サイド7の外壁が、船窓の向こうに見えた。
白い曲面に、港湾灯が点々と並んでいる。誘導灯は規則正しく瞬き、接舷アームの赤い表示がゆっくりと向きを変えていた。地球へ降りる前にも見た景色だったはずなのに、今は少し違って見えた。
地球の空気を吸って戻ってくると、コロニーの空気は軽かった。
湿気が少ない。匂いも少ない。けれど、帰還便の中だけはまだ別だった。ジャブローの地下で焼けた制御盤の匂い、消火剤の粉、濡れた布の湿り気、手動工具に付いた油。そういうものが、貨物ケースや服の袖にまだ残っていた。
アムロは窓の外を見ながら言った。
「戻ってきたな」
エドワウは端末から目を離さなかった。
「戻っただけだ。荷はまだ降ろしていない」
「本当に商会の人間だな」
「帰還報告より先に、積荷の確認が要る」
アムロは軽く肩をすくめた。
貨物区画には、使い終えた医療品の空箱、ジャブローで使った絶縁手袋、手動工具、装甲材試料の保冷ケース、避難者家族の名簿、地球支社へ残す引き継ぎ記録が積まれていた。兵器よりも、そういうものの方が場所を取っている。
セイラが、少し離れた席から言った。
「兄さん、少しは休んだら?」
「休む前に、地球支社の引き継ぎを確認する」
「そう言うと思ったわ」
ララァは窓際に立っていた。
サイド7の外壁を見ているようで、少し違うものを見ている顔だった。地球から一緒に戻ってきた彼女の髪にも、まだ薄く湿気が残っている。
「ここは、地球より息が軽いわ」
アムロが顔を向けた。
「コロニーだから?」
「それもあるけれど、戻ってきた人の声が多い」
セイラが言った。
「疲れている人ばかりよ」
「でも、帰ってきた声でしょう?」
ララァはそう言って、アムロを見た。
「アムロ、まだあの子のことを考えている」
アムロは答えるまでに少し間を置いた。
「……今は言わなくていい」
セイラがアムロを見る。
「あの子?」
「カミーユだよ」
ララァは何も言わなかった。
アムロはもう一度、窓の外を見た。サイド7は近づいている。地球で怒っていた少年も、もうすぐこの場所へ来る。
ここが、あの子の怒りを閉じ込める場所にならなければいい。
アムロはそう思った。
―――――
帰還便が接舷すると、黒猫ルシファー・ロジスティックスの発着管理区画はすぐに騒がしくなった。
台車が並び、貨物管理班が色の違うタグを箱に付けていく。赤は医療品。青は研究試料。黄色は避難者関連書類。黒い線が入ったタグは、取り扱い注意の機材だった。
発着表示には、地球便、サイド7内輸送便、月方面連絡便が並んでいる。
エドワウは降りてすぐ、管制卓の前に立った。
ララァも、セイラも、アムロも一緒に降りた。サイド7は黒猫側の管理圏だ。黒猫の職員たちは、ララァの姿を見ても余計な視線を向けなかった。忙しいということもある。だが、それ以上に、ここでは彼女が黒猫側の人間として扱われていた。
管制員が報告する。
「地球支社、ダカール港湾区の仮事務所で業務継続中です。ジャブロー復旧向け医療品、食糧、手動工具の搬入は本日二便」
「避難者家族は?」
「サイド7受け入れ分、第一便に同乗しています。ヒルダ・ビダン氏、カミーユ・ビダン氏も含まれています」
セイラが顔を上げた。
「カミーユ君も来るのね」
アムロは短く頷いた。
「あの子には、地球に残るよりいいかもしれない」
エドワウは、表示された名簿を見た。
「残る場所ではなく、選べる場所を渡す。そこを間違えないようにする」
ララァが静かに言った。
「怒っている子にも、選ぶ場所はいるのね」
「そうだな」
アムロはそう答えた。
自分で言って、少しおじさん臭いと思った。だが今さら直せるものでもない。
黒猫の職員が、保冷ケースを別の台車へ移した。月方面便へ乗せる材料試料だ。地球での戦闘が終わっても、地球から上がってくる荷は減らなかった。むしろ増えている。
エドワウはその流れを見ていた。
戦争が通った後には、人と物が残る。
それを誰が運ぶかで、その後の形が変わる。
―――――
避難者受け入れ区画は、発着管理区画よりも人の声が柔らかかった。
受付卓には、仮住居カード、学校案内、医療チェック票、居住ブロックの地図が並べられている。地球から来た家族と、サイド7側の案内係が向き合い、名前を確認していた。
ヒルダ・ビダンは、簡素な鞄を一つだけ持っていた。
カミーユはその少し後ろに立っている。母親から離れすぎず、しかし甘えているようには見えない位置だった。周囲を見る目には警戒が残っている。
