共同防災訓練という言葉には、ひどく退屈な響きがある。
だからこそ、それは便利だった。革命とか独立とか解放とか、そういう言葉には血の匂いがすぐ寄ってくるが、防災訓練には来ない。せいぜい書類の匂いと、倉庫の鉄と油の匂いくらいのものだ。国家を作る時には、そういう匂いの薄い言葉が一番役に立つ。人間は退屈そうなものを最初から憎まない。あとで中身を知ってから嫌う。そこまで行ければ、こちらの勝ちである。
その朝、私の机の上には訓練計画案が四種類並んでいた。港湾火災、停電時の非常電源切替、仮設医療所までの搬送導線、各区画の責任系統の一本化。どれも地味で、どれも大事だった。地味なものほど後で人を多く救うが、そのことを最初から理解している人間は少ない。人類というものは、燃えるものには敏感だが、燃えないようにする仕組みには驚くほど鈍い。
セシリア・アイリーンが、いつもの無駄のない足取りで入ってきた。手には新しい案が三部。今日の彼女は、珍しく最初から少しだけ疲れて見えた。疲れているといっても顔色が悪いわけではない。目の焦点が少しだけ遠い。昨夜のうちに、誰かの不出来を三つほど片づけた人間の目だった。
「サイド2から一名、サイド4から二名、月面からは観察名目で一名、確定しました」
「思ったより集まったな」
「防災ですので。理念ではなく停電と火災の話だと思えば、人は来ます」
「夢がない」
「夢のある訓練はだいたい危険です」
私は少しだけ笑った。こういう時の彼女はいい。正しいつまらなさをためらいなく言う。正しいつまらなさは、国家建設に必要な栄養みたいなものだ。
「ユーリは」
「少し遅れて合流します。橋の顔が最初から座っていると、訓練ではなく会食に見えますので」
「いい判断だ」
「私もそう思います」
「自分で言うな」
「私が決めた部分ですので」
私はそこで紙から顔を上げた。彼女は表情を変えなかった。前なら、こういう時はそうした方がよろしいかと一歩引いていたはずだ。最近は少し違う。自分が決めたところは自分が決めたと言う。その変化は悪くなかった。国家も秘書も、いつまでも受動態だけでは持たない。
その横から、アサクラがするりと入ってきた。今日もよく整った口髭だった。あの男の口髭はもはや髭ではなく思想の一種だと思う。世界が崩れても角度だけは守る、という執念がある。
「閣下、一点」
「お前の一点はだいたい三点分ある」
「恐縮であります。では二点に絞ります」
「増えたな」
「一つ目は席順です。サイド2の若手実務官は保安上がりで自尊心が強く、サイド4の工業区画担当は学歴で人を見る傾向があります。隣に置くと、開始十分で不愉快になります」
「ではどう置く」
「間に港湾管理長を挟みます。港の話は人を等しくうんざりさせますので、妙な連帯感が生まれます」
私はしばらく黙って、それからうなずいた。嫌になるくらい実務的だった。
「二つ目は」とアサクラが続けた。「昼食です」
「昼食?」
「はい。こういう場は思想より食事で壊れます」
私は思わずペンを置いた。
「詳しく言え」
「弁当の量で揉めます。魚が多い、肉が少ない、味が薄い、冷めている、箸が使いづらい、蓋が開けにくい、包装が安っぽい、そのいずれかで必ず一人は機嫌を損ねます。機嫌を損ねた者は午後の訓練で必ず、それは我々の管轄ではない、と申します」
「お前は本当に、嫌なことばかりよく知っているな」
「会議と昼食は同じくらい重要ですので」
セシリアがそこで静かに言った。
「弁当はこちらで用意します」
アサクラは一瞬だけ嫌そうな気配を出した。珍しかった。自分の専門領域へ別の実務者が自然に踏み込んだのが気に入らないのだろう。
「何か不満か」と私は訊いた。
「いえ。弁当は奥が深いので」
「国家よりか」
「そこまでは申しません」
「だが近いと思っている顔だな」
「光栄であります」
「褒めていない」
「承知であります」
そのやり取りを見て、セシリアがほんの少しだけ口元を和らげた。笑いというほどではない。だが表情が一度だけ柔らかくなった。私はそれを見て、少しだけ気分が軽くなった。疲れている時、人は案外そういう小さな変化に救われる。
