妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第27話 守れた事故

もうすぐアレが起きる。

 

そう思っても、胸が痛むわけではない。私はそういう男ではない。人死には数字になる。数字は責任になる。責任は政治になる。国家を作る側の人間に必要なのは、傷む心ではなく、起きたことをどの順番で使うかの判断だ。

 

ただし、無意味な死は嫌いだった。

 

死ぬなら意味を持て。少なくとも残る側にとって意味を持て。雑に壊れ、雑に死に、雑に泣かれて終わる被害は、国家の材料として質が悪い。だから私は、来ると知っている事故を消そうとは思わない代わりに、使える規模まで削ることだけはやる。そこに感傷はない。必要だけがある。

 

その日は執務室ではなく、食糧プラント付属の統合管理室にいた。

 

名目は、防災訓練後の運用確認視察。最近押し込んだ手順改定が、現場で本当に機能するかを見るための立ち会いである。区画封鎖権限をどこまで下へ降ろしたか。救助班の待機位置が妥当か。搬送路の優先順位が現実の動線に合っているか。そういう話なら、総帥府から人間が一人来ていても不自然ではない。

 

統合管理室は思ったより狭かった。広さより、見えるものの数で場所の性格は決まる。正面の壁一面に、食糧プラントの立体模式図。第一から第六までの農業ブロック、搬送ブロック、養液循環ブロック、補助電力系、人員通路、気密隔壁。右側には外殻センサーと圧力値。左側には監視映像。上端を細く走るのが連邦監視ステーションからの公式警報線。まだ沈黙していた。

 

私はその沈黙を見ていた。

 

セシリア・アイリーンが水を置いた。今日は最初から茶ではない。こういう日は香りより喉を通るものの方が役に立つ。

 

「各区画、朝の巡回は終了しています」 「異常は」 「今のところありません」

 

今のところ、という言い方だけが正しい。彼女は最近、私がどういう日にどんな言葉を欲しがらないかを覚え始めていた。よくない傾向だ。だが便利でもある。

 

オペレーターの乾いた声が、方々の報告を読み上げる。

 

「第一農業ブロック、朝の巡回終了。異常なし」 「第四搬送ブロック、補修班移動完了」 「主備蓄区画、封鎖系統正常」 「救助班第二待機線、配置完了」 「第三農業ブロック、補助照明交換作業終了」

 

全部、予定どおりだ。全部、平常に見える。壊れるものは壊れる直前まで平常に見える。だから厄介なのだ。

 

端末の片隅に、キシリアから短い文が入った。

 

監視ステーション、当直交代直後。第二監視線で確認遅延。内部で責任の押しつけ合い。

 

それだけだった。

 

十分だった。

 

私は返した。

 

正式警報を待つ。プラント側局所異常を優先。記録確保継続。

 

兄妹の文面は昔から短い。短い方がいい。知っている者同士が長く書き始めると、そこに余計な感情が混じる。感情は命令を遅くする。遅い命令は人を殺す。

 

「第三農業ブロックの映像と音声を前へ」と私は言った。

 

若いオペレーターが一瞬だけこちらを見た。 「第三、ですか」 「最近補修が多かった。現場の反応を見たい」 「了解です」

 

壁面の一角が切り替わる。第三農業ブロック補助通路。養液搬送ラック。補助員たちの背中。白い照明。何事もない顔で端末を運ぶレオン・マイヤール。平凡な顔、平凡な身体、平凡な動き方。だからこそ目立たない。平凡なのに妙な感覚を持っている人間は、最初は誰にも信じられない。

 

音声も開いた。

 

「また点検かよ」 「最近多いですね」 「訓練のあとだからだ」と班長の声。 「直すのはその後だ」 「面倒くせえな」 「面倒で済むうちが平和なんだよ」

 

悪くない。現場はいつも通り文句を言っている。いつも通りというのは安心材料だ。安心材料は、壊れる直前まで一番役に立つ。

 

その数十秒後、模式図の北面に黄色が走った。

 

「第三農業ブロック北面、微細振動」 「圧力変動わずか」 「搬送路C、照度不安定」

 

オペレーターの声が一段だけ固くなる。まだ警報ではない。だが現場の空気が変わるには十分だ。

 

「第三現場へ」と私は言った。 「局所異常確認。責任者判断を優先」

 

「第三農業ブロック、局所異常確認。責任者判断を優先」

 

