妹に撃たれない方法   作:Brooks

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さて、いよいよ動き始めます。


第212話 降りる船

 

 総帥府の上層には、音の少ない部屋があった。

 

 窓は大きく、そこから宇宙港とドック群が見えた。係留灯が等間隔に並び、整備アームがゆっくり動いている。貨客船の銀色の腹、補給船の角ばった船体、古いジオン艦の黒い影、改装を待つ小型突入艇。

 

 遠くから見れば、それらは静かな模型のようだった。

 

 だが、模型ではない。

 

 一隻ごとに乗員がいて、整備員がいて、燃料が積まれ、搭載品が確認され、書類上の名前が付け替えられている。船の外板に触れている者の手は冷えているだろうし、推進剤の残量を確認している者は、今夜も眠れないだろう。

 

 ギレン・ザビは窓際に立っていた。

 

 椅子には座らない。背を伸ばし、両手を後ろに組んだまま、下のドックを見ている。その姿は、軍港を見ているというより、これから開く盤面を見下ろしているようだった。

 

 セシリア・アイリーンは端末を開いていた。公聴会後に残留を決めた各コロニーの一覧が、淡い光で表示されている。そこには名前と数字が並んでいる。水、空気、食料、医療品、港湾処理能力、船舶数、整備員数。人の暮らしは、こうして数字になる。

 

「残留代表による暫定配分協議は動き始めています。生命維持保証、工業用エネルギー、港湾使用量、航路協力、臨時輸送便。項目はすべて立ちました」

 

 セシリアの声は落ち着いていた。

 

 しかし、ガルマには、その落ち着きがかえって重く感じられた。彼女は混乱を見ていないのではない。見たうえで、その混乱をどの書類に載せるか考えているのだ。

 

 輸送局担当官が続けた。

 

「一か月の猶予期間中、船舶登録と移住申請は増えます。港湾側は混乱します」

 

 キシリアは、表示された一覧を見て、薄く目を細めた。

 

「混乱しないわけがないわね」

 

「はい。ただ、混乱しても船が動く形にはできます」

 

 セシリアはそう答えた。指先は休まず動いている。彼女の頭の中では、船の数、港の処理能力、住民移動の申請、医療施設の受け入れ数が、すでに立体的に組み上がっているのだろう。

 

 ガルマは窓の外を見下ろした。

 

 つい先ほどまで、議場では「自由」という言葉が使われていた。残る自由、去る自由。一か月の猶予。綺麗な言葉ではあった。だが、その自由は、荷物と船賃と住民登録を伴う。人は美しい言葉だけで別のコロニーへ移れない。

 

 誰かが居住区の壁から家族写真を外す。

 

 誰かが工場の登記を変える。

 

 誰かが病院の薬品契約を見直す。

 

 誰かが、年老いた親を説得する。

 

 そういう小さな痛みが、政治の言葉の下にはある。

 

「兄上」

 

 ガルマは言った。

 

「宇宙側は、これでまとまったのでしょうか」

 

 ギレンは振り返らなかった。

 

「まとまったのではない。動ける者と動けぬ者を分けただけだ」

 

 部屋の中が少し静かになった。

 

 ガルマは、その言葉の冷たさに小さく息を止めた。兄は人を切り捨てているのではない。少なくとも、兄自身はそう考えていないのだろう。だが、分けるという行為は、時に切ることとよく似ている。

 

 窓の外で、遠いドックの警告灯が一つ点滅した。

 

「次は地球だ」

 

 ギレンは短く言った。

 

 その一言で、部屋の温度が変わった。

 

 政治の話は終わったのだ、とガルマは思った。

 

 いや、終わったのではない。

 

 姿を変えたのだ。

 

 議場の言葉は、これから船になり、装備になり、命令になる。

 

―――――

 

 通信室は暗かった。

 

