妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第23話 説明のつかないものは先に名前を持たない

説明のつかないものは、たいてい最初から大きな名前を持たない。

 

最初はただの嫌な感じだ。何となく胸がざわついたとか、妙に寒気がしたとか、誰かの足音が来る前に気配がわかったとか、その程度の言い方でしか現れない。人はそれを勘と呼び、偶然と呼び、気のせいと呼ぶ。呼び方はどうでもいい。どうせ後になって、誰かがもっと大きな名前を貼りつける。問題はその前だ。まだ呼び名を持たないものを、誰が先に拾うか。国家というものは、案外そういうところで後年の姿勢を決める。

 

その朝、父は弁当の蓋について本気で不満を述べていた。

 

食堂へ入った時点で、私は少し嫌な予感がしていた。頭頂部にはいつものように穏やかな希望の気配があったし、グレイトグロウはどうやら継続使用の段階に入っているらしかった。家の中の誰も正面からは触れないが、全員が知っている。最近の父は鏡の前で数秒だけ立ち止まるようになった。元首の数秒というのは、本来もっと別のところへ使われるべきだと思うが、人は国より自分の頭皮に先に住んでいる。そこは責めても仕方がない。

 

「ギレン」と父が言った。「共同防災訓練は悪くなかった」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、弁当の蓋は良くない」

 

私は席につきながら父を見た。ドズルが露骨に顔をしかめ、キシリアは目を伏せた。笑いを飲み込んでいる。ガルマだけが本気で興味を持った顔をしていた。あの年齢の子どもは、国家より弁当の方を信じる。

 

「蓋ですか」と私は言った。

 

「開けにくい。年寄りに優しくない」

 

「父上が開けたのですか」

 

「秘書に試させた」

 

「それで」

 

「二度失敗した」

 

私はコーヒーを飲んだ。朝のコーヒーはだいたい、家族の正気を保つための薄い壁みたいなものだ。

 

「訓練で問題になるのはそこではありません」

 

「違う」と父は言った。「そういうところだ。いざという時、人は最初に蓋に腹を立てる。腹を立てたまま警報を聞けば、判断が遅れる」

 

ドズルが短く鼻を鳴らした。 「言ってることはわかるが、ずいぶん細かいな」

 

「細かいところで死ぬ」と父は言った。

 

ガルマが小さく訊いた。 「今日は弁当、出るの?」

 

ドズルが吹き出した。キシリアは肩を震わせた。父だけが真顔でうなずいた。

 

「出る。だが蓋は改良させる」

 

「そこまで引きずるんですか」と私は言った。

 

「お前は朝から人の死ぬ位置を言い当てる。私は弁当の蓋くらい気にしていいはずだ」

 

その反論は妙に強かった。最近の父は、グレイトグロウのせいか妙なところで言葉が回る。育毛剤は毛髪より先に弁舌へ効くのかもしれない。

 

キシリアがそこで口を開いた。 「弁当の蓋に優しい国は、案外長持ちするかもしれないわね」

 

「お前は最近、父上の頭頂部と弁当に対してだけ妙に思慮深いな」と私は言った。

 

「国家は身だしなみと昼食でできているのよ」

 

「その定義は信用ならん」

 

「兄上の定義よりは、人が死ななさそう」

 

私は妹を見た。あの女は本当に、短い言葉で人の防御を削るのがうまい。腹が立つが事実だ。

 

食後すぐ、キシリアから呼び出しがあった。珍しく、私の執務室ではなく情報局側の小会議室だった。あの女が場所を指定する時は、見せたいものがある時だ。そして見せたいものの大半は、ろくでもない。

 

部屋へ入ると、キシリアは窓際に立っていた。その横にシンシアがいる。机の上には紙の束が三山。どれも医療記録というほど整っていない。報告、聞き書き、検査票の断片、現場責任者のメモ、私的書簡の写し。まともな官僚なら眉をひそめる種類の資料だった。

 

「兄上」とキシリアが言った。「面白いものがあるの」

 

「お前のその言い方で始まるものはたいてい面白くない」

 

