地下会議室の白い光は、逃げ場を作らなかった。
壁も、机も、天井も、清潔だった。空調の音は低く一定で、そこにいる人間の息づかいだけが、時折その音を乱した。窓はない。外が昼か夜かも分からない。そういう部屋では、時間よりも書類の方が強い。
壁面には、モビルドール増産計画が映っていた。
バーザム改の出荷予定。
光学送受信器の不足数。
高精度センサーの再調整待ち。
通信素子の納期遅延。
赤い数字がいくつも並んでいる。
補給担当官は、端末を握る手に力を込めていた。声は整えている。だが、喉の奥に乾いた音が混じっていた。
「……現時点で、予定数には達しておりません」
誰もすぐには答えなかった。
会議卓の一方に、ジャミトフ・ハイマンが座っている。顔にはほとんど表情がない。視線だけが壁面の数字を追っていた。
その隣に近い位置で、バスク・オムが指先で机を叩いていた。
一度。
二度。
三度。
音は小さい。
だが、部屋にいる者たちには、その音の方が補給担当官の声より大きく聞こえた。
「足りん、か」
バスクが言った。
補給担当官は背筋を伸ばした。
「はい。特に光学送受信器と高精度センサーの調整に遅れが出ております。また、民間企業側の納期も――」
「理由は聞いていない」
バスクの声が割り込んだ。
補給担当官は口を閉じた。
バスクは、壁面の赤い数字を見なかった。見ているのは、会議卓の向こうに座る政治家だった。
その政治家は、ティターンズに近い男だった。議会でティターンズ寄りの法案を通し、予算をつけ、委員会で都合の悪い発言を押し込めてきた。ティターンズの力を利用してきた男である。
だが今、その力は彼の前に座っていた。
利用してきた獣が、初めて自分の方を向いた。
政治家の頬がわずかに強張る。
バスクは言った。
「徴発しろ」
政治家の指が端末の上で止まった。
「技術者を拘束しろ」
白い照明の下で、政治家の額に汗が浮いた。
「企業を軍管理に置け」
その言葉で、会議室の空気が凍った。
補給担当官は目を伏せた。
官僚たちは、端末に視線を落とした。誰も反論しない。反論すれば、その言葉は記録に残る。記録に残る言葉は、あとで責任になる。
政治家は喉を鳴らした。
「必要性は、理解しております」
声は細かった。
「しかし、全面的な徴発は産業界の反発を招きます。法的にも、段階を踏む必要が――」
「反発する企業は軍管理に置け」
バスクは言った。
「技術者が逃げるなら拘束しろ」
一拍。
「兵器が必要な時に、契約だ通貨だと抜かす連中を相手にするな」
言葉は荒い。
しかし、バスクの考え方は単純ではあっても、混乱してはいなかった。
前線には兵器がいる。
兵器には部品がいる。
部品には企業がいる。
企業が出さないなら押さえる。
技術者が逃げるなら捕まえる。
戦場へ物を送るという一点だけを見れば、乱暴だが分かりやすい。
ジャミトフは黙っていた。
彼はバスクを止めなかった。
止める理由はある。
だが、止めた後に出せる答えがなければ、ただの反対になる。
徴発すれば、企業は部品を隠す。
技術者を拘束すれば、残った者まで逃げる。
軍管理を強めれば、連邦通貨建ての契約はさらに嫌われる。
ティターンズへの嫌悪は深まる。
それは分かっていた。
分かっているからこそ、ジャミトフは壁面の数字を見ていた。
何もしなければ、モビルドールは止まる。
止まれば、ティターンズが握ろうとしていた新しい主導権は失われる。
バスク案は悪手である。
だが、放置は敗北である。
政治家が、ようやく別の言葉を探し始めた。
「戦略産業保護法の拡張という形であれば……」
彼はバスクを見ない。
「技術者については、保全措置として……」
官僚の一人が小さく頷いた。書類になる言葉が出てきたからだ。
「企業には国家調達監督を強める方向で……」
徴発を、優先供給と言い換える。
拘束を、技術者保護と言い換える。
軍管理を、国家調達監督と言い換える。
言葉の服を替えただけだった。
ジャミトフは目を細めた。
言葉を替えれば、法案にはなる。
議会も通せるかもしれない。
官僚も処理できる。
政治家は責任を薄められる。
だが中身は変わらない。
中身が変わらなければ、人は逃げる。
バスクは、政治家の言い換えを最後まで聞かなかった。
「名前などどうでもいい」
政治家が黙る。
「動かせ」
それだけだった。
会議室に、低い空調音だけが残った。
その時、会議卓の端で、椅子がわずかに鳴った。
ワッケインが顔を上げていた。
派手な男ではない。
声を荒げることもない。
制服の着こなしは正確で、姿勢も崩れない。だがその正しさは、ティターンズの兵士たちの硬さとは違っていた。基地を動かし、艦隊を動かし、人を配置し、補給を待ち、遅延に苛立ちながらも翌日の運用を組んできた者の正しさだった。
「逃げる者を捕まえれば、次は隠れて逃げます」
