花を散らして大きく振れた。警告灯が点く。シャリアは即座に切り離さない。まだ使う。
「無理をするなよ、木星帰り」
シーマの声が入る。
「持ちません」
「なら、早くしな」
「はい」
シャリアは中央だけを見た。
「敵は、あれです」
バーザムリーダーが動く。
四機のバーザム改が、盾のように角度を作る。
シャリアは有線砲塔を一つずつ動かした。落とすためではない。開かせるためだ。
右へ一射。
バーザム改が反応する。
左へ一射。
別の一機がずれる。
本体が滑る。
中央への角度が、ほんの短い時間だけ開いた。
エネルギー残量は底に近い。
Iフィールド維持警告。
ドライブ出力低下警告。
サイコミュ負荷上昇。
シャリアは呼吸を整えた。
「今です」
オールレンジ攻撃。
複数の砲塔が同時に火を噴く。
本体のメガ粒子砲が撃つ。
砲塔の射線が、バーザム改の隙間を抜ける。
中央のバーザムリーダーへ届く。
ハウザーは回避を入れた。
だが遅い。
距離は合っていた。
角度も正しかった。
ただ、相手の中心を読まれていた。
バーザムリーダーが撃ち抜かれた。
光が弾け、機体の胸部が割れる。
ハウザーの声は、通信に残らなかった。
その瞬間、四機のバーザム改の動きが鈍った。
完全に止まったわけではない。
だが、それまで一つの敵として動いていたものが、ばらけた。照準が遅れ、距離がずれ、火線が重ならない。
戦う形が死んだ。
シーマは即座に命じた。
「回収班、出せ」
ザンジバル改から作業機が出る。
「拾えるものだけ拾いな」
シャリアが言う。
「これ以上は持ちません」
「分かってるよ」
シーマは正面を見たまま返す。
「帰る」
ザンジバル改は、損傷したブラウ・ブロと、動きの鈍ったバーザム改の一機を抱えるようにして離脱に入った。
ムサイはまだ沈んでいない。
火花を散らしながらも、艦首を敵のいた方向へ向けていた。
商船は、もう見えないところまで逃げていた。
――――――
ティターンズ艦隊では、誰もすぐに声を出さなかった。
ヴィクトル・ハウザー大尉、戦死。
バーザムリーダー喪失。
バーザム改一機、敵に鹵獲された可能性。
作戦はヤザン隊と同じだった。
機体も同じ。
手順も同じ。
結果だけが違った。
報告を聞いたヤザン・ゲーブルは、短く笑った。
「無能が」
周囲が呆れたように彼を見る。
士官の一人が何か言いかけたが、口を閉じた。言い返しても無駄だと分かっている。ヤザンは死者への礼儀など気にしない。勝てなかった者を、勝てなかった者として見るだけだ。
ヤザンにとって、ハウザーの失敗は意外ではなかった。
システムを信じた。
規定の距離を信じた。
表示された角度を信じた。
だが、敵が嫌がる間を感じなかった。
だから死んだ。
ヤザンはそれを説明しない。
説明する気もない。
「次は俺が行く」
それだけ言って、彼は背を向けた。
――――――
ジオン側の格納区画では、回収されたバーザム改が固定されていた。
装甲は焼け、関節部には損傷がある。だが、完全な残骸ではない。通信装置、処理装置、無人制御系。そのいくつかはまだ形を保っている。
整備兵たちは無言で作業を始めた。
解析班が端末を接続する。
シーマは少し離れた場所からそれを見ていた。
やっと尻尾を掴んだね。
声には出さない。
だが、口元だけがわずかに動いた。
その向こうでは、ブラウ・ブロが固定フレームに戻されている。外装には焼けた跡がある。有線砲塔の一本は損傷し、機体の一部からまだ熱が逃げている。
シャリア・ブルは降りてきた時も、静かだった。
シーマは近づき、言った。
「棺桶にはならなかったね」
シャリアは少しだけ目を伏せる。
「艦に戻れたからです」
「嫌な返しだね」
「事実です」
シーマは鼻で笑った。
気に入らない。
だが、悪くない。
戦場では、そういう相手が一人いるだけで、生き残る確率が少し上がる。
彼女は回収されたバーザム改を見た。
次は、こちらが中身を見る番だ。