食堂へ行くと、父がすでに席についていた。そして例によって、頭頂部には穏やかな希望の気配があった。最近の父は、グレイトグロウを塗ったあとで鏡を見る時間が増えたらしい。誰も直接は言わないが、家の中の全員が知っている。家族とは、そういう種類の沈黙の共同体でもある。
「今日は訓練だったな」と父が言った。
「準備会議です」
「同じようなものだ」
「違います。訓練の前に、誰がどこで死にかねないかを潰しておく場です」
ガルマの手が止まった。意味の全部はわかっていない顔だったが、「死ぬ」という音だけは朝の食卓には強すぎたらしい。ドズルは無言で顔をしかめた。
父が私を見た。
「食卓で言うことではないな」
「朝でも火は出ます」
「そういうところよ」とキシリアが言った。「兄上は、わざわざ一番食欲のなくなる言い方を選ぶの」
私は妹を見た。
うますぎる。
腹が立つくらいに。
父はそこで一度だけ頭に触れた。最近、その仕草が会話の句点になっている。
「今日は私も出た方がいいか」と父が言った。
「駄目です」と私は即答した。
「なぜだ」
「弁当の味にまで国家意思があると思われると困ります」
ドズルが吹き出した。ガルマもつられて笑い、キシリアは目を伏せた。父だけが本気で不満そうな顔をした。
「私はその程度の存在か」
「今の家の中では、だいたいそうです」
「お前は最近、本当に遠慮がないな」
「家族ですので」
その言い方が気に入ったらしく、キシリアが少し笑った。家族という言葉は便利すぎる免罪符だと思う。だが便利であることもまた、家族の条件かもしれない。
昼前、会議室には各方面から若い実務者たちが集まった。サイド2から来た保安上がりの男は、背筋が妙に良く、書類を置く角度まで規律に満ちていた。サイド4から来た工業区画担当は、眼鏡の奥で人を材質みたいに見ている。月面からの観察名目の女は、笑っているのに何も漏らさない顔をしていた。各コロニーはちゃんと違う癖で人を育てている。重力だけでなく、官僚制にも土地柄が出るらしい。
私は最初に立って、必要最小限だけ言った。
「本日は共同防災訓練準備会議です。理念の一致は求めません。火災、停電、搬送の導線整理、それだけです。ただし、それだけを軽く見ると、後で一番多くの人が死にます」
言い終えて部屋を見た。反感はない。共感もない。ちょうどよかった。こういう会議は、最初から共感を取りに行くとろくなことがない。
ユーリ・ケラーネは少し遅れて入ってきた。遅刻というほどではない。だが「私は最初から主役ではありません」という時間の入り方だった。橋としては上等だ。
「遅いな」と私は言った。
「橋は、みんなが岸へ立ってから渡されるものです」
「便利な家訓だ」
「ありがとうございます」
アサクラが隣で小さくため息をついた。
小賢しい人間は、自分以外の小賢しさに弱い。
会議は最初こそ順調だった。配電盤の位置、港湾火災時の一次避難路、仮設医療所までの搬送導線、非常用扉の解錠権限。どれも地味で、どれも大事だ。若い実務者たちは最初、互いを値踏みしながらも、内容が具体的になるにつれて少しずつ前のめりになった。理念ではなく回路図の話をすると、人は意外に仲良くなる。
問題は昼食だった。
アサクラの予言は、忌々しいことにほぼ正確に当たった。
弁当はセシリアの手配だった。そして、良かった。少なくとも見た目は。小さめの箱に、魚、卵、煮物、野菜、少量の肉、それに白飯。味は控えめで、冷めても崩れない。私は蓋を開けた瞬間、少しだけ日本を思い出した。日本はこういう時に本当に強い。限られた箱の中で、人を争わせず、しかし少しだけ嬉しくさせる技術を持っている。
「良い弁当ですね」と月面の観察名目の女が言った。
「ええ」とセシリアが静かに答えた。「日本式です」
私はそこで少しだけ顔を上げた。セシリアは一瞬だけこちらを見た。見た、というより、知っていてそう言った。
だが、その直後に問題が起きた。サイド2の保安上がりの男が、箸を見て固まったのである。
「これは」と彼は言った。「二本必要なのですか」