「そうね。でも今回は、少なくとも退屈ではないわ」

 

私は席につかなかった。紙の束を一瞥した時点で、中身の匂いはだいたいわかった。事故を避けた作業員。検査前に正解を言い当てる子ども。戦場ではないのに、見えないはずのものを避ける兵士。まだ名前はない。だが、前世の記憶を持つ者にとっては、こういう断片は妙に重い。

 

「シンシア」と私は言った。「説明しろ」

 

彼女は一枚目を取り上げた。 「サイド2の搬送区画で、積荷の固定が外れる数秒前に、作業員が『嫌な感じがした』と進路を変えています。結果として事故を回避」

 

二枚目。 「サイド4の工業区画。定期検査前に、少年が配線不良の箇所を指さして言い当てています。理屈の説明はできていません」

 

三枚目。 「月面の倉庫管理補助。まだ音も振動もない時点で、設備停止を予見したような動きを示しています」

 

私は黙って紙を見た。キシリアは腕を組んだまま私を見ている。あの女はこういう時、本当に猫に似ている。玩具で遊んでいるのではない。動く前の小動物を見ている目だ。

 

「怪談か」と私は言った。

 

「分類前の情報よ」とキシリアは答えた。

 

「同じことだ」

 

「違うわ。怪談は、話したいから話すの。情報は、持っていたいから集める」

 

「何がしたい」

 

「まだ決めてない。だから集めてるの」

 

私は紙を一枚戻した。 「決める前に集めるのは危険だ」

 

「兄上も似たようなものじゃない。サイド4の研究者名簿だって、まだ決めてないでしょう」

 

私は一瞬だけ黙った。シンシアの視線がわずかに動いた。情報局というのは本当に嫌な場所だ。人の机の上の沈黙まで記録に取りそうな顔をしている。

 

「どこまで知っている」と私は言った。

 

「少し」とキシリア。「でも、兄上の方がたぶん多い」

 

その言い方が気に入らなかった。気に入らないのは、当たっているからだ。

 

「遊び半分で触るな」と私は言った。

 

「遊んでないわ」

 

「そうか」

 

「兄上こそ、知ってる顔をして知らないふりをしてる」

 

私はそこでやっと椅子に座った。疲れていたのだと思う。こういう話を立ったまますると、余計に血が上がる。

 

「何が欲しい」と私は訊いた。

 

キシリアは少しだけ考えた。珍しかった。彼女はたいてい考える前に言葉を出す。そう見せかけて、実際にはかなり速く考えているだけなのだが。

 

「分類」と彼女は言った。「まずはそれ。病気なのか、勘なのか、偶然なのか、それとも別のものなのか」

 

「誰にやらせる」

 

キシリアはその問いにすぐ答えなかった。少しだけ口元をゆるめた。からかっている時の顔ではない。古い毒を確かめる時の顔だ。

 

「兄上も覚えているでしょう」と彼女は言った。 「最初は何も言い切らない。先に切って、残ったものだけ拾う人」

 

私はそこでようやく、彼女が最初からその名前を頭に置いていたのだと知った。

 

「そうか」と私は言った。

 

「そうよ」とキシリア。 「前と同じ。最初は慎重。慎重なくせに、いちばん危ないところだけはよく見えてる」

 

私は紙の上に指を置いた。そうだった。あの男は最初からそうだった。信じるより先に切る。熱狂するより先に並べる。人間の心ではなく、反応の型を見る。医者というより分類者に近い男だった。

 

「まだ名前は出したくない」とキシリアが言った。「でも、人を見る目が変な人がいる」

 

「医者か」

 

「医者というより、変な医者」

 

「それはだいたい危険だな」

 

「兄上も前に使った時、同じことを思ったはずよ」

 

私はそれには答えなかった。前世の記憶を持つ者にとって、最初の危険と後の必然は時々区別がつかなくなる。そこがいちばん厄介だ。

 

シンシアがそこで、控えめに口を挟んだ。 「この段階では、まだ報告書の束です。ですが、放置すると散逸します」

 