 壁面の大型画面だけが光を放っている。画面の向こうには、エゥーゴ側の臨時司令室が映っていた。艦内なのか、どこかの連絡施設なのか、背景は暗く抑えられている。

 

 ブレックス・フォーラは画面中央にいた。疲れているが、目はまだ沈んでいない。疲れを隠すことには慣れているのだろう。政治家というものは、疲れている時ほど、疲れていない顔を作らねばならない。

 

 少し離れて、エドワウ・マスが立っていた。

 

 エドワウは、ギレンの顔を静かに見ていた。警戒も怒りも表には出していない。ただ、あまりにも表情が動かないために、かえってその内側の緊張が見えた。

 

 ガルマは、エドワウの顔を見るたびに、不思議な落ち着かなさを覚える。

 

 年齢に対して、目が古い。

 

 若い顔に、長い時間を見た者の目が載っている。兄たちとは違う種類の硬さだった。

 

 通信参謀が小さく頷く。

 

「回線、安定しています」

 

 ブレックスが口を開いた。

 

「ギレン公王代行。公聴会の件、こちらでも確認しています」

 

「挨拶はよい」

 

 ギレンは言った。

 

「地球のティターンズを速やかに平定しろ」

 

 ブレックスが黙った。

 

 エドワウの目だけが、わずかに細くなる。

 

「命令か」

 

「通告だ」

 

 ギレンの声は平坦だった。

 

 エドワウは、軽く息を吐いた。

 

「ジオンがそう言えば、エゥーゴはジオンの前衛に見える」

 

「なら、そう見える前に片付けろ」

 

 ブレックスが言った。

 

「ジオンの艦が地球へ降りれば、エゥーゴはジオンの露払いに見える」

 

「受け取らなくても、ティターンズはそう呼ぶ」

 

 短い沈黙があった。

 

 その沈黙の中で、ガルマは画面の向こうのブレックスを見た。政治家の顔だった。軍事的に必要なものを差し出され、同時に政治的に危険なものを抱え込まされる者の顔だった。

 

 ブレックスは、エゥーゴという名前を守らなければならない。反ティターンズの旗を、ジオンの影で黒く塗られるわけにはいかない。地球の市民が見ている。連邦軍内の協力者も見ている。レビル派に近い者たちも、ジオンの艦影には身構える。

 

 ブレックスはそのすべてを、短い沈黙の中で飲み込んだ。

 

「政治的には、極めて危険です」

 

 ブレックスは言った。

 

「地球にティターンズを残す方が危険だ」

 

 ギレンは即座に返した。

 

「ダカールは止まり、キリマンジャロは地上軍を握り続ける。海と砂漠に逃げた連邦軍人たちは、受け皿を持っていても、上から降りる力を持たない」

 

 エドワウが言った。

 

「ジオンが地球へ降りるつもりか」

 

「エゥーゴができぬなら、そうする」

 

 画面越しに、空気が硬くなったのが分かった。

 

 キシリアは兄を見ていなかった。エドワウを見ていた。兄の言葉が、どこに刺さったかを見ていた。

 

 エドワウはすぐには答えなかった。

 

 この沈黙は拒否ではない、とキシリアは思った。

 

 計算でもない。

 

 エドワウは、たぶん過去と未来を同時に見ている。地球へ降りるジオン艦。ジオンの名で踏み荒らされる地上。ジオンの旗を背負わされるエゥーゴ。そういう未来を避けたいからこそ、彼は今ここでギレンの言葉を飲み込まなければならない。

 

 エドワウの視線は、画面の中のギレンを動かず捉えていた。

 

 それは、兄弟ではない男同士が、互いの刃の長さを測っている目だった。

 

―――――

 

「なら、何を出す」

 

 エドワウが言った。

 

 ギレンは、ようやく少しだけ顎を引いた。

 

「物は用意する」

 

 通信画面の一部が切り替わった。

 

