妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第216話 空へ戻す足

 夜明け前の海は、灰色に近い青をしていた。

 

 空はまだ暗く、低い雲が海面のすぐ上にかかっていた。雲の切れ間から、降下してきた艦隊の影がゆっくりと降りてくる。ホワイトベース、グレイファントム、サラブレッド。貸与されたザンジバル七隻。そして黒猫ルシファー・ロジスティックス、BLLのザンジバル三隻。

 

 海面には、ワッケイン大佐の海洋艦隊が展開していた。

 

 誘導灯が波間で点滅している。潜水艦の黒い背が、いくつも海面に浮かんでは沈んだ。その上空を、白いバリュートを開いたネモが流されるように降りてくる。リック・ディアスは重く、機体の下でバリュートが大きく震えていた。金色のルシファーは、他の機体よりも見つけやすかった。両肩の黒猫の印が、朝の鈍い光を受けて黒く浮かんでいる。

 

「レビル大将、降下MSの海上誘導を開始します。風が北へ流れています。回収順を指定願います」

 

 ワッケインの声は通信越しでも硬かった。大佐として、大将に対する礼を崩さない。

 

 ホワイトベース艦橋のレビルは、海上表示を見つめた。

 

「ネモ隊を先に下ろせ。リック・ディアスはペガサス級で受ける。ルシファーはBLL管制に任せる」

 

「了解しました。海上回収班、誘導灯を維持。機体を海へ落とすな」

 

 BLL一番艦の管制室では、セイラがモニターに映る金色の機体を見ていた。

 

「BLL一番艦、ルシファーの回収誘導に入ります。黒猫マーク、視認できました」

 

 その言葉を自分で言ってから、セイラは少しだけ息を止めた。

 

 宣伝になるし、綺麗に目立つ。

 

 そう言って付けさせた黒猫の印が、今は本当に目印になっていた。波間に白いバリュートがいくつも揺れ、機体の識別表示が細かく入れ替わる中で、金色の肩にある黒猫だけは肉眼でも分かる。

 

 アムロは別卓で降下速度と風向を見ていた。

 

「バリュート切り離しはまだ早い。海面風が強い」

 

 エドワウの声が入る。

 

「こちらルシファー。姿勢は保てている」

 

 声は平静だった。

 

 だが、機体には熱が残っている。大気圏を抜けた時の震えも、バリュートを開いた時の負荷も、まだ関節と接続部に残っている。人間も同じだった。降りたから終わったのではない。降りたから、次が始まる。

 

 セイラはそのことを、管制表示の赤い小さな警告灯で理解した。

 

 ルシファーの脚部関節、温度上昇。

 

 バリュート接続部、再点検必要。

 

 それでも機体は降りてくる。

 

 黒猫の印を光らせながら。

 

―――――

 

 ホワイトベースの格納庫には、水と焦げた金属の匂いが混じっていた。

 

 濡れたバリュート部材が床へ引きずられ、整備兵たちの靴が水滴を踏んで音を立てる。ネモの脚部装甲には、まだ熱が残っていた。リック・ディアスの背部推進器からは、冷却材の白い煙が上がっている。

 

 エマリー・オンスは帰投レーンの脇に立ち、端末と機体を交互に見ていた。

 

「ネモ一番機、バリュート接続部を外して。脚部冷却を先に。装甲の傷は後です」

 

 整備兵が顔を上げる。

 

「装甲も焼けています」

 

「動ければいいです。次は空です。脚と推進系を先に見てください」

 

 言いながら、エマリーは別の表示を開いた。

 

 ネモ二番機、脚部関節温度高。

 

 リック・ディアス一番機、右側推進系確認必要。

 

 ベースジャバー接続具、三基使用可能、二基要点検。

 

 戻ってきた機体をそのまま休ませる時間はなかった。降下を終えたばかりの艦隊へ、次の敵が来る。それは誰にも分かっていた。

 

 ブライトが格納庫へ入ってきた。

 

 彼は全体を一度見た。水滴、冷却材、部材の置き方、空けられたレーン。短い時間で何がどこまで整ったかを見る目になっていた。

 

