妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第202話 第二移送先

 

 

戦略技術者保護機構での生活は、数日で日常の形を取りはじめた。

 

それは不思議なことだった。人は、どれほど不自然な場所でも、朝に起き、顔を洗い、食事を取り、誰かに挨拶をしているうちに、その場所を一時的な生活の器として受け入れてしまう。

 

エリナ・フォルカーもそうだった。

 

母は医療棟で薬を受け取れるようになった。薬袋には機構の管理番号が印字され、服用時間まで端末に登録されている。最初はそれを見て眉をひそめていた母も、二日目には「飲み忘れなくて済むわね」と言った。

 

弟は学校棟の基礎工学講習に通い始めた。初日は緊張していたが、三日目の朝には、食堂で出された温かいスープを急いで飲み、鞄を抱えて走り出そうとした。

 

「廊下は走らない」

 

エリナが言うと、弟は肩をすくめた。

 

「ここ、廊下が長いんだよ」

 

「長い廊下ほど、転ぶと痛い」

 

「姉さんは何でも理屈にする」

 

「あなたは何でも走ればいいと思ってる」

 

弟は笑った。

 

その笑い声を聞くと、エリナは少しだけ安心した。

 

部屋は広くない。三人分の寝台と、小さな机、収納棚が二つ。窓の外には研究区画の中庭が見える。低い木が何本か植えられ、夜になると小さな照明が地面から葉を照らした。人工的で、少し味気ない風景だったが、母は「悪くないわ」と言った。

 

悪くない。

 

たしかに、悪くはなかった。

 

食事は出る。薬はある。弟は学校へ行ける。研究棟には暖房があり、実験機材も揃っている。ティターンズの黒い制服が廊下を歩いているわけでもない。

 

だが、エリナは機構に慣れるほど、別のものにも気づくようになっていた。

 

入退室記録は細かすぎる。

 

外部通信には許可が必要だった。

 

研究棟の端末には、民生研究の分類の奥に、明らかに軍用規格としか思えない項目が混じっている。

 

保安担当者は、研究棟だけでなく家族棟の出入りまで見ていた。

 

廊下を曲がる時、エリナは壁際の小さな監視レンズを見た。レンズは何も言わない。光もしない。ただそこにある。そこにあるだけで、人は自分の歩き方を少し変える。

 

ここは安全だ。

 

エリナはそう思った。

 

だが、自由ではない。

 

その二つは、似ているようでまったく違っていた。

 

――――――

 

研究室の窓は大きかったが、外の景色は見えなかった。

 

窓の向こうにあるのは、遮光処理された別棟の壁で、昼でも夜でも同じ色をしていた。光は天井から降り、温度は一定に保たれている。実験には向いている。人間には、少し向いていない。

 

エリナは紙のノートを開いた。

 

機構の端末には、重要なことを残さないようにしている。カーベル博士の忠告を守っていた。

 

その紙の手触りは、端末より不便で、だからこそ安心できた。

 

表向きの研究名は、「粒子環境下における多点民生通信の安定化」。

 

だが試験条件は、MS隊の近距離編隊制御に近かった。近すぎた。複数波長レーザー、短距離指向通信、粒子濃度の変動、遮蔽時の同期補正。民生通信にも使える。もちろん使える。

 

ただし、戦場でも使える。

 

むしろ戦場で使うために組まれているように見えた。

 

同僚たちは、五基の光学送受信器の同期データを見ながら議論していた。

 

「まだ三番機の補正が浅い」

 

「二番の立ち上がりが遅いんだ」

 

「全機で補正テーブルを共通化すれば、誤差は潰せる」

 

エリナは画面を見た。

 

波形は少しずつ近づいている。ズレは減っている。技術者としては、うまくいっていると言ってよかった。

 

けれど、それは奇妙なほどきれいだった。

 

きれいすぎる波形は、時に嘘をつく。

 

エリナはノートに短く書いた。

 

五機を一つに見せない。

 

その下に、少し考えてから続ける。

 

一つの意思に見せるが、一つの癖にしない。

 

ペン先が止まる。

 

研究室の中で、誰かがくしゃみをした。別の誰かが小さく笑う。機械の冷却音が低く続いている。

 

エリナはもう一行を書いた。

 

微差は乱れではなく、迷彩になる。

 

書き終えると、彼女はその言葉をしばらく見つめた。

 

自分が何を書いたのか、完全には分かっていなかった。だが、それが何かの扉に手をかけていることだけは分かった。

 

揃わないものは弱い。

 