「散逸は困るな」と私は言った。

 

「ええ」とキシリア。「だから私は拾ってる」

 

私は妹を見た。彼女は本気だった。本気だからこそ危ない。本気のキシリアは、遊び半分のキシリアよりずっと扱いにくい。

 

「好きにしろ」と私は言った。

 

キシリアの眉がわずかに動いた。 「止めないの?」

 

「止める理由があるなら、もっと前に止めている」

 

「へえ」

 

「ただし条件がある。名前を大きくしない。研究所のような形にしない。人を集める前に、先に分類だけやれ」

 

「ずいぶん優しいのね」

 

「優しくはない。この段階で形を持たせると、あとで壊すのが面倒になる」

 

キシリアは少しだけ笑った。 「兄上らしい」

 

「お前に言われたくない」

 

「褒めてるのよ」

 

「それが嫌だ」

 

部屋を出る時、ふと古い家族写真のことが頭をよぎった。一人分、空いているように感じる位置。だが私はそこへ意識を伸ばさなかった。今はまだ、その穴をじっと見つめるべきではない。穴というものは見つめると形を持つ。形を持つと、説明したくなる。まだその段階ではなかった。

 

自室へ戻ると、セシリアが茶を持ってきた。今日は軽めだと言った通り、香りも色も昨日より薄い。その代わり、小さな箱が盆の端に乗っていた。

 

「何だ、それは」と私は訊いた。

 

「軽食です」

 

「見ればわかる」

 

「日本式に寄せました」

 

私は箱を開けた。米の塊が三つ。中身はそれぞれ違うらしい。

 

「おにぎりか」

 

「はい」

 

「なぜ今これを」

 

「閣下が疲れておられるので」

 

「それは昨日も聞いた」

 

「昨日は弁当の話でした。今日は少し実践です」

 

私は一つ持ち上げた。形はあまり良くなかった。日本なら店頭に並ばないだろう。だが、不思議と悪い気はしない。人の手で急いで作った形がしていた。

 

「お前が作ったのか」

 

「一部は」

 

「一部とは」

 

「握るところまでは私です。中身の塩加減は台所です」

 

「ずいぶん正直だな」

 

「誤認されると後で困りますので」

 

私は少し笑った。彼女は本当に、こういうところが抜け目ない。

 

一口食べると、悪くなかった。完璧ではない。だが、疲れている人間には十分に優しい味だった。

 

「日本は好きです」とセシリアが言った。珍しく、私が何も言わないうちに。

 

「前は余白が好きと言っていたな」

 

「はい。今日もそうです」

 

「おにぎりにも余白を見出すのか」

 

「ええ」と彼女は言った。「弁当ほど全部を整えない。少し粗い。その分、人の手が見える」

 

私はおにぎりをもう一つ取った。 「国家にも向くか」

 

「たぶん、弁当よりは向きません」

 

「なぜ」

 

「弁当は計画です。おにぎりは応急です。今のサイド3には、両方必要でしょうけれど」

 

私はそれを聞いて、少しだけ感心した。セシリア・アイリーンという女は、やはり疲れている時の方がよく喋るのかもしれない。人間は案外、余力のある時には本音へ行かない。

 

「キシリアが妙なものを集め始めた」と私は言った。

 

彼女は即座に表情を変えなかった。だが、湯呑みを置く位置が一ミリだけずれた。それで十分だった。

 

「説明のつかない事例、ですか」

 

「知っていたのか」

 

「推測です。最近、シンシアが情報局の旧記録をいつもより多く引いています」

 

「お前たちは本当に、互いの机の上をよく見ているな」

 

「見なければ困りますので」

 

私は少し黙った。おにぎりは悪くない。茶も軽い。疲れているせいか、部屋の中の空気がいつもより少しだけ柔らかかった。

 

「どう思う」と私は訊いた。

 

「何についてでしょう」

 

「説明のつかないものを、国家が先に拾うことについてだ」

 

セシリアは考えた。すぐには答えなかった。それが良かった。こういう問いに即答する人間は、たいてい自分の答えを先に用意している。

 