「再出撃まで、どれくらいだ」

 

「ネモは早いです。リック・ディアスは重い分、推進系の確認に時間がかかります」

 

「時間はあまりない」

 

「分かっています。だから見た目は直しません」

 

 ブライトは少しだけエマリーを見た。

 

「出せない機体は」

 

「出しません」

 

 その返事に、迷いはなかった。

 

 ブライトは頷いた。

 

 恋人になったから、ブライトがエマリーの判断を聞くのではない。彼女が正しいから聞く。エマリーはそれを分かっていた。だからこそ、甘える余地を自分から消した。

 

 前世で、彼女はブライトのそばに立てなかった。

 

 今は立っている。

 

 けれど、ただそばにいるだけでは意味がない。彼が艦を動かすなら、自分は機体を戻す。彼が出すと決めた機体を、壊さず、無理をさせず、必要な数だけ送り出す。

 

 それが今の彼女の恋だった。

 

「ネモ三番機、右脚を先に見て。リック・ディアス二番機はベースジャバー接続具を合わせてください。無理なら外します」

 

「オンスさん、リック・ディアス三番機は」

 

「出しません。冷却が戻っていません」

 

 整備兵が頷く。

 

 エマリーは端末から目を上げた。

 

 ブライトはもう艦橋へ戻ろうとしていた。

 

「ブライトさん」

 

「何だ」

 

「格納庫へ降りるより、先に上から状況を見てください。必要なら私が上げます」

 

 ブライトは少し困ったような顔をしたが、反論はしなかった。

 

「分かった。任せる」

 

「はい」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけで足りた。

 

―――――

 

 ティターンズ海洋空母群の甲板では、風が強くなっていた。

 

 潮気を含んだ風が、低く平たい三角形の機体の上を流れていく。フライ・ダーツ。薄い翼、鋭い機首、MSとは違う乾いたエンジン音。甲板員たちが退避線の外へ走り、発進灯が一つずつ点灯した。

 

 海洋空母の艦長は、甲板映像と戦術表示を見比べていた。

 

「敵は降下直後で整備中です。MSが再発進する前に叩きます」

 

 航空隊指揮官が言った。

 

 フライ・ダーツ隊長はヘルメットのバイザーを下げながら答えた。

 

「第一波は視界外からミサイルを撃ちます。敵艦隊の防空を乱してから突入する」

 

 艦長は頷いた。

 

「目標はペガサス級三隻とザンジバル列。特にBLL艦を狙え。救難便を止めれば、港は使えん」

 

 港湾基地司令官の声が通信に入る。

 

「マラサイ隊も準備中だ。航空隊が足を止め、その後MSを出す」

 

 甲板のカタパルトが動く。

 

 フライ・ダーツの一番機が、海へ向かって押し出された。低く構えた機体が、音もなく滑るように加速し、次の瞬間、甲板から離れた。

 

 二番機。

 

 三番機。

 

 薄い三角形が次々と朝の空へ出ていく。

 

 MSとは違う戦い方をする機体だった。

 

 高く上がり、速く刺し、すぐ離れる。

 

 撃ち合わない。

 

 居座らない。

 

 敵が照準を合わせる前に、ミサイルだけを置いて去る。

 

 それがフライ・ダーツの仕事だった。

 

―――――

 

 BLL一番艦の管制室では、戦術表示の海洋空母方向に新しい線が増えていた。

 

「高速機群、接近。数、二十四以上。海洋空母方向」

 

 管制員が報告する。

 

 アムロは表示を拡大した。

 

「フライ・ダーツです。上昇が速い。MS単体では追いつけません」

 

 セイラはすぐに聞いた。

 

「ベースジャバーは」

 

「使えます。ただし、まだ完全な実戦運用ではありません」

 

「試験している時間はないわ」

 

 ララァが奥で目を細めた。

 

「上から刺してくる。まっすぐ来て、すぐ逃げる」

 

「一撃離脱か」

 

 アムロはそう言い、別の表示を開いた。

 

 低空。

 

 海面反射。

 

 レーダーの乱れ。

 

 機影だけではない。何かが先に来る。機体より小さく、速いもの。高度が低い。海面の反射に紛れている。

 