現場音声の中で、レオンが顔を上げた。

 

「班長」 「何だ」 「なんか、変です」 「何がだ」 「わからないですけど……空気が」

 

隣の補助員が半笑いで何か言った。聞き取れないが調子だけはわかる。あの種の笑いは、いつも事故の直前で軽い。

 

だが今日は、班長の反応が違った。

 

「全員、壁際から離れろ」 「第三、いったん下げる。搬送路C停止。確認班だけ残れ」

 

「まだ正式警報もないですよ」と若い声。 「だから今のうちに下がるんだ、馬鹿」

 

よし。

 

それでいい。

 

前の歴史なら、ここでもう一往復確認が入っていた。別系統へ照会し、上へ伺い、連邦の正式文を待つ。その数分で人は死ぬ。だから今回こちらがやったのは、事故を知っていると悟られない範囲で、その数分を削るための手順だけを通すことだった。現場責任者が早く閉じられるようにする。それだけでいい。

 

「今、第三へ最短で入れる軍務側は誰だ」と私は言った。

 

別のオペレーターが端末を叩く。 「第四搬送ブロック側です。補給視察中のドズル閣下が最寄り」 「回せ。第三の異常確認支援。正式警報は待つな」 「了解。第四搬送側へ。第三農業ブロック局所異常。確認支援願います」

 

数秒後、太い声が返った。 「ドズルだ。今から行く」

 

それでいい。事故の前からそこにいる必要はない。いてはならない。実際の異常が出てから最寄りの人間が動く。その順番でなければ、後から見て傷になる。

 

衝撃は、その三十秒後に来た。

 

まず鈍い。音というより、施設全体の骨が一瞬だけ撓む感じだ。続いて第三農業ブロック北面の外殻センサーが死に、照明が一列落ち、圧力警報が跳ね、減圧予告が赤く走った。

 

「第三農業ブロック外殻損傷!」 「搬送路C閉鎖!」 「減圧来ます!」 「確認班、二名残り!」

 

現場の悲鳴が音声に混じる。誰かが「閉めるな!」と叫んでいる。別の誰かが人数を数えろと怒鳴っている。警報音、走る足音、金属の擦れる音。管理室の中は静かなままだ。静かだから、余計によく聞こえる。

 

「第三の状況を上げろ」 「北面補助壁損傷。局所減圧。主幹系はまだ生きています。搬送路C側で確認班二名残り」 「救助班を入れろ。二名単位。養液は隣接へ逃がせ。第三は切り離し前提で保全値を出せ」 「了解。救助班二名投入。養液逃がし開始。保全値計算中」

 

現場映像の左端に、ドズルが入った。

 

走っていた。大きい身体で、通路幅いっぱいに。兵を二人引き連れて、第三農業ブロック前の隔壁位置へ飛び込む。現場にいる人間は、あの体格を見るだけで少し従いやすくなる。人間は単純だ。単純で助かることもある。

 

「状況は!」とドズルが怒鳴る。 「確認班二名残り! 一人転倒、一人足部固定!」 「減圧まで十七秒!」 「隔壁閉鎖命令待ち!」

 

「待つな!」とドズルが怒鳴った。 「閉じる準備をしろ! 救助班だけ入れ! 他は下がれ!」

 

「第三ブロック、隔壁閉鎖まで何秒だ」と私は訊いた。 「十三秒です」 「救助班の接触は」 「対象一名接触。もう一名は足部固定」 「延長限界」 「四秒です。それ以上は隣接圧力に影響」

 

私は模式図を見た。第三を延命すると、第四搬送ブロックまで危うい。主備蓄は生きている。全体を取るなら、第三はここで切るしかない。

 

「第三へ。延長四秒。四秒後は閉鎖。全体優先」

 

オペレーターが復唱する。 「第三へ。延長四秒。四秒後は閉鎖。全体優先」

 

現場音声で、ドズルの声が重なった。

 

「聞いたな! 四秒だ! 引っこ抜け!」

 

救助班が一人を肩で引きずり出す。もう一人は足を何かに挟まれていた。映像がぶれる。誰かが床に膝を打つ音。レオンの顔が一瞬だけ映る。壁際で凍ったように立っている。隣の補助員に腕を掴まれて後ろへ引かれている。その目だけが、最初からここへ来ると知っていたみたいに強張っていた。