だが、揃いすぎるものは読まれる。

 

人間も、機械も、たぶん同じだ。

 

「フォルカーさん」

 

同僚が声をかけた。

 

「三番の補正、見てもらえますか」

 

エリナはノートを閉じた。

 

「すぐ行きます」

 

閉じたノートを、彼女は端末の下ではなく、鞄の奥へしまった。

 

――――――

 

保安室の空気は乾いていた。

 

ダリル・ハント大尉は、端末に表示されたエリナの勤務記録を見ていた。研究室への入退室、実験参加時刻、使用機材、端末入力量、外部通信申請の有無、家族棟への移動時刻。

 

数字は多い。

 

だが、肝心のものが薄い。

 

エリナ・フォルカーは、重要な内容を機構端末に残していなかった。研究室内での会話記録には、彼女が何か核心に近いことを言った痕跡がある。だが、文章として残っていない。

 

ダリルは画面を見ながら、指先で机を一度だけ叩いた。

 

「紙だな」

 

隣の保安員が顔を上げる。

 

「紙、ですか」

 

「端末に残さない者は、紙か頭に残す」

 

「居住区を確認しますか」

 

「直接はまだいい」

 

ダリルは言った。

 

直接やれば、カーベルが動く。所長は穏やかな顔をしているが、鈍くはない。

 

「まず周辺を見る」

 

彼は短く命じた。

 

「フォルカー技師の居住区への出入りを確認。研究室の席、使用機材、廃棄紙の処理記録、家族棟への移動時刻。全部だ」

 

「了解しました」

 

ダリルはバスク側への報告文を開いた。

 

フォルカー技師は、重要知見を機構端末外で保持している可能性あり。

 

彼は少し考え、もう一行加えた。

 

直属案件への移管を進言。

 

その文字を打ってから、ダリルはしばらく画面を見た。

 

彼はエリナ個人に興味があるわけではなかった。彼女が何を恐れ、何を守りたいのかにも興味はない。

 

ただ、役に立つものは役に立つ場所へ置くべきだと思っていた。

 

そしてティターンズにとって、役に立つ者を自由な場所に置いておく理由はなかった。

 

送信ボタンを押す。

 

完了表示が出た。

 

ダリルは椅子にもたれず、次の監視記録へ移った。

 

――――――

 

カーベル博士は、所長室で二つのログを並べていた。

 

一つは研究室ログ。

 

もう一つは保安ログ。

 

研究室ログには、エリナの実験参加記録がある。保安ログには、彼女の移動と保安側の確認回数がある。

 

確認回数が増えていた。

 

カーベルは画面を見つめたまま、手を止めた。

 

彼は若い頃から、研究者の危険な状態を何度も見てきた。優れた発想を持つ者は、敵より先に味方から狙われることがある。本人が未熟であればあるほど、その危険は大きい。

 

エリナは優秀だった。

 

そして、守る家族を持っていた。

 

それは強さでもあり、弱さでもある。

 

カーベルは内線を押した。

 

「フォルカー技師を呼んでください」

 

十五分後、エリナが所長室に入ってきた。

 

「お呼びでしょうか」

 

「座ってください」

 

カーベルは穏やかに言った。

 

部屋には厚い本棚があり、古い紙の書籍が何冊か並んでいた。研究機構の中で、紙の本が置かれている場所は珍しい。エリナはそれを少し意外に思った。

 

「ここには、慣れましたか」

 

カーベルが聞いた。

 

「はい。母も弟も落ち着いてきました」

 

「それはよかった」

 

彼は本当にそう思っているように見えた。

 

だが、次の言葉は少し違う温度だった。

 

「ここでは、研究成果より先に、研究者の名前が動くことがあります」

 

エリナは黙った。

 

意味はすぐに分かった。

 

「私のことですか」

 

「あなたも含まれます」

 

カーベルは否定しなかった。

 

「ノートはまだ持っていますか」

 

エリナは一瞬迷った。

 

その迷いを、カーベルは責めなかった。

 

「持っています」

 

「そのまま持っていなさい。ただし、一冊だけにしないこと」

 

「一冊だけにしない?」

 

「記録は、奪われることがあります」

 

カーベルは言った。

 

「記憶は、疲れます。紙は、燃えます。端末は、読まれます。だから一つに頼らない方がいい」

 

エリナは手を膝の上で握った。

 

「私は、ここにいれば安全だと思っていました」

 

「以前よりは安全です」

 

カーベルは言った。

 

