ジャブローの地下会議室には、窓がなかった。
壁は厚く、天井は低い。空調は規則正しく音を立てていたが、室内の空気はどこか乾いていた。外の湿った森や、濁った川や、重い雲とは関係のない場所だった。ここでは雨も降らないし、風も吹かない。ただ数字だけが動く。
壁面には為替の推移が映っていた。
宇宙通貨は上がっている。
連邦通貨は下がっている。
その線は、誰かが怒って引いた傷のように、交差しながら広がっていた。
長机の周囲には、連邦政府の高官、財務官僚、軍需担当、連邦軍参謀、産業界代表、ティターンズの連絡官が座っている。誰も大声を出していない。だが、誰も安心していない。
その中で、ひとりだけ違う空気をまとった男がいた。
クレマン・ボードワン政務次官。
六十を越えた、温厚そうな男だった。白髪をきれいに撫でつけ、丸い顔をしている。声も穏やかだった。悪人には見えない。むしろ、どこかの昼下がりに庭の花へ水をやっていそうな男だった。
だが、そういう男が、ときどき一番危ない。
財務官僚のエルンスト・ベルガーが報告を始めた。
「宇宙通貨は上昇、連邦通貨は下落を続けています」
ベルガーは痩せた男だった。頬はこけ、目の下に疲れがある。数字を長く見つめてきた人間の顔だった。
「予算額は増えています。しかし、同額で調達できる物量は減少しています」
軍需担当が続けた。
「兵器の生産は継続可能です。ただし、予定数を満たせません」
ボードワンが、ゆっくりとうなずいた。
「ならば、連邦通貨を強くすればよいのではないかね」
会議室が静かになった。
ベルガーは少しだけ顔を上げた。
「それが可能であれば、本日の議題にはなっておりません」
ボードワンは納得したようにうなずいた。
「なるほど。では難しいのだな」
ベルガーは資料へ視線を戻した。
できないから、ここにいる。
そう思ったが、口には出さなかった。
産業界代表が次の資料を出す。髪を後ろで固く束ねた女性だった。服装は整っていたが、目は工場の納期表を見ている人間の目だった。
「光学センサー、ビーム砲用部材、推進制御部品、通信素子。いずれも納期が遅れています」
壁に品目が並ぶ。
赤字が多かった。
「契約は存在します。しかし、部品が届きません」
連邦軍参謀が眉を寄せる。
「契約違反ではないのか」
「いいえ。納期遅延です。契約上はまだ破綻していません」
ボードワンが言った。
「契約があるのに物が来ないなら、契約を増やせばよいのではないかね」
また静かになった。
産業界代表は、ほんの少し息を吸った。
「閣下、契約書は部品ではありません」
ボードワンは真面目な顔でうなずいた。
「それもそうだ」
ベルガーは端末を見るふりをした。
今のは笑うところなのだろうか。
誰も笑っていなかった。
人事局の担当者が資料を出した。彼はまだ若く見えたが、額には汗が浮いていた。汗をかくほど暑い部屋ではなかった。たぶん、暑いのは部屋ではなく、報告の中身だった。
「若手士官、整備士、技術者、補給担当者の流出が増加しています」
壁に数字が並ぶ。
退職。
転属願。
民間流出。
行方不明扱い。
「流出先は、宇宙企業、サイド6関連企業、財団系物流会社、アナハイム系下請け、反ティターンズ寄りの部隊です」
部屋の空気が変わった。
数字の話ではなく、人間の話になったからだ。
人事局担当者は喉を鳴らし、続けた。
「彼らは、連邦そのものから逃げているのではありません」
少し間を置く。
「ティターンズから逃げています」
何人かが視線を逸らした。
ティターンズの連絡官だけは動かなかった。黒い制服。白い手袋。姿勢は正しい。正しすぎて、かえって人を疲れさせる姿勢だった。
ボードワンが首を傾げた。
「ティターンズの制服は、そんなに評判が悪いのかね」
誰も答えなかった。
「黒は実用的だ。汚れが目立たん」
ベルガーは机の端を指で一度だけ叩いた。
そこではない。
人事局担当者は資料を切り替えた。
匿名聞き取り。
「連邦軍に入りたかったのであって、ティターンズの私兵になりたいわけではない」
「宇宙出身者を取り締まる仕事はしたくない」
「正規軍の制服が、ティターンズの下請けに見える」
空調の音が聞こえた。
ボードワンは困ったような顔をした。
「嫌われているのではなく、誤解ではないかね」
「誤解、ですか」
「彼らは仕事熱心だ。身元、思想、交友関係を三度確認する。実に丁寧ではないか」
それを監視と言う。
ベルガーはそう思った。
ボードワンは続ける。
「監視されて困る者は、困る理由があるのではないかね」
誰も何も言わなかった。
ティターンズの連絡官だけが、わずかにうなずいた。
だから全員逃げている。
ベルガーは目を閉じた。
財務の資料に戻る。