会議室が静かになった。私は思わず目を閉じた。そうか。そこか。アサクラはまるで申し上げた通りです、とでも言いたげな顔をしていた。殺意というのは案外静かな感情だと思う。
「はい」とセシリアが言った。「箸です」
「見ればわかる」と男は言った。「だが、なぜ二本も」
「一本では難しいかと」
「我々はこの細い棒二本で魚を制圧しろというのですか」
月面の女が笑いを堪え、サイド4の工業区画担当は眼鏡の奥で真剣に箸の機械的可能性を測っていた。ユーリは平然としている。あの男はたぶん、何でも涼しい顔で食べる訓練を幼少期から受けている。
「セシリア」と私は言った。
「はい」
「フォークは」
「ございます」
「最初から出せ」
「弁当の趣を損ねます」
「国家の趣より会議の継続を優先しろ」
その時、セシリアはほんの少しだけ笑った。
「承知しました」
フォークが配られ、事態は収束した。だがその収束の仕方がいかにも馬鹿馬鹿しくて、逆に場が和んだ。サイド2の男は最終的に箸の習得を諦めなかったし、サイド4の工業区画担当は「構造としては理にかなっている」と呟いていた。月面の女は「面白い会議ですね」と私に言った。私は「国家建設の大半はこんな感じだ」と答えた。それは本音だった。
昼食後、若手たちは少しだけ話しやすくなった。弁当は国家より正直だ。人の警戒心を妙な角度から崩す。私はそのことを改めて学んだ。
午後は、港湾区画での実地確認に移った。非常用扉の開閉確認。仮設医療所までの搬送導線。火災を想定した煙幕訓練。ここまで来ると、会議より人間が出る。歩幅、声の大きさ、迷った時に誰を見るか。書類では見えない部分がかなり出る。
その途中で、小さな事故が起きた。
事故というほど大げさなものではない。訓練用の警報が、予定区画ではなく隣の倉庫で鳴ったのだ。誤配線か、整備の勘違いか、その両方か。ともかく、港湾という場所で予定外の警報が鳴ると人間は一斉に嫌な顔になる。嫌な顔になるだけならまだいいが、誰の管轄かという話が始まると、国家は少しだけ後ろへ下がる。
「そちらの系統ですか」とサイド2の男が言った。
「いや、港湾管理側だ」とサイド4の男。
「いえ、配電図上は」と月面の女。
「止めろ」と私は言った。
だが、止めるより早くセシリアが動いた。彼女は私の前を横切り、配電盤のある区画へ向かっていた。走ってはいない。早足だった。その無駄のなさがいかにも彼女らしかった。
「アサクラ」と私は言った。
「はい」
「つけ」
「承知であります」
私はそのまま後を追った。港湾管理長も、ランバも、若手実務者たちもついてくる。こういう時、人間は誰か一人が迷いなく動くと、文句を言う暇を一瞬だけ失う。国家建設に必要なのは、たぶん理想より先にその一瞬だ。
配電盤の前で、セシリアはすでに整備員を捕まえていた。
「どの系統です」と彼女が言った。声は低い。怒鳴らない。だが逃げ場がない。
整備員は額に汗を浮かべていた。
「第七警報系統の切替で……いえ、本来は第三区画へ行くはずが」
「行っていない」
「はい」
「原因は」
「昨日の配線図の写しが、旧版で」
セシリアはそこで一度だけ息を止めたように見えた。
「誰が回した旧版です」
整備員が詰まった。その時点で私は半分答えがわかった。こういう時の原因はたいてい、悪意ではなく惰性だ。誰かが古い図面を使い、誰かが確認せず、誰かが押印し、そして警報だけが元気に鳴る。
「アサクラ」と私は言った。
「はい」
「誰の印だ」
彼は書類束をひっくり返し、嫌になるほど早く答えた。
「保全部補佐の末端押印です。昨日の夕刻分。確認なしで回っています」
「名前は」
「申し上げますか」
「今は要らん。止めろ」
セシリアはすでに整備員へ指示を出していた。
「旧版を全部回収。現在の系統だけ残して再配布。口頭でいい。今は速度を優先して」
私はそれを見ながら思った。やはりこの女は、現場に出しても強い。静かな人間が現場で強いと、見ている側が少し困る。頼りたくなるからだ。そして、頼りたくなる相手というのは国家建設において大抵危険だ。
警報が止むまでに七分かかった。七分は長い。だが国家が崩れるには短い。ちょうど嫌な長さだ。
