大団円を迎えることが出来ました。
サイド7の朝は、発着区画の表示灯から始まった。
人工の空がまだ淡い青に切り替わりきらないうちから、黒猫ルシファー・ロジスティックスの管制卓には、地球便、月方面便、サイド3便、各サイド連絡便の予定が並んでいた。
医療品。
学校教材。
空調部品。
建材。
装甲材試料。
家族宛ての小包。
かつては弾薬箱と推進剤タンクばかりが目立った台車の列に、今は子ども用の学習端末や、簡易住宅用の壁材や、温度管理された薬品ケースが混じっている。
戦争が消えたわけではない。
ただ、発着区画に積まれる荷物の顔つきが変わっていた。
エドワウ・マスは、管制卓の前で運航表を見ていた。
隣にはミライがいる。手元の端末には、黒猫便の遅延情報と、居住区の受け入れ枠と、医療品の残量が同時に表示されていた。
少し離れて、セイラが職員に朝の配給品の確認をしている。
アムロは、まだ眠そうな顔で壁に寄りかかっていた。
ララァは、表示灯の切り替わる色を見上げている。
管制員が顔を上げた。
「地球支社発の医療品便、三十分遅れ。月面試験炉向け材料試料は予定通りです。サイド3便は、カーン家宛ての荷が追加されています」
ミライがすぐに聞いた。
「追加荷の中身は?」
「学校教材と衣類、それから子ども用の菓子です」
アムロが小さく笑った。
「戦争中の便とは思えない荷だな」
エドワウは運航表から目を離さない。
「戦争中の荷ではない。戦争の後に必要な荷だ」
管制員が、別の通信紙を確認する。
「各サイド港湾連絡会より、調整者殿宛てに確認要請です」
エドワウの眉が動いた。
「その呼び方はやめさせろ」
アムロが壁にもたれたまま言った。
「もう無理だと思う」
「なぜだ」
「みんな使ってるからだ」
ララァが振り向いた。
「人と荷と気持ちを、いつも間に置いているもの」
セイラも、少し笑って言った。
「兄さんらしいわ」
ミライは端末を閉じた。
「本人が嫌がるところまで含めて、定着していると思います」
エドワウは、ほんの少しだけ顔をしかめた。
「家族まで敵に回ったか」
ミライはそれには答えず、エドワウの予定表を開いた。
指先でいくつかの予定を動かし、そこに新しい項目を入れる。
帰宅。
食事。
睡眠。
エドワウが画面を見る。
「これは消しても?」
「消さないで」
「積荷ではありませんが」
「家族の予定です」
セイラが横から言った。
「兄さん、負けたのね」
エドワウは何も言わなかった。
アムロは、その沈黙を見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。
―――――
家族到着ゲートに、黒猫便が接舷した。
地球から来た便ではなかった。遠い居住区と中継港をいくつか経由して、ようやくサイド7へ入った小型の旅客貨物便だった。
ゲートが開き、数人の乗客が降りてくる。
その中に、二人がいた。
妹は、小さな荷物を胸の前で抱えていた。弟はその横に立っている。弟はララァより少し背が高かった。二人とも、サイド7の発着区画を見回している。床の誘導灯、自動で動く隔壁、荷物を運ぶ台車。どれも初めて見るもののようだった。
ララァは少し離れた場所で待っていた。
最初は静かに立っていた。
けれど、二人の姿を見つけた瞬間、表情がやわらかくほどけた。
ララァは歩き出した。
妹が先に気づく。
「お姉ちゃん」
弟も、少し遅れて顔を上げた。
「本当に、ここに住んでいいのか」
ララァは二人の前で立ち止まった。
弟は、少しだけ身をかがめた。妹は先にララァへ近づいた。ララァは二人の肩に手を回し、立ったまま抱きしめた。
「いいの。ここは、帰ってきてもいい場所だから」
弟は何か言おうとして、やめた。
妹は、ララァの肩に顔を寄せた。
ララァは、にこにこしていた。
アムロは少し離れて見ていた。