受け入れ担当が端末を確認した。
「ヒルダ・ビダン様、カミーユ・ビダン様。仮住居はサイド7第三居住ブロックです」
「ありがとうございます」
ヒルダは丁寧に頭を下げた。
カミーユはカードを見て、すぐに口を開いた。
「また、誰かの都合で住む場所が決まるんですか」
アムロが近づいた。
「気持ちは分かる。でも、ここは君を閉じ込める場所じゃない」
カミーユはアムロを見た。
「あなたは、またおじさんみたいなことを言う」
「……今はそれを言う場面じゃない」
セイラが小さく笑いそうになって、すぐに表情を戻した。
ララァがカミーユを少し見て言った。
「怒っているのに、ちゃんとお母さんの近くにいるのね」
カミーユの目が動いた。
「何ですか、それ」
「離れたくない人がいるなら、それでいいと思っただけ」
カミーユは言い返そうとした。だが、横にいるヒルダを見て、口を閉じた。
ヒルダの手が、鞄の持ち手を握っている。強く握りすぎて、指先が白くなっていた。
セイラが言った。
「まず、荷物を置きましょう。話はそれからでも遅くないわ」
ヒルダは頷いた。
カミーユはまだ不満そうだったが、母のそばを離れなかった。
―――――
黒猫サイド7支社の会議卓は、応接用ではなかった。
机の表面には細かい傷があり、端末のケーブルが何本も這っている。壁面には、サイド7研究区画の配置図、アナハイムの材料試験設備一覧、月面試験炉の使用枠、装甲材サンプルの輸送予定表が表示されていた。
ヒルダは椅子に座っていた。
カミーユはその横に立っている。座るように言われても、まだ座らない。
エドワウは、資料を一枚だけ卓上へ置いた。
「ヒルダ・ビダンさん。あなたは、保護されるだけの方ではありません」
ヒルダは目を上げる。
「今の私に、できる仕事があるのでしょうか」
「材料工学の専門家です。耐熱複合材、軽量構造材、衝撃吸収材、炉周辺素材。あなたの経歴を確認しました」
カミーユがすぐに反応した。
「母さんまで、機械の方へ行くんですか」
ヒルダは息子を見た。
その声には、夫へ向けられた怒りが混じっていた。だが、今ここでそれを叱る気にはなれなかった。
「私は、あなたを置いていかないわ」
カミーユは黙った。
その一言で十分だったのかどうかは分からない。けれど、少なくとも彼はそれ以上言い返さなかった。
エドワウが続ける。
「月へ行く方法もあります。ですが、今のカミーユ君を月の工場都市へ移すより、サイド7で生活を立て直した方がいい」
「サイド7で、研究を?」
「黒猫ルシファー・ロジスティックスが研究区画を用意します。アナハイム・エレクトロニクス社には、材料試験設備と研究員を出してもらう。あなたには、新しい装甲材の研究を続けていただきたい」
ヒルダは資料を見た。
そこには、単なる避難者受け入れではなく、研究者としての席が用意されていた。使う装置、試料の輸送予定、月面設備とのデータ交換、サイド7での居住区。全部が具体的に書かれている。
「私は、夫の研究から離れたいのかもしれません」
エドワウは頷いた。
「なら、離れればいい。モビルドールでもバーザムでもなく、人を守る装甲を作ってください」
ヒルダは、その言葉をすぐには返さなかった。
夫は資料を抱えて逃げた。
自分は息子を抱えて残った。
それが答えだったのかもしれない。
ララァが小さく言った。
「人を守るものなら、カミーユも嫌いにならないかもしれない」
カミーユはララァを見る。
「勝手に決めないでください」
「決めていないわ。そうだったらいいと思っただけ」
カミーユは顔をそむけた。
アムロはその横顔を見ていた。
怒りは消えていない。
だが、母親が自分を置いていくわけではないことだけは、彼の中に届いたように見えた。
―――――
サイド7の学校案内区画は、まだ新しい匂いがした。
壁には居住ブロックごとの色分け表示があり、端末の上には学校登録、健康診断、居住者カードの案内が出ている。子どもたちの声が廊下の先から聞こえていた。
学校案内担当は、別の家族に対応していた。
そのため、近くにいた少女が、カミーユたちの方へ歩いてきた。
髪を後ろでまとめ、手には案内用の小型端末を持っている。遠慮のない目をしていた。
「あなたがカミーユ?」
カミーユは少し身構えた。
「そうだけど」
「変な名前ね」
カミーユの眉が動く。
「女みたいな名前だって言いたいのか」
少女は目を丸くした。
「そこまでは言ってないでしょ。先に怒らないでよ」
