ダカールの情報室は、夜の底に沈んでいた。
照明は落とされ、壁面地図だけが白く光っている。南米の内陸へ伸びる赤い点が、時間とともに増えていた。投降基地、通信途絶地点、燃料を持ち出した部隊、弾薬を積んだ輸送車両。別々の報告だったものが、地図の上で一つの向きを持ち始めている。
ジャブロー。
その名が部屋に落ちてから、誰もすぐには口を開かなかった。
マチルダ・アジャン中尉は、左脇に緑色のファイルを挟んだまま、補給記録の紙片を見ていた。ブライト・ノアは通信士の横に立ち、端末の認証表示を確認している。レビルは腕を組み、地図の一点から視線を外さない。
エドワウは、画面の外にある何かを見るような目をしていた。
アムロは黙っていた。指先だけが、卓の縁に触れている。ほんの少しだけ、力が入っている。
通信士が顔を上げた。
「発信元はズムシティ。総帥府直通暗号です」
ブライトがすぐに聞いた。
「認証は」
「偽装ではありません。サイド3政府の正式暗号です」
レビルは一拍だけ置いた。
「つなげ」
画面にギレン・ザビの顔が映った。
挨拶はなかった。
ギレンは、まるでこちらの沈黙も地図も、既に見ていたかのような顔をしていた。声は平らだった。急いでいる者の声ではない。急ぐ必要のない者の声だった。
「レビル大将。ジャブローへ入るなら、遅い」
レビルは表情を変えなかった。
「なぜサイド3がジャブローの話をする」
「ティターンズは地球を捨てる。捨てる時に、何を残すかは読める」
ブライトが口を開いた。
「何を残すと?」
ギレンは短く答えた。
「核時限爆弾だ」
部屋の空気が固まった。
マチルダの指が、ファイルの角を強く押さえた。ブライトの目がわずかに細くなる。アムロの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
前の記憶の奥にある白い熱。
それが、言葉になる前に胸の中で立ち上がった。アムロは何も言わなかった。言えば、声の中に余計なものが混じる。
ブライトが確認する。
「設置場所を把握しているのですか」
「知らん」
あまりにも即答だった。
短い沈黙が落ちた。
ギレンは続けた。
「知る必要もない」
―――――
レビルは画面を見たまま言った。
「場所を知らずに止めると言うのか」
「爆弾を止めるのではない。起爆する順番を壊す」
ブライトが聞き返す。
「順番?」
「核は、ただ置いただけでは核にならん。正しい時刻、正しい順番、正しい電気信号で起爆されて初めて核爆発になる。そこが狂えば、核にはならない」
ギレンの声は変わらなかった。
技術説明をしているというより、既に処理済みの事務手順を読み上げているようだった。
「ティターンズが持ち込む爆弾の位置は知らん。だが、ジャブローの中で精密な電子起爆を行うなら、周囲の接地、計測、保守検査、電力安定の線を無視できん」
マチルダが、ファイルから顔を上げた。
「建設時の線ですね」
「そうだ。ジャブローは地下大要塞である前に、大規模建設区画だった。地盤計測、振動検査、溶接部の非破壊検査、排水ポンプ、搬入口監視、電力安定化。そのための線が全域に入っている」
エドワウが静かに言った。
「図面ではなく、線の行き先」
ギレンは、画面の中でわずかに目を動かした。
「図面を盗ませたのではない。建設時の接地線、計測線、保守検査線を覚えさせた」
レビルの声が低くなる。
「そこへ何をする」
ギレンは短く言った。
「流す」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
「一度でよい。大きな過渡負荷を流す。核時限爆弾の電子起爆回路、防衛砲台の射撃管制、格納庫扉、弾薬搬送、通信中継、発進管制。精密な制御系はまとめて死ぬ」
ブライトは、反射的に自軍側の通信機器とMSの電子系を思い浮かべた。味方も巻き込まれる。切るべき機器、守るべき機器、諦めるべき機器。その区別をつけなければならない。
マチルダは、補給記録の束を見た。
建設資材が、いつ、どの搬入口から入り、どの区画へ運ばれたのか。これまで荷物の流れとして扱っていたものが、今、戦場の線に変わろうとしている。
エドワウは、ギレンが何を見ていたのかを理解した。
砲台ではない。
装甲ではない。
完成した要塞ではなく、完成するまでに残った継ぎ目を見ていたのだ。