前の記憶の中で、ララァは戦場にいた。白い光の中にいて、言葉が届く前に失われた。家族の前で笑う顔など、見たことがなかった。
今、ララァは妹と弟を抱きしめている。
弟が、黒猫のマークを見て聞いた。
「黒猫って、本当に猫がいるの?」
ララァは少し考えてから答えた。
「いないわ。でも、猫みたいに帰り道を知っている人たちはいるの」
アムロが口を挟んだ。
「猫は道を知っていても、荷物は運ばないと思う」
ララァはアムロを見た。
「じゃあ、黒猫は特別なのね」
妹が笑った。
弟も、少しだけ笑った。
その笑い声は、発着区画の金属音や管制の声の中に混じって、しばらく残った。
―――――
学校区画の前は、朝から騒がしかった。
居住ブロックごとの掲示板には、授業予定と実習案内が貼られている。通路では、子どもたちが教材端末を抱えて走り、案内係が何度も「走らないでください」と声をかけていた。
カミーユ・ビダンは、不満そうな顔で歩いていた。
その横に、ファ・ユイリィがいる。
「遅いわよ、カミーユ」
「まだ時間前だ」
「来るのが遅そうな顔してたから」
「どういう意味だよ」
カミーユが足を止める。
ファも止まる。
アムロは少し後ろからその様子を見ていた。セイラは、手に温かい飲み物を持っている。
「朝から元気だな」
アムロが言うと、カミーユはすぐに振り向いた。
「おじさん先生は黙っててください」
「誰がおじさん先生だ」
ファが首を傾げる。
「先生ではあるんですか?」
「違う。手伝いだ」
セイラが、アムロに飲み物を差し出した。
「手伝いでも、子どもに機械を教えているなら先生みたいなものよ」
「君までそう言うのか」
「疲れた顔をしている人には、そう言いたくなるの」
アムロは反論しようとして、飲み物を受け取った。
カミーユはそれを見て、少しだけ口元を動かした。
「やっぱり、おじさんだ」
「君は本当に遠慮がないな」
「思ったことを言っただけです」
ファが隣で言った。
「それはちょっと分かる」
「君もか」
アムロは白い目になった。
セイラは何も言わずに、少しだけ笑った。
ヒルダは離れた場所からそのやり取りを見ていた。息子が怒っている。だが、その怒りは、以前のように固い塊ではなかった。目の前にいる相手へ、その場で返せる怒りだった。
ファがカミーユの袖を引く。
「ほら、行くわよ」
「引っ張るな」
「言わないと来ない顔してるから」
「顔で決めるなよ」
二人は言い合いながら、学校区画へ入っていった。
アムロはそれを見送り、手の中の飲み物に目を落とした。
「少しは、大丈夫そうだな」
セイラが隣で言った。
「あなたも少しは大丈夫になりなさい」
「僕も?」
「兄さんと同じ。放っておくと、自分だけ後回しにするから」
アムロは返事に困った。
その沈黙が、答えになっていた。
―――――
黒猫とアナハイムの共同研究区画では、朝から試験片が並べられていた。
耐熱複合材。
衝撃吸収材。
居住区外壁用の防護板。
避難船の外殻に使う軽量材。
MS用の装甲材もある。だが、それだけではなかった。むしろ、人が中にいる場所を守る材料の方が多くなっている。
ヒルダ・ビダンは、作業用の上着を着て、端末の前に立っていた。
アナハイムの研究員が、試験片のデータを示す。
「この複合材は、MS装甲より避難船の外殻に回した方が効果が出ます」
ヒルダは数字を確認する。
「人が中にいる方を優先してください。機体の性能だけを見ないで」
研究員は一瞬だけ目を上げ、それから頷いた。
「了解しました」
少し離れたところに、カミーユが立っていた。
学校へ行く前に寄ったのだろう。腕を組み、試験片を見ている。
「母さん、楽しそうだね」
ヒルダは息子を見た。
「楽しい、とは少し違うわ」
「でも、父さんとは違う」
ヒルダは少しだけ目を伏せた。
「そうありたいと思っている」
カミーユは、それ以上言わなかった。
