妹に撃たれない方法   作:Brooks

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面白くない話になりそうなので、ボケとツッコミをいれましたがどうでしょうか。


第196話 逃げる若者たち

 

ジャブローの地下会議室には、窓がなかった。

 

壁は厚く、天井は低い。空調は規則正しく音を立てていたが、室内の空気はどこか乾いていた。外の湿った森や、濁った川や、重い雲とは関係のない場所だった。ここでは雨も降らないし、風も吹かない。ただ数字だけが動く。

 

壁面には為替の推移が映っていた。

 

宇宙通貨は上がっている。

 

連邦通貨は下がっている。

 

その線は、誰かが怒って引いた傷のように、交差しながら広がっていた。

 

長机の周囲には、連邦政府の高官、財務官僚、軍需担当、連邦軍参謀、産業界代表、ティターンズの連絡官が座っている。誰も大声を出していない。だが、誰も安心していない。

 

その中で、ひとりだけ違う空気をまとった男がいた。

 

クレマン・ボードワン政務次官。

 

六十を越えた、温厚そうな男だった。白髪をきれいに撫でつけ、丸い顔をしている。声も穏やかだった。悪人には見えない。むしろ、どこかの昼下がりに庭の花へ水をやっていそうな男だった。

 

だが、そういう男が、ときどき一番危ない。

 

財務官僚のエルンスト・ベルガーが報告を始めた。

 

「宇宙通貨は上昇、連邦通貨は下落を続けています」

 

ベルガーは痩せた男だった。頬はこけ、目の下に疲れがある。数字を長く見つめてきた人間の顔だった。

 

「予算額は増えています。しかし、同額で調達できる物量は減少しています」

 

軍需担当が続けた。

 

「兵器の生産は継続可能です。ただし、予定数を満たせません」

 

ボードワンが、ゆっくりとうなずいた。

 

「ならば、連邦通貨を強くすればよいのではないかね」

 

会議室が静かになった。

 

ベルガーは少しだけ顔を上げた。

 

「それが可能であれば、本日の議題にはなっておりません」

 

ボードワンは納得したようにうなずいた。

 

「なるほど。では難しいのだな」

 

ベルガーは資料へ視線を戻した。

 

できないから、ここにいる。

 

そう思ったが、口には出さなかった。

 

産業界代表が次の資料を出す。髪を後ろで固く束ねた女性だった。服装は整っていたが、目は工場の納期表を見ている人間の目だった。

 

「光学センサー、ビーム砲用部材、推進制御部品、通信素子。いずれも納期が遅れています」

 

壁に品目が並ぶ。

 

赤字が多かった。

 

「契約は存在します。しかし、部品が届きません」

 

連邦軍参謀が眉を寄せる。

 

「契約違反ではないのか」

 

「いいえ。納期遅延です。契約上はまだ破綻していません」

 

ボードワンが言った。

 

「契約があるのに物が来ないなら、契約を増やせばよいのではないかね」

 

また静かになった。

 

産業界代表は、ほんの少し息を吸った。

 

「閣下、契約書は部品ではありません」

 

ボードワンは真面目な顔でうなずいた。

 

「それもそうだ」

 

ベルガーは端末を見るふりをした。

 

今のは笑うところなのだろうか。

 

誰も笑っていなかった。

 

人事局の担当者が資料を出した。彼はまだ若く見えたが、額には汗が浮いていた。汗をかくほど暑い部屋ではなかった。たぶん、暑いのは部屋ではなく、報告の中身だった。

 

「若手士官、整備士、技術者、補給担当者の流出が増加しています」

 

壁に数字が並ぶ。

 

退職。

 

転属願。

 

民間流出。

 

行方不明扱い。

 

「流出先は、宇宙企業、サイド6関連企業、財団系物流会社、アナハイム系下請け、反ティターンズ寄りの部隊です」

 

部屋の空気が変わった。

 

数字の話ではなく、人間の話になったからだ。

 

人事局担当者は喉を鳴らし、続けた。

 

「彼らは、連邦そのものから逃げているのではありません」

 

少し間を置く。

 

「ティターンズから逃げています」

 

何人かが視線を逸らした。

 

ティターンズの連絡官だけは動かなかった。黒い制服。白い手袋。姿勢は正しい。正しすぎて、かえって人を疲れさせる姿勢だった。

 

ボードワンが首を傾げた。

 

「ティターンズの制服は、そんなに評判が悪いのかね」

 

誰も答えなかった。

 

「黒は実用的だ。汚れが目立たん」

 

ベルガーは机の端を指で一度だけ叩いた。

 

そこではない。

 

人事局担当者は資料を切り替えた。

 

匿名聞き取り。

 

「連邦軍に入りたかったのであって、ティターンズの私兵になりたいわけではない」

 

「宇宙出身者を取り締まる仕事はしたくない」

 

「正規軍の制服が、ティターンズの下請けに見える」

 

空調の音が聞こえた。

 

ボードワンは困ったような顔をした。

 

「嫌われているのではなく、誤解ではないかね」

 

「誤解、ですか」

 

「彼らは仕事熱心だ。身元、思想、交友関係を三度確認する。実に丁寧ではないか」

 

それを監視と言う。

 

ベルガーはそう思った。

 

ボードワンは続ける。

 

「監視されて困る者は、困る理由があるのではないかね」

 

誰も何も言わなかった。

 

ティターンズの連絡官だけが、わずかにうなずいた。

 

だから全員逃げている。

 

ベルガーは目を閉じた。

 

財務の資料に戻る。

 

「宇宙企業は、連邦軍の二倍近い実質報酬を提示しています」

 

