妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第200話 逃げ道を作る男

 

地下会議室の白い光は、逃げ場を作らなかった。

 

壁も、机も、天井も、清潔だった。空調の音は低く一定で、そこにいる人間の息づかいだけが、時折その音を乱した。窓はない。外が昼か夜かも分からない。そういう部屋では、時間よりも書類の方が強い。

 

壁面には、モビルドール増産計画が映っていた。

 

バーザム改の出荷予定。

 

光学送受信器の不足数。

 

高精度センサーの再調整待ち。

 

通信素子の納期遅延。

 

赤い数字がいくつも並んでいる。

 

補給担当官は、端末を握る手に力を込めていた。声は整えている。だが、喉の奥に乾いた音が混じっていた。

 

「……現時点で、予定数には達しておりません」

 

誰もすぐには答えなかった。

 

会議卓の一方に、ジャミトフ・ハイマンが座っている。顔にはほとんど表情がない。視線だけが壁面の数字を追っていた。

 

その隣に近い位置で、バスク・オムが指先で机を叩いていた。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

音は小さい。

 

だが、部屋にいる者たちには、その音の方が補給担当官の声より大きく聞こえた。

 

「足りん、か」

 

バスクが言った。

 

補給担当官は背筋を伸ばした。

 

「はい。特に光学送受信器と高精度センサーの調整に遅れが出ております。また、民間企業側の納期も――」

 

「理由は聞いていない」

 

バスクの声が割り込んだ。

 

補給担当官は口を閉じた。

 

バスクは、壁面の赤い数字を見なかった。見ているのは、会議卓の向こうに座る政治家だった。

 

その政治家は、ティターンズに近い男だった。議会でティターンズ寄りの法案を通し、予算をつけ、委員会で都合の悪い発言を押し込めてきた。ティターンズの力を利用してきた男である。

 

だが今、その力は彼の前に座っていた。

 

利用してきた獣が、初めて自分の方を向いた。

 

政治家の頬がわずかに強張る。

 

バスクは言った。

 

「徴発しろ」

 

政治家の指が端末の上で止まった。

 

「技術者を拘束しろ」

 

白い照明の下で、政治家の額に汗が浮いた。

 

「企業を軍管理に置け」

 

その言葉で、会議室の空気が凍った。

 

補給担当官は目を伏せた。

 

官僚たちは、端末に視線を落とした。誰も反論しない。反論すれば、その言葉は記録に残る。記録に残る言葉は、あとで責任になる。

 

政治家は喉を鳴らした。

 

「必要性は、理解しております」

 

声は細かった。

 

「しかし、全面的な徴発は産業界の反発を招きます。法的にも、段階を踏む必要が――」

 

「反発する企業は軍管理に置け」

 

バスクは言った。

 

「技術者が逃げるなら拘束しろ」

 

一拍。

 

「兵器が必要な時に、契約だ通貨だと抜かす連中を相手にするな」

 

言葉は荒い。

 

しかし、バスクの考え方は単純ではあっても、混乱してはいなかった。

 

前線には兵器がいる。

 

兵器には部品がいる。

 

部品には企業がいる。

 

企業が出さないなら押さえる。

 

技術者が逃げるなら捕まえる。

 

戦場へ物を送るという一点だけを見れば、乱暴だが分かりやすい。

 

ジャミトフは黙っていた。

 

彼はバスクを止めなかった。

 

止める理由はある。

 

だが、止めた後に出せる答えがなければ、ただの反対になる。

 

徴発すれば、企業は部品を隠す。

 

技術者を拘束すれば、残った者まで逃げる。

 

軍管理を強めれば、連邦通貨建ての契約はさらに嫌われる。

 

ティターンズへの嫌悪は深まる。

 

それは分かっていた。

 

分かっているからこそ、ジャミトフは壁面の数字を見ていた。

 

何もしなければ、モビルドールは止まる。

 

止まれば、ティターンズが握ろうとしていた新しい主導権は失われる。

 

バスク案は悪手である。

 

だが、放置は敗北である。

 

政治家が、ようやく別の言葉を探し始めた。

 

「戦略産業保護法の拡張という形であれば……」

 

彼はバスクを見ない。

 

「技術者については、保全措置として……」

 

官僚の一人が小さく頷いた。書類になる言葉が出てきたからだ。

 