会議室の視線が彼に集まった。
バスクが睨む。
「見逃せと言うのか」
ワッケインは首を振った。
「いいえ」
短い沈黙。
「見える場所へ移した方が管理できます」
政治家が顔を上げた。
官僚たちの指が止まる。
ジャミトフは、初めてワッケインだけを見た。
バスクは鼻を鳴らした。
「逃げる連中に餌をやるのか」
「餌ではありません」
ワッケインは静かに答えた。
「名簿です」
その言葉で、空気が変わった。
政治家の目に理解が戻る。
官僚が端末へ視線を落とす。
補給担当官も、わずかに顔を上げた。
ワッケインは続けた。
「受け皿を用意すれば、逃げる前に名前を取れます。家族構成も分かります。専門分野も分かります。移動履歴も残せます」
彼は壁面に別の表示を出した。
まだ粗い案だった。
仮称。
戦略技術者保護機構。
「ティターンズ直轄を嫌う者は多い。ならば、直轄ではない場所を用意するべきです」
バスクの目が細くなる。
「逃げる者を、そこへ入れるのか」
「逃げる前に、そこへ移します」
ワッケインの声は平坦だった。
「表向きは連邦政府主導の研究機構。民生転用研究、通信技術、精密センサー、医療機器、宇宙インフラ。名目はいくらでもあります」
政治家が息を吐いた。
それなら言える。
徴発ではない。
拘束ではない。
軍管理ではない。
保護であり、研究であり、民生転用である。
ワッケインは言葉を続けた。
「給与には宇宙通貨連動手当をつける。家族移送、住居、教育、医療を保証する。肩書きは民生転用研究員、調整技術者、光学通信研究員」
壁面に項目が並ぶ。
人材名簿。
家族情報。
専門分野。
移動履歴。
研究成果。
連絡先。
「完全に姿を消されれば、こちらには何も残りません。地下に潜られれば、探すだけで人員を使います。ですが、保護機構へ入った者は見えます」
バスクが低く言った。
「家まで用意するのか」
「家がなければ、敵の家に入ります」
沈黙。
その言葉は、銃声より静かで、銃声より効いた。
ワッケインはさらに言う。
「技術者は本人だけで動きません。家族、住居、子どもの学校、医療。それらがあって初めて移ります。ティターンズの命令書では動きません」
一拍。
「生活条件で動きます」
政治家は、もう何度も頷いていた。
官僚は書類の構成を考え始めている。
軍需担当官は、どの部門の技術者を戻せるかを計算している。
補給担当官は、ようやく自分の報告に出口ができたことを感じていた。
バスクだけが、不満を隠していない。
「回りくどい」
「はい」
ワッケインは認めた。
「ですが、隠れられるよりは早い」
ジャミトフは、二人のやり取りを聞いていた。
この男は甘いことを言っているのではない。
人を守る顔で、人を数えている。
逃げる者へ道を作ると言いながら、その道に標識と記録を置こうとしている。
使える。
同時に、危険だ。
ティターンズの思想に染まった者なら、この案は出ない。
バスクなら捕らえろと言う。
政治家なら言い換えだけを考える。
官僚なら責任の所在を薄める。
ワッケインは違う。
人が何を恐れ、何があれば立ち止まり、どこへ動くかを見ている。
それは兵站の目だった。
弾薬だけではない。
人間も補給線の一部であることを知っている目だった。
ジャミトフは静かに言った。
「採用する」
バスクが顔を上げる。
ジャミトフは続けた。
「ただし、監督権は残す。人材名簿、研究成果、資金の流れ、移動履歴、家族情報。すべて定期報告に入れろ」
ワッケインは敬礼した。
「承知しました」
ジャミトフは政治家へ視線を向けた。
政治家は慌てて背筋を伸ばす。
「法案化しろ」
「はい。戦略技術者保護機構設置案として……」
「名は任せる」
ジャミトフの声は冷たい。
「中身を遅らせるな」
「承知しました」
政治家は深く頷いた。
その顔には安堵があった。
だが、その安堵は浅い。
彼は分かっていた。
この制度は救済にもなる。
同時に名簿にもなる。
そして名簿は、必要になれば鎖になる。
――――――
会議後の通路は白かった。
壁も床も天井も、同じ白で塗られている。照明が強く、影は薄い。等間隔に立つティターンズ兵は、動かない装飾のように見えた。
ワッケインは一人で歩いていた。
背後から重い足音が近づく。
足音だけで分かった。
バスクだった。
「貴様」
ワッケインは足を止めなかった。
「逃げる連中に道を作っただけではないのか」
バスクの声は低い。
通路の空気が震えるようだった。
ワッケインは歩調を変えずに答えた。
「道がなければ、彼らは壁を破ります」
「壁を破る者は撃てばいい」
「撃てば、次は最初から姿を見せません」
バスクが鼻で笑う。
「それで、家を用意し、金を出し、子どもの学校まで世話するのか。軍とはずいぶん優しくなったものだ」
ワッケインはそこで立ち止まった。
バスクも止まる。