「宇宙企業は、連邦軍の二倍近い実質報酬を提示しています」
画面に条件が並んだ。
宇宙通貨建て給与。
住居。
家族移送。
子どもの教育支援。
医療枠。
「退職後の生活まで提示しています」
軍需担当が低く言った。
「金で買い戻せないのか」
ベルガーは答えた。
「連邦通貨で、ですか」
また沈黙が来た。
ボードワンが言う。
「宇宙通貨で払えばよい」
部屋がざわついた。
ベルガーは静かに言った。
「それは、連邦通貨の放棄を意味します」
ボードワンは少し困った顔をした。
「では難しいな」
今のは、ほとんど正解に近かった。
ベルガーはそう思った。
でも、それをやれば終わる。
次に、金利の話になった。
ベルガーは壁面に金利と為替の推移を出した。
「通貨防衛には利上げが必要です」
軍需担当がすぐに言った。
「それでは工場が止まる」
産業界代表も続ける。
「借入コストが上がれば、新規ラインは止まります。下請けは持ちません」
しばらく誰も話さなかった。
ボードワンが、穏やかな声で言った。
「では、兵器だけ金利を上げなければよいのではないかね」
今度の沈黙は、少し違っていた。
ベルガーの頭の中で、数字が動いた。
それはできる。
一般金利は上げる。軍需向けだけ低利信用枠を残す。制度としては成立する。
産業界代表が先に口を開いた。
「軍需企業への優遇融資になります」
ティターンズの連絡官が静かに言った。
「戦略産業の保護として合理的です」
さっきまでおとぼけに聞こえた一言が、政策の骨になった。
主流派高官がうなずく。
「検討に値する」
ベルガーは目を伏せた。
決まった。
誰かが慎重に言った。
「では、ティターンズとの距離を一時的に置くべきでは」
その言葉が終わる前に、部屋の空気が硬くなった。
ティターンズの連絡官が口を開く。
「秩序維持を放棄されますか」
脅しではない。
だが、脅しに近い音があった。
ボードワンは穏やかにうなずいた。
「秩序は必要だ」
「若者も、少し厳しくすれば落ち着く」
人事局担当者が、少し声を強くした。
「彼らは厳しさから逃げているのではありません」
「では何から逃げているのかね」
「信用されていない環境です」
ボードワンは本当に不思議そうな顔をした。
「軍とは、信用する前に確認する場所ではないのかね」
違う。
ベルガーは思った。
でも、この部屋ではそれが正しいことになる。
対策案が並んだ。
移動制限。
登録制度。
転職規制。
宇宙企業への移籍審査。
ティターンズ主導の技術者登録制度。
産業界代表が強く言った。
「技術者を縛れば、次は隠れて逃げます」
ティターンズの連絡官が返す。
「逃げる者は、すでに忠誠を失っています」
ボードワンが言った。
「ならば、逃げる前に登録すればよい」
また沈黙。
「移動は許可制にすればよい。無断で動かなければ、逃げたことにはならん」
主流派の高官が、小さく息を吐いた。
「……検討に値する」
それを監視という。
ベルガーは思った。
もちろん口には出さなかった。
言えば、この会議は止まらない。
止まるのは自分だけだ。
――――――
別の基地では、若い整備士が荷物をまとめていた。
官舎の部屋は薄い灰色だった。壁は薄く、隣室の足音が少し聞こえた。机の上には支給品の工具が並んでいる。持っていくことはできない。使い慣れた手袋だけを、彼は鞄に入れた。
同僚が扉にもたれていた。
「残るのか?」
整備士は首を振った。
「無理だ」
「連邦は嫌いか?」
「違う」
手が止まった。
「あの腕章の下では働けない」
同僚は黙った。
整備士は小さな写真立てを布で包んだ。家族の写真だった。
「どこへ行く」
「宇宙だ」
「戻る気は」
「連邦軍が、連邦軍に戻ったらな」
それだけ言って、鞄を閉じた。
――――――
会議は終わった。
決まったものは、いくつもあった。
戦時経済安定化。
軍需優先融資。
戦略技術者保護制度。
移動許可制。
ティターンズ権限強化。
名前は整っている。
中身は、どれも人の足首に結ぶ紐だった。
ボードワンが最後に言った。
「自由は大切だが、逃げられては困るからな」
誰も否定しなかった。
ベルガーは机の上の書類を見た。
退職届。
転属願。
行方不明者リスト。
横の端末には、宇宙企業の求人が映っている。
給与。
住居。
家族移送。
教育支援。
どれも具体的だった。
会議室で決まった制度よりも、ずっと生活に近いものだった。
正しい。
ベルガーは思った。
全部、正しい。
だから止められない。
そして、全部間違っている。
彼は書類を一枚、裏返した。
画面には若い技術者の名前があった。
二十三歳。
推進制御系。
退職予定。
理由欄は空白。
空白で十分だった。
この会議で決まったのは、政策ではない。
敗北までの手順だった。