妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第206話 保護という言葉

 シャトルの船内には、赤い非常灯だけが残っていた。

 

 白かった壁も、固定座席も、床に並んだ固定金具も、すべて赤く染まって見えた。薄い血を塗られたような色だった。実際には誰もまだ撃たれていない。だが、エリナ・フォルカーの喉は乾いていた。息を吸うたびに、胸の奥で何かが小さく擦れた。

 

 窓の外には、暗い機体がいた。

 

 所属章のないMSだった。

 

 その一機はシャトルの進行方向に入り、別の一機は後方へ回り、推進ノズルを狙える位置についた。さらに別の一機が、壊れた通信アンテナの近くで静止している。

 

 撃ち落とすつもりなら、もう撃っている。

 

 エリナにも、それくらいは分かった。

 

 護送兵の一人が、乱暴に彼女の腕をつかんだ。

 

「立て。操縦席へ来い」

 

 エリナは立ち上がりかけた。抵抗する意味はなかった。銃を持った相手と、宇宙空間で抵抗する相手を選べるほど、彼女は強くない。

 

 その時、割れたような音を挟んで、外部通信が入った。

 

「フォルカー技師を傷つけるな」

 

 低い声だった。

 

 短く、硬い。怒鳴ってはいない。だが、聞いた者が動きを止める声だった。

 

 護送兵の手が止まった。

 

「なぜ名前を知っている」

 

 返答はなかった。

 

 代わりに、前方にいたMSがわずかに機体を傾けた。銃口がシャトルの操縦区画ではなく、推進系の外装へ向けられる。

 

 機長の声が船内に響いた。

 

「このままでは推進系を撃たれる。針路変更を維持する」

 

 護送兵が振り返る。

 

「貴様、命令違反だぞ」

 

 機長の声は震えていなかった。

 

「撃たれれば全員死ぬ。命令以前の問題だ」

 

 別の通信が入る。

 

「外部ハッチを開けろ。武器は床へ置け。抵抗すれば、次は推進系を狙う」

 

 護送兵たちは互いに顔を見合わせた。

 

 銃はあった。簡易武器庫もあった。だが、ここは密閉されたシャトルの中であり、相手はMSだった。強がりでどうにかなる距離ではない。

 

 シャトルの機体が、少しだけ揺れた。

 

 窓の外で、民間補給艇に偽装した小型艦が灯りを落としたまま近づいてくる。船腹には、何の変哲もない整備会社の識別が見えた。だがその近づき方は、民間船のものではなかった。距離の詰め方に迷いがない。

 

 護送兵の一人が床へ銃を置いた。

 

 もう一人が、舌打ちをしてからそれに続いた。

 

 エリナは座席の背に指をかけたまま、窓の外を見ていた。

 

 自分を救いに来たのか。

 

 あるいは、別の場所へ連れていくために奪いに来たのか。

 

 その違いは、まだ分からなかった。

 

―――――

 

 小型艦の通路は、思ったよりも狭かった。

 

 エリナは、二人の乗員に挟まれて歩いた。誰も彼女の腕をつかまなかった。前を歩く者は振り返り、足元の段差を指で示した。ティターンズの護送兵とは違う動作だった。

 

 それだけで安心できるわけではない。

 

 案内された部屋には、固定された椅子と小さな机、壁に取り付けられた医療キット、水の入った容器があった。窓はない。扉の外に兵が立っている気配はあるが、銃を向けられている感じはしなかった。

 

 ブレックス側の連絡員は、エリナから少し離れたところに立った。近づきすぎない。そこに、相手を怖がらせないための配慮があった。

 

「あなたをティターンズへ渡すわけにはいきませんでした」

 

 エリナは椅子に座らなかった。

 

「あなたたちは、誰ですか」

 

「今は名乗れません」

 

「それで信用しろと?」

 

「信用しろとは言いません」

 

 連絡員は、机の上の水にも触れなかった。先に自分で飲んで見せるようなこともしない。そのかわり、手を後ろで組み、彼女の視界に入る位置に空の掌を置いた。

 

「ただ、ご家族については地上側が動いています」

 

 エリナの顔色が変わった。

 

「母と弟を知っているんですか」

 

「はい」

 

 連絡員は短く答えた。

 

「あなたのご家族だけではありません。関係者の家族全員を動かす準備に入っています」

 

「全員……?」

 

「あなた一人を抜いて終わりにはしません」

 