画面に条件が並んだ。

 

宇宙通貨建て給与。

 

住居。

 

家族移送。

 

子どもの教育支援。

 

医療枠。

 

「退職後の生活まで提示しています」

 

軍需担当が低く言った。

 

「金で買い戻せないのか」

 

ベルガーは答えた。

 

「連邦通貨で、ですか」

 

また沈黙が来た。

 

ボードワンが言う。

 

「宇宙通貨で払えばよい」

 

部屋がざわついた。

 

ベルガーは静かに言った。

 

「それは、連邦通貨の放棄を意味します」

 

ボードワンは少し困った顔をした。

 

「では難しいな」

 

今のは、ほとんど正解に近かった。

 

ベルガーはそう思った。

 

でも、それをやれば終わる。

 

次に、金利の話になった。

 

ベルガーは壁面に金利と為替の推移を出した。

 

「通貨防衛には利上げが必要です」

 

軍需担当がすぐに言った。

 

「それでは工場が止まる」

 

産業界代表も続ける。

 

「借入コストが上がれば、新規ラインは止まります。下請けは持ちません」

 

しばらく誰も話さなかった。

 

ボードワンが、穏やかな声で言った。

 

「では、兵器だけ金利を上げなければよいのではないかね」

 

今度の沈黙は、少し違っていた。

 

ベルガーの頭の中で、数字が動いた。

 

それはできる。

 

一般金利は上げる。軍需向けだけ低利信用枠を残す。制度としては成立する。

 

産業界代表が先に口を開いた。

 

「軍需企業への優遇融資になります」

 

ティターンズの連絡官が静かに言った。

 

「戦略産業の保護として合理的です」

 

さっきまでおとぼけに聞こえた一言が、政策の骨になった。

 

主流派高官がうなずく。

 

「検討に値する」

 

ベルガーは目を伏せた。

 

決まった。

 

誰かが慎重に言った。

 

「では、ティターンズとの距離を一時的に置くべきでは」

 

その言葉が終わる前に、部屋の空気が硬くなった。

 

ティターンズの連絡官が口を開く。

 

「秩序維持を放棄されますか」

 

脅しではない。

 

だが、脅しに近い音があった。

 

ボードワンは穏やかにうなずいた。

 

「秩序は必要だ」

 

「若者も、少し厳しくすれば落ち着く」

 

人事局担当者が、少し声を強くした。

 

「彼らは厳しさから逃げているのではありません」

 

「では何から逃げているのかね」

 

「信用されていない環境です」

 

ボードワンは本当に不思議そうな顔をした。

 

「軍とは、信用する前に確認する場所ではないのかね」

 

違う。

 

ベルガーは思った。

 

でも、この部屋ではそれが正しいことになる。

 

対策案が並んだ。

 

移動制限。

 

登録制度。

 

転職規制。

 

宇宙企業への移籍審査。

 

ティターンズ主導の技術者登録制度。

 

産業界代表が強く言った。

 

「技術者を縛れば、次は隠れて逃げます」

 

ティターンズの連絡官が返す。

 

「逃げる者は、すでに忠誠を失っています」

 

ボードワンが言った。

 

「ならば、逃げる前に登録すればよい」

 

また沈黙。

 

「移動は許可制にすればよい。無断で動かなければ、逃げたことにはならん」

 

主流派の高官が、小さく息を吐いた。

 

「……検討に値する」

 

それを監視という。

 

ベルガーは思った。

 

もちろん口には出さなかった。

 

言えば、この会議は止まらない。

 

止まるのは自分だけだ。

 

――――――

 

別の基地では、若い整備士が荷物をまとめていた。

 

官舎の部屋は薄い灰色だった。壁は薄く、隣室の足音が少し聞こえた。机の上には支給品の工具が並んでいる。持っていくことはできない。使い慣れた手袋だけを、彼は鞄に入れた。

 

同僚が扉にもたれていた。

 

「残るのか?」

 

整備士は首を振った。

 

「無理だ」

 

「連邦は嫌いか?」

 

「違う」

 

手が止まった。

 

「あの腕章の下では働けない」

 

同僚は黙った。

 

整備士は小さな写真立てを布で包んだ。家族の写真だった。

 

「どこへ行く」

 

「宇宙だ」

 

「戻る気は」

 

「連邦軍が、連邦軍に戻ったらな」

 

それだけ言って、鞄を閉じた。

 

――――――

 

会議は終わった。

 

決まったものは、いくつもあった。

 

戦時経済安定化。

 

軍需優先融資。

 

戦略技術者保護制度。

 

移動許可制。

 

ティターンズ権限強化。

 

名前は整っている。

 

中身は、どれも人の足首に結ぶ紐だった。

 

ボードワンが最後に言った。

 

「自由は大切だが、逃げられては困るからな」

 

誰も否定しなかった。

 

ベルガーは机の上の書類を見た。

 

退職届。

 

転属願。

 

行方不明者リスト。

 

横の端末には、宇宙企業の求人が映っている。

 

給与。

 

住居。

 

家族移送。

 

教育支援。

 

どれも具体的だった。

 

会議室で決まった制度よりも、ずっと生活に近いものだった。

 

正しい。

 

ベルガーは思った。

 

全部、正しい。

 

だから止められない。

 

そして、全部間違っている。

 

彼は書類を一枚、裏返した。

 

画面には若い技術者の名前があった。

 

二十三歳。

 

推進制御系。

 

退職予定。

 

理由欄は空白。

 

空白で十分だった。

 

この会議で決まったのは、政策ではない。

 

敗北までの手順だった。

 

 

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