 軍港の映像。整備架に並ぶ降下装備。大気圏突入用の耐熱材。姿勢制御ユニット。ザンジバル級の影。コムサイ型地球圏突入ユニットの断面図。さらに別の画面には、厳重に封印された輸送コンテナが映っている。

 

「MS用バリュートシステム。ネモ、リック・ディアス、その他改修機への装着を前提とする。耐熱パック、姿勢制御ユニット、降下後整備キット、予備推進剤も付ける」

 

 軍需局担当官が補足した。

 

「初期投入分は即時引き渡し可能です」

 

 ギレンは続けた。

 

「ザンジバル艦隊群。大気圏突入、揚陸、回収、補給に使え」

 

 エドワウは画面に映る艦影を見た。

 

「ジオン艦のままでは使えない」

 

 セシリアが口を開いた。

 

「識別は消します。登録は臨時救難船、貨客船、医療搬送母船、避難支援船に分けます」

 

 ブレックスが、わずかに眉を上げた。

 

「ザンジバルを救難船と呼ぶのですか」

 

「救難には危険が伴いますので」

 

 セシリアは淡々と言った。

 

 キシリアがほんの少しだけ笑った。

 

 その笑みは、セシリアの冗談を面白がったというより、この女が必要な嘘を必要な声で言えることを認めた笑みだった。

 

 ギレンは表情を変えない。

 

「コムサイ型地球圏突入ユニットも出す。要人、技術者、補給物資、MS部品、小規模降下部隊に使え」

 

 そこまで言ってから、ギレンは少しだけ声を落とした。

 

「それから、アムロ・レイとララァ・スンは、お前の側にいるな」

 

 エドワウは黙った。

 

 画面の向こうで、ブレックスも動かなかった。

 

 ガルマは、その沈黙で初めて、名が持つ重さを知った。

 

 アムロ・レイ。

 

 ララァ・スン。

 

 それは、ただの人名ではなかった。ギレンの口から出た瞬間、その名は兵器庫の扉に掛けられた鍵のように響いた。

 

「沈黙は肯定と取る」

 

「何を送るつもりだ」

 

 エドワウの声は低かった。

 

 ギレンは、画面の端に映る封印コンテナを指すように視線を動かした。

 

「最新サイコミュ搭載システムだ。地球で役に立たせろ」

 

 軍需局担当官が、少し緊張した声で補足した。

 

「エルメス系統の管制補助技術を小型化したものです。機体そのものではありません。ニュータイプ感応を用いた広域索敵、友軍誘導、遠隔端末の認識補助、ミノフスキー粒子下での戦場情報補正を目的としています。地上重力下での使用を前提に、耐振、耐熱、一G環境への補正を追加しています」

 

 サイコミュ。

 

 その言葉は、通信室の空気を変えた。

 

 機械でありながら、人の内側へ手を伸ばす装置。

 

 兵器でありながら、ただの砲でも装甲でもないもの。

 

 ガルマは、その説明を聞きながら、目に見えない何かが通信室の床を這ったような気がした。

 

 エドワウの顔が変わった。

 

 大きな変化ではない。だが、目の奥にあった冷たさが、一段深くなった。

 

「ララァを兵器にするつもりはない」

 

 エドワウは言った。

 

「ならば、お前が守れる形で使え」

 

「守れる形?」

 

「使わずに奪われるより、使い方を選ぶ方がましだ。アムロとララァを抱えて地球に降りるなら、お前が選べ。使うのか。隠すのか。守るために使わせるのか」

 

 エドワウは何も言わなかった。

 

 沈黙が長くなった。

 

 その沈黙の中で、エドワウの心がどこへ行っているのか、ガルマには分からなかった。だが、何かを見ていることだけは分かった。

 

 ララァの顔かもしれない。

 

 アムロの背中かもしれない。

 

 あるいは、自分がかつて守れなかったものかもしれない。

 