 

「二秒!」 「まだ足が!」

 

その時、二次爆発が起きた。

 

補助電源か、損傷した搬送端末への火花の飛び込みだろう。映像が白く飛び、音声が一瞬飽和した。管理室の若いオペレーターが反射的に身を引く。警報音の向こうで、人のうめき声が上がる。

 

「映像戻せ」 「戻します!」

 

数秒後、映像が戻った。

 

隔壁前にドズルがいた。左肩から上腕にかけて制服が焦げ、布が裂けている。破片か火炎をまともに受けたらしい。だが立っている。しかも、負傷した腕を庇いながらも、確認班の一人を押し出すように隔壁の外へ送り、もう片方の兵を中から引きずり出していた。

 

「閉じろ!」とドズルがまた怒鳴った。 「全員出た! 閉じろ!」

 

隔壁が落ちる。金属同士が噛み合う重い音。第三農業ブロックはそれで切り離された。そこでようやく、全体が沈まないことが決まった。

 

管理室の空気が初めてわずかに動いた。誰も歓声は上げない。そんな段階ではない。だがオペレーターたちの指が、ほんの少しだけ早くなった。人間は、助かったとわかった瞬間に少しだけ働きやすくなる。

 

「被害概要」と私は言った。

 

「第三農業ブロック北面壊損。局所減圧、区画切り離し完了。主幹系維持。養液逃がし成功。主備蓄区画無事。第四搬送ブロックへの影響軽微」 「死傷者」 「作業交代直後で人員多めです。死亡確認十三。重傷多数。まだ増える可能性」 「本来ならどれくらいまで行った」 若いオペレーターが一瞬固まる。 「……第三ブロック内残留人員と搬送路Cの密度から見て、百人級の可能性が」 「続けろ」

 

数字は冷たい。だから役に立つ。

 

「ドズル閣下、左肩から上腕に熱傷と裂創の可能性」 「意識は」 「あり。現場指揮継続中」

 

悪くない、と私は思った。

 

本人にとっては悪い。だが政治的には悪くない。ドズルは現場で血を流した。命令だけでなく、自分の身体を前へ出して人を引っ張り出した。これでザビ家が事故を利用しているという疑念は薄くなる。少なくとも映像を見た者にはそうだ。ザビ家に対する悪意の一部は、あの男の傷で鈍る。そしてドズル個人への信頼が立つ。

 

「医療班を最優先でドズルへ回すな」と私は言った。

 

オペレーターが目を見開く。 「ですが……」 「最優先は重傷者全体だ。ドズルは意識がある。後でいい。だが映像は押さえろ」

 

それでいい。あの男が自分を後回しにされたと知れば不満は言うだろう。だがその方が、現場の兵にも補助員にも効く。

 

数分後、ドズル本人から通信が入った。

 

「兄貴」

 

声は荒い。だが意識ははっきりしている。

 

「生きてるな」 「生きてる。第三は切った。中の確認終わった」 「人数は」 「今んとこ二十だ。もっと行くと思ったが、間に合った」

 

それで十分だった。本来なら百人級。その八割を救ったなら、使える。

 

「肩は」と私は訊いた。 「うるさい。熱いだけだ」 「医療へ行け」 「先に現場の残り確認だ」 「兄貴の命令だ。行け」 通信の向こうで短い沈黙があった。 「……わかった。だが記録は全部残せ」 「残してある」 「ならいい」

 

その会話はそれで終わった。ドズルは政治を語らない。兄に対しても、弟の荒さのままだ。そこが自然だし、その方が信用できる。

 

キシリアから次の文が来たのは、その直後だった。

 

警告送信遅延確認。交代直後の内部音声あり。責任逃れの文案も確保。

 

私は返した。

 

議会用に回せ。連邦責任の線を固定。

 

死者は最終的に二十。重傷四十七。軽傷六十余り。主備蓄区画無事。主要生産系維持可能。前世で知る形よりずっと小さい。なら十分だ。

 

ベルナルド・ギリアムを管理室へ呼んだのは、その後だった。事故を知っていたわけではない。だが関連会社群の管理運営を預かる男なら、事故、労災、設備停止、搬送障害、配給遅延、そういった危機対応文書の型は持っている。それを国家の声へどう流用するかが問題なだけだ。

 