 アムロの声が低くなった。

 

「違う。機影より先に弾が来る」

 

 セイラが振り向く。

 

「弾?」

 

「ミサイル。低い。数が多い」

 

 エドワウの通信が入った。

 

「視界外からか」

 

「たぶん」

 

 アムロは端末を閉じた。

 

「僕も出る。ガンダムをベースジャバーに載せる」

 

 セイラの目が少し険しくなる。

 

「あなたまで出るの?」

 

「最初の運用だ。誰かが基準を作らないと、ネモ隊が空で迷う」

 

 エドワウが言った。

 

「敵を落としに行くな」

 

「分かってる。追わない。艦隊へ届く前に落とす」

 

 その返事に、エドワウは短く黙った。

 

 アムロ・レイ。

 

 昔、敵だった男。

 

 あの男が何をするか、エドワウは知っている。知っているからこそ、軽く褒める気にはならなかった。敵として向き合った時、あの射撃はいつも嫌だった。見えてから避けるのでは遅い。撃たれる場所へ入らないこと。それがアムロと戦う時の最低条件だった。

 

 今、その男が味方側で出る。

 

 頼もしいというより、厄介なものがこちら側にあるという感覚に近かった。

 

―――――

 

 ホワイトベース、サラブレッド、BLL一番艦の格納庫が同時に動き始めた。

 

 ベースジャバーが整備架から引き出される。平たい機体に、MS固定用の保持具が起こされた。まだ実戦投入の経験は浅い。整備兵たちは、固定具の角度とロック表示を何度も確認する。

 

 ホワイトベース格納庫で、ブライトが命じた。

 

「ベースジャバーを出す。ネモ隊を優先しろ」

 

 エマリーが即座に答える。

 

「ネモ三機、出せます。四番機は脚部冷却が足りません」

 

「三機でいい。無理に出すな」

 

「リック・ディアスは二機だけです。残りは推進系の確認が終わっていません」

 

「分かった。二機で出す」

 

 ブライトは迷わなかった。

 

 迷っている時間がなかったというだけではない。エマリーの判断を信じていた。

 

 BLL一番艦では、ガンダムとルシファーのベースジャバー接続が確認されていた。

 

「ガンダム、ルシファー、ベースジャバー接続確認」

 

 セイラが報告する。

 

 アムロはガンダムのコクピットで、足裏固定具のロック表示を見た。

 

「ガンダム、出ます」

 

 続いてエドワウ。

 

「ルシファー、続く」

 

 セイラはモニター越しに金色の機体を見た。

 

「今度は本当に宣伝になるわね」

 

「悪目立ちだ」

 

「味方が見失わないなら十分よ」

 

 エドワウは短く息を吐いた。

 

 ベースジャバーが発進位置へ滑り出す。

 

 ガンダム。

 

 ルシファー。

 

 ネモ。

 

 リック・ディアス。

 

 MSが地球の空へ上がる準備をしていた。

 

―――――

 

 朝の海の上で、ベースジャバー部隊が展開した。

 

 機体下面に海の光が揺れている。海風がベースジャバーの機首を叩き、MSの脚部固定具が小さく軋んだ。宇宙での姿勢制御とも、地上での歩行とも違う。MSは空を飛んでいるのではない。固定具に足を預け、ベースジャバーの揺れを機体側で抑えながら、海上に高度を保っている。

 

 フライ・ダーツの機影はまだ見えなかった。

 

 最初に来たのはミサイルだった。

 

「来る。低い。ミサイル」

 

 アムロの声が入った。

 

 ホワイトベース艦橋で、ブライトが戦術表示を見た。

 

「まだ表示に出ていないぞ」

 

「海面反射の下です。すぐ上がる」

 

 ガンダムがベースジャバーごと高度を少し下げた。機首を右へ振り、ビーム砲の砲口を海面近くへ向ける。

 

「BLL二番艦、チャフ準備。三番艦、フレア用意」

 

 セイラが言った。

 

 レビルの声が全艦へ流れる。

 

「全艦、対空防御。針路を崩すな」

 