「企業には国家調達監督を強める方向で……」

 

徴発を、優先供給と言い換える。

 

拘束を、技術者保護と言い換える。

 

軍管理を、国家調達監督と言い換える。

 

言葉の服を替えただけだった。

 

ジャミトフは目を細めた。

 

言葉を替えれば、法案にはなる。

 

議会も通せるかもしれない。

 

官僚も処理できる。

 

政治家は責任を薄められる。

 

だが中身は変わらない。

 

中身が変わらなければ、人は逃げる。

 

バスクは、政治家の言い換えを最後まで聞かなかった。

 

「名前などどうでもいい」

 

政治家が黙る。

 

「動かせ」

 

それだけだった。

 

会議室に、低い空調音だけが残った。

 

その時、会議卓の端で、椅子がわずかに鳴った。

 

ワッケインが顔を上げていた。

 

派手な男ではない。

 

声を荒げることもない。

 

制服の着こなしは正確で、姿勢も崩れない。だがその正しさは、ティターンズの兵士たちの硬さとは違っていた。基地を動かし、艦隊を動かし、人を配置し、補給を待ち、遅延に苛立ちながらも翌日の運用を組んできた者の正しさだった。

 

「逃げる者を捕まえれば、次は隠れて逃げます」

 

会議室の視線が彼に集まった。

 

バスクが睨む。

 

「見逃せと言うのか」

 

ワッケインは首を振った。

 

「いいえ」

 

短い沈黙。

 

「見える場所へ移した方が管理できます」

 

政治家が顔を上げた。

 

官僚たちの指が止まる。

 

ジャミトフは、初めてワッケインだけを見た。

 

バスクは鼻を鳴らした。

 

「逃げる連中に餌をやるのか」

 

「餌ではありません」

 

ワッケインは静かに答えた。

 

「名簿です」

 

その言葉で、空気が変わった。

 

政治家の目に理解が戻る。

 

官僚が端末へ視線を落とす。

 

補給担当官も、わずかに顔を上げた。

 

ワッケインは続けた。

 

「受け皿を用意すれば、逃げる前に名前を取れます。家族構成も分かります。専門分野も分かります。移動履歴も残せます」

 

彼は壁面に別の表示を出した。

 

まだ粗い案だった。

 

仮称。

 

戦略技術者保護機構。

 

「ティターンズ直轄を嫌う者は多い。ならば、直轄ではない場所を用意するべきです」

 

バスクの目が細くなる。

 

「逃げる者を、そこへ入れるのか」

 

「逃げる前に、そこへ移します」

 

ワッケインの声は平坦だった。

 

「表向きは連邦政府主導の研究機構。民生転用研究、通信技術、精密センサー、医療機器、宇宙インフラ。名目はいくらでもあります」

 

政治家が息を吐いた。

 

それなら言える。

 

徴発ではない。

 

拘束ではない。

 

軍管理ではない。

 

保護であり、研究であり、民生転用である。

 

ワッケインは言葉を続けた。

 

「給与には宇宙通貨連動手当をつける。家族移送、住居、教育、医療を保証する。肩書きは民生転用研究員、調整技術者、光学通信研究員」

 

壁面に項目が並ぶ。

 

人材名簿。

 

家族情報。

 

専門分野。

 

移動履歴。

 

研究成果。

 

連絡先。

 

「完全に姿を消されれば、こちらには何も残りません。地下に潜られれば、探すだけで人員を使います。ですが、保護機構へ入った者は見えます」

 

バスクが低く言った。

 

「家まで用意するのか」

 

「家がなければ、敵の家に入ります」

 

沈黙。

 

その言葉は、銃声より静かで、銃声より効いた。

 

ワッケインはさらに言う。

 

「技術者は本人だけで動きません。家族、住居、子どもの学校、医療。それらがあって初めて移ります。ティターンズの命令書では動きません」

 

一拍。

 

「生活条件で動きます」

 

政治家は、もう何度も頷いていた。

 

官僚は書類の構成を考え始めている。

 

軍需担当官は、どの部門の技術者を戻せるかを計算している。

 

補給担当官は、ようやく自分の報告に出口ができたことを感じていた。

 

バスクだけが、不満を隠していない。

 

「回りくどい」

 

「はい」

 