事態が落ち着くと、サイド2の保安上がりの男が言った。
「これは訓練としては、むしろ有益かもしれません」
私はその言い方が少し好きだった。失敗を完全な失敗のままにしない。人はそうやって、少しずつ国家向きになる。
「議事録にはどう書く」と私は訊いた。
老書記官が平然と答えた。
「実地確認中に警報系統の旧版混入を確認、でよろしいかと」
「誤作動ではないのか」
「誤作動と書くと、誰かが悪い顔になります。旧版混入と書けば、みんな少しずつ悪くなります」
私はそこで笑ってしまった。疲れている時ほど、こういう実務官の言葉はおかしい。国家というのは本当に、誰か一人が悪いより、全員が少しずつ悪い方が長持ちするのかもしれない。
夕方、若手たちが帰ったあと、会議室には疲労だけが残った。紙、空の弁当箱、使われなかった資料、配電図、薄く冷えた茶。人間が本気で一日働いたあとの部屋というのは、少しだけ弁当の匂いがする。悪くない匂いだと私は思う。
「今日はどうでした」とセシリアが訊いた。
「思ったより良かった」と私は言った。
「箸を除いて?」
「箸は良かった。あれで会議が人間になった」
彼女は少しだけ笑った。
「そういう見方もあるのですね」
「日本は時々、そういうやり方をする。細いものを二本渡して、あとは自分で何とかしろと言う。だが、何とかすると少しだけ誇らしい」
「閣下は本当に日本がお好きですね」
私は窓の外を見た。人工夕景が倉庫の金属へやわらかく反射している。
「好きだ」と私は言った。「余白がある。全部を軍靴で埋めないところがいい」
セシリアはそれを聞いて、少し黙った。彼女の沈黙は、最近前より柔らかい。こちらが疲れている時に、その柔らかさはよく効く。危険なくらいに。
「では」と彼女は言った。「次は茶だけでなく、弁当も手配しましょうか」
私は少し笑った。
「何のために」
「閣下が疲れておられる時のためにです」
「それは秘書の仕事か」
「有能な秘書の仕事です」
「お前は最近、自分で有能と言うな」
「結果が伴っている時だけです」
私はその返しに、何も言えなかった。たぶん少しだけ、疲れていたのだと思う。そして少しだけ、救われてもいた。
「セシリア」と私は言った。
「はい」
「今日の配線、お前が動かなければもっと長引いていた」
「そうかもしれません」
「礼を言う」
彼女は一瞬だけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
「お前はそういう時、照れるのか」
「照れてはおりません」
「今、少しだけ照れた顔をしたぞ」
「疲れておられるのでは」
「そうだな」
彼女はそれ以上反論しなかった。その代わり、少しだけ視線をずらして言った。
「閣下」
「何だ」
「今日の茶は、昨日のものより少し軽い方がよろしいかと思います」
「なぜだ」
「弁当の話までされたので」
私は本当に少し笑ってしまった。セシリア・アイリーンがこういう種類の冗談を言うとは思っていなかった。それは小さなことだったが、小さなことほど人の距離を変える。
「そうか」と私は言った。「では軽い茶にしろ。国家より先に胃袋が壊れるのは困る」
「承知しました」
彼女は一礼して去った。その背中を見ながら、私は思った。距離というものは、革命のように縮まるのではない。配線の誤作動とか、箸の扱いとか、そういう馬鹿馬鹿しいものの横で少しずつ縮まる。たぶんそれでいいのだろう。国家も人間関係も、急ぎすぎるとたいてい良くない。
夜、自室へ戻ると、部屋にはまだ薄く弁当の匂いが残っていた。私はその匂いを嗅ぎながら、少しだけ笑った。政治の匂いとしてはずいぶん間抜けだ。だが間抜けなものの方が、時々国家を救う。大義だけでできた国は硬すぎて折れやすい。
窓の外では、サイド3の人工夜が静かに回っていた。まだ公国ではない。まだ独立もしていない。だが橋は増え、若い実務者は少しずつ同じ弁当を食べ、神話は少し痩せ、父は頭頂部の未来を信じ、私は夜の執務室で次はどんな茶がいいかを考えている。
国家というものは、案外そのくらい滑稽で、そのくらい真面目なものなのかもしれなかった。