 エリナは、ようやく椅子に腰を下ろした。

 

 膝から力が抜けたからだった。

 

 母と弟。

 

 カーベル博士の低い声。

 

 ご家族は、私が責任を持ちます。

 

 あの言葉が、ただの慰めではなかったのかもしれない。そう思いたかった。思いたかったが、まだ信じ切るには早かった。信じて裏切られることの怖さを、エリナはこの数日で覚えていた。

 

「本当に、動いているんですか」

 

「はい」

 

「どこへ」

 

「今は言えません。あなたが知らない方が、ご家族の安全に役立つこともあります」

 

 エリナは唇を噛んだ。

 

 正しい言い方だった。

 

 だからこそ、腹が立った。

 

 誰もが、彼女に必要な情報を少しずつしか渡さない。ティターンズも、保護機構も、いま目の前にいる名乗らない人間も。

 

 それでも一つだけ、先ほどまでとは違うことがあった。

 

 誰かが母と弟を数に入れている。

 

 自分だけではなく、家族も。

 

 それは、薄暗い部屋の中に置かれた小さな灯のように見えた。近づけば消えるかもしれない。だが、たしかにそこにあった。

 

―――――

 

 地球側宇宙港の管制区画では、表示盤の一部が黄色に変わっていた。

 

 予定航路を外れたティターンズ定期軍用連絡シャトルの最終位置が、点滅を繰り返している。通信欄には、途絶の文字が出ていた。別の端末には、民生通信網の軌道側遅延が表示されている。

 

 ティターンズ輸送担当士官は、落ち着いた顔を作ろうとして失敗していた。指先が端末の縁を何度も叩いている。

 

「記録を閉じろ。外部照会には機材不調と答えろ」

 

 宇宙港管制官は、顔を上げた。

 

「民生通信網側に遅延記録が出ています。完全には消せません」

 

「余計なことを言うな」

 

「消せないものは消せません」

 

 輸送担当士官は、管制官を睨んだ。

 

 その時、別の通信士がダリル・ハント大尉へ回線をつないだ。

 

「ハント大尉。フォルカー技師搭乗便が通信途絶。航路を外れました」

 

 ダリルは、保護機構の資料室前にいた。

 

 まだ扉は開けられていない。部下たちが封鎖手続きを進めているところだった。

 

 彼は一瞬だけ黙った。

 

「護衛合流前か」

 

「はい」

 

 ダリルは目を閉じた。

 

 短い沈黙だった。

 

 本人を輸送隊へ渡し、自分は保護機構に残った。それはバスクの命令だった。命令としては間違っていない。本人だけでなく、資料、ノート、協力者、同じ発想に触れた者を押さえる必要があった。

 

 だが、結果だけを見れば、彼は護送に同行しなかった。

 

「……機構に戻る」

 

「大尉、すでに機構内です」

 

 通信士が思わず言った。

 

 ダリルは目を開けた。

 

「なら、資料室を開けろ。カーベルを呼べ。家族区画の記録も持ってこい」

 

 彼の声は低かった。

 

 怒鳴らない分だけ、周囲の兵たちは動きを速めた。

 

―――――

 

 通信社の編集室では、夜の終わりに近い時間でも端末の光が消えなかった。

 

 宇宙港の運航情報、民生通信網の遅延記録、議会関係者の速報、軍関連の短い告知。どれも単独では記事にならない小さな情報だった。だが、小さな傷が同じ場所に集まると、そこには何かがある。

 

 通信系記者が、画面を指で叩いた。

 

「民生通信網に軌道側遅延が出ている。軍用便絡みだ」

 

 宇宙港担当記者が、紙コップのコーヒーを机に置いた。中身はもう冷めていた。

 

「同じ時間に、ティターンズの定期軍用連絡便が到着予定から消えた」

 

 編集デスクは、椅子をきしませて振り返った。

 

「事故か」

 

「事故なら発表がある。今は黙っている」

 

 別の記者が、端末から顔を上げた。

 

「保護機構から技術者が移管された話がある。名前は出ていない」

 

 編集デスクは眉を寄せた。

 

「つなげるには弱い」

 

 通信系記者は、画面を切り替えた。

 

「記事にするには弱いです。でも質問ならできます。保護機構から移管された技術者が乗っていたのか。その家族はどう扱われているのか」

 

「家族?」

 

