ジャブローの地下には、焦げた樹脂の匂いが残っていた。
それは火事の匂いとは少し違っていた。もっと細く、もっと嫌な匂いだった。端末の内部、制御盤の奥、配線の被膜、そういうものが一度に焼けた時の匂いだ。壁の非常灯は赤く、床には消火剤の白い粉が薄く残っている。
防衛砲台は黙っていた。
格納庫扉は途中で止まり、発進レーンは中途半端な位置で固まっていた。弾薬搬送レールには、運びかけの弾薬箱がひとつ残っている。誰かが手で押そうとした跡があったが、ロックは外れていなかった。
爆発物処理班が、遮蔽箱を慎重に運んでいた。
核爆発としては成立しなかった。
だが、完全に安全になったわけではない。通常爆薬、電源の残留、熱を持った部品、焼け残った起爆補助系。爆発物処理班の兵士たちは、誰も勝った顔をしていなかった。ノーマルスーツの上から汗を拭き、ひとつずつ表示を確認し、焼けた線を切っていく。
壁際には、武装解除されたティターンズ兵が座らされていた。
彼らの多くはノーマルスーツを着たままだった。顔だけを出し、汚れた手で水のパックを受け取っている。怒鳴る者はいない。逃げようとする者もいない。撃てるものも、開けられる扉も、動かせる機体も失った後では、声だけが残る。
その声も、今は出なかった。
工兵が焼けた制御盤を外していた。二人がかりで持ち上げると、裏側から黒く焦げた線が何本も垂れた。
「再使用は無理だな」
誰かが言った。
別の工兵が、工具箱から新しい端子を出す。
「生きている線だけ分けろ。全部つなぐな。また焼ける」
その声にも疲れがあった。
ジャブローは落ちたのではない。
沈黙したのだ。
そして沈黙した巨大な地下基地の中には、まだ人が残っていた。
―――――
ダカール側の指揮卓に、南米上空の熱源が表示されていた。
赤い点が一つ、ゆっくり高度を上げている。大気圏離脱軌道に入るには、まだ少し時間がある。追えるかどうか。追うべきかどうか。その判断が、狭い情報室の中に置かれていた。
通信士が報告した。
「南米上空の脱出艇、上昇継続。大気圏離脱軌道に入ります」
ブライトがレビルを見た。
「追撃を出しますか」
レビルはすぐには答えなかった。
壁面地図には、上昇していく脱出艇の軌道と、ジャブロー内部の被害区画が同時に出ている。被害区画には負傷者の数、投降兵の数、取り残された民間作業員、技術者家族、工兵隊の位置が重ねられていた。
追えば、追えるかもしれない。
だが、追うためには機体を回し、人員を割き、通信と補給を切り替えなければならない。今その人員を抜けば、地下で待っている負傷者の搬出が遅れる。
レビルは地図を見たまま言った。
「追うな」
ブライトの背筋がわずかに伸びた。
「よろしいのですか」
「今ここを見捨てれば、我々もティターンズと同じになる」
その言葉は短かった。
だが、部屋の中で重く残った。
アムロは唇を結んだ。
「逃げられます」
レビルはアムロを見た。
「逃げるだろうな」
エドワウが言った。
「宇宙で拾う艦がいるはずです。単独で上がるだけなら、逃走ではなく自殺に近い」
その時、通信士が別の回線を開いた。
「サイド3から短文通信です」
レビルが頷く。
「読め」
通信士は画面の文字を読み上げた。
「地球側は救助に使え。宇宙へ上がる者の軌道はこちらで見る。以上です」
ギレンの名は文面にはなかった。
だが、誰の言葉かは分かった。
レビルはしばらく黙った。
信用ではない。
信頼でもない。
ただ、今はそれを使うしかなかった。
「地上部隊は救助を続行。宇宙の追跡は、サイド3からの情報を待つ」
ブライトが敬礼した。
「了解しました」
アムロは、上昇する赤い点を見た。
ジャミトフか、バスクか。あるいは両方か。確かめたい気持ちはあった。追って、撃ち落としたい気持ちもあった。
だが、ジャブローの地下にはまだ人がいる。
それもまた、戦場だった。
―――――
避難者列は、南側搬入口の外に作られていた。
密林の湿気と、地下から上がってくる焦げた匂いが混じっている。作業灯が白く光り、負傷者の列と投降兵の列、技術者家族の列が分けられていた。水の箱、毛布、簡易医療キット、酸素ボンベが、泥の上に敷かれたシートに並べられている。
マチルダ・アジャン中尉は、左脇に緑色のファイルを挟んでいた。
制服の袖口は少し汚れていたが、声は乱れていなかった。
「水は全員へ。捕虜にもです。負傷者と拘束者を同じ列にしないでください。酸素ボンベは医療班へ。毛布は子どもと負傷者を先に」
補給班の兵士が頷いて走った。
別の係員が名簿を差し出す。
「次の避難者です」
マチルダはファイルを開いた。
「お名前を」