「完全に安全な場所ではありません」

 

その言葉は冷たかったが、不思議と不誠実ではなかった。

 

エリナは少しだけ笑った。

 

「博士は、あまり慰めるのが上手ではありませんね」

 

「研究者に嘘を言うと、あとで面倒です」

 

カーベルは真面目に答えた。

 

エリナはその顔を見て、少し肩の力を抜いた。

 

「私は、どうすればいいんですか」

 

「今は、仕事を続けなさい」

 

「それだけですか」

 

「それだけです」

 

カーベルは少し間を置いた。

 

「ただし、自分の考えを、自分以外の誰かに預ける準備をしておきなさい」

 

エリナはその意味を完全には理解しなかった。

 

だが、重要な言葉であることは分かった。

 

所長室を出る時、カーベルは最後に言った。

 

「フォルカー技師」

 

「はい」

 

「自分を守ることは、研究を守ることでもあります」

 

エリナは小さく頷いた。

 

廊下に出ると、白い照明が少し眩しかった。

 

――――――

 

その夜、カーベル博士はワッケインとの通信を開いた。

 

画面の向こうに映るワッケインは、いつものように姿勢を崩していなかった。背景は暗く、壁の質感も分からない。どこかの司令区画だろうが、場所を示すものは映っていなかった。

 

「ハント大尉がフォルカー技師の周辺を見ています」

 

カーベルが言った。

 

ワッケインの表情は変わらない。

 

「どの程度だ」

 

「居住区、研究室、廃棄紙、移動時刻。まだ直接には踏み込んでいませんが、時間の問題です」

 

「バスク側か」

 

「おそらく」

 

ワッケインは少し沈黙した。

 

「早すぎる」

 

その声は低かった。

 

カーベルは画面の中のワッケインを見た。

 

「第二移送先を動かしますか」

 

ワッケインはすぐには答えなかった。

 

沈黙の間、カーベルは窓のない所長室で、空調の音だけを聞いていた。

 

「今すぐ本人を動かせば露見する」

 

ワッケインは言った。

 

「まず、道だけを通せ」

 

「本人には」

 

「まだ知らせるな」

 

カーベルは頷いた。

 

「表向きは」

 

「民生通信研究棟の技術者として残す。裏では、第二移送候補へ上げる」

 

「移送理由は」

 

「家族支援でいい。母親の医療、弟の教育、どちらでも使える」

 

カーベルは静かに息を吐いた。

 

「つまり、逃がす準備だけをする」

 

「そうだ」

 

ワッケインは言った。

 

「道がなければ、いざという時に動けない」

 

カーベルは画面から視線を外し、机の上の研究記録を見た。

 

「彼女は、まだ自分がどこへ向かっているのか分かっていません」

 

「分からない方がいい時もある」

 

「残酷ですね」

 

「戦争よりはましだ」

 

その言葉に、カーベルは何も返さなかった。

 

ワッケインは続けた。

 

「フォルカー技師の情報を二重化しろ。表の名簿と裏の名簿を一致させるな」

 

「了解しました」

 

「それから」

 

「はい」

 

「ノートの所在を確認しろ。だが奪うな」

 

カーベルは顔を上げた。

 

「複写は」

 

ワッケインは少し間を置いた。

 

「必要なら、本人を守るためだけに」

 

カーベルはその言葉を記録しなかった。

 

記録すべき言葉ではなかった。

 

――――――

 

翌朝、カーベルは民生通信担当のカーティス・ロウを呼んだ。

 

カーティスは三十代半ばの男で、地味な灰色の上着を着ていた。目立たない。声も大きくない。通路ですれ違えば、多くの者は彼を事務職員だと思うだろう。

 

それが、この男の価値だった。

 

「外部安全連絡先の確認を」

 

カーベルは言った。

 

カーティスはすぐには頷かなかった。

 

「通常回線ですか」

 

「研究交流回線で」

 

カーティスはそこで意味を理解した。

 

「共同資料交換の形にします」

 

「相手先は」

 

「月側の研究協力者を使えます。旧レビル系の窓口も、一つだけ生きています」

 

カーベルは机の上の書類を閉じた。

 

「名前は出さないように」

 

「もちろんです」

 

カーティスは淡々としていた。

 

「論文メタデータに符号を入れます。研究日程表に見せれば、保安側はすぐには気づきません」

 

「すぐには、か」

 

「永遠には無理です」

 

「それでいい」

 

カーベルは言った。

 

「必要なのは永遠ではない。数日で足りることもあります」

 