 アムロは返事をしなかった。

 

 ガンダムのビーム砲が光った。

 

 一射目。

 

 まだ艦隊の通常管制では確定していない低空のミサイル群。その先頭が、白い射線へ入った。数発が同時に爆発し、後続のミサイルが爆風で姿勢を崩す。海面に細かい火が散った。

 

 二射目。

 

 ガンダムの右腕はすでに右下へ向いていた。海面近くから浮き上がる別の群れへ、ビームが走る。先頭が消え、後続が左右へばらける。

 

 三射目。

 

 まだ表示に完全には出ていない上昇気味の群れへ、砲口が先に向く。ビームが走り、低空から上がろうとしていたミサイルがまとめて爆発した。

 

 ホワイトベース艦橋で、オペレーターが声を上げる。

 

「ミサイル群、先頭消失。別群も減衰。半数近くが消えています」

 

 ブライトは画面から目を離さなかった。

 

「今のは、見えてから撃ったんじゃない」

 

 レビルが低く言う。

 

「先を読んだか」

 

「はい。ミサイルが入る高度と角度に、先に射線を合わせています」

 

 残ったミサイルが艦隊へ迫った。

 

 ブライトはすぐに命じる。

 

「チャフ、フレア散布。ネモ隊、ミサイル迎撃。リック・ディアス隊は艦の前へ出せ」

 

 ネモ隊がフレアをばら撒く。白い火の粒が空に散り、ミサイルの一部がそちらへ引かれた。チャフが雲のように広がり、ミサイルの誘導が乱れる。リック・ディアス隊が艦隊前面へ出て、ビームと機関砲で残りを叩く。

 

 数発が近接爆発した。

 

 海面が白く跳ねた。

 

 だが直撃はない。

 

 セイラが報告する。

 

「BLL二番艦、至近弾。直撃なし。医療品区画、無事です」

 

 ルシファーのコクピットで、エドワウはガンダムの射線を見ていた。

 

 驚きはなかった。

 

 腹立たしいほど、見覚えがある。

 

「相変わらず、嫌な撃ち方をする」

 

 そう言って、ルシファーを前へ出した。

 

 残った敵は、これから来る。

 

―――――

 

 ホワイトベース艦橋では、白い機体の映像が拡大されていた。

 

 ガンダム。

 

 その識別名が表示の横に出る。

 

 ブライトは腕を組まず、端末の縁に手を置いたまま見ていた。若い顔に、さっきより深い皺が寄っている。

 

「何だ、あれは」

 

 思わず出た声だった。

 

 オペレーターが答える。

 

「BLL一番艦より出撃。アムロ機です。機体識別、ガンダム」

 

「ガンダム……」

 

 ブライトはその名を繰り返した。

 

 知らない名前のはずだった。

 

 けれど、今の射撃を見れば、名前より先に動きが頭に残る。あの白い機体が高度を変え、ビーム砲を振るたび、ネモ隊の配置がわずかに揃っていく。命令で細かく動かしているわけではない。無線で一つずつ位置を指示しているわけでもない。

 

 あの機体の高度と射撃が、周囲に次の動きを示していた。

 

 レビルが聞く。

 

「知っている機体か」

 

「いえ。ただ、動きが違います」

 

 別のオペレーターが報告する。

 

「ネモ隊、ガンダムの高度変更に合わせて展開しています」

 

 ブライトは頷いた。

 

「命令で細かく動かしているわけじゃない。あの機体が先に高度を変えると、周囲が合わせている」

 

「基準になっているか」

 

「はい。あの白い機体が、艦隊防空の先頭を決めています」

 

 ブライトは、アムロ・レイという名を、名簿上の名前ではなく戦力として覚え直した。

 

―――――

 

 ミサイルの爆煙が海面に残る中、フライ・ダーツ本隊が低空から入ってきた。

 

 平たい三角形の機体が、海面すれすれを走る。機首を上げた瞬間、速度を殺さずに上昇へ移る。ネモ隊のパイロットが声を上げた。

 

「速い、追えません!」

 

 アムロの声が短く返る。

 

「追うな。相手は曲がるために来ていない。艦を撃ってすぐ逃げる。上昇角を読んでください」

 