女が答えた。
「ヒルダ・ビダンです。この子はカミーユ」
マチルダの指が、一瞬だけ止まった。
技術部隊の家族。
その名前は、別の一覧にもあった。退避した技術者、持ち出された資料、行方確認の未完了者。そこに、フランクリン・ビダンの名があった。
ヒルダは疲れた顔をしていた。声は落ち着いていたが、落ち着きすぎていた。人は、ひどく傷ついた時ほど、声だけが平らになることがある。
カミーユは母の横に立っていた。
まだ少年の顔をしている。だが、目の奥に硬いものがあった。涙より先に怒りが固まっている目だった。
カミーユが聞いた。
「父は?」
マチルダはすぐには答えなかった。
答えられなかったのではない。軽い言葉で済ませてはいけないと分かったのだ。
「確認中です」
カミーユはマチルダを見た。
「逃げたんでしょう」
ヒルダが息子の肩に手を置く。
「カミーユ」
「だって、車に乗った。僕たちを置いて」
声は大きくなかった。
だからこそ、そこにある傷が目立った。
少し離れた場所で、アムロはその少年を見ていた。
カミーユ・ビダン。
その名前を聞いた瞬間、前の記憶の中にいた彼の姿が重なった。傷つき、怒り、才能を抱え、誰にも扱いきれないほどまっすぐで、何度も壊れそうになった少年。
目の前のカミーユは、まだそこまで行っていない。
でも、ここから始まるのかもしれない。
父親に置いていかれた朝。
母親の肩に置かれた手。
戻らない車両の音。
アムロは近づかなかった。
今、彼に何かを言える立場ではないと思った。言葉が届くには、少し時間が必要だった。
―――――
ジャブローの航空施設側から、ウッディ・マルデン大尉が歩いてきた。
片腕に包帯を巻いている。軍服には煤がつき、髪にも細かい粉塵が残っていた。それでも彼は、途中で足を止め、復旧班へ短く指示を出した。
「南側搬入口の換気を戻せ。負傷者搬出を先にしろ。格納庫扉は手動固定だ。落とすな」
復旧班が走る。
ウッディはもう一度周囲を見渡した。倒れた表示板、焼けたケーブル、担架で運ばれる兵士。何を先に直し、何を後に回すかを決める顔だった。
その顔が、マチルダを見つけた瞬間だけ変わった。
軍人の顔が、ほんの短い時間だけほどけた。
「マチルダ」
マチルダも振り向いた。
左脇の緑色のファイルを落とさないように抱え直し、一歩だけ近づいた。
「ウッディ」
それだけだった。
それだけで十分だった。
ウッディは周囲の目を気にせず、マチルダを抱きしめた。長い抱擁ではない。戦場の後始末の中で、許される時間は短い。だが、煤の匂いと消火剤の白い粉の中で、それは十分すぎるほど目立った。
少し離れたところで、アムロはそれを見ていた。
前の記憶では、マチルダは目の前で死んだ。
ミデアは壊れ、ドムは黒く、伸ばした手は届かなかった。あの記憶の中では、彼女が誰かに抱きしめられる未来などなかった。
今は違う。
マチルダは生きている。
ウッディも生きている。
二人は煤だらけのジャブローの搬入口で、短く抱き合っている。
それでいい。
そう思った。
そう思ったのだが、胸の奥に小さく面白くないものも残った。
アムロは白い目になった。
「……わかってましたよ」
ウッディが気づき、顔を向けた。
「君は?」
マチルダが少しだけ困ったように笑った。
「アムロ・レイさんです。ガンダムのパイロットで、今回も何度も助けていただきました」
ウッディはアムロを見る。
「君がアムロか。話は聞いている」
「どうも」
「何か言いたそうだな」
アムロはマチルダを見て、ウッディを見た。
「いえ。よかったですね」
マチルダが首を傾げる。
「アムロさん?」
アムロは少しだけ目を伏せた。
「本当に、よかったです」
今度は、声が少し違っていた。
ウッディはそれ以上聞かなかった。
マチルダも聞かなかった。
アムロは顔を背けた。
前の戦争では間に合わなかった。
今度は、少なくともこの人は生きている。
それだけで十分だ。
十分だが、目は白い。
―――――
その様子を、カミーユが見ていた。
マチルダとウッディの抱擁を見ていたのではない。正確には、それを白い目で見ているアムロを見ていた。
カミーユはヒルダの手を離れ、アムロの前に立った。
「何がおかしいんですか」
アムロは少年を見る。
「おかしくはないよ」
「じゃあ、何でそんな顔をしてるんですか」
言葉が尖っていた。
アムロは怒らなかった。
カミーユの怒りは、自分へ向けられているようで、実際には別の場所へ向かっている。父親の背中、止まらなかった車両、置いていかれた宿舎の前。そこへ届かない怒りが、近くにいる誰かへ向いているだけだった。
カミーユは続けた。