アムロは、深く息を吸った。
爆発そのものを止めるのではない。核爆発として成立する条件を壊す。そう聞いて初めて、胸の奥の白い熱が少しだけ遠ざかった。
―――――
ジャブローの建設資料が、壁面地図の横に表示された。
竣工図。施工記録。増設計画。搬入口。地下水路。格納区画。反応炉区画。弾薬庫。退避路。建設用接地線。計測線。保守検査線。電力安定線。建設第七区画の検査端子。南側搬入口の接続盤。地下水路ポンプ区画の保守線。格納庫床下の荷重監視線。
情報室の空気が、紙と端末の光で重くなった。
ブライトは記録用端末を手にした。
「開示範囲を記録します。エドワウ氏とアムロ氏には、搬入口、補給動線、MS運用上の危険区画に限定します」
レビルが頷いた。
「よい」
マチルダは、緑色のファイルから数枚の記録を抜き出した。
「南側搬入口から入った遮蔽材と冷却部品の記録があります。日付も一致します」
エドワウが地図の一点を示した。
「この搬入口は広い。だが奥で車両が詰まります。大型MSは通せない」
アムロはその先の通路を見た。
「ここで格納庫扉が止まったら、MSは外へ出られません。動けても詰まります」
ブライトが、別の線を地図上に引く。
「通電する区画と、こちらの突入経路は分ける必要があります」
ギレンが言った。
「当然だ。味方の電子機器も死ぬ。通す前に切るべきものは切れ」
レビルは短く確認した。
「一度だけ流すのだな」
「二度流せば、施設を壊す。一度で手を焼け」
「手?」
「防御側が起爆し、撃ち、出撃し、逃げるための手だ」
その言い方は冷たかった。
人を殺すと言っているのではない。
しかし、人が戦うために必要な動作を奪うと言っていた。
ブライトは通電時刻の欄に空白を作り、開示範囲を記録した。マチルダは補給記録と建設資材搬入記録を照合する。エドワウは、実際に荷を通した搬入口と、図面上は通れるが現場では使いにくかった通路を指摘していく。アムロは、敵MSが詰まる場所と、味方MSを入れてはいけない場所を見ていた。
レビルは、それぞれの動きを黙って見ていた。
ギレンは画面の中で、何も急がなかった。
―――――
その頃、ジャブロー内部の退避管制区画では、赤い非常灯が壁を照らしていた。
搬送ケースが並べられ、通信士が短い報告を読み上げている。壁面にはジャブロー内部の区画図が表示されていたが、一部は伏せられていた。誰が見ても分かる図ではない。見るべき者だけが見る図だった。
ティターンズ技術兵が、端末を見ながら報告した。
「時限装置、搬入完了。所定時刻に移行可能です」
バスクは腕を組んでいた。
「追ってきた連中ごと焼けばいい」
ジャミトフは区画図を見ていた。
「焼くのは最後でよい。先に入れろ」
バスクが横を見る。
「入れてから、ですか」
「レビルも、ブレックスも、黒猫も、ジャブローを放置できん。彼らは必ず中へ入る」
「なら、入ったところで閉じ込めます」
「地球での戦いはここで切る。残すものは残し、捨てるものは捨てる」
バスクの目がわずかに動いた。
「宇宙へ上がりますか」
「まだ終わらん」
ジャミトフは静かに言った。
その静けさが、バスクの怒号よりも不快だった。
ジャミトフはジャブローを守ろうとしていない。バスクはそこをよく理解していた。守るための基地ではない。追ってくる者を中へ入れ、地球での追撃能力を削り、宇宙へ移るための場所だった。
技術兵は端末に目を落とした。
「内部時計への移行準備、続行します」
ジャミトフは答えなかった。
沈黙が許可だった。
―――――
ダカールの情報室では、ギレンの通信が続いていた。
レビルは画面を見た。
「サイド3が、なぜそこまで地球のジャブローを気にする」
ギレンは、少しも迷わずに答えた。
「地球の空気は、地球だけのものではない」
部屋が静まった。
「スペースノイドにとっても資源だ。水も、空気も、土も、時間をかけねば得られん。ティターンズの敗北処理に、核の熱でくれてやる気はない」
アムロは、地球の空を思い出した。
青く、広く、ただそこにあるものだと思っていた空。見上げればそこにあり、息をすれば肺に入ってくるもの。だが、宇宙で暮らす人間にとって、それは作り、運び、守るものだった。
マチルダは目を伏せた。
補給将校として、彼女は水や食糧や燃料を数えてきた。だが、空気を資源として数える感覚は、地球にいる者にはまだ遠い。