 そのあと、アムロは何も言わなかった。

 

 ガンダムはベースジャバーの上で機体を前傾させた。右膝をわずかに沈め、足裏の固定具へ重心を預ける。ベースジャバーが海風で揺れる。だが、ガンダムの上体はほとんどぶれない。

 

 敵一番機の上昇角に合わせて、上体を左へ振る。頭部を少し下げる。

 

 頭部バルカンが短く鳴った。

 

 弾は敵機の現在位置ではなく、上昇後に吸気口が入る位置へ散った。フライ・ダーツ一機の左吸気口付近で火花が散る。機体が傾き、海面へ落ちていく。

 

 同じ瞬間、ガンダムの右腕は別方向へ動いていた。

 

 ビーム砲の砲口は、まだ上昇しきっていない別のフライ・ダーツへ直接向かない。その機体が二秒後に高度を上げる位置へ、砲口だけが先に向く。

 

 白い光が走る。

 

 フライ・ダーツの右翼端が切れた。機体は横転しかけ、黒煙を引きながら離脱していく。

 

 ホワイトベース艦橋で、ブライトが息を止めた。

 

「今のは……別々の敵を同時に撃ったのか」

 

「一機撃墜、一機損傷。ガンダムです」

 

 オペレーターが答える。

 

 レビルが画面を見る。

 

「同じ射撃ではないな」

 

「片方はバルカン、片方はビームです。照準を分けています」

 

 ブライトはそう言ってから、自分の声が少し低くなっていることに気づいた。

 

 一機を落としながら、別の一機の先を読む。

 

 しかもベースジャバー上でそれをやっている。

 

 普通の強さではない。

 

 戦場の見え方が違う。

 

 ルシファーがその横を上がっていった。金色の装甲と黒猫のマークが、フライ・ダーツ隊の視線を集める。

 

「昔から、そういう男だったな」

 

 エドワウは小さく言った。

 

 セイラの声が入る。

 

「目立ちすぎているわ」

 

「目立つようにしたのはお前だ」

 

「役に立っているでしょう?」

 

「ああ。腹立たしいくらいにな」

 

 ルシファーは敵隊長機の上方へ出た。フライ・ダーツの照準が金色へ向く。そのわずかなずれで、BLL二番艦へ向かう攻撃軸が崩れた。

 

―――――

 

 ホワイトベースの格納庫にも、上空の戦術映像が遅れて入っていた。

 

 エマリーはネモ二番機の脚部冷却表示を確認していた。冷却材の圧力、関節温度、ベースジャバー接続具の歪み。見るべき数字はいくつもある。

 

 だが、その白い機体が映った瞬間、視線が止まった。

 

 ガンダム。

 

 識別名を見た瞬間、彼女は手を止めかけた。

 

 止めなかった。

 

 今は止めてはいけない。

 

 だが、胸の奥だけが少し遅れて反応した。

 

 アナハイムにいた彼女には、その機体がただの白いMSではないことが分かった。関節の入り方。姿勢制御の戻り。ベースジャバーの揺れを抑える機体側の制御。どれも高い。

 

 けれど、もっとおかしいのは操縦している人間だった。

 

 ガンダムはベースジャバーの上で機体を前傾させ、右膝をわずかに沈めている。足裏の固定具へ重心を預け、ベースジャバーの揺れを機体側の姿勢制御で抑えていた。

 

 フライ・ダーツが低空から上昇する。

 

 ガンダムは追いかけない。

 

 敵機の上昇角に合わせて上体を左へ振り、頭部をわずかに下げる。

 

 頭部バルカンが短く鳴った。

 

 弾は敵機の現在位置ではなく、上昇してくる先へ散った。フライ・ダーツの機首がその弾幕へ入り、左側の吸気口付近で火花が散る。機体が傾き、海面へ落ちていく。

 

 同じ瞬間、ガンダムの右腕は別方向へ動いていた。

 

 ビーム砲の砲口は、まだ上昇しきっていない別の敵機ではなく、その機体が二秒後に高度を上げる位置へ向いていた。白い光が走り、フライ・ダーツの右翼端を切る。機体は横転しかけながら離脱した。