「保護機構は本人だけじゃなく、家族も入れている場合がある。もし本人だけ軍が移管して、家族が施設に残っているなら、圧力材料に見える」

 

 編集デスクはしばらく黙った。

 

 窓の外は暗かった。遠くの高架道路を、夜間輸送車が音もなく走っていく。

 

「ティターンズ寄りの議員に投げろ」

 

 宇宙港担当記者が顔を上げる。

 

「なぜ、そちらへ?」

 

「彼らは否定したがる」

 

 編集デスクは、冷めたコーヒーを一口飲んだ。

 

「否定するとき、人はたいてい、言わなくていいことまで言う」

 

―――――

 

 治安派議員の事務所は、朝になる前から慌ただしかった。

 

 ティターンズ寄りの議員だった。バスクのやり方を内心で苦々しく思うことはあっても、公の場では治安維持と軍の必要性を語る人物である。彼にとって大切なのは、ティターンズを正しく見せることだった。

 

 秘書が質問状を持って入ってきた。

 

「保護機構から移管された技術者が、通信途絶した便に乗っていたのではないか。その技術者の家族は軍管理施設に残されているのではないか。家族が圧力を受けることはないのか。そういう質問です」

 

 議員は眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。

 

「名前は出ているのか」

 

「出ていません」

 

 広報担当が横から言った。

 

「詳細確認中でよろしいかと」

 

 議員は首を振った。

 

「駄目だ。家族を人質にしていると思われる」

 

「ですが、詳細はまだ」

 

「詳細を待てば、こちらが何か隠しているように見える」

 

 議員は眼鏡をかけ直した。鏡の中で自分の顔を確かめる。疲れた顔だった。だが、疲れた顔のまま記者の前には出られない。

 

 短い記者対応が設けられた。

 

 記者の一人が、すぐに手を上げた。

 

「保護機構に収容された技術者の家族が、軍によって圧力を受けることはあるのですか」

 

 議員は一瞬だけ黙った。

 

 その沈黙は、迷いではなかった。言葉をどこまで広げるかを測るための沈黙だった。

 

「あり得ません」

 

 彼は言った。

 

「保護機構は、優秀な技術者を守るための制度であり、その家族を苦しめるためのものではありません」

 

 記者たちの端末が一斉に動いた。

 

 議員は続けた。

 

「必要な場合には、医療、教育、生活支援の各施設へ適切に移送する。それが我々の基本姿勢です」

 

 別の記者が続けた。

 

「では、家族が軍の圧力材料にされることはないと?」

 

「当然です」

 

 議員は、強く言い切った。

 

「軍が家族を圧力材料にするなど、あってはならないことです」

 

 彼はティターンズを守るためにそう言った。

 

 家族を助けるためではない。

 

 軍の顔に泥を塗らせないためだった。

 

 だが、言葉は一度外へ出ると、口にした者の手を離れる。

 

 そしてその言葉は、すぐに保護機構へ届いた。

 

―――――

 

 カーベル博士は、政治家の発言を最後まで見なかった。

 

 必要な言葉は三つだった。

 

 医療。

 

 教育。

 

 生活支援。

 

 彼は端末から顔を上げた。

 

「今の発言を書き起こせ」

 

 職員が目を瞬かせた。

 

「所長、よろしいのですか」

 

「政治家が言った」

 

 カーベルは静かに言った。

 

「なら、我々はその通りにする」

 

 職員はそれ以上聞かなかった。

 

 聞けば、自分が何をしているのか理解してしまう。理解しすぎると、顔に出る。顔に出れば、止められる。

 

 カーベルは医療担当医へ回線をつないだ。

 

「フォルカー夫人は医療搬送。弟は付き添い家族。急がせるな。正規の手順で出せ」

 

 次に教育区画へつなぐ。

 

「整備班候補生の家族は教育区画変更。保護者同伴で移す。書類の時刻は政治家発言後に合わせろ」

 

 生活支援窓口へ。

 

「通信士の家族は生活支援施設。通信公社の窓口を通せ。軍の車両は使うな」

 

 危険物管理部門へ。

 

「推進剤管理技師の家族は、安全退避。危険物管理者家族として扱え。理由は設備点検に伴う一時退避でよい」

 

 職員が隣で書き取っていた。

 

 カーベルは最後に言った。

 

「止められたら、政治家発言を見せろ。家族を一人にするな」

 

 その声は、低く、よく通った。

 

 保護機構の中で、静かに人が動き出した。

 

