妹に撃たれない方法   作:Brooks

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アムロに白い目させたかったんや


第222話 残された者たち

 

 

 ジャブローの地下には、焦げた樹脂の匂いが残っていた。

 

 それは火事の匂いとは少し違っていた。もっと細く、もっと嫌な匂いだった。端末の内部、制御盤の奥、配線の被膜、そういうものが一度に焼けた時の匂いだ。壁の非常灯は赤く、床には消火剤の白い粉が薄く残っている。

 

 防衛砲台は黙っていた。

 

 格納庫扉は途中で止まり、発進レーンは中途半端な位置で固まっていた。弾薬搬送レールには、運びかけの弾薬箱がひとつ残っている。誰かが手で押そうとした跡があったが、ロックは外れていなかった。

 

 爆発物処理班が、遮蔽箱を慎重に運んでいた。

 

 核爆発としては成立しなかった。

 

 だが、完全に安全になったわけではない。通常爆薬、電源の残留、熱を持った部品、焼け残った起爆補助系。爆発物処理班の兵士たちは、誰も勝った顔をしていなかった。ノーマルスーツの上から汗を拭き、ひとつずつ表示を確認し、焼けた線を切っていく。

 

 壁際には、武装解除されたティターンズ兵が座らされていた。

 

 彼らの多くはノーマルスーツを着たままだった。顔だけを出し、汚れた手で水のパックを受け取っている。怒鳴る者はいない。逃げようとする者もいない。撃てるものも、開けられる扉も、動かせる機体も失った後では、声だけが残る。

 

 その声も、今は出なかった。

 

 工兵が焼けた制御盤を外していた。二人がかりで持ち上げると、裏側から黒く焦げた線が何本も垂れた。

 

「再使用は無理だな」

 

 誰かが言った。

 

 別の工兵が、工具箱から新しい端子を出す。

 

「生きている線だけ分けろ。全部つなぐな。また焼ける」

 

 その声にも疲れがあった。

 

 ジャブローは落ちたのではない。

 

 沈黙したのだ。

 

 そして沈黙した巨大な地下基地の中には、まだ人が残っていた。

 

―――――

 

 ダカール側の指揮卓に、南米上空の熱源が表示されていた。

 

 赤い点が一つ、ゆっくり高度を上げている。大気圏離脱軌道に入るには、まだ少し時間がある。追えるかどうか。追うべきかどうか。その判断が、狭い情報室の中に置かれていた。

 

 通信士が報告した。

 

「南米上空の脱出艇、上昇継続。大気圏離脱軌道に入ります」

 

 ブライトがレビルを見た。

 

「追撃を出しますか」

 

 レビルはすぐには答えなかった。

 

 壁面地図には、上昇していく脱出艇の軌道と、ジャブロー内部の被害区画が同時に出ている。被害区画には負傷者の数、投降兵の数、取り残された民間作業員、技術者家族、工兵隊の位置が重ねられていた。

 

 追えば、追えるかもしれない。

 

 だが、追うためには機体を回し、人員を割き、通信と補給を切り替えなければならない。今その人員を抜けば、地下で待っている負傷者の搬出が遅れる。

 

 レビルは地図を見たまま言った。

 

「追うな」

 

 ブライトの背筋がわずかに伸びた。

 

「よろしいのですか」

 

「今ここを見捨てれば、我々もティターンズと同じになる」

 

 その言葉は短かった。

 

 だが、部屋の中で重く残った。

 

 アムロは唇を結んだ。

 

「逃げられます」

 

 レビルはアムロを見た。

 

「逃げるだろうな」

 

 エドワウが言った。

 

「宇宙で拾う艦がいるはずです。単独で上がるだけなら、逃走ではなく自殺に近い」

 

 その時、通信士が別の回線を開いた。

 

「サイド3から短文通信です」

 

 レビルが頷く。

 

「読め」

 

 通信士は画面の文字を読み上げた。

 

「地球側は救助に使え。宇宙へ上がる者の軌道はこちらで見る。以上です」

 

 ギレンの名は文面にはなかった。

 

 だが、誰の言葉かは分かった。

 

 レビルはしばらく黙った。

 

 信用ではない。

 

