朝というものは、たいてい誰かにとって都合がいい。
そして政治における朝は、だいたい誰かの葬式の翌日にやってくる。
ダイクンの死から十日ほど経ったころ、サイド3の空気は少しだけ乾いていた。乾いているというのは、よい兆候ではない。人間も都市も、少し湿っているくらいがちょうどいい。乾きすぎると、余計なものに火がつく。思想とか、噂とか、家族会議とか。
私の執務室の窓から見える工廠ブロックは、朝の人工光を浴びて、鈍い銀色に光っていた。巨大なシリンダーの内部にもう一つ世界があるというのは、何度見ても少し滑稽だ。人類は地球を出てまで、配管と通路と会議室を再生産する。自由を求めて宇宙に来たはずなのに、出来上がるのはだいたい役所だ。
机の上には、二種類の書類が積まれていた。
ひとつは、ダイクン派残党の動向。
もうひとつは、連邦軍艦艇の最新配備予測。
どちらも人を不幸にする書類だが、前者は刺すように不幸で、後者はじわじわ不幸だった。
秘書官がノックして入ってきた。
「ギレン様、ラル家より面会の申し入れです」
私はペンを止めた。
「誰だ」
「ジンバ・ラル、それにランバ・ラルも同行とのことです」
私は椅子にもたれた。ついに来たか、と思った。
ダイクン家とラル家。この世界で最も扱いの難しい“正統性の残り香”だった。人は死ぬ。しかし家名と遺恨は、死体より長持ちする。
「断ると面倒になるな」
「はい」
「通せ」
秘書官は一瞬だけためらった。
「護衛は増やしますか」
「いや、減らせ」
「減らす、ですか」
「多すぎる護衛は、相手に“あなたを逮捕する気はまだありません”と伝えるより先に、“逮捕も考えています”と伝える。人間は微妙な数を数える生き物だ」
秘書官は、理解したような、していないような顔で下がった。
数分後、ジンバ・ラルが入ってきた。年齢の割に背筋がまっすぐで、目はまだ焼け跡みたいに熱かった。ああいう目をした人間は、理想が自分の寿命より長いと信じている。厄介な種類の誠実さだ。その隣に立つランバ・ラルは、まだ若い。だが、体格だけはすでに一人前で、軍服が似合いすぎて少し可笑しいくらいだった。
「ギレン・ザビ殿」とジンバは言った。
「ラル殿」と私は答えた。
互いに腰は下ろしたが、心までは座らなかった。
「率直に申し上げます」とジンバ・ラルは言った。
「ぜひそうしていただきたい。遠回しな言葉は時間だけを消費する」
「ダイクン議長の遺児、キャスバル様とアルテイシア様の安全を、どのように考えておられるのか」
私はランバ・ラルのほうを見た。彼は黙っていたが、黙り方がよかった。主君の言葉を補わない男は信用できる。少なくとも、補いすぎる男よりは。
「安全」と私は繰り返した。「いい言葉だ。しかし大抵の場合、その言葉は危険な場所でだけ使われる」
ジンバは少しも笑わなかった。
「議長の死について、不自然な点が多い」
「この宇宙には不自然な死が多い」
「しかし今回は特に多い」
「その“特に”を証明する材料は?」
「ない」
「では現時点で、それは信念だな」
ジンバの眉がわずかに動いた。
彼は怒りを抑えるのが上手かった。そういう人間はたいてい、抑えた怒りを長期保存できる。
「私が欲しいのは証明ではない」と彼は言った。「時間です」
「何のための」
「子どもたちをここから出すための」
予想どおりだった。
私は予想どおりのことを言われると、少しだけがっかりする。政治は大半が予想どおりでできている。そのくせ、破滅だけはたいてい予想どおりに来ない。
「どこへ」
「地球へ」
「それは困る」と私は言った。
「なぜ」
「ひとたび地球へ出れば、彼らは“悲劇の遺児”になる。宇宙にいれば子どもだが、地球へ行けば旗印になる。人間は距離があるほど物語を美化する」
ジンバ・ラルは私をまっすぐ見た。
「では、あなたはここに置いて守ると?」
「場合による」
「信用できませんな」
「私も同感だ」と私は言った。「私も私をあまり信用していない」
そこでランバ・ラルが初めて口を開いた。
「失礼」と彼は言った。
低いが無駄のない声だった。
「信じる、信じないの話ではない。現実の話をしたい。遺児を公然と動かせば、どのみち誰かが利用する。ならば、表向きは静かに保護し、裏で逃がす手もある」
私は彼を見た。
若いのに、話が早い。あまりに早いので、将来はきっと苦労するだろうと思った。
「君は現実的だな、ランバ・ラル」
「理想だけで人は食えません」