ワッケインは認めた。

 

「ですが、隠れられるよりは早い」

 

ジャミトフは、二人のやり取りを聞いていた。

 

この男は甘いことを言っているのではない。

 

人を守る顔で、人を数えている。

 

逃げる者へ道を作ると言いながら、その道に標識と記録を置こうとしている。

 

使える。

 

同時に、危険だ。

 

ティターンズの思想に染まった者なら、この案は出ない。

 

バスクなら捕らえろと言う。

 

政治家なら言い換えだけを考える。

 

官僚なら責任の所在を薄める。

 

ワッケインは違う。

 

人が何を恐れ、何があれば立ち止まり、どこへ動くかを見ている。

 

それは兵站の目だった。

 

弾薬だけではない。

 

人間も補給線の一部であることを知っている目だった。

 

ジャミトフは静かに言った。

 

「採用する」

 

バスクが顔を上げる。

 

ジャミトフは続けた。

 

「ただし、監督権は残す。人材名簿、研究成果、資金の流れ、移動履歴、家族情報。すべて定期報告に入れろ」

 

ワッケインは敬礼した。

 

「承知しました」

 

ジャミトフは政治家へ視線を向けた。

 

政治家は慌てて背筋を伸ばす。

 

「法案化しろ」

 

「はい。戦略技術者保護機構設置案として……」

 

「名は任せる」

 

ジャミトフの声は冷たい。

 

「中身を遅らせるな」

 

「承知しました」

 

政治家は深く頷いた。

 

その顔には安堵があった。

 

だが、その安堵は浅い。

 

彼は分かっていた。

 

この制度は救済にもなる。

 

同時に名簿にもなる。

 

そして名簿は、必要になれば鎖になる。

 

――――――

 

会議後の通路は白かった。

 

壁も床も天井も、同じ白で塗られている。照明が強く、影は薄い。等間隔に立つティターンズ兵は、動かない装飾のように見えた。

 

ワッケインは一人で歩いていた。

 

背後から重い足音が近づく。

 

足音だけで分かった。

 

バスクだった。

 

「貴様」

 

ワッケインは足を止めなかった。

 

「逃げる連中に道を作っただけではないのか」

 

バスクの声は低い。

 

通路の空気が震えるようだった。

 

ワッケインは歩調を変えずに答えた。

 

「道がなければ、彼らは壁を破ります」

 

「壁を破る者は撃てばいい」

 

「撃てば、次は最初から姿を見せません」

 

バスクが鼻で笑う。

 

「それで、家を用意し、金を出し、子どもの学校まで世話するのか。軍とはずいぶん優しくなったものだ」

 

ワッケインはそこで立ち止まった。

 

バスクも止まる。

 

二人の間に、白い照明が落ちていた。

 

「優しさではありません」

 

ワッケインは言った。

 

「逃げる者を追うには人手が要ります。隠れた者を探すには時間が要ります。敵に渡った者を取り戻すには、さらに損害が出ます」

 

バスクは睨んだ。

 

「だから飼うのか」

 

「はい」

 

ワッケインは否定しなかった。

 

「飼うなら、餌と囲いが必要です」

 

バスクの目が細くなる。

 

「貴様、口だけは冷たいな」

 

「兵站は、温かい言葉では動きません」

 

「気に入らんな」

 

「結果を見てください」

 

バスクは一歩近づいた。

 

「俺は貴様を信用していない」

 

ワッケインの表情は変わらない。

 

「信用は不要です」

 

一拍。

 

「制度が動けばよい」

 

バスクはしばらくワッケインを見据えた。

 

この男は怯えない。

 

媚びもしない。

 

反抗もしない。

 

ただ、自分の理屈で立っている。

 

そういう人間は扱いにくい。

 

バスクはそれを直感で理解した。

 

「結果が出なければ、貴様の責任だ」

 

「承知しています」

 

「逃げた連中が敵へ流れてもだ」

 

「見えないまま流れるより、見えてから判断できます」

 

バスクは舌打ちした。

 

「その理屈が気に入らん」

 

ワッケインは答えなかった。

 

バスクは踵を返した。

 

足音が遠ざかる。

 

ワッケインはしばらくその背中を見送った。

 

バスクは短い距離で力を出す男だ。

 