 エドワウは、ララァを戦場から遠ざけたいのだろう。アムロを戦力として数えたくもないのだろう。人を駒にする側へ、自分が近づくことを嫌っているのだろう。

 

 だが、戦場は人を選ばない。

 

 選ばない者から先に、奪っていく。

 

 ギレンは、それを知っている。

 

 そして、エドワウも知っている。

 

「使わぬままティターンズに地球を渡すなら、私が降りる」

 

 ギレンは言った。

 

 ガルマは、ララァという少女の名が、ザンジバルやバリュートと同じ画面の中で扱われることに抵抗を覚えた。

 

 だが、兄はそこから目を逸らさない。

 

 エドワウも逸らさなかった。

 

 それが、ガルマには苦しかった。

 

―――――

 

 通信室には、装備一覧の光がまだ残っていた。

 

 エドワウは長い沈黙のあと、ようやく言った。

 

「借りる。だが、指揮権は渡さない」

 

「渡すつもりもない」

 

 ギレンは答えた。

 

「失敗した時だけ、こちらが取る」

 

 ブレックスが口を挟んだ。

 

「期限は」

 

「地球側のティターンズ主要拠点が動けるうちは、期限など意味がない。だが、ダカールとキリマンジャロを放置する時間はない」

 

 エドワウは言った。

 

「市街地を戦場にするつもりはない」

 

「なら、港、通信施設、滑走路、補給路を押さえろ。ダカールを撃つな。キリマンジャロを孤立させろ」

 

 ブレックスが、ゆっくり頷いた。

 

「政治的には、それが最もましです」

 

「ましな案でよい。最善を待つ時間はない」

 

 ギレンの言葉は、切るように短かった。

 

 エドワウはまだ画面の中にいる。だが、彼の視線はすでに別の場所を見ているようだった。地球の地図かもしれない。ララァの顔かもしれない。アムロの背中かもしれない。

 

 ガルマには分からなかった。

 

 ただ、エドワウがこの通信で、単に装備を借りたわけではないことだけは分かった。

 

 彼は選ばされたのだ。

 

 ララァを遠ざけるのか。

 

 使わせるのか。

 

 守るために使うのか。

 

 あるいは、使わないまま別の誰かに地球を奪わせるのか。

 

 通信が切れる直前、エドワウは一度だけギレンを見た。

 

 そこには感謝も服従もなかった。

 

 ただ、負債を受け取った人間の目があった。

 

 画面が暗くなる。

 

 ガルマは、自分でも気づかないうちに息を吐いていた。

 

 ギレンはすぐに振り返った。

 

「各コロニーへ通達を出す」

 

 誰も、今の会話の余韻に浸ることは許されなかった。

 

―――――

 

 連合通達室には、別の種類の騒がしさがあった。

 

 声は大きくない。だが、端末の通知音、通信確認、事務官の短い返答、入力の音が重なり、部屋全体が細かく振動しているようだった。

 

 壁一面に、各コロニーの名称と通信状態が並ぶ。

 

 水。

 

 空気。

 

 食料。

 

 医療品。

 

 推進剤。

 

 港湾処理能力。

 

 船舶数。

 

 ドック空き状況。

 

 整備員数。

 

 通信士。

 

 医療搬送能力。

 

 空欄が多かった。

 

 空欄は危険だ、とセシリアは思った。空欄は何もないことではない。誰かがまだ本当の数字を出していないということだ。政治家は理想を隠す時より、数字を隠す時の方が危険な顔をする。

 

「各コロニーに通達しろ。まず備蓄を出させる」

 

 ギレンは言った。

 

 セシリアが確認する。

 

「項目は」

 

「水、空気、食料、医療品、推進剤、港湾処理能力、船舶数、ドック空き状況、整備員数、通信士、医療搬送能力」

 

 ギレンは一拍置いた。

 

「数字をごまかす者は、配分表の後ろへ回す」

 

 事務官たちが一斉に入力を始める。

 