エドワウが研究区画の入口に立っていた。アムロも一緒にいる。
「人を守る装甲は、戦争のためだけのものではありません」
エドワウが言った。
アムロは試験片を見て、短く答える。
「そういう使い方なら、悪くない」
ヒルダは端末を閉じた。
フランクリン・ビダンの名は、ここでは出なかった。
彼は記録と裁判の中へ移された。彼が何を抱えて逃げ、何を置いていったかは、もう十分だった。
ヒルダは、別のものを作っている。
人を置いていかないための材料を。
―――――
サイド3の試験区画では、黒いゲルググ三機と、サイコミュ高機動試験用ゲルググが整備架に固定されていた。
床には工具が並び、整備兵が管制ユニットの焼けた箇所と、推進器の損傷ログを確認している。
レオンは、報告書を書いていた。
ペンを持つ手が、まだわずかに震えている。
それを見て、ガイアが言った。
「まだ震えるか」
レオンは手を止めた。
「……少しだけです」
オルテガが整備台に腰を預ける。
「初戦の後なら、そんなもんだ」
マッシュも言った。
「震えない方が困る」
レオンは顔を上げた。
「困る、ですか」
ガイアは、固定されたゲルググを見たまま答えた。
「自分が何をしたか分からない奴は、次に余計なことをする。震えているうちは、まだ覚えている」
レオンは黙った。
試験評価士官が端末を読み上げる。
「今回のサイコミュ端末運用は、撃破ではなく停止に有効でした。武器基部、脚部推進器、センサーを狙えば、モビルドールは回収可能な状態で止められます」
マッシュが鼻を鳴らした。
「派手に壊すより、面倒だな」
オルテガが笑う。
「だが、腕は上がる」
ガイアがレオンを見た。
「殺すより止める方が難しい。覚えておけ」
「はい」
通信が入った。
ドズルの声だった。
「ガハハ! レオン、まだ手が震えるか!」
レオンは思わず姿勢を正した。
「申し訳ありません」
「謝るな。震えた手で機体を止めたなら上出来だ。次は震えても照準を外すな」
ガイアが少しだけ口元を緩めた。
「荒っぽい励ましですな」
ドズルが笑う。
「俺の励ましはだいたい荒い!」
通信が切れる。
レオンは、自分の手を見た。
震えはまだあった。
けれど、その手は報告書を書き続けた。
―――――
地球の黒猫支社は、仮設事務所から始まっていた。
ダカール港湾区の一角に建てられた簡易建屋で、外には復旧資材の箱と医療品のコンテナが並んでいる。熱気が強く、通路の端には大型の送風機が置かれていた。
マチルダ・アジャンは、緑色のファイルを左脇に挟んで、補給表を確認していた。
ウッディ・マルデンは、汗を拭きながら戻ってくる。
「今度こそ休暇を取る」
マチルダはファイルから目を上げない。
「その前に、医療品の第三便です」
「君も人のことを言えないな」
「補給が終われば休みます」
「終わらないだろう」
マチルダはそこで、少しだけ笑った。
「なら、交代で休みましょう」
「いい案だ」
「まず第三便を出してからです」
ウッディは天を仰いだ。
「やっぱり休めないじゃないか」
外では、黒猫の職員が医療品ケースを台車に積んでいる。ジャブロー復旧、避難者医療、港湾労働者への薬品配布。仕事はまだいくらでもあった。
けれど、マチルダは生きていた。
ウッディも生きていた。
そのことを、二人とも大げさには言わない。
ただ、次の便を出すために、同じ表を覗き込んでいた。
―――――
ダカールの連邦再建会議室には、資料が山のように積まれていた。
航路警備。
港湾再開。
投降兵の識別。
自治協定。
黒猫との輸送協定。
軍再編予算。
補給路の再設定。
レビルはその山を見ていた。
ブレックス・フォーラは向かいに座っている。文官や参謀、補給担当官も並んでいたが、誰も楽な顔はしていなかった。
補給担当官が言う。