アムロが横で顔をしかめた。
「君たち、初対面だよな」
少女は頷いた。
「はい」
カミーユが言う。
「向こうが先に変なことを言ったんです」
「変って言っただけよ」
ララァが少し笑った。
「仲良くなりそうね」
カミーユと少女が同時にララァを見た。
「どこがですか」
「私もそうは思わない」
アムロは深く息を吐いた。
「……先が思いやられるな」
ヒルダは困ったようにしていたが、目元だけが少し緩んでいた。
カミーユは怒っている。
けれど、今の怒りはさっきまでのものと少し違っていた。父に向けることもできず、胸の奥に固まっていた怒りではない。目の前の同年代に、すぐ返せる程度の怒りだった。
少女は端末を指した。
「私はファ・ユイリィ。学校案内なら手伝えるわ。怒らないならね」
「怒らせることを言わなければね」
「じゃあ、半分くらい無理かも」
カミーユはまた言い返そうとして、やめた。
アムロはその様子を見て、少しだけ安心した。
―――――
物流管制室の壁面モニターには、線がいくつも走っていた。
地球、サイド7、月、サイド3、アナハイム関連拠点。医療品、食糧、復旧資材、避難者、技術者家族、材料試料、モビルワーカー部品。それぞれが別の色で表示されている。
管制員が言った。
「月方面、アナハイム試験設備への材料サンプル輸送、週二便で仮設定しました」
エドワウは頷く。
「人を月へ送るのではなく、試料とデータを往復させる。研究拠点はサイド7だ」
アムロが言った。
「また荷物か」
「戦争よりはましだ」
セイラはモニターを見ながら言った。
「でも、便が増えすぎると現場が壊れるわ」
「だから現地支社を置いた。地球、サイド7、月。それぞれに荷を受ける場所を作る」
ララァが、表示される線を見上げた。
「荷物が増えると、人も増えるのね」
「そうだ。荷だけを運ぶわけではない」
アムロは腕を組んだ。
「地球とコロニーと月か。忙しくなるな」
「忙しくしなければ、また軍が人を運ぶ」
「それは困る」
エドワウはモニターの線を見ていた。
軍が人を運ぶ時、人は命令で動く。
黒猫が運ぶ時、人には行き先を選ばせたい。
それは綺麗な理想ではなかった。現実には、名簿も制限も優先順位もある。それでも、軍の車両で置いていかれるよりはいい。
エドワウはそう考えていた。
―――――
発着管理区画の端末前に、ミライ・ヤシマが立っていた。
地球便、避難者輸送、医療品、材料試料。画面には、まだ処理されていない項目がいくつも残っている。目元には疲れがあったが、声は落ち着いていた。係員へ短く指示を出し、次の便の積み替え時刻を確認している。
エドワウが近づくと、ミライは顔を上げた。
「戻ったのね」
「ああ、遅くなってすまなかった」
「少し、ではないわ」
「分かっている」
ミライは小さく息を吐いた。
怒っているわけではない。心配していたことを、そのまま言わずに置いている顔だった。
「セイラもアムロさんも?」
「無事だ。疲れてはいるが」
ミライはセイラとアムロを見て、それからララァへ視線を移した。
「ララァも、無事でよかったわ」
「ただいま、ミライ」
「おかえりなさい」
ララァは少し首を傾けた。
「待っていた人の声ね」
セイラが小さく言った。
「ララァ」
「言わない方がよかった?」
アムロが横から答える。
「たぶんね」
ミライは少し笑った。
「大丈夫。待っていたのは本当だから」
エドワウはしばらく黙った。
その沈黙を、ミライは責めなかった。
端末の横に薄い封筒が置かれていた。
エドワウは、それが何かすぐに分かった。
「今日、行けますか」
「ええ。次の便まで四十分あるわ」
「四十分で済みますか」
「済ませるの。先延ばしにすると、また誰かが別の荷物を持ってくるもの」
エドワウは少しだけ笑った。
「黒猫の言い方になってきましたね」
「あなたのせいよ」
「光栄です」
「褒めていません」
アムロが聞いた。
「どこへ?」
セイラがアムロを見る。
「籍を入れに行くのよ」
「今?」
ミライは封筒を手に取った。
「今でないと、また先になります」
ララァが不思議そうに聞く。
「式はしないの?」
ミライは首を振った。
「式はまだ無理ね。呼べない人も、整える場所も、片づける仕事も多すぎるもの」
エドワウが言った。
「籍と式は別だ」
「そういうものなのね」
セイラが静かに頷いた。
「そういうものよ」
―――――
サイド7の行政窓口は、特別な場所ではなかった。