二人の間に、白い照明が落ちていた。
「優しさではありません」
ワッケインは言った。
「逃げる者を追うには人手が要ります。隠れた者を探すには時間が要ります。敵に渡った者を取り戻すには、さらに損害が出ます」
バスクは睨んだ。
「だから飼うのか」
「はい」
ワッケインは否定しなかった。
「飼うなら、餌と囲いが必要です」
バスクの目が細くなる。
「貴様、口だけは冷たいな」
「兵站は、温かい言葉では動きません」
「気に入らんな」
「結果を見てください」
バスクは一歩近づいた。
「俺は貴様を信用していない」
ワッケインの表情は変わらない。
「信用は不要です」
一拍。
「制度が動けばよい」
バスクはしばらくワッケインを見据えた。
この男は怯えない。
媚びもしない。
反抗もしない。
ただ、自分の理屈で立っている。
そういう人間は扱いにくい。
バスクはそれを直感で理解した。
「結果が出なければ、貴様の責任だ」
「承知しています」
「逃げた連中が敵へ流れてもだ」
「見えないまま流れるより、見えてから判断できます」
バスクは舌打ちした。
「その理屈が気に入らん」
ワッケインは答えなかった。
バスクは踵を返した。
足音が遠ざかる。
ワッケインはしばらくその背中を見送った。
バスクは短い距離で力を出す男だ。
恐怖を作り、従わせ、押し込む。
だが、恐怖は逃げ道も作る。
ワッケインは再び歩き出した。
通路の先に、自室がある。
その途中で、彼は一度だけ壁に設置された監視カメラを見た。
すぐに視線を外す。
今はまだ、何も始まっていない。
始まっていないものほど、静かに扱わねばならない。
――――――
ワッケインの自室は狭かった。
机、端末、簡素な椅子、壁面収納。
窓はない。
装飾もない。
任務のために切り取られた小さな箱のような部屋だった。
彼は扉を閉じた。
外の足音が遠ざかる。
空調の音だけが残る。
椅子に座り、端末を起動した。
画面の白い光が、彼の顔を照らす。
まず、表の文書を開いた。
戦略技術者保護機構設置案。
表題の下に、正しい言葉を並べる。
人材保護。
研究継続。
家族支援。
産業維持。
民生転用。
技術継承。
どれも嘘ではない。
嘘ではない言葉は、最も使いやすい。
ワッケインは文面を整えていく。
ティターンズ直轄ではないこと。
連邦政府主導であること。
軍需と民生の橋渡しであること。
家族保護を行うこと。
移動支援を行うこと。
宇宙通貨連動手当を認めること。
人材名簿を作ること。
専門分野を分類すること。
移動履歴を管理すること。
一つひとつ、書き足す。
この制度は通る。
政治家は通せる。
官僚は処理できる。
技術者は逃げ込める。
ティターンズは成果物を受け取れる。
ジャミトフは人材を見える場所へ置ける。
そしてワッケインは、その中から逃がすべき者を選べる。
彼はそこで手を止めた。
椅子にもたれず、背を伸ばしたまま画面を見つめる。
ティアンムと共に地球へ降りてから、彼は多くのものを見てきた。
戦力分析は間違っていない。
治安維持の必要も分かる。
ジオンの脅威も、宇宙側の動きも、軽く見るべきではない。
だが、ティターンズは人を疑いすぎる。
若手を疑う。
技術者を疑う。
企業を疑う。
宇宙出身者を疑う。
疑えば、人は離れる。
縛れば、隠れる。
脅せば、敵の家へ入る。
連邦を守るために作られたはずの力が、連邦の足元を削っている。
そのことを、ワッケインはもう見ないふりができなかった。
彼は別のファイルを開いた。
表題はつけない。
空白の画面に、短い項目を打つ。
候補者分類。
保護対象。
移送可能者。
家族同行可否。
専門分野。
信頼度。
接続先。
最後の一語で、指が止まった。
接続先。
まだ書いてはいけない言葉だった。
そこに何と書くかで、この書類は制度案ではなく裏切りの証拠になる。
彼はしばらく動かなかった。
画面の白い光だけが、部屋にある。
やがて、彼は入力した。
後日指定。
それだけだった。
ワッケインは端末から手を離した。
深く息を吐く。
自分がしていることの重さは分かっている。
これは単なる人材保護ではない。
ティターンズの中に、人が逃げるための道を作る行為である。
だが、彼はそれを裏切りとは思わなかった。
連邦を守るために、連邦の名を使って連邦を壊す者たちから、人を逃がす。
それが今、自分にできる仕事だった。
彼は画面を閉じない。
表の制度案と、裏の未完成の名簿。
二つの書類が、同じ端末の中に並んでいる。
どちらも正しい。
どちらも危険だった。
ワッケインは小さく呟いた。
「まず、集める」
声は部屋の壁に吸われた。
「それから、逃がす」
誰も聞いていない。
聞かれてはならない。
だが、その言葉は確かにそこに残った。
ティターンズの内側に、逃げ道を作る。
それはまだ誰にも見えない。
だが最初の線は、この夜に引かれた。