「南米方面の復旧輸送は黒猫側と重複しています。軍として独自便を維持するか、共同運用へ切り替えるか、判断が必要です」
文官が続ける。
「港湾労組、医療品配給局、地方政府、残存連邦軍の物資請求が競合しています」
参謀も資料をめくる。
「投降兵の収容施設も足りません。ティターンズ所属の識別だけでも、相当な時間を要します」
レビルはしばらく黙った。
それから、低く唸った。
「ゴップめ……儂らを置いていきおったおかげで、この有様だ」
部屋が一瞬だけ静かになった。
悪口のようで、悪口ではなかった。
ブレックスが顔を上げる。
「ゴップ大将なら、まず何から手をつけたでしょうな」
「予算だ」
文官が少し驚いた顔をした。
レビルは机の上の書類を指で叩く。
「軍人はすぐ作戦を考える。政治家は声明を考える。だが、ゴップなら最初に金と倉庫と港を見た。どこに何があり、誰が鍵を持ち、誰に頭を下げれば動くかを知っていた」
ブレックスが静かに言う。
「評価しておられたのですね」
「嫌いだった」
レビルは即答した。
少し間があった。
「だが、必要な男だった」
誰も笑わなかった。
レビルは続けた。
「ゴップは、軍を勝たせる男ではなかった。だが、軍が飢えず、港が止まらず、議会が予算を出し、地方が最低限黙るようにする男だった」
ブレックスは頷いた。
「その役を、今は誰も一人では担えない」
「だから分ける。軍は軍をやる。政治は政治をやる。物流は黒猫を使う。倉庫と港は、分かる者に任せる」
「連邦が独占する時代ではない、ということですか」
「独占できるほど、もう手が残っておらん」
ブレックスは手元の協定案を見た。
「黒猫を連邦の下に置きたい者が増えています」
「置けん。置こうとすれば、逃げるか、敵になる」
「では、協定で縛る」
「そうだ。支配ではなく約束だ」
レビルはもう一度、資料の山を見た。
「ゴップなら、嫌な顔をしながらもう三つほど根回しを済ませていたろうな」
ブレックスが小さく言った。
「惜しい人を亡くしました」
「本当に惜しい人間は、死んでから分かる。困ったものだ」
窓の外には、ダカールの朝の光があった。
勝った後の仕事は、戦場よりずっと細かかった。
―――――
ホワイトベースの整備区画では、推進剤の割当表と補給リストが並んでいた。
ブライト・ノアは端末を見ながら、眉間にしわを寄せている。
そこへ、エマリー・オンスが歩いてきた。手には整備確認用の端末を持っている。
「また無理な運用をしていますね」
ブライトは顔を上げた。
「無理ではない。少し詰まっているだけだ」
「それを無理と言います」
ブライトは言い返そうとして、やめた。
エマリーは端末を操作し、補給順を組み替える。
「この艦を先に回してください。推進剤の残量が危険です。こちらの艦は半日待てます」
「助かる」
「助けているつもりです」
少しだけ沈黙があった。
エマリーは、声を低くした。
「今度は、ちゃんと戻ってください」
ブライトは彼女を見た。
その言葉には、整備担当としての注意だけではない何かがあった。
「努力する」
エマリーはすぐに返した。
「努力では足りません」
ブライトは、ほんの少しだけ笑った。
「最近、似たようなことを言われた気がする」
「では、よく覚えておいてください」
エマリーは端末を抱え直し、少しだけ顔を伏せてから、整備区画の奥へ歩いていった。
ブライトは、その背中をしばらく見ていた。
前よりも、自分が若いことを思い出す時間が増えた。
それが悪いことではないと、少しずつ分かり始めていた。
―――――
マハラジャ・カーン邸の部屋は、派手ではなかった。
壁の装飾も控えめで、家具の配置にも無駄がない。だが、部屋に入ると、そこがただの応接室ではないことが分かった。声を荒げる者はいない。けれど、誰がどこに座り、誰が何を聞くのかが、あらかじめ静かに決められている。
マハラジャ・カーンは、椅子に座っていた。