居住登録、転居申請、配給口座の変更、婚姻登録。どれも同じ区画で処理されていた。端末の前には、子どもを連れた家族、作業服のまま来た技術者、荷物を抱えた住民が並んでいる。
エドワウとミライは、その列に並んだ。
式ではない。
祝宴でもない。
婚約していた二人が、戦争と救助と物流で後ろへずれていた手続きを、ようやく前へ進めるだけだった。
それでも、ミライは封筒を持つ指に少しだけ力を入れた。
署名する前に、亡き父なら何と言っただろうかと一瞬だけ考えた。
よく考えたのか。
きっと、そう聞いただろう。
ミライは心の中で答えた。
考えました。
これは、私が選びます。
窓口職員が端末を確認し、二人へ署名欄を示した。
ミライが先に書いた。
エドワウがその隣に署名した。
手続きは、驚くほど静かに終わった。
大きな言葉はなかった。二人は控えめに視線を合わせる。ミライが封筒をしまう。
エドワウが言った。
「待たせた」
「ええ」
少し間があった。
「だから、これからは簡単に置いていかないで」
エドワウはミライを見た。
「約束する」
「それなら、受け取ります」
ララァが小さく微笑んだ。
アムロは照れくさそうに視線を外していた。セイラは二人を静かに見ている。兄に帰る場所ができたことを、すぐに言葉にはしなかった。
―――――
発着区画へ戻る通路で、セイラが聞いた。
「出したの?」
ミライが答える。
「ええ。さっき」
「兄さん、ちゃんと窓口まで行った?」
エドワウが少し眉を上げる。
「私は子どもではない」
「大事なことほど後回しにするから」
ミライが静かに言った。
「そこは、これから私が見ています」
セイラは少し笑った。
「お願いします」
ララァがミライを見る。
「ミライは、エドワウを見張る人になるの?」
「見張るだけではないわ。隣で同じものを見るの」
「それなら、いいわ」
アムロが言った。
「おめでとう、でいいのかな」
ミライは頷いた。
「ありがとう、でいいと思います」
エドワウが言う。
「式はまだだ」
「籍と式は別か」
「ええ。今は式より便の方が多いもの」
アムロはミライを見た。
「黒猫の言い方だな」
エドワウが答える。
「彼女はもう黒猫側だ」
ミライは少し目を細めた。
「便利な時だけそう言わないで」
ララァはそれを聞いて、楽しそうに笑った。
―――――
夜の発着区画では、地球便と月方面便の表示が交互に変わっていた。
地球からは、復旧資材と技術者家族が来る。
サイド7からは、医療品、食糧、モビルワーカー部品が降りる。
月へは、材料試料と試験データが行く。
アナハイムの設備も、人員も、資金も、これからサイド7へ流れ込んでくる。
少し離れた場所で、ヒルダが研究区画担当と話していた。手には資料を持っている。避難者の顔ではなく、研究者の顔になり始めていた。
その向こうで、カミーユがファに何か言い返している。ファは負けずに言い返し、カミーユはまたむきになった。ヒルダが振り返り、困ったように笑った。
ララァはそれを見て、少し嬉しそうにした。
「怒っている子、少し元気になったわ」
アムロが答える。
「元気すぎる気もする」
セイラも同じ方向を見た。
「でも、あのくらいの方がいいのかもしれないわ」
ミライは到着便の予定を確認しながら、エドワウの隣に立っていた。
アムロが言う。
「サイド7も、ずいぶん賑やかになったな」
エドワウは発着表示を見た。
「これからもっと増える。地球からの復旧物資、技術者家族、月への材料試料、アナハイムの設備、人員、資金」
「忙しくなるな」
「忙しくしなければ、また軍が人を運ぶ」
ミライが言った。
「なら、黒猫が運ぶのね」
「そういうことです」
セイラが横から言った。
「兄さん、少し休むことも運んでくれる?」
「それは積荷目録にない」
ミライがすぐに言う。
「追加しておきます」
アムロが頷いた。
「いい判断だ」
ララァがエドワウに聞いた。
「休む場所も、荷物みたいに運べる?」
エドワウは少し考えてから答えた。
「場所は運べない。だが、作ることはできる」
「なら、ここは作っている途中なのね」
エドワウはサイド7の発着区画を見た。
地球では、まだ煙が上がっている。
月では、試験炉が次の材料を待っている。
サイド7では、新しい住民の名札が一枚ずつ増えていく。
黒猫の便は、そのあいだを行き来する。戦争が壊した流れを、別の流れに作り替えるために。
サイド7は、もうただの避難先ではなかった。
誰かが戻り、誰かが働き、誰かが怒りながら学校へ行く場所になり始めていた。