 これは脅しではない。いや、脅しでもある。だが、ただの脅しではない。数字を出さなければ、船は寄らない。物資は後になる。整備員は来ない。宇宙の共同体は、感情ではなく在庫で動く。

 

「ティターンズの兵站契約は凍結する。連邦との民生取引は残してよい。だが、軍服を着た者へ宇宙の港を売るな」

 

 セシリアが文面へ直す。

 

「ティターンズ直接管理下の軍需・兵站・通信・港湾優先契約を一時凍結。連邦民生取引は継続可、とします」

 

「住民の移住を妨げるな。企業の登記変更を止めるな。病院と工場の移転申請を握り潰すな」

 

 キシリアが言った。

 

「親連邦側が嫌がるでしょうね」

 

「嫌がる自由はある。妨げる自由はない」

 

 ギレンは言った。

 

 セシリアはさらに文面を加えた。

 

「救難船、避難船、医療搬送船、貨客船の登録数も広げます」

 

「船名は問わん。飛べる船を集めろ」

 

 ガルマは、各コロニーの名称が壁に並ぶのを見ていた。

 

 それは地図ではなかった。

 

 しかし、地図よりも生々しかった。

 

 どこに空気があるのか。どこに船があるのか。どこに医療品があるのか。どこに港があり、どこに整備員がいるのか。戦争とは、こういうものを数えることから始まるのだと、ガルマは思った。

 

 兄は艦隊だけを動かしているのではない。

 

 空気と水と港を動かしている。

 

―――――

 

 アナハイム・エレクトロニクスの会議室は、整いすぎていた。

 

 磨かれた長机。壁面の企業ロゴ。背後には工場稼働率、受注一覧、部品在庫、契約状況が整然と表示されている。そこには軍港の油の匂いも、総帥府の硬い空気もない。代わりに、数字と利益と責任の匂いがあった。

 

 メラニー・ヒュー・カーバインは、穏やかな顔で画面に映っていた。

 

「ギレン公王代行。ずいぶん急なご連絡ですな」

 

「急な仕事だ」

 

「我々は企業です。国家の命令を受ける組織ではありません」

 

 メラニーの声は柔らかかった。だが、その柔らかさは綿ではない。よく磨かれた金属のような柔らかさだった。

 

 ギレンは言った。

 

「ならば市場の命令を受けろ」

 

「市場?」

 

「宇宙の港、宇宙の工場、宇宙の整備員、宇宙の電力。そのすべてが、いま連合の配分表に入った。アナハイムは、どちらで商売を続ける」

 

 メラニーは黙った。

 

 その沈黙は、怒りではなかった。

 

 計算だった。

 

 彼は、自分の前にある画面のこちら側を見ていない。もっと大きなものを見ている。月面工場の稼働率、グラナダ周辺の輸送保険、各サイドのドック使用料、工業コロニーの電力契約、ティターンズ向け契約の残高、エゥーゴとの秘密取引の危険度。

 

 商人の沈黙は、時に政治家の演説より長く、軍人の怒鳴り声より重い。

 

 セシリアが口を開く。

 

「要求項目です。ネモ、リック・ディアス用バリュートシステム。大気圏突入耐熱パック。姿勢制御ユニット。降下後整備キット。推進剤、交換部品、携帯整備設備。初期投入分は即時、追加分は段階納入」

 

 アナハイム側の技術担当者が、思わず声を出した。

 

「納期が短すぎます」

 

「乱暴ではありません。納期が短いだけです」

 

 セシリアは答えた。

 

 メラニーはそこで少し笑った。

 

「ザンジバルとコムサイの改装にも協力しろと?」

 

 ギレンは頷かなかった。

 

 ただ答えた。

 

「ジオン名義ではない。救難、避難、医療搬送、貨客輸送。好きな言葉を使え。だが、物は用意しろ」

 

「ティターンズ向け契約は」

 