「型はあります」とギリアムは言った。 「設備事故、搬送障害、労災、配給遅延。関連会社を預かる人間は、そういう文の骨くらいは常に持っています。問題は今回、それをどの顔で出すかです」

 

「自治当局の顔で出せ」と私は言った。 「企業の事故ではない。統治責任の事故だ」

 

ギリアムは一瞬だけ目を細めた。 「承知しました」

 

第一報は、安心を先に打つ文だった。

 

サイド3自治当局は、本日発生した食糧プラント第三農業ブロック損傷事故に対し、直ちに区画封鎖、救助、搬送、系統保全を実施した。主備蓄および他ブロックの生産は維持されている。

 

それでいい。最初に必要なのは怒りではない。安心だ。怒りはその後で育つ。安心は最初の一回しか効かない。

 

第二報は七分後。

 

連邦監視ステーションにおける接近物検知・警告送信の遅延が確認されている。自治当局は住民保護責任の観点から、監視体制の重大な不備について正式な説明を求める。

 

「追補を入れろ」と私は言った。 「何を」 「現場救助において、軍務視察中のドズル・ザビが負傷しつつも退避指揮を継続、と」

 

ギリアムの目が一度だけ細くなった。理解したのだ。ザビ家の顔を事故利用の顔から、現場で血を流す顔へ変える必要を。

 

「やりすぎずに入れます」 「英雄譚にするな。事実の列に混ぜろ」 「承知しました」

 

それでいい。露骨な美談は反発を招く。だが事実の列にドズル・ザビ負傷が入れば、読む者の頭の中で勝手に重みがつく。

 

夜になって父の執務室へ呼ばれた時、父は事故の前を知らない顔で、事故の後だけを見ていた。それでいい。知らないのは当然だ。知っているのは私とキシリアだけでなければならない。

 

「これで済んだか」と父が言った。 「ええ」 「もっと大きく壊れていてもおかしくなかったな」 「ありえました」 父はうなずいた。 「なら差は大きい。守れなかった連邦と、これで済ませたこちらの差だ。しかもドズルが現場で血を流した」

 

私は少しだけ父を見た。やはり、この人は嫌なほど冷静だ。子が怪我をしたことに情がないわけではない。ただ、情と政治の順番を間違えないだけだ。

 

自室へ戻ると、セシリアがいた。今日は水だけを持っていた。正しい。こういう日は香りの方が邪魔だ。

 

「ドズル閣下は」と彼女が言った。 「医療班から、熱傷と裂創。命に別状なし、と」 「そうか」 「現場映像の反応も悪くありません」 私は水を飲んだ。冷たかった。 「守れた」と私は言った。 「十分に」 セシリアは余計なことを言わず、ただうなずいた。前世を知らないこの女は、今起きたことだけを正しい温度で置く。それがありがたい日もある。

 

夜更けにキシリアが来た。ノックは一度だけ。

 

「見たわ」と彼女は言った。 「何をだ」 「全部よ。死者二十、重傷四十七、監視ステーションの遅れ、ドズルの肩、ギリアムの文」

 

私は机の上の紙を見た。事故報告。遅延記録。広報草案。議会向け文案。悲劇はその日のうちに政治の形へ変わる。人はそれを汚いと呼ぶ。だが国家は、たいていこういう汚さの上でしか立たない。

 

「ドズルは効くわね」とキシリアが言った。 「そうだな」 「ザビ家への悪意が少し鈍る。代わりに、あの男個人への信頼が立つ」 「よく見てるな」 「兄上と違って、私は人の悪意の向きで測るから」

 

私は少しだけ笑った。そこは本当だろう。

 

「今度は言葉で仕留める番よ」とキシリアは言った。

 

その通りだった。事故そのものは終わった。ここから先は、その事故が何を意味するかの争いになる。そしてその争いは、もう始まっている。

 

「議会だ」と私は言った。

 

キシリアはうなずいた。 「ええ。器が夢じゃないって、皆もう知ってしまったもの」

 

それだけ言って、彼女は出ていった。

 

私は一番上の被害報告を、もう一度だけ見た。

 

本来なら百人。

今回は二十。

ドズルは生きている。

連邦は防げず、こちらは守った。

なら十分だ。

 

窓の外では、サイド3の人工夜が静かに回っていた。

まだ公国ではない。

まだ名前はついていない。

だが、器の必要だけは、もう誰にも消せなかった。

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