ギレンは続けた。
「ジャブローを救うためではない。地球を汚させないためだ」
レビルは短く言った。
「結果として、こちらも助かる」
「ならば使え」
エドワウは画面の中のギレンを見た。
冷たい。
だが、正しい。
その二つが同じ場所にある時、人は何をどう受け止めればいいのか分からなくなる。エドワウは、その感覚を腹の底に沈めた。
今は、使うしかない。
―――――
作戦は、すぐに細かい手順へ落とされた。
南側搬入口の接続盤を確保する。
建設第七区画の検査端子を確認する。
地下水路ポンプ区画の保守線を確認する。
通電前に、味方の電子機器を切る。切れないものは遮蔽する。工兵隊は有線通信と手動装備を持つ。無線に頼らない。自動扉に頼らない。表示灯に頼らない。
マチルダは、緑色のファイルを閉じ、補給班へ指示を出した。
「絶縁材、予備ケーブル、手動工具、酸素ボンベ、医療班を南側搬入口へ。電子機器が落ちる前提で動いてください。有線も持たせます」
ブライトは通電時刻と開示範囲を記録する。レビルの横で、若い顔を引き締めていた。
「MS側の電子系は」
ブライトの問いに、アムロが答えた。
「完全には守れません。通電前に一度下げるべきです。動かすなら終わった後です」
エドワウは別の資料を示した。
「南側搬入口の接続盤は、軍の資料より実際の位置がずれています。搬入時に見ました」
レビルは即座に決めた。
「そこを使う」
ギレンが画面の向こうで言った。
「一度で済ませろ」
レビルは返す。
「一度で止める」
「止めるのではない。起爆できなくする」
言葉の差が、部屋に残った。
レビルは軍人として、被害を止めると言った。
ギレンは、核爆発として成立する条件を壊すと言った。
同じ方向を向いているようで、見ているものは違っていた。
―――――
ジャブロー外縁、南側搬入口付近は、夜明け前の湿気に包まれていた。
密林の葉から水滴が落ちる。土は柔らかく、作業車両のタイヤが浅い跡を残した。重いケーブルが地面に下ろされ、絶縁手袋をはめた工兵が接続盤を探している。
銃声はない。
かわりに、工具が金属に触れる音がした。
マチルダが手配した絶縁材入りの箱が開けられる。医療班が酸素ボンベを確認し、BLL作業員が搬入口の壁を手でなぞる。
工兵が低い声で言った。
「資料の位置に接続盤がありません」
BLL作業員がライトを受け取り、壁の奥を照らした。
「施工後に移しています。搬入車両が当たるので、奥へ下げたはずです」
「奥?」
「こっちです。通路の角を曲がったところに、蓋が残っている」
マチルダの声が通信に入る。
「照明をこちらへ。手元を明るくして。感電事故を出さないで」
ブライトの声が、有線で届いた。
「接続状況を逐次報告。予定時刻より早めるな」
核時限爆弾がある。
誰もがそれを知っていた。
だが、慌てて誤接続すれば、こちらの機材が死ぬ。扉も、通信も、命も、少しの手違いで失われる。
兵士ではなく、作業員の手が戦局を支えていた。
工兵が接続盤の蓋を外す。
中に建設時の番号が残っていた。
―――――
ジャブロー内部、退避管制区画に通信が入った。
通信士が振り返る。
「サイド3、ズムシティ総帥府より直通通信」
バスクが即座に言った。
「切れ」
ジャミトフが片手を上げた。
「待て」
バスクが顔を向ける。
「罠です」
「罠なら、何の罠か見る」
通信士は一瞬ためらった。
ジャミトフの視線を受け、回線を開く。
画面にギレン・ザビが映った。
ギレンは、ジャミトフだけを見ていた。
「ジャミトフ・ハイマン」
ジャミトフは冷たく返した。
「ギレン・ザビ。反乱軍へ講義でもしに来たか」
「反乱軍? 貴様らにその名はまだ立派すぎる」
バスクの頬が引きつった。
ジャミトフは表情を動かさない。
ギレンは続けた。
「貴様は軍を率いているつもりだろうが、実際には逃げる荷物の順番を決めているだけだ。燃料、弾薬、通信機材、そして自分の席。実に連邦官僚らしい」
「貴様……!」
バスクが踏み出す。
ギレンはバスクを見なかった。
「ジャミトフ。地球を焼いて宇宙へ逃げるつもりか」
ジャミトフは、ほんの少しだけ目を細めた。
「何の話だ」
「核時限爆弾だ。下手な手だ。貴様は地球を憎んでいるのではない。ただ、負けた場所を残したくないだけだ」
ジャミトフは黙った。