「凍結しろ。宇宙で商売を続けたいなら、地球の軍服へ宇宙の部品を売るな」

 

 メラニーは椅子に深く座り直した。

 

「ずいぶんと高くつく市場ですな」

 

「安い市場などない」

 

 ギレンは言った。

 

「安く見える時は、誰かが別の場所で支払っている」

 

 メラニーは、しばらくギレンを見ていた。

 

 その目は、相手を嫌っている目ではなかった。

 

 むしろ、厄介な取引相手を前にした商人の目だった。

 

「よろしい。条件を文書で」

 

 セシリアが即座に答えた。

 

「送信済みです」

 

 メラニーは初めて、本当に少しだけ笑った。

 

 画面の向こうの技術担当者は笑っていなかった。彼はきっと、今夜から何人の整備員が眠れなくなるかを考えている。

 

 セシリアも、それを分かっていた。

 

 だからこそ、彼女は一つだけ補足した。

 

「整備員への危険手当は、連合側で保証します」

 

 メラニーはその言葉を聞き、ほんのわずかに目を細めた。

 

「そこまで書いてあるなら、話は早い」

 

 企業は理想では動かない。

 

 だが、危険手当では動く。

 

 セシリアはそういう世界を、嫌いではなかった。

 

―――――

 

 ビスト財団との通信は、別の空気を持っていた。

 

 画面の向こうには古い書斎があった。木製の机、古い地球の風景画、厚い書類棚。アナハイムの会議室にあった光沢はない。その代わりに、長く使われたものだけが持つ重さがあった。

 

 サイアム・ビストは、画面越しに静かに座っていた。

 

 老人である。

 

 だが、ただの老人ではない。彼の周囲には、過去の秘密が薄い埃のように積もっている。ガルマは、そう感じた。

 

 ギレンは言った。

 

「アナハイムには物を出させる。コロニー連合には港を出させる」

 

 サイアムは、少しだけ目を細めた。

 

「ビスト財団には何を求める」

 

「名前だ」

 

 サイアムは黙った。

 

 ギレンは続ける。

 

「医療、教育、文化保護、人道救済。人間を運ぶには、銃より先に名目がいる」

 

 セシリアが、要求一覧を表示した。

 

「財団系医療施設、学校、研究宿舎、保養施設、未成年者保護施設の一部使用。移住資金の保証。企業移転の信用保証。医療機関の移転費用。避難民、技術者家族、政治的迫害対象者への身元保証」

 

 サイアムは、画面の中でしばらく動かなかった。

 

 その沈黙は、アナハイムの沈黙とは違っていた。

 

 メラニーの沈黙は計算だった。

 

 サイアムの沈黙は、記憶だった。

 

 彼は何かを思い出しているように見えた。古い地球の病室かもしれない。ダイクン家の誰かの顔かもしれない。あるいは、自分が長く守ってきた財団という名の重さかもしれない。

 

「ザビ家のために財団を動かせと?」

 

「違う。ザビ家ではない。地球連邦でもない。ティターンズに潰される前の、人類の退路だ」

 

 その言葉に、ガルマは胸のどこかが引っかかった。

 

 人類の退路。

 

 それは軍事の言葉ではない。だが、戦争の中で最も大切なものの一つかもしれなかった。

 

 ギレンはさらに言った。

 

「財団が中立を名乗るなら、中立でいるための場所を貸せ」

 

 サイアムは静かに言った。

 

「中立とは、何もしないことだと考える者もいる」

 

「違う。撃たれる者を、撃つ者の前からどけることだ」

 

 部屋の中が静かになった。

 

 キシリアは、サイアムの表情を見ていた。老人はすぐには頷かない。頷かないからこそ、彼が本気で考えていることが分かった。

 

「それから、証拠を消させるな」

 

 ギレンは言った。

 