 

「……あれが、アムロ・レイ」

 

 エマリーは小さく言った。

 

 前世で聞いた名だった。

 

 ブライトのそばに、いつも重い影のようにあった名前。

 

 英雄で、問題児で、救いで、傷そのもののような名前。

 

 その少年が今、白いガンダムで空を切っている。

 

「オンスさん?」

 

 整備兵が振り向いた。

 

 エマリーはすぐに端末へ目を戻した。

 

「ネモ二番機、脚部冷却を続けて。リック・ディアス一番機は推進系を先に見てください。上空の白い機体に気を取られないで」

 

「はい」

 

 彼女はもう一度だけ映像を見た。

 

 あの白い機体は、敵機の現在位置を撃っていない。

 

 速度、上昇角、旋回半径を読んで、敵機が次に入る高度へ射線を合わせている。

 

 それだけは、技術者の目にも、前の記憶を持つ彼女の胸にも、はっきり分かった。

 

―――――

 

 ティターンズ海洋空母の艦橋では、管制官の声が荒れていた。

 

「敵MS、空中機動。何かに搭乗しています」

 

 艦長は表示を見た。

 

「何だ、あれは」

 

 航空隊指揮官が答える。

 

「MS用の飛行台座……補助機です。これまでのMS運用ではありません」

 

 フライ・ダーツ隊長の声が入る。

 

「白い機体が先に射線を合わせてきます。低空侵入でも読まれます」

 

 艦長は歯を食いしばった。

 

 高速で入れば当たらない。

 

 それが前提だった。

 

 だが、敵は速度に反応していない。高度と上昇角を読んでいる。機体がそこへ入る前に、射線が合っている。

 

「なら白い機体を避けろ。金色も追うな。物資艦を狙え。黒猫の艦を沈めればいい」

 

「BLL二番艦、位置確認」

 

 管制官が答える。

 

 敵は狙いを変えた。

 

 戦闘で勝てないなら、物を止める。

 

 それは戦争として正しい判断だった。

 

―――――

 

 低空から、第二波が来た。

 

 今度は最初からBLL二番艦の方角へ向かっている。海面すれすれを走り、雲の影に入り、艦隊の対空火器が撃ちにくい角度へ入る。

 

 ララァが先に反応した。

 

「海の近く。速い。黒猫の船へ向かっている」

 

 セイラの顔が硬くなる。

 

「二番艦を狙っているわ。あそこには医療品と水処理部品がある」

 

 エドワウが答えた。

 

「分かっている。落とさせない」

 

 アムロが管制へ声を入れる。

 

「ネモ隊、低空へ。追うな。船と敵機の間に入ってください」

 

 ブライトも続けた。

 

「リック・ディアス隊、対ミサイル射撃」

 

 ホワイトベース格納庫では、エマリーが表示を見ていた。

 

「リック・ディアス三番機は出せません。冷却が戻っていません」

 

 ブライトはすぐに答えた。

 

「分かった。出すな」

 

 エマリーはその返答を聞き、短く息をした。

 

 彼は聞いた。

 

 聞いてくれた。

 

 だが、そこで止まってはいられない。

 

「二番機の推進系、再確認。戻る機体を先に入れます」

 

 上空では、ガンダムが高度を下げた。

 

 低空から上がるフライ・ダーツの上昇角に、ビーム砲の砲口が向く。ネモ隊がBLL二番艦と敵機の間に入る。リック・ディアスが対ミサイル射撃を始める。重い火線が海面の上を横切った。

 

 ルシファーは右上へ上がった。

 

 金色の機体が朝日を受ける。

 

 黒猫のマークがはっきり見えた。

 

「ガンダム、低空機を見ます。ルシファー、右上へ引いて」

 

 アムロの声。

 

「了解。派手に行く」

 

 エドワウはルシファーを大きく傾けた。敵の隊長機が金色を追う。ほんのわずかだが、攻撃角がずれる。

 

 そのずれで、BLL二番艦への直線が消えた。

 