「いい家訓だ」
ジンバはわずかに不満そうだったが、否定はしなかった。
私はそこで一枚のカードを切った。
「条件がある」
「何でしょう」
「ダイクン家の遺児を守る護衛に、ラル家の人間を入れる。だが護衛の任命権はザビ家が持つ」
「監視ではないか」とジンバが言った。
「護衛と監視は大抵、制服の色が違うだけだ」
「傲慢ですな」
「正確と言っていただきたい」
ジンバ・ラルの顔に、明確な嫌悪が浮かんだ。
私は嫌われることには慣れていた。むしろ、中途半端に好かれるほうが苦手だった。
「返答は保留させていただく」
「もちろん」
二人が立ち去りかけたところで、私はランバ・ラルを呼び止めた。
「君だけ残れ」
ジンバ・ラルの目が細くなった。
ランバは一瞬だけ主君を見て、それからうなずいた。
部屋に二人きりになると、空気の張り方が変わった。ジンバ・ラルの信念は濃い香水みたいなものだ。退室すると少し呼吸が楽になる。
「何でしょう」とランバが言った。
「君は戦える顔をしている」
「褒め言葉かどうか判断しかねます」
「軍人には褒め言葉だろう。少なくとも今は」
私は工廠ブロックを指で示した。
「連邦は我々を見下している。見下している相手ほど、面倒な敵になる。彼らは遅いが、鈍く重いものは一度動くと止まらない」
「戦争になる、と」
「準備は必要だ」
彼は黙った。
“必要”と“望む”は違う。その違いを理解している顔だった。
「君を試験的に軍の訓練計画へ入れる。表向きは治安維持名目だ」
「それは買収ですか」
「先行投資だ」
「何を期待する」
「妙な英雄願望を持たないこと。命令を文字どおりには受け取らないこと。目の前の兵を無駄死にさせないこと」
ランバ・ラルは少しだけ笑った。
「難しい注文だ」
「だから君に言っている」
彼は敬礼こそしなかったが、軍人らしい短い礼をして出ていった。
その日の午後、キシリアが執務室へやってきた。
ノックはしたが、許可は待たなかった。彼女はいつも、礼儀を形式として尊重し、本質として無視する。
「ラル家と会ったそうね」
「情報が早いな」
「兄上の部屋の前をうろうろしている人間がいれば、だいたいわかるわ」
「護衛の再教育が必要だな」
「兄上の趣味に合わせるなら、再配置という言葉を使うべきね」
彼女は窓際まで歩き、工廠の方を見た。
人工光が彼女の横顔を薄く削っていた。若いのに、ひどく完成された刃物のような顔だった。
「ダイクン家をどうする気?」
「利用されないように利用する」
「最低」
「最高だろう。政治家としては」
「正直すぎるのも下品ね」
私は肩をすくめた。
「そちらこそ、何を考えている」
「キャスバルを消せば後腐れはないわ」
私はゆっくり彼女を見た。
「それは停戦協定違反に近い」
「近いだけよ。兄上と私の停戦であって、他家まで含めた覚えはない」
「含めるべきだ。敵を増やすと、結局、最後に一番近い相手を撃つことになる」
「それは経験談?」
「残念ながら」
キシリアは少し笑った。
それから、机の上の連邦軍資料に目を落とした。
「戦争準備、進めているのね」
「防衛準備だ」
「言い換えは政治家の最古の趣味よ」
「実際、まだその段階だ。兵站、艦艇、生産ラインの見直し、訓練計画――どれも地味で退屈だ」
「でも兄上はそういう地味なものが好きになった」
「派手な結末を一度見たからな」
彼女は資料の一枚を拾った。
連邦の巡洋艦配備図だ。
「モビルワーカーの拡張案もあるのね」
「ある」
「兵器転用?」
「工業用機材は、だいたい少し想像力を足せば兵器になる」
「夢のない話」
「兵器に夢を見る方が危険だ」
彼女は紙を戻した。
「兄上、ひとつ教えてあげる。連邦との戦争は、政治が決める前に現場が始めることがある」
「知っている」
「本当に?」
「未来で嫌というほどな」
私はそう言ってから、舌打ちしたくなった。
キシリアの目が細くなったからだ。彼女は私の言葉の滑りを聞き逃さない。
「兄上」と彼女は言った。「最近、ときどき“知りすぎている”」
「お前もだろう」
「ええ」
その一言で、部屋の空気はまた均衡に戻った。
互いに秘密を握っている兄妹は、変な意味で礼儀正しくなる。
その夜、私はダイクン家の仮住まいに足を運んだ。
表向きは弔意と保護体制の確認。実際には、未来の赤い亡霊がまだ子どものうちに、少しでも別の道を探れないか試したかった。