「拾うこと自体は」と彼女は言った。「避けられないと思います。拾わなければ、別の誰かが拾うだけです」

 

「その先は」

 

「名前をつけるのが早すぎると危険です」

 

私は小さくうなずいた。やはりこの女は、こういう時にきちんと正しい。

 

「キシリアと同じことを言うな」

 

「同じですか」

 

「分類から始めるそうだ」

 

「それは賢明です」

 

「お前まで褒めるのか」

 

「褒めてはおりません。危険の順番が正しいと言っているだけです」

 

私はそこで少しだけ笑った。危険の順番が正しい。なんともひどい褒め言葉だ。だが今の私には、そういう言葉の方がよく効く。

 

「閣下」とセシリアが言った。「一つだけ、私からも条件をつけてよろしいでしょうか」

 

「言え」

 

「キシリア様に、あまり楽しませないことです」

 

私は思わず顔を上げた。 「楽しませる?」

 

「はい。説明のつかないものは、人を強く惹きます。特に、自分で説明をつけたいと思う人には」

 

私はおにぎりを置いた。その言い方は鋭かった。そして妙に、セシリアらしい配慮でもあった。キシリアを止めろではなく、楽しませすぎるな。そういう言葉の選び方をする。

 

「お前は」と私は言った。「最近、少し踏み込むな」

 

「最近、閣下が少し踏み込ませるので」

 

私は何も言えなかった。たぶんそれも事実だった。

 

夕方、港湾から報告が来た。若い作業員が、巡回中に「嫌な感じがした」と言って導線を変え、その直後に仮設電源の端子が焼けた。前日と似た種類の小さな事故だ。だが、二度続くと偶然は少しだけ面倒になる。私はその報告を見て、キシリアへ回すかどうか一瞬迷った。そして結局回した。止める理由はまだない。だが、そのこと自体が少し不安でもあった。

 

夜、キシリアが再び来た。

ノックは一度だけ。

やはり用事のある扉だ。

 

「兄上」と彼女は言った。「報告、見たわ」

 

「だろうな」

 

「彼、使える」

 

「それはまだ早い判断だ」

 

「でも間違ってない」

 

私は椅子にもたれた。疲れている時のキシリアは妙に率直だ。率直なあの女は、いつもより少しだけ危ない。

 

「会わせたい症例がもう一つある」と彼女は言った。

 

「港湾の作業員か」

 

「ええ。それと、もう一人。月面側の倉庫補助」

 

私は少し考えた。 「早いな」

 

「兄上が止めないから」

 

「好きにしろ。ただしまだ、何も始めるな」

 

「わかってる」とキシリアは言った。「まだ前と同じ箱は作らない」

 

私はその言葉にだけ、すぐには返せなかった。

前と同じ箱。

それは比喩としては軽い。

だが、中身は軽くない。

フラナガンを置く箱。

才能と異常を同じ棚へ並べる箱。

前世で私とキシリアが、それぞれ別の形で使った箱だ。

 

彼女はそこで扉へ向かった。

だが出る前に一度だけ振り返った。

その横顔には、いつもの軽さが少しだけ消えていた。

 

「兄上」

 

「何だ」

 

「前と同じに使うつもりなら、やめた方がいいわ」

 

それだけ言って、キシリアは出ていった。

 

部屋に残った静けさの中で、私は茶の冷めかけた香りを嗅いでいた。説明のつかないものは厄介だ。だが、それ以上に厄介なのは、それを最初から信じすぎない人間の方かもしれなかった。前世で私はその便利さを知っている。キシリアも同じだ。だからこそ、今世では少しだけ手が止まる。

 

窓の外では、サイド3の人工夜が静かに回っていた。

まだ公国ではない。

まだ独立もしていない。

だが橋は増え、若い実務者は同じ弁当を食べ、港では二度続けて「嫌な感じ」が事故を避け、こちら側には、説明のつかないものを分類したがる危険な男がついた。

 

フラナガン博士。

 

その名を、私はもう一度だけ胸の内で呼んだ。

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