その横にマレーネ・カーンが立っている。
少し離れて、ハマーン・カーンがガルマを観察していた。十二歳の少女の目は、年齢よりも鋭い。だが、その背伸びはまだ子どもの背伸びだった。
セラーナ・カーンは九歳だった。
彼女は、遠慮なくガルマの髪を見ている。
ガルマ・ザビは背筋を伸ばした。
しばらく沈黙してから、口を開いた。
「兄は一度、キャスバル……いえ、エドワウ・マス氏に、ダイクン派をまとめてもらうことを考えていたのだと思います。静かな政権移行のために」
マハラジャは何も言わない。
ガルマは続ける。
「ですが、あの方は今や、ジオン・ダイクン以上に宇宙全体へ影響を持つ大立て者です。ジオン公国一国の中に収まる指導者ではありません」
ハマーンがわずかに目を細めた。
セラーナは、話の重さを半分ほどしか分かっていない顔で、ガルマの横顔を見ている。
「それに、私の養子の件は、もともとマハラジャ殿からギレン兄へ話があったと聞いています」
マレーネは黙っていた。
その沈黙は、助け舟ではなかった。
自分で言いなさい、という沈黙だった。
ガルマはマハラジャをまっすぐに見た。
「私に何をお求めでしょうか」
若い声だった。
しかし、逃げる声ではなかった。
「ジオン公国のためとなることであれば、私は喜んで旗となりましょう」
マハラジャは、すぐには答えなかった。
部屋の空調の音だけが残った。
「旗は、風がなければ立ちません」
ガルマは瞬きをした。
「そして、風の向きを知らぬ旗は、いずれ裂けます」
「……私に、風を読めと?」
マハラジャは静かに首を振った。
「違います。まず、聞きなさい」
ガルマは口を閉じた。
「ダイクン派は飢えていません。席を奪われたわけでもない。ですが、自分たちの言葉が、いつの間にかザビ家の言葉として語られていることを忘れてはいません」
ガルマは、ゆっくり息を吸った。
「では、私が知るべきものは」
「彼らが何を欲しているかではありません。何をまだ自分たちのものだと思っているかを知りなさい」
重い沈黙が落ちた。
それを破ったのは、セラーナだった。
「じゃあ、ガルマ様は旗なの?」
ガルマは答えに困った。
「比喩としては、そういうことになるのかもしれません」
「旗なら、飾るところがいるね」
ハマーンが小さくため息をついた。
「セラーナ。今はそういう話ではありません」
「でも、旗って言ったのはガルマ様だよ」
マレーネが、静かに微笑んだ。
「では、まず写真を撮りましょう。旗は、人に見られて初めて旗になりますから」
ガルマは少しだけ表情を固くした。
「……それも政治ですか」
マレーネは即答した。
「もちろんです」
セラーナが少し身を乗り出す。
「ねえ、ガルマ様って、毎朝その髪なの?」
ガルマは一瞬、返事を忘れた。
ハマーンが真面目な顔で言う。
「ザビ家の方は、朝から大変なのですね」
マレーネが二人をたしなめる。
「ハマーン、セラーナ」
ガルマは、少しだけ困ったように笑った。
「慣れる努力をします」
マハラジャは、その様子を黙って見ていた。
ガルマは、カーン家に受け入れられた。
重い政治の名目と、三姉妹に振り回される日常を、同時に渡されて。
―――――
ドズル・ザビが家へ戻ると、ミネバが小さな手を伸ばした。
部屋にはゼナがいた。
軍の報告書も、艦隊の配置図も、ここには置かれていない。あるのは、ミネバの小さな寝具と、柔らかい布と、子ども用の食器だった。
ドズルは戸口で立ち止まった。
「ガハハ……帰ったぞ」
ゼナがすぐに言う。
「声が大きいです」
「すまん」
ドズルは声を落としたつもりだったが、まだ大きかった。
ミネバが笑った。
それだけで、ドズルの顔が崩れた。
彼は恐る恐るミネバを抱き上げる。
大きな手に、小さな体が収まる。
ゼナが言った。
「もっと静かに」
「これでも静かにしている」