 信頼でもない。

 

 ただ、今はそれを使うしかなかった。

 

「地上部隊は救助を続行。宇宙の追跡は、サイド3からの情報を待つ」

 

 ブライトが敬礼した。

 

「了解しました」

 

 アムロは、上昇する赤い点を見た。

 

 ジャミトフか、バスクか。あるいは両方か。確かめたい気持ちはあった。追って、撃ち落としたい気持ちもあった。

 

 だが、ジャブローの地下にはまだ人がいる。

 

 それもまた、戦場だった。

 

―――――

 

 避難者列は、南側搬入口の外に作られていた。

 

 密林の湿気と、地下から上がってくる焦げた匂いが混じっている。作業灯が白く光り、負傷者の列と投降兵の列、技術者家族の列が分けられていた。水の箱、毛布、簡易医療キット、酸素ボンベが、泥の上に敷かれたシートに並べられている。

 

 マチルダ・アジャン中尉は、左脇に緑色のファイルを挟んでいた。

 

 制服の袖口は少し汚れていたが、声は乱れていなかった。

 

「水は全員へ。捕虜にもです。負傷者と拘束者を同じ列にしないでください。酸素ボンベは医療班へ。毛布は子どもと負傷者を先に」

 

 補給班の兵士が頷いて走った。

 

 別の係員が名簿を差し出す。

 

「次の避難者です」

 

 マチルダはファイルを開いた。

 

「お名前を」

 

 女が答えた。

 

「ヒルダ・ビダンです。この子はカミーユ」

 

 マチルダの指が、一瞬だけ止まった。

 

 技術部隊の家族。

 

 その名前は、別の一覧にもあった。退避した技術者、持ち出された資料、行方確認の未完了者。そこに、フランクリン・ビダンの名があった。

 

 ヒルダは疲れた顔をしていた。声は落ち着いていたが、落ち着きすぎていた。人は、ひどく傷ついた時ほど、声だけが平らになることがある。

 

 カミーユは母の横に立っていた。

 

 まだ少年の顔をしている。だが、目の奥に硬いものがあった。涙より先に怒りが固まっている目だった。

 

 カミーユが聞いた。

 

「父は?」

 

 マチルダはすぐには答えなかった。

 

 答えられなかったのではない。軽い言葉で済ませてはいけないと分かったのだ。

 

「確認中です」

 

 カミーユはマチルダを見た。

 

「逃げたんでしょう」

 

 ヒルダが息子の肩に手を置く。

 

「カミーユ」

 

「だって、車に乗った。僕たちを置いて」

 

 声は大きくなかった。

 

 だからこそ、そこにある傷が目立った。

 

 少し離れた場所で、アムロはその少年を見ていた。

 

 カミーユ・ビダン。

 

 その名前を聞いた瞬間、前の記憶の中にいた彼の姿が重なった。傷つき、怒り、才能を抱え、誰にも扱いきれないほどまっすぐで、何度も壊れそうになった少年。

 

 目の前のカミーユは、まだそこまで行っていない。

 

 でも、ここから始まるのかもしれない。

 

 父親に置いていかれた朝。

 

 母親の肩に置かれた手。

 

 戻らない車両の音。

 

 アムロは近づかなかった。

 

 今、彼に何かを言える立場ではないと思った。言葉が届くには、少し時間が必要だった。

 

―――――

 

 ジャブローの航空施設側から、ウッディ・マルデン大尉が歩いてきた。

 

 片腕に包帯を巻いている。軍服には煤がつき、髪にも細かい粉塵が残っていた。それでも彼は、途中で足を止め、復旧班へ短く指示を出した。

 

「南側搬入口の換気を戻せ。負傷者搬出を先にしろ。格納庫扉は手動固定だ。落とすな」

 

 復旧班が走る。

 

 ウッディはもう一度周囲を見渡した。倒れた表示板、焼けたケーブル、担架で運ばれる兵士。何を先に直し、何を後に回すかを決める顔だった。

 

 その顔が、マチルダを見つけた瞬間だけ変わった。

 

 軍人の顔が、ほんの短い時間だけほどけた。

 

「マチルダ」

 

 マチルダも振り向いた。

 