屋敷は静かだった。静かすぎる家には、だいたい二種類ある。幸せで静かな家と、何かを失って静かな家だ。ここは明らかに後者だった。廊下の絨毯は柔らかく、照明は控えめで、使用人たちは必要以上に足音を消していた。人間は悲しみのある家では、音を減らす。
応接室で待っていたのは、キャスバルとアルテイシアだった。
キャスバルは椅子にまっすぐ座り、年齢よりずっと年上の目をしていた。アルテイシアはまだ小さく、けれど兄よりも自然だった。子どもらしさは、強さの一種だと思う。
「こんばんは」と私は言った。
キャスバルは少し遅れて答えた。
「こんばんは、ギレン・ザビ」
呼び捨てではなかったが、敬称もなかった。
たいしたものだ。私はその年齢で、そこまで美しく敵意を包めなかった。
「眠れているか」
「眠れます」
「食事は」
「食べています」
会話が、病院の問診票みたいだった。
アルテイシアが私を見て言った。
「お兄さま、この人こわい顔してる」
「知ってる」とキャスバルが言った。
私は少しだけ救われた気がした。
子どもがいる場で、正確な感想を言われるのは悪くない。大人はそこに余計な修辞を加える。
「怖い顔で悪かった」と私は言った。
「いつも?」とアルテイシア。
「だいたい」
「かわいそう」
その一言は、たぶんこの一週間で最も正確な評価だった。
私はキャスバルに向き直った。
「君たちの安全について、いくつか手を打つ」
「誰から守るのです」
「それを言うほど愚かではない」
「では、信じろと?」
「信じなくていい。ただ、生き延びろ」
キャスバルは私を見た。
その目の奥には、まだ言葉になっていない何かがあった。怒りか、誇りか、その両方か。未来で赤い彗星になるものの、まだ核だけがそこにあった。
「あなたは父上を尊敬していましたか」と彼が訊いた。
難しい質問だった。
私はダイクンを尊敬していたわけではない。だが軽蔑もしていない。大きな理念を持つ男は厄介だが、それでも理念なしに世界を動かす連中よりはましな場合がある。
「一部は」と私は言った。
「一部だけ」
「全部を尊敬できる人間など、めったにいない」
キャスバルは小さくうなずいた。
それが理解のうなずきなのか、記録のうなずきなのかはわからなかった。
屋敷を出ると、夜気が少し冷たかった。もちろん本物の夜気ではない。空調管理された人工の冷たさだ。それでも、疲れた頭にはちょうどよかった。
車に戻る前に、私は門の陰に一人の少女が立っているのに気づいた。アルテイシアだった。さっきまで応接室にいたはずだ。
「どうした」と私は訊いた。
彼女は躊躇なく言った。
「あなた、お兄さまと同じ顔するときがある」
「誰のことだ」
「キャスバルお兄さま」
私は黙った。
「怒ってるときじゃなくて、考えてるとき」と彼女は続けた。「こわいけど、ちょっとさびしい顔」
私は返事に困った。
子どもはときどき、大人が一生かけて言語化できないことを数秒で片づける。
「君は観察が鋭いな」
「みんなそう言う」
「それは将来、少し大変だぞ」
「あなたも?」
「かなり」
彼女はそれで満足したのか、屋敷の中へ戻っていった。
私は車に乗り込み、しばらく何も言わなかった。
運転手も気を利かせて黙っていた。優秀な部下というのは、沈黙を埋めない。
翌週、工廠視察があった。
巨大な建造ブロックには、まだ“兵器”とは呼ばれていない金属の塊が並んでいた。作業員たちは溶接の光を浴びて、短い稲妻の中で働いていた。鉄と油と焼けた樹脂の匂い。戦争の準備は、たいてい思想より先に匂いで始まる。
技師長が設計図を広げた。
「作業用機動機械の改修ですが、推力比を上げれば宇宙空間での機動性は――」
「名前はどうでもいい」と私は言った。「動くか、壊れるか、量産できるか、それだけを先に話せ」
技師長はうなずき、要点だけを述べた。
良い兆候だった。人間は戦争が近づくと、比喩を減らす。
視察の最後に、私は訓練区画を見た。
そこにランバ・ラルがいた。模擬小隊の動きを見て、短い指示だけを飛ばしていた。怒鳴らない。必要以上に褒めない。死なない動きだけを教える。ますますいい。
彼は私に気づいて敬礼した。
「どうだ」と私は訊いた。
「兵は育ちます」と彼は言った。「ただし、思想で腹はふくれません」
「最近その意見をよく聞く」
「正しいからでしょう」
私は少しだけ笑った。
そのとき、警報が鳴った。
短く、鋭く、嫌な音だった。
工廠全体の照明が一段階落ち、赤い補助灯が点いた。