恐怖を作り、従わせ、押し込む。

 

だが、恐怖は逃げ道も作る。

 

ワッケインは再び歩き出した。

 

通路の先に、自室がある。

 

その途中で、彼は一度だけ壁に設置された監視カメラを見た。

 

すぐに視線を外す。

 

今はまだ、何も始まっていない。

 

始まっていないものほど、静かに扱わねばならない。

 

――――――

 

ワッケインの自室は狭かった。

 

机、端末、簡素な椅子、壁面収納。

 

窓はない。

 

装飾もない。

 

任務のために切り取られた小さな箱のような部屋だった。

 

彼は扉を閉じた。

 

外の足音が遠ざかる。

 

空調の音だけが残る。

 

椅子に座り、端末を起動した。

 

画面の白い光が、彼の顔を照らす。

 

まず、表の文書を開いた。

 

戦略技術者保護機構設置案。

 

表題の下に、正しい言葉を並べる。

 

人材保護。

 

研究継続。

 

家族支援。

 

産業維持。

 

民生転用。

 

技術継承。

 

どれも嘘ではない。

 

嘘ではない言葉は、最も使いやすい。

 

ワッケインは文面を整えていく。

 

ティターンズ直轄ではないこと。

 

連邦政府主導であること。

 

軍需と民生の橋渡しであること。

 

家族保護を行うこと。

 

移動支援を行うこと。

 

宇宙通貨連動手当を認めること。

 

人材名簿を作ること。

 

専門分野を分類すること。

 

移動履歴を管理すること。

 

一つひとつ、書き足す。

 

この制度は通る。

 

政治家は通せる。

 

官僚は処理できる。

 

技術者は逃げ込める。

 

ティターンズは成果物を受け取れる。

 

ジャミトフは人材を見える場所へ置ける。

 

そしてワッケインは、その中から逃がすべき者を選べる。

 

彼はそこで手を止めた。

 

椅子にもたれず、背を伸ばしたまま画面を見つめる。

 

ティアンムと共に地球へ降りてから、彼は多くのものを見てきた。

 

戦力分析は間違っていない。

 

治安維持の必要も分かる。

 

ジオンの脅威も、宇宙側の動きも、軽く見るべきではない。

 

だが、ティターンズは人を疑いすぎる。

 

若手を疑う。

 

技術者を疑う。

 

企業を疑う。

 

宇宙出身者を疑う。

 

疑えば、人は離れる。

 

縛れば、隠れる。

 

脅せば、敵の家へ入る。

 

連邦を守るために作られたはずの力が、連邦の足元を削っている。

 

そのことを、ワッケインはもう見ないふりができなかった。

 

彼は別のファイルを開いた。

 

表題はつけない。

 

空白の画面に、短い項目を打つ。

 

候補者分類。

 

保護対象。

 

移送可能者。

 

家族同行可否。

 

専門分野。

 

信頼度。

 

接続先。

 

最後の一語で、指が止まった。

 

接続先。

 

まだ書いてはいけない言葉だった。

 

そこに何と書くかで、この書類は制度案ではなく裏切りの証拠になる。

 

彼はしばらく動かなかった。

 

画面の白い光だけが、部屋にある。

 

やがて、彼は入力した。

 

後日指定。

 

それだけだった。

 

ワッケインは端末から手を離した。

 

深く息を吐く。

 

自分がしていることの重さは分かっている。

 

これは単なる人材保護ではない。

 

ティターンズの中に、人が逃げるための道を作る行為である。

 

だが、彼はそれを裏切りとは思わなかった。

 

連邦を守るために、連邦の名を使って連邦を壊す者たちから、人を逃がす。

 

それが今、自分にできる仕事だった。

 

彼は画面を閉じない。

 

表の制度案と、裏の未完成の名簿。

 

二つの書類が、同じ端末の中に並んでいる。

 

どちらも正しい。

 

どちらも危険だった。

 

ワッケインは小さく呟いた。

 

「まず、集める」

 

声は部屋の壁に吸われた。

 

「それから、逃がす」

 

誰も聞いていない。

 

聞かれてはならない。

 

だが、その言葉は確かにそこに残った。

 

ティターンズの内側に、逃げ道を作る。

 

それはまだ誰にも見えない。

 

だが最初の線は、この夜に引かれた。

 

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