「まだ大きいです」
ドズルは困った顔をした。
だが、ミネバは父の胸元で手を動かしていた。
戦場では、ドズルは大きいことを恐れなかった。
この部屋では、自分の大きさを少し怖がっていた。
それが、彼の帰る場所だった。
―――――
サイド3総帥府の作戦会議室には、朝から書類が並んでいた。
食糧備蓄。
航路表。
ガルマのカーン家入り報告。
サイド7黒猫便の運航表。
ミネバ保護制度案。
戦勝の勲章よりも、地味な紙と端末の表示が多かった。
報告官が言った。
「ガルマ様、カーン家到着。マハラジャ・カーン氏との面会を終えられました」
キシリアが端末を見て、少しだけ口元を動かした。
「三姉妹のおもちゃにされるでしょうね」
ギレンは表情を変えない。
「それでよい。人に囲まれて扱われる経験が、あれには必要だ」
「後継候補を玩具にするの?」
「玩具にされても壊れぬ者でなければ、旗にはなれん」
キシリアは兄を見た。
「ひどい兄ね」
「優しい兄では国は残らん」
「そういうところよ、兄上」
ギレンは返事をしなかった。
画面には、サイド7から月へ向かう黒猫便の予定も表示されていた。
エドワウ・マス。
調整者。
ジオン公国の外側で、宇宙の流れを結び直している男。
ギレンは、その名前を見ながら、ガルマをカーン家へ出した判断をもう一度確認していた。
キャスバルは大きすぎる。
ガルマは、まだ軽い。
軽いから、橋になれる。
橋は撃たれる。
だからこそ、橋を守る制度が要る。
―――――
月面のアナハイム・エレクトロニクス社、材料試験施設では、サイド7から届いた試験片が炉へ入れられていた。
技術者が試験温度を確認する。
幹部がガラス越しにその様子を見ていた。
「黒猫が航路を作るなら、我々はその先に工場を置く」
技術者が聞く。
「主導権は?」
幹部は少し笑った。
「儲けながら取り戻す。敵に回すより、便に乗る方が早い」
試験炉の中で、装甲材の表面が赤く光った。
データは黒猫便でサイド7へ戻る。
アナハイムは儲ける。
だが、市場そのものを誰が作っているのかは、もう無視できなかった。
―――――
ビスト財団の古い部屋で、サイアム・ビストは黒猫便の運航表を見ていた。
サイド7。
地球。
月。
サイド3。
各サイド。
細い線がいくつも引かれている。線の上には、医療品、建材、学校教材、材料試料、避難者家族といった文字が並んでいた。
サイアムはしばらく黙っていた。
それから、低く呟く。
「ダイクンの血が、今度は演説ではなく荷を運んでいる」
部屋にいた者は、誰も返事をしなかった。
サイアムは、ほんの少しだけ笑った。
「悪くない」
箱を開けずに、世界が少しずつ動いている。
それが続くかどうかは、まだ分からない。
だが、見届ける価値はあった。
―――――
サイド2の港湾では、医療品のコンテナが下ろされていた。
医師が伝票を確認する。
「この薬が来れば、手術を延期しなくて済む」
サイド4では、建材の箱が積み替えられている。
作業員が黒猫のタグを見て頷いた。
「黒猫便か。なら今日中に降ろせるな」
サイド5では、学校教材のケースを教師が受け取っていた。
「教材が届いたわ。来週から実習ができる」
別の港では、避難者の家族が窓口に詰め寄っていた。
「家族便は?」
黒猫職員が端末を見て答える。
「午後の便です。遅れても来ます」
避難者は、息を吐いた。
「黒猫なら届く」
その言葉は、いつの間にか各サイドで使われるようになっていた。
黒猫の印は、軍旗ではない。
けれど、その印が付いた箱や便名を見ると、人は少しだけ待てるようになった。
―――――
夜、サイド7のエドワウの家には、簡単な食事が並んでいた。
ミライは端末を閉じた。
エドワウはまだ別の端末を開こうとして、ミライに止められた。
「今は食事」
「確認だけです」
「食事」
エドワウは端末を置いた。