 左脇の緑色のファイルを落とさないように抱え直し、一歩だけ近づいた。

 

「ウッディ」

 

 それだけだった。

 

 それだけで十分だった。

 

 ウッディは周囲の目を気にせず、マチルダを抱きしめた。長い抱擁ではない。戦場の後始末の中で、許される時間は短い。だが、煤の匂いと消火剤の白い粉の中で、それは十分すぎるほど目立った。

 

 少し離れたところで、アムロはそれを見ていた。

 

 前の記憶では、マチルダは目の前で死んだ。

 

 ミデアは壊れ、ドムは黒く、伸ばした手は届かなかった。あの記憶の中では、彼女が誰かに抱きしめられる未来などなかった。

 

 今は違う。

 

 マチルダは生きている。

 

 ウッディも生きている。

 

 二人は煤だらけのジャブローの搬入口で、短く抱き合っている。

 

 それでいい。

 

 そう思った。

 

 そう思ったのだが、胸の奥に小さく面白くないものも残った。

 

 アムロは白い目になった。

 

「……わかってましたよ」

 

 ウッディが気づき、顔を向けた。

 

「君は?」

 

 マチルダが少しだけ困ったように笑った。

 

「アムロ・レイさんです。ガンダムのパイロットで、今回も何度も助けていただきました」

 

 ウッディはアムロを見る。

 

「君がアムロか。話は聞いている」

 

「どうも」

 

「何か言いたそうだな」

 

 アムロはマチルダを見て、ウッディを見た。

 

「いえ。よかったですね」

 

 マチルダが首を傾げる。

 

「アムロさん?」

 

 アムロは少しだけ目を伏せた。

 

「本当に、よかったです」

 

 今度は、声が少し違っていた。

 

 ウッディはそれ以上聞かなかった。

 

 マチルダも聞かなかった。

 

 アムロは顔を背けた。

 

 前の戦争では間に合わなかった。

 

 今度は、少なくともこの人は生きている。

 

 それだけで十分だ。

 

 十分だが、目は白い。

 

―――――

 

 その様子を、カミーユが見ていた。

 

 マチルダとウッディの抱擁を見ていたのではない。正確には、それを白い目で見ているアムロを見ていた。

 

 カミーユはヒルダの手を離れ、アムロの前に立った。

 

「何がおかしいんですか」

 

 アムロは少年を見る。

 

「おかしくはないよ」

 

「じゃあ、何でそんな顔をしてるんですか」

 

 言葉が尖っていた。

 

 アムロは怒らなかった。

 

 カミーユの怒りは、自分へ向けられているようで、実際には別の場所へ向かっている。父親の背中、止まらなかった車両、置いていかれた宿舎の前。そこへ届かない怒りが、近くにいる誰かへ向いているだけだった。

 

 カミーユは続けた。

 

「大人は勝手ですね。逃げる人もいるし、抱き合う人もいる」

 

 ヒルダが近づこうとした。

 

「カミーユ、やめなさい」

 

 アムロは小さく手を上げて、それを止めた。

 

「そうだな」

 

 カミーユの眉が動く。

 

「そうだな、じゃない!」

 

 声が少しだけ大きくなった。

 

 周囲の何人かが振り向いた。

 

 アムロはその視線を気にしなかった。

 

「怒っていいよ。置いていかれたんだから」

 

 カミーユが黙った。

 

 言い返すために開きかけた口が、途中で止まった。

 

 アムロは続けなかった。

 

 慰める言葉も、父親を悪く言う言葉も、今は必要ないと思った。どちらも届かない。届くとしたら、たぶんその一言だけだった。

 

 怒っていい。

 

 カミーユは目を伏せた。

 

 拳が震えていた。

 

 ヒルダが、そっと息子の肩へ手を戻した。

 

 アムロはその母子を見た。

 

 前の記憶のどこかで見た傷が、今はまだ浅い場所にある。放っておけば、深くなる。だが、誰かが見ているだけでも、少し違うのかもしれない。

 

 それが十分かどうかは、分からなかった。

 

―――――

 

 ジャブロー内部の処理は、午前になっても終わらなかった。

 