沈黙は否定ではなかった。
「だが地球の空気は、貴様の敗北処理に使わせるには高すぎる」
ジャミトフの表情が、初めてわずかに変わった。
「何をした」
「貴様はジャブローを要塞だと思っている。私は、あれを建設区画として見ていた」
バスクの顔色が変わった。
ギレンの声は、まだ平らだった。
「図面は盗ませていない。だが、接地線、計測線、保守検査線、電力安定線。どこへ通したかは覚えさせた」
バスクが通信士へ向いた。
「通信を……」
通信士の指が端末へ伸びる。
だが、その言葉が命令として形になる前に、ギレンの声が回線を通った。
「スペースノイド自治権は、連邦認証に優先する」
―――――
その一文は、演説ではなかった。
ジャブロー建設時に残された接地線、計測線、保守検査線、電力安定線へ流し込まれる、最後の符号だった。
次の瞬間、ジャブロー内部の端末が白く瞬いた。
まず照明が一度落ちた。
遅れて、焦げた樹脂の匂いが通路へ広がる。壁際の制御盤が火花を散らし、すぐに沈黙した。非常灯だけが赤く残った。
防衛砲台の管制室では、射撃管制の表示が消えた。
「砲台応答なし!」
管制員が叫ぶ。別の兵が予備回線へ手を伸ばす。そこにも反応はなかった。
MS格納庫では、発進レーンが途中で止まった。
固定具が外れない。格納庫扉は途中まで開いた状態で固まり、再起動を受け付けなかった。
「発進レーン停止! 扉が開きません!」
整備兵が叫ぶ。
弾薬搬送レールは、弾薬箱を乗せたまま停止した。搬送員が手で押そうとしたが、ロックがかかって動かない。
通信中継器が焼け、短いノイズが区画内に残った。
時限装置の確認端末の前で、ティターンズ技術兵が青ざめた。
「同期が消えた!」
別の技術兵が、別系統の表示を見る。
「起爆信号が揃いません!」
タイマーは生きているように見えた。
しかし、核爆発として成立するための信号は揃わなかった。電子起爆回路は順番を失い、同期装置は自分が何を待っているのか分からなくなった。
バスクが怒鳴った。
「何をしている、動かせ!」
通信士が、焼けた端末の前で手を震わせた。
「制御盤が焼けています!」
ジャミトフは画面を見ていた。
ギレンの通信はノイズに飲まれかけている。輪郭が崩れ、音声が割れた。
その中で、ギレンの声だけが最後に届いた。
「貴様は地球を焼けん。敗北だけを持って宇宙へ上がれ」
通信は切れた。
ジャミトフはしばらく動かなかった。
取り乱したわけではない。
ただ、ギレンが自分の手を読んでいたことを理解していた。
兵士は生きていた。
ノーマルスーツも酸素もあった。
だが、防御側は撃てなかった。
出せなかった。
起爆できなかった。
―――――
ダカールの情報室にも、短いノイズが走った。
だが、レビル側は予定していた機器を切っていた。重要端末は遮蔽され、現地は有線と手動工具に切り替えていた。損傷は限定的だった。
現地工兵から有線で報告が入る。
「通電確認。接続盤、焼損。再使用不能です」
マチルダが補給記録の端に手を置いた。
「防衛側の弾薬搬送、止まっています」
ブライトが別の通信を受ける。
「砲台管制も沈黙。格納庫扉の応答なし」
アムロは地図を見た。
「MSは出られない」
エドワウが短く聞く。
「核は?」
通信士が端末を確認する。
「爆発兆候なし。ただし通常爆薬系の一部反応は不明です」
レビルは即座に命じた。
「突入部隊を進めろ。だが急がせるな。爆弾が死んだと決めつけるな」
情報室の空気が動いた。
勝ったのではない。
ただ、最悪の熱が来なかっただけだ。
その時、別の通信が入った。
「南米上空、熱源上昇。大気圏離脱軌道へ移行する機体を確認」
ブライトが顔を上げる。
「脱出艇か」
エドワウは地図から目を離さなかった。
「ジャミトフか」
アムロは黙っていた。
前とは違う。ジャブローは白い熱に包まれていない。だが、敵が終わったわけでもない。
ギレンの音声が、最後に入った。
「逃げるには軌道がいる」
レビルが画面を見る。
ギレンの声は、もう通信の向こうで少し遠かった。
「地球から逃げる者は、自由に逃げているつもりで、必ず計算に縛られる」
そこで音声は途切れた。
ジャブローの地下では、撃つ手も、起爆する手も、しばらく動かなかった。
その上空で、ティターンズの残った影が宇宙へ向かっていた。
何か終わりが見えてきた気がします。