カーティスは小さく頷いた。

 

「対象は」

 

カーベルは一瞬だけ迷った。

 

「まだ名は出しません」

 

「分かりました」

 

カーティスは何も聞かなかった。

 

聞かないことも、連絡員の仕事だった。

 

彼が部屋を出た後、カーベルは椅子に深く座った。

 

一つ道が通った。

 

細い道だ。

 

足元の悪い道だ。

 

だが、道がないよりはいい。

 

――――――

 

その夜、エリナの部屋では弟が学校の話をしていた。

 

「基礎工学の先生、変なんだよ」

 

「どう変なの」

 

「工具の名前を覚えるより、まず壊れたものを観察しろって言うんだ。直し方はその後だって」

 

エリナは少し笑った。

 

「いい先生じゃない」

 

「そうかな」

 

「そうよ」

 

母は医療棟でもらった薬を飲み、今日は少し顔色がよかった。寝台に腰を下ろし、弟の話を穏やかに聞いている。

 

その光景を見ていると、エリナは胸が痛くなった。

 

ここにいれば、母は薬を受け取れる。

 

弟は学校へ行ける。

 

自分は研究ができる。

 

それは悪いことではない。

 

だが、自分の技術がティターンズに使われるなら。

 

モビルドールをより扱いやすくし、誰かを追い詰めるために使われるなら。

 

それでも、ここに残るべきなのか。

 

「姉さん」

 

弟が言った。

 

「ここにいてよ」

 

エリナは顔を上げた。

 

「急にどうしたの」

 

「なんとなく」

 

弟は視線をそらした。

 

「前のところより、ここがいい」

 

母もエリナを見た。

 

何かあったの、と聞かれそうな気がした。だから先に言った。

 

「仕事のことを考えていただけ」

 

母は少し黙った。

 

「無理をしているの?」

 

「してない」

 

「それは嘘ね」

 

エリナは笑おうとしたが、うまくいかなかった。

 

母はそれ以上聞かなかった。

 

聞かないことも、家族の優しさだった。

 

エリナは鞄から紙のノートを出した。

 

完全同期ではなく、制御された微差。

 

その下に、新しい一行を書く。

 

技術は、誰に使われるかで意味が変わる。

 

書いた後、彼女はペンを置いた。

 

それは研究メモというより、自分への確認に近かった。

 

逃げたいわけではない。

 

残りたいだけでもない。

 

家族を守りたい。

 

自分の技術を、誰かを縛るためだけには使いたくない。

 

その二つを同時に満たす道があるのか、エリナにはまだ分からなかった。

 

――――――

 

翌日の研究室は、いつもと同じ温度に保たれていた。

 

光学送受信器は測定台に並び、粒子濃度制御装置が低い音を出している。エリナは紙のノートを鞄に入れ、机の下に置いた。

 

午前の途中で、カーベル博士から短い呼び出しが入った。

 

「すぐ戻ります」

 

同僚にそう言って、エリナは席を離れた。

 

研究室の扉が閉まる。

 

しばらくして、誰かが彼女の机に近づいた。

 

白い手袋。

 

低い足音。

 

それが誰のものかは分からない。

 

机の下から鞄が少し動かされる。

 

紙のノートが取り出される。

 

ページが開かれる。

 

完全同期ではなく、制御された微差。

 

五機を一つに見せない。

 

微差は乱れではなく、迷彩になる。

 

技術は、誰に使われるかで意味が変わる。

 

小型の光学スキャナが、紙面の上を静かに走った。

 

音はほとんどなかった。

 

ページが戻され、ノートは鞄の中へ戻る。

 

机の位置も、鞄の角度も、ほとんど元通りになった。

 

ほとんど。

 

エリナが戻ってきた時、最初に気づいたのは鞄の紐だった。

 

いつも自分が置く向きと、わずかに違っていた。

 

彼女は椅子に座る前に、鞄を見た。

 

ノートはある。

 

ページも破れていない。

 

けれど、何かが変わっていた。

 

盗まれたのか。

 

守るために写されたのか。

 

それとも、別の誰かが見ただけなのか。

 

分からない。

 

分からないことが、一番怖かった。

 

エリナはノートを鞄の奥へ戻し、何もなかったように端末を起動した。

 

手のひらだけが、少し冷たかった。

 

――――――

 

午後、ダリル・ハント大尉がカーベル博士の所長室へ来た。

 

入室の許可を待つ態度は丁寧だった。だが、座る前から要求があることは明らかだった。

 