 ティターンズ兵は、ひとまとめに処刑されなかった。政治将校、違法拘束に関わった者、核時限装置の搬入に関わった者は別に拘束された。正規連邦軍出身で武装解除した者は、身分確認へ回された。

 

 誰が命令したのか。

 

 誰が実行したのか。

 

 誰が逃げ、誰が残り、誰が知らなかったのか。

 

 名簿が必要だった。

 

 水が必要だった。

 

 包帯が必要だった。

 

 マチルダは緑色のファイルを左脇に挟み、補給班と拘束担当の間を行き来していた。

 

「水は全員へ。捕虜にもです」

 

 拘束担当の兵士が少し顔をしかめた。

 

「捕虜にも、ですか」

 

「尋問前に倒れられては困ります」

 

 ウッディが近くで苦笑した。

 

「甘いな」

 

 マチルダは、彼を見ずに答えた。

 

「補給です。甘さではありません」

 

 ウッディはそれ以上言わなかった。

 

 それがマチルダ・アジャンという人間なのだと、彼は知っていた。

 

 アムロも、少し離れた場所でそれを聞いていた。

 

 この人は、こういう人だった。

 

 戦場で足りないものを数え、足りない場所へ届けようとする。敵味方ではなく、まず倒れさせない。倒れた後に裁くためにも、生かしておく。

 

 前の記憶の中の彼女と、目の前の彼女が重なった。

 

 そして、今は生きている。

 

 それだけで、胸の奥の白い熱が少しずつ冷めていくような気がした。

 

―――――

 

 昼前、通信士が新しい報告を上げた。

 

「脱出艇、低軌道へ移行。追跡不能域へ入ります」

 

 ブライトの拳がわずかに握られた。

 

 追いたい。

 

 その気持ちは顔に出ていた。だが、彼は何も言わなかった。レビルの判断は既に出ている。

 

 レビルは動かなかった。

 

 地図上の点を見たまま、短く命じる。

 

「地上部隊は救助を続行。拘束者の身分確認を急げ。爆発物処理班は第二確認に入れ」

 

「了解しました」

 

 エドワウは目を伏せた。

 

 ジャミトフとバスクは宇宙へ上がる。サイド3が軌道を見ているとしても、捕らえられる保証はない。敵はまだ終わっていない。むしろ、地球で逃げた敵は、宇宙で別の形になる。

 

 アムロは、ヒルダとカミーユのいる列を見た。

 

 今ここで追えば、救える人を置いていくことになる。

 

 前の戦争では、何度も何かを置いていった。

 

 置いていかなければ進めないこともあった。

 

 でも、今回は違う判断をした。

 

 それが正しいのかどうか、アムロにはまだ分からなかった。

 

 ただ、今この場所で、水を受け取り、手当てを受け、名前を記録される人たちを見ていると、レビルの判断を否定する気にはなれなかった。

 

―――――

 

 午後になると、密林の上に薄い煙が上がった。

 

 それは核の白い熱ではなかった。焼けた制御盤、通常爆薬の処理、消火剤、復旧作業の排煙。その程度の煙だった。空は残っている。湿った風が葉を揺らし、遠くで鳥の声がした。

 

 ジャブローは大きく傷ついた。

 

 だが、地球の空は残っていた。

 

 アムロは南側搬入口の外に立ち、しばらく空を見ていた。

 

 少し離れた場所で、マチルダとウッディはもう抱き合っていなかった。マチルダは補給班へ指示を出し、ウッディは復旧班の進捗を確認している。二人とも、それぞれの仕事に戻っていた。

 

 カミーユはヒルダのそばにいた。

 

 黙ったまま、父親が消えた方向を見ている。怒りはまだそこにある。たぶん、簡単には消えない。アムロはそれを見て、何も言わなかった。

 

 救えた人もいる。

 

 逃げた人もいる。

 

 残された人もいる。

 

 戦争は、勝った瞬間に終わらない。

 

 通信士の声が、南側搬入口の臨時指揮所に響いた。

 

「サイド3より追跡情報。脱出艇の推定会合軌道、算出完了」

 

 エドワウが顔を上げた。

 

 アムロも空から視線を下ろした。

 

 次は宇宙だった。

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