セイラが飲み物を配っている。アムロは椅子に座り、少し遠くで聞こえるカミーユとファの声に白い目を向けていた。
ララァの妹と弟は、部屋の奥で荷物を広げている。
弟は黒猫の小さなタグを眺め、妹は棚の上に置かれたカップを見ていた。
ララァは二人を見ながら、にこにこしている。
「今日は、誰も呼ばない声がしないわ」
アムロが聞いた。
「呼ばない声?」
「戦場へ来いっていう声。急げっていう声。撃てっていう声」
妹と弟が部屋の奥で笑っている。
ララァはそれを見た。
「今日は、ただいまって声だけ」
アムロは何も言えなかった。
セイラが静かに言った。
「それなら、いい夜ね」
ミライが苦笑する。
「明日の便も多いけれど」
エドワウが言った。
「そこは言わなくてもいい」
「言わないと、あなたはまた予定を詰めるもの」
アムロがエドワウを見る。
「調整者も大変だな」
「その呼び方はやめろ」
ララァが笑った。
「でも、みんな笑っているわ」
エドワウは返事をしなかった。
家の中に、食器の音と、子どもたちの小さな笑い声があった。
戦争の話は、その夜の食卓では長く続かなかった。
―――――
ズムシティの朝は、人工太陽の光で始まった。
総帥府の窓には、まだ夜勤明けの灯が残っている。港湾区から上がってくる貨物便の報告、サイド7から届いた黒猫便の運航表、月面試験炉へ送る材料試料の一覧。
ギレンの机の上には、戦勝記録よりも、食糧備蓄、空調部品、学校予算、ガルマのカーン家報告、ミネバ保護制度案が多く積まれていた。
ギレンは、それを見ていた。
扉が開いた。
キシリアが入ってくる。
ギレンは一瞬だけ、キシリアの手元を見た。
銃はない。
キシリアは、その視線に気づいた。
「兄上。まだ私の手元を見るのね」
「習慣だ」
「悪い習慣ね」
「お前相手には、実用的な習慣だ」
キシリアは少しだけ笑った。
昔なら、その笑みの下に何を隠しているかを考えた。
今も考えないわけではない。
ただ、すぐに撃たれるとは思わなくなった。
それだけでも、随分な変化だった。
「サイド7からの報告は?」
「見た。黒猫便は増える。エドワウ・マスは、ますますジオン公国の器には収まらん」
「調整者、だったかしら」
「誰が言い出したのか知らんが、嫌な名だ」
「似合っているわ」
「本人も嫌がっているだろう」
「兄上と同じね」
ギレンは返事をしなかった。
キシリアは机の上のガルマの報告へ目を移す。
「ガルマは、カーン家で遊ばれているようね」
「遊ばれているうちは、見られているということだ」
「見られることも、役目のうち?」
「ガルマには、それができる」
キシリアは報告書を置いた。
「兄上にはできないわね」
「私が笑って写真に収まっても、誰も安心せん」
「でしょうね」
キシリアは少しだけ笑った。
ギレンは、笑わなかった。
「だから、ガルマを出す。私では開かない扉がある」
「認めるのね」
「認めなければ、また同じ所で詰まる」
キシリアは窓の外を見た。
ズムシティの港湾灯が、人工朝焼けの中で少しずつ薄れていく。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、キシリアが静かに言った。
「今日は、撃たないわ」
ギレンは顔を上げた。
「それはありがたい」
「兄上は?」
「撃たれなければ撃たん」
「最低限の合意ね」
「ああ」
ギレンは机の上を見る。
食糧。
空調。
水。
輸送便。
学校。
研究区画。
装甲材。
避難者名簿。
家族の移送。
演説よりも地味なものばかりだった。
だが、国家も家族も、そういうものが途切れた時に壊れる。
歴史が完全に変わったとは思わない。
敵は残り、火種も残り、人はまだ簡単に愚かになる。
それでも、妹に撃たれない朝は来た。
ギレンはその朝を、もう一日だけ続けるために、次の書類へ手を伸ばした。