「保護機構、技術者移管、家族圧力、軍需契約、政治家発言。原本を保全しろ。誰が勝っても、記録がなければ同じことが繰り返される」

 

 サイアムは、ようやく口を開いた。

 

「君は、財団に避難所と金庫と裁判所を同時にやれと言っている」

 

「財団がそれだけの名前を持っているからだ」

 

「買いかぶりだな」

 

「使わぬ名前は、ただの飾りだ」

 

 サイアムは目を閉じた。

 

 ほんの短い時間だった。

 

 ふたたび目を開けた時、彼は老人ではなく、財団の主の顔をしていた。

 

「施設の一覧を送らせる。保証については、法務と金融に動かす」

 

 セシリアが即座に言った。

 

「受領します」

 

 サイアムはギレンを見た。

 

「ただし、財団の名を安く使わせるつもりはない」

 

「安く済むとは思っていない」

 

 ギレンは答えた。

 

 その会話には、奇妙な礼儀があった。

 

 互いに信用していない。

 

 だが、互いが何を守ろうとしているかは、少しだけ分かっている。

 

―――――

 

 宇宙ドックは、巨大な腹の中のようだった。

 

 金属の梁が頭上を走り、整備アームがゆっくりと動いている。警告灯が赤く点滅し、遠くで溶接の光が瞬いた。空気には冷えた金属と潤滑油と人間の汗の匂いが混じっていた。

 

 そこに、ザンジバル級が並んでいた。

 

 黒い影のような艦体。

 

 かつてのジオン章は塗り潰され、代わりに仮の救難識別、貨客船登録番号、医療搬送母船の仮名が貼られている。だが、どれだけ名前を変えても、艦体の形は隠しきれない。ザンジバルはザンジバルだった。

 

 塗り潰されたジオン章の下には、角度によってわずかに古い輪郭が浮いて見えた。

 

 過去は、塗装だけでは消えない。

 

 別区画には、コムサイ型地球圏突入ユニットが整備架に並んでいた。小さな弾丸のような形をした突入艇が、耐熱試験を待っている。整備兵が耐熱タイルを一枚ずつ叩き、音で浮きを確認していた。乾いた音と鈍い音が交互に響く。

 

 さらに奥には、バリュートパックがあった。

 

 白い降下膜は丸められ、耐熱パックと接続フレームと姿勢制御ノズルが整然と並ぶ。アナハイムの整備服を着た技術者と、ジオン軍の整備兵が同じ足場に立っていた。互いに少しだけ距離を取っている。まだ味方ではない。だが同じ装備を見ている。

 

 そして、警備兵に囲まれた輸送コンテナ。

 

 最新サイコミュ搭載システム。

 

 そのコンテナだけ、周囲の空気が違っていた。整備兵たちは無意識に距離を取っている。危険物というより、見てはいけないものに近かった。

 

 サイコミュ担当技術士官が敬礼した。

 

「最新サイコミュ搭載システム、輸送封印完了。地上運用に向け、耐振、耐熱、低重力外環境から一G環境への補正を追加しています」

 

 ギレンは頷いた。

 

「エドワウへ送れ。アムロとララァを、ただ守られる側に置いておく余裕はない」

 

 ガルマは兄を見た。

 

 前の言い方よりは静かだった。だが、その分だけ重かった。

 

 ギレンは続けた。

 

「ただし、使い方はエドワウに選ばせる」

 

 ドック整備長が報告を始める。

 

「ザンジバル級、第一群の識別抹消を完了。仮登録は臨時救難船、避難支援船、貨客輸送船、医療搬送母船に分けています」

 

 キシリアが艦を見上げた。

 

「ずいぶん武装した救難船ね」

 

「救難には危険が伴いますので」

 

 セシリアが答えた。

 

 ガルマは、少し笑いかけた。だがすぐに表情を戻した。冗談に聞こえるが、冗談ではないのだ。

 

 アナハイムの整備員が駆け寄ってきた。

 