「大人は勝手ですね。逃げる人もいるし、抱き合う人もいる」
ヒルダが近づこうとした。
「カミーユ、やめなさい」
アムロは小さく手を上げて、それを止めた。
「そうだな」
カミーユの眉が動く。
「そうだな、じゃない!」
声が少しだけ大きくなった。
周囲の何人かが振り向いた。
アムロはその視線を気にしなかった。
「怒っていいよ。置いていかれたんだから」
カミーユが黙った。
言い返すために開きかけた口が、途中で止まった。
アムロは続けなかった。
慰める言葉も、父親を悪く言う言葉も、今は必要ないと思った。どちらも届かない。届くとしたら、たぶんその一言だけだった。
怒っていい。
カミーユは目を伏せた。
拳が震えていた。
ヒルダが、そっと息子の肩へ手を戻した。
アムロはその母子を見た。
前の記憶のどこかで見た傷が、今はまだ浅い場所にある。放っておけば、深くなる。だが、誰かが見ているだけでも、少し違うのかもしれない。
それが十分かどうかは、分からなかった。
―――――
ジャブロー内部の処理は、午前になっても終わらなかった。
ティターンズ兵は、ひとまとめに処刑されなかった。政治将校、違法拘束に関わった者、核時限装置の搬入に関わった者は別に拘束された。正規連邦軍出身で武装解除した者は、身分確認へ回された。
誰が命令したのか。
誰が実行したのか。
誰が逃げ、誰が残り、誰が知らなかったのか。
名簿が必要だった。
水が必要だった。
包帯が必要だった。
マチルダは緑色のファイルを左脇に挟み、補給班と拘束担当の間を行き来していた。
「水は全員へ。捕虜にもです」
拘束担当の兵士が少し顔をしかめた。
「捕虜にも、ですか」
「尋問前に倒れられては困ります」
ウッディが近くで苦笑した。
「甘いな」
マチルダは、彼を見ずに答えた。
「補給です。甘さではありません」
ウッディはそれ以上言わなかった。
それがマチルダ・アジャンという人間なのだと、彼は知っていた。
アムロも、少し離れた場所でそれを聞いていた。
この人は、こういう人だった。
戦場で足りないものを数え、足りない場所へ届けようとする。敵味方ではなく、まず倒れさせない。倒れた後に裁くためにも、生かしておく。
前の記憶の中の彼女と、目の前の彼女が重なった。
そして、今は生きている。
それだけで、胸の奥の白い熱が少しずつ冷めていくような気がした。
―――――
昼前、通信士が新しい報告を上げた。
「脱出艇、低軌道へ移行。追跡不能域へ入ります」
ブライトの拳がわずかに握られた。
追いたい。
その気持ちは顔に出ていた。だが、彼は何も言わなかった。レビルの判断は既に出ている。
レビルは動かなかった。
地図上の点を見たまま、短く命じる。
「地上部隊は救助を続行。拘束者の身分確認を急げ。爆発物処理班は第二確認に入れ」
「了解しました」
エドワウは目を伏せた。
ジャミトフとバスクは宇宙へ上がる。サイド3が軌道を見ているとしても、捕らえられる保証はない。敵はまだ終わっていない。むしろ、地球で逃げた敵は、宇宙で別の形になる。
アムロは、ヒルダとカミーユのいる列を見た。
今ここで追えば、救える人を置いていくことになる。
前の戦争では、何度も何かを置いていった。
置いていかなければ進めないこともあった。
でも、今回は違う判断をした。
それが正しいのかどうか、アムロにはまだ分からなかった。
ただ、今この場所で、水を受け取り、手当てを受け、名前を記録される人たちを見ていると、レビルの判断を否定する気にはなれなかった。
―――――
午後になると、密林の上に薄い煙が上がった。
それは核の白い熱ではなかった。焼けた制御盤、通常爆薬の処理、消火剤、復旧作業の排煙。その程度の煙だった。空は残っている。湿った風が葉を揺らし、遠くで鳥の声がした。
ジャブローは大きく傷ついた。
だが、地球の空は残っていた。
アムロは南側搬入口の外に立ち、しばらく空を見ていた。
少し離れた場所で、マチルダとウッディはもう抱き合っていなかった。マチルダは補給班へ指示を出し、ウッディは復旧班の進捗を確認している。二人とも、それぞれの仕事に戻っていた。
カミーユはヒルダのそばにいた。
黙ったまま、父親が消えた方向を見ている。怒りはまだそこにある。たぶん、簡単には消えない。アムロはそれを見て、何も言わなかった。
救えた人もいる。
逃げた人もいる。
残された人もいる。
戦争は、勝った瞬間に終わらない。
通信士の声が、南側搬入口の臨時指揮所に響いた。
「サイド3より追跡情報。脱出艇の推定会合軌道、算出完了」
エドワウが顔を上げた。
アムロも空から視線を下ろした。
次は宇宙だった。