「何事だ」と私は訊いた。
副官が駆け寄ってきた。
「外縁ブロックで爆発です。小規模ですが、搬送ラインが一部損傷。内部工作の可能性があります」
私は即座に思った。
始まったな、と。
ランバ・ラルの顔つきが変わった。
若い軍人の顔から、現場指揮官の顔になる速度が速い。
「封鎖を」と彼が言った。
「いや」と私は制した。「封鎖は後だ。まず火災区画から民間作業員を出せ。次に記録端末を押さえろ。犯人探しはそのあとでいい」
「ですが――」
「犯人は逃げる。だが焼けた作業員は戻らない」
ランバ・ラルは一瞬だけ私を見て、短くうなずいた。
彼はすぐ動いた。そういう男は使いやすい。後から恨まれても、現場で役に立つ方がいい。
爆発そのものは小さかった。
だが、被害よりも意味が大きかった。
誰かが、こちらの戦争準備を知っている。あるいは、知っていると見せたい。どちらにしても、舞台の幕はもう上がりかけていた。
その夜、私は執務室で報告書を読んでいた。
連邦の工作か、ダイクン派の急進派か、それとも父の周辺が意図的に揺さぶっているのか。候補は多すぎた。政治は犯人が多すぎる場所だ。
ドアが開き、キシリアが入ってきた。
「兄上、見た?」
「工廠爆破の件ならな」
「いいえ。もっと面白いもの」
彼女は一枚の写真を机に置いた。
そこには、爆発現場近くの搬送通路を走る小柄な人影が写っていた。顔はよく見えない。だが、連れの男の横顔には見覚えがあった。
ジンバ・ラルだった。
私は写真を見たまま言った。
「趣味が悪いな」
「ええ。でも便利」
「捏造の可能性は?」
「ある。けれど、ない可能性も高い」
私は目を閉じた。
ラル家はダイクン家を守りたい。だが守るために火をつける人間もいる。理想家というのは、子どもを守るために世界を燃やすことがある。
「どうするの」とキシリアが訊いた。
「まだ動かない」
「珍しい」
「ジンバ・ラルを潰せば、ランバ・ラルは敵になる。ランバ・ラルを敵に回せば、キャスバルの記憶に余計な線を一本足す」
「兄上にしては、ずいぶん詩的な言い方」
「疲れているんだ」
キシリアは机の端に腰をかけた。珍しいことだった。彼女はふつう、何かに寄りかからない。
「ねえ、兄上」と彼女が言った。「あなた、もしかして戦争そのものより、戦争のあとを怖がってる?」
私は少し考えた。
「両方だ」と答えた。「でも、あとに残る子どもの方が、もっと怖い」
キシリアはその答えを気に入ったのか、気に入らなかったのか、わからない顔をした。
「それで」と彼女は言った。「次は?」
私は窓の外を見た。
人工夜景の向こうで、工廠の赤い警告灯がまだ点滅している。宇宙の夜に、誰かの焦りだけが規則正しく瞬いていた。
「次は」と私は言った。
「ラル家を割る。ダイクン家は動かさない。連邦にはまだ気づかれたくない。工廠は逆に稼働を上げる。
そして――」
「そして?」
「キャスバルを、一度だけ工廠へ連れていく」
キシリアはゆっくり首を傾げた。
「どういう趣味?」
「世界がどうやって壊れるかを、早いうちに見せておく」
「残酷ね」
「親切だ」
彼女は笑った。
珍しく、声を出して。
「兄上」と彼女は言った。「やっぱりあなた、相当いやな人間よ」
「知っている」
「でも前回より少しだけまし」
「それも知っている」
彼女が出ていったあと、私はしばらく写真を見つめていた。
ジンバ・ラルの横顔。走る影。揺れる赤灯。
どれもまだ決定的ではない。だが歴史はたいてい、決定的な証拠ではなく、こういう半端な断片の集積で動いていく。
私は写真を裏返した。
机の上には、新しい夕食会のメモがあった。
一、武器検査。
二、飲料共有禁止。
三、ラル家の話題はデザートの後。
四、ガルマの前で露骨な敵意を見せないこと。
五、可能なら笑うこと。
最後の一行だけ、我ながら無理があると思った。
しかし無理のある目標というのは、ときどき国家目標より役に立つ。
窓の外で、工廠の灯がゆっくりひとつ消えた。
それは被害の収束を意味するのか、誰かの仕事の始まりを意味するのか、まだわからなかった。
ただひとつ確かなのは、
ダイクン家も、ラル家も、連邦も、そしてザビ家自身も、
もう誰ひとり“ただの家族”ではいられないということだった。
それでも来週、私はまた夕食会を開くつもりだった。
スープを飲んでいるあいだだけでも、人は引き金から指を離す。
たとえその直後に、別の書類へ手を伸ばすとしても。