「ネモ用バリュート、接続確認。リック・ディアス用は姿勢制御ユニットに微調整が必要です」

 

 セシリアは端末から目を離さずに言った。

 

「納期は変えられません」

 

「存じています」

 

 輸送局担当官が続けた。

 

「コムサイ型地球圏突入ユニットは、救難艇登録で三十七機。医療搬送艇登録で十二機。貨客輸送補助艇登録で二十一機」

 

 ガルマは思わず言った。

 

「これを全部、救難艇と呼ぶのですか」

 

 ギレンは短く答えた。

 

「呼べるようにした者が勝つ」

 

 その言葉は、ドックの金属音の中で妙にはっきり響いた。

 

 ガルマは、船を見上げた。

 

 名義というものは、不思議だ。

 

 同じ船が、ある時は軍艦になり、ある時は救難船になる。違うのは塗装と記録と、誰がそれを見てどう呼ぶかだ。けれど、その呼び名が人を救うこともある。人を殺すこともある。

 

 そのことを、彼は少しずつ理解し始めていた。

 

―――――

 

 展望通路からは、ドック全体が見渡せた。

 

 ザンジバル級は複数並び、コムサイ型突入ユニットは小さな弾丸のように整列している。バリュートパックの展開試験で、白い膜が一瞬だけ広がった。花のようにも見えたし、落下傘のようにも見えた。すぐに畳まれると、そこにはまた硬い装備だけが残った。

 

 サイコミュ輸送コンテナの警告灯が、静かに点滅している。

 

 ガルマは、ガラス越しにそれらを見下ろした。

 

「兄上。これは、もう救難準備ではありませんね」

 

 ギレンは答えた。

 

「救難だ」

 

 ガルマは兄を見る。

 

「ティターンズに撃たれる者を、撃たれる前にどける。撃つ者を退かせる。どちらも救難だ」

 

 ガルマは、すぐには頷けなかった。

 

 それは理屈としては分かる。

 

 だが、救難という言葉は、本来もっと柔らかいものではなかったか。怪我人を運び、子どもを逃がし、火の中から人を助けるための言葉ではなかったか。

 

 兄は、その言葉を軍艦に貼った。

 

 そして、たぶん間違ってはいない。

 

 それが怖かった。

 

 キシリアが腕を組んだ。

 

「エゥーゴが失敗した場合は」

 

「ジオンが降りる」

 

 その返答に迷いはなかった。

 

 セシリアが言った。

 

「その場合、これらの名義はすべて破棄されます」

 

「必要なら旗を掲げる。だが、その前に片付くなら、その方が安い」

 

 しばらく誰も話さなかった。

 

 整備員の声と、遠い機械音だけが聞こえる。

 

 政治の言葉は、ここまで来ると音を変えるのだとガルマは思った。演説の拍手でも、議場の木槌でもない。整備アームの駆動音、耐熱材を固定する音、推進剤タンクを運ぶ音。そういう音になる。

 

 ギレンは、ドックの下を見た。

 

「船は用意する。装備も用意する。言い訳も用意する。サイコミュも送る」

 

 一拍置いた。

 

「足りないのは、地球へ降りる覚悟だけだ」

 

 ガルマは、その言葉を聞きながら、白いバリュートの膜が開いた瞬間を思い出した。

 

 宇宙から地球へ降りる。

 

 それはただ下へ行くことではない。

 

 重力へ入ることだ。

 

 空気のある場所へ、海のある場所へ、山と砂漠と都市のある場所へ、誰かの生活の上へ降りることだ。

 

 そしてそこには、ティターンズがいる。

 

 エゥーゴが降りるのか。

 

 ジオンが降りるのか。

 

 エドワウが選ぶのか。

 

 ララァをどうするのか。

 

 アムロをどう使うのか。

 

 その答えは、まだこのドックにはなかった。

 

 ただ、船だけは用意されていた。

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