 医療区画では、エリナの母が毛布をかけられ、搬送用の椅子へ移された。弟は鞄を胸に抱え、母の隣に立っていた。彼は何度も廊下を見た。そこにエリナが戻ってくると思っているようだった。

 

 教育区画では、小型バスの座席表が書き換えられた。

 

 通信公社の生活支援車両は、正面ではなく職員用の通用門へ回された。

 

 危険物管理部門の担当者は、厚い手袋を外し、退避名簿に印を入れた。

 

 どれも派手な動きではなかった。

 

 だが、それぞれが別の扉を開けていた。

 

―――――

 

 ティターンズ司令区画の臨時対策室では、バスク・オムの怒声が天井に当たっていた。

 

「家族を押さえろ。フォルカーだけではない。関係者全員だ」

 

 輸送担当士官は青ざめていた。

 

 ダリル・ハント大尉は、保護機構から戻されたばかりの報告を持って立っている。彼の顔も硬い。資料は押さえ始めている。だが、本人は奪われた。

 

 ジャミトフ・ハイマンだけが、声を荒げなかった。

 

「やめろ」

 

 バスクが振り返った。

 

「なぜです」

 

「今家族に手を出せば、こちらが人質を取ったと認める形になる」

 

「すでに奪われたんですぞ」

 

「だからこそだ」

 

 ジャミトフは、机の上の端末を示した。そこには治安派議員の発言が文字に起こされている。

 

 家族を圧力材料にするなど、あってはならない。

 

「政治家がそう言った直後に拘束すれば、こちらがその言葉を嘘にする」

 

 バスクは歯を食いしばった。

 

「では見逃すのですか」

 

 ダリルが言った。

 

 ジャミトフは彼を見た。

 

「見逃すのではない。記録を見ろ」

 

 彼は端末の表示を切り替えた。

 

「便を手配したのは輸送担当。技術者を移管したのは我々。家族移送は政治家発言の直後。問題は、誰が搭乗情報を知っていたかだ」

 

 部屋の中が静かになった。

 

 ジャミトフは続けた。

 

「保護機構だけではない。輸送担当、宇宙港、軌道試験班、民生通信網、政治家周辺。全部見る」

 

 バスクはまだ怒っていた。

 

 だが、ジャミトフの言葉を無視できるほど愚かではなかった。

 

 家族に手を出せば、技術者たちは二度とこちらを信用しない。保護機構に残った者も、これから来る者も、すべて敵に回る。さらにマスコミと政治家の前で、ティターンズは自分から「人質を取る組織」になる。

 

 それは、戦術ではなく損失だった。

 

 ジャミトフは冷たく言った。

 

「怒るのはあとだ。まず、どこから漏れたかを調べろ」

 

 ダリルは敬礼した。

 

「了解しました」

 

 その声には、悔しさが混じっていた。

 

―――――

 

 保護機構の裏口には、医療搬送車が停まっていた。

 

 サイレンは鳴らしていない。派手な灯りもない。白い車体に小さな医療標識が付いているだけだった。

 

 エリナの母は、医療担当者に支えられて車内へ入った。弟は鞄を抱えて、その隣に座る。

 

「姉さんは?」

 

 弟が聞いた。

 

 母は答えられなかった。

 

 医療担当者が、静かに言った。

 

「まず、あなたたちが移ります」

 

 弟はその言葉の意味を理解しなかった。

 

 だが、母の手を握った。

 

 別の通用門では、通信公社の生活支援車両が出発準備をしていた。光学通信士の家族が、必要最小限の荷物だけを持って乗り込む。大きな荷物は持たせていない。移住ではなく、一時支援に見せるためだった。

 

 教育区画の小型バスには、整備班候補生の家族が乗った。子どもの教材箱が一つ、座席の下に置かれている。

 

 危険物管理部門の車両には、推進剤管理技師の家族が乗る。理由は設備点検に伴う安全退避。書類にはそう書かれていた。

 

 ダリルの部下が、カーベルの前に立った。

 

「所長、この移送は何ですか」

 

 カーベルは手元の端末を見せた。

 

「政治家発言に基づく家族保護措置です。医療、教育、生活支援。すべて記録に残している」

 

「確認が必要です」

 

「確認しなさい」

 

 カーベルは表情を変えなかった。

 

「その間に患者を待たせる理由はない」

 

 部下は言葉に詰まった。

 