「フォルカー技師を、より適切な研究区画へ移すべきです」

 

カーベルは眼鏡を外し、布で拭いた。

 

「より適切、とは」

 

「モビルドール関連の調整班です」

 

「彼女は民生通信研究棟の所属です」

 

「所長」

 

ダリルの声は硬い。

 

「彼女の能力は軍需案件に必要です」

 

カーベルは布を畳み、眼鏡を戻した。

 

「この機構は、技術者を壊さないために作られました」

 

「使わないなら、保護する意味がありません」

 

「使い方の問題です」

 

「戦場は待ちません」

 

「研究者も、壊れたら戻りません」

 

二人は静かに見合った。

 

ダリルの目には、苛立ちがあった。

 

カーベルの目には、疲れがあった。

 

「手続きが必要です」

 

カーベルは言った。

 

「手続きですか」

 

「ええ。所属変更には、研究計画の変更、家族保護条件の再確認、本人同意、所長承認が必要です」

 

「時間稼ぎに聞こえます」

 

「必要な手続きです」

 

ダリルはしばらく黙った。

 

「バスク大佐へ報告します」

 

「どうぞ」

 

カーベルは眼鏡を外さず、静かにダリルを見た。

 

「ただし、ハント大尉。あなたは少し急ぎすぎている」

 

ダリルの眉が動いた。

 

「どういう意味です」

 

「あなたは手柄を欲しがっている」

 

部屋の空気が薄く冷えた。

 

カーベルは続けた。

 

「未調整機の出荷を急がせたオルドリッジ氏が、どうなったかご存じでしょう」

 

ダリルは黙った。

 

「技術者も同じです。調整前に動かせば、壊れる。壊れたあとで、誰が署名したかを調べられる」

 

カーベルは端末を軽く指で叩いた。

 

「今回、フォルカー技師の移管を急ぐなら、あなたの名前で申請書を出してください。私は、研究責任者として『時期尚早』と意見を添えます」

 

ダリルの顔から、わずかに色が引いた。

 

カーベルは穏やかな声のまま言った。

 

「手柄になるなら、あなたのものです」

 

一拍。

 

「失敗した場合も、同じです」

 

ダリルはしばらくカーベルを見ていた。

 

「……手続きを確認します」

 

「それがよろしい」

 

ダリルは敬礼し、部屋を出て行った。

 

扉が閉まった後、カーベルは小さく息を吐いた。

 

止めたわけではない。

 

ただ、速度を落としただけだ。

 

だが今は、その数日が必要だった。

 

――――――

 

ワッケインの端末に、更新された裏名簿が届いた。

 

彼は軍司令部の自室で、その一行を見ていた。

 

エリナ・フォルカー。

 

分類、B-7。

 

本人保護優先。

 

第二移送先、準備中。

 

注意、ティターンズ側監視対象化。

 

追加、技術ノート複写済み。

 

複写経路、不明。

 

最後の一行で、ワッケインの指が止まった。

 

複写経路、不明。

 

味方が守るために写したのか。

 

敵が奪うために写したのか。

 

まだ分からない。

 

分からないまま、事態は進んでいる。

 

「早いな」

 

ワッケインは小さく言った。

 

彼はカーベルへ短い指示を返した。

 

第二移送先の準備を進めろ。

ただし、本人を動かすな。

先に道を動かせ。

 

送信後、ワッケインはしばらく端末を見ていた。

 

エリナはまだ動いていない。

 

ダリルはバスクへ報告を送る。

 

カーベルは外部安全連絡先を開く。

 

カーティスは研究交流回線を整える。

 

誰もまだ、表立って動いてはいない。

 

だが、道だけが先に動き始めていた。

 

――――――

 

その夜、エリナは家族用住居でノートを見つめていた。

 

弟は眠っている。

 

母も寝息を立てていた。

 

中庭の照明が窓の外で静かに揺れている。

 

エリナはノートを開く。

 

文字は残っている。

 

ページも破られていない。

 

それでも、もう自分だけのものではなくなったような気がした。

 

遠く離れた別の部屋で、ダリルはバスクへ追加報告を送っていた。

 

別の通信室で、カーベルは外部安全連絡先を開いていた。

 

さらに別の場所で、ワッケインは裏名簿の「第二移送先」の欄を空白のまま残していた。

 

空白は、まだ空白だった。

 

だがそれは、何もないという意味ではない。

 

そこに何かが入る準備が始まったということだった。

 

エリナをめぐる道は、静かに動き始めていた。

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