 ガンダムのビームが一機の翼を切る。ネモ隊の射撃が別の一機を外へ押し出す。リック・ディアスの火線がミサイルを叩き、海面に白い爆発が並んだ。

 

 セイラが管制表示を確認する。

 

「BLL二番艦、被害なし。医療品区画、水処理部品区画、異常なし」

 

 エドワウは短く答えた。

 

「まだ港には入れない」

 

「ええ。でも守れたわ」

 

 セイラの声は、少しだけ震えていた。

 

 それは恐怖ではなく、自分の仕事が戦場の中心に入ってしまったことへの実感だった。

 

―――――

 

 フライ・ダーツ第一波は後退した。

 

 すべてを撃ち落としたわけではない。数機を失い、数機が損傷し、残りは海洋空母の方向へ戻っていく。空には細い白い航跡が残った。

 

 こちらも無傷ではなかった。

 

 ネモ一機の左肩が焼けている。ベースジャバー一基が被弾し、姿勢制御に異常を出していた。リック・ディアスの推進系にも負荷が出ている。

 

 ワッケインの通信が入った。

 

「敵航空隊、第一波後退。ですが海洋空母本隊は進路を変えていません」

 

 レビルが答える。

 

「次は艦ごと来るか」

 

 ブライトは格納庫へ命令を出した。

 

「ネモ隊、帰投。ベースジャバー損傷機を優先収容」

 

 エマリーが応じる。

 

「帰投レーンを空けます。損傷機から入れてください」

 

 セイラはBLL二番艦の表示を見ていた。

 

「BLL二番艦、被害なし。救難便は守れました」

 

 アムロが低く言った。

 

「でも、空にMSを上げられることは分かりました」

 

 ララァがその奥で呟く。

 

「次はもっと多い」

 

 誰も否定しなかった。

 

 ベースジャバーは使えた。

 

 だが、使えたということは、これから使い続けなければならないということでもある。燃料、整備、固定具、帰投レーン、管制。MSを空へ上げるたびに、それらが一気に重くなる。

 

 エドワウはルシファーの姿勢を戻しながら、遠くの海を見た。

 

 海洋空母群が近づいている。

 

 そのさらに奥には、港湾基地がある。

 

 そこには、まだマラサイ隊がいる。

 

―――――

 

 ダカール沖の海は、朝の光を受けて少しずつ色を変えていた。

 

 灰色だった水面に青が混じり始める。だが、その静けさとは別に、艦隊の中は騒がしかった。ベースジャバーが戻り、損傷したネモが収容される。整備兵たちが走り、冷却材の白い煙がまた格納庫へ広がる。

 

 ワッケイン大佐の声が、ホワイトベースへ届いた。

 

「レビル大将、敵海洋空母群はなお接近中です。航空隊第一波は退けましたが、本隊は健在です」

 

 レビルは地図を見た。

 

「分かった。次は海上戦だ」

 

 ブライトが報告する。

 

「ベースジャバーは使えます。ただし整備負荷が大きい」

 

 エマリーの声が格納庫から入る。

 

「連続運用は危険です。出す機体を絞ってください」

 

 アムロも続けた。

 

「特殊送受信機搭載機も、次から本格投入できます。ただしララァに負荷をかけすぎない条件です」

 

 セイラは積載表を確認していた。

 

「BLL救難便はまだ待機。港が開くまで入れません」

 

 エドワウは、遠くの海を見た。

 

「なら、次は港を開ける」

 

 ララァが静かに言った。

 

「港の向こうに、まだ固いものがある」

 

 レビルが答える。

 

「ティターンズの港湾基地か」

 

 ワッケインの声が続いた。

 

「はい。海洋空母と港湾基地のマラサイ隊が、次に出てきます」

 

 海の向こうで、ティターンズの海洋空母群が黒い点になって近づいていた。

 

 その上空には、戻っていくフライ・ダーツの細い尾がまだ残っている。ダカールの港は、まだ閉じている。だが、エゥーゴとBLLは、MSを地球の空へ上げる方法を手に入れた。

 

 ベースジャバーの影が、朝の海に細く伸びていた。

 

 それは、MSが地球の空へ戻るための、最初の足跡だった。

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