 医療搬送を止めるには医療上の理由を覆す必要がある。教育区画の変更を止めるには担当部署へ命じなければならない。生活支援施設への移動には政治家の発言が付いている。危険物管理者家族の退避は、安全規則に沿っている。

 

 一つ一つは小さな手続きだった。

 

 だが、一つの命令では全部止められない。

 

 カーベルは車両の方へ向いた。

 

「急がせるな。正規の速度で出せ」

 

 医療搬送車が動いた。

 

 続いて、通信公社の車両が別の門から出る。

 

 教育区画の小型バスは、少し時間を置いて出発した。

 

 危険物管理部門の車両は、点検用の資材車に続く形で外周道路へ入った。

 

 どの車両も同じ道を使わなかった。

 

 どの車両も急いでいるようには見えなかった。

 

 それが、カーベルの指示だった。

 

―――――

 

 宇宙側の小型艦で、エリナはまだ椅子に座っていた。

 

 手元の水には口をつけていない。喉は渇いているのに、飲む気になれなかった。

 

 連絡員が戻ってきた。

 

「地上側から連絡が入りました」

 

 エリナは顔を上げた。

 

「母と弟は?」

 

「保護機構本棟を出ました。医療搬送です」

 

 エリナは椅子の背に手を置いた。立ち上がろうとして、やめた。

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「他の人たちは」

 

 連絡員は、少しだけ表情を変えた。驚いたようにも見えた。

 

「推進剤管理技師の家族、通信士の家族、整備候補生の家族も、それぞれ別の名目で動いています」

 

「全員ですか」

 

「全員です。少なくとも、本棟からは出ました」

 

 エリナは目を閉じた。

 

 涙は出なかった。

 

 涙が出るには、まだ早かった。

 

 本棟を出た。

 

 それは安全になったという意味ではない。車両は追跡されるかもしれない。途中で止められるかもしれない。移送先にティターンズが来るかもしれない。

 

 でも、母と弟はあの建物の中にはいない。

 

 その事実だけで、胸の奥の固い部分が少しだけほどけた。

 

 別室では、通信担当者がブレックスとエドワウへ報告していた。

 

「フォルカー技師は保護しました。地上側で、家族搬送が始まっています。対象はフォルカー家だけではありません」

 

 エドワウは、すぐには答えなかった。

 

 端末に映る搬送状況を見ていた。

 

 医療搬送車。

 

 生活支援車両。

 

 教育区画の小型バス。

 

 危険物管理部門の退避車両。

 

 どれもまだ到着していない。

 

「全員が安全圏に入るまで、救出とは呼ばないでください」

 

 ブレックスは頷いた。

 

「その通りだ。到着確認を急がせろ。ただし、無理に急がせるな。追跡される」

 

 エドワウは、画面の端に映るエリナ・フォルカーの名を見た。

 

 彼女はまだこちらを信用していないだろう。

 

 それでいい、と彼は思った。

 

 簡単に信用する人間なら、ティターンズにも簡単に折られる。

 

 時間が要る。

 

 住む場所が要る。

 

 働く場所が要る。

 

 そして、家族が要る。

 

 そのどれか一つが欠ければ、救出という言葉は軽くなる。

 

―――――

 

 夜明け前の保護機構は、静かだった。

 

 静かすぎるくらいだった。

 

 カーベルは上階の窓際に立ち、外周道路を見下ろしていた。医療搬送車の尾灯はもう見えない。通信公社の車両も、教育区画の小型バスも、それぞれ別の門から出ていった。

 

 職員が一人、出発記録を持ってきた。

 

「全車両、出ました」

 

 カーベルは受け取って、目を通した。

 

「到着確認は」

 

「まだです」

 

「分かった。追跡照会が来たら、すべて政治家発言に基づく家族保護措置として答えろ」

 

「所長、これは……」

 

 職員は言葉を探した。

 

 カーベルは急かさなかった。

 

 言葉にすると重くなることがある。言葉にしない方が、人は動けることもある。

 

 窓の外で、最後の車両の灯が角を曲がった。

 

 カーベルは小さく言った。

 

「誰も置いていかない」

 

 職員は何も言わなかった。

 

 カーベルもそれ以上言わなかった。

 

 全員が本棟を出た。

 

 だが、安全圏に着いた者は、まだ一人もいない。

 

 夜明け前の空は、黒から灰色へ変わり始めていた。

 

 




ちょっと風邪気味で投稿ペース押さえます。
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