怒りは、最初から政治の顔をして現れるわけではない。
市場の列で前の人間が振り返りもせずに言う。港の作業員が煙草を咥えたまま吐き捨てる。搬送区画の隅で、配給票を折る手が一度だけ止まる。誰も最初から国号を口にしない。憲章も制度も言わない。ただ、同じ言葉だけが増えていく。
連邦は守れなかった。 こちらは守った。 それなのに、こちらにはまだ守るだけの名がない。
ズムシティの朝は、その日だけ少し乾いていた。
首都の中央議事堂へ続く大通りは、ふだんより人の足が遅い。急いでいるように見えて、誰も本当に先へ進みたがっていない。広場の噴水はいつも通り水を上げ、街路灯は消え、商店は開き始めている。景色は平常だ。だが平常の中に、人だけが少し固い。食糧プラント事故のあと、人は皆、物事が壊れる前の静かな顔を信用しなくなっていた。
ムンゾ自治共和国議会の議事堂は、そのズムシティの中央にあった。
議会の名前はまだ古い。だが窓の外に見える街はもう、ただの旧来の名では収まりきらない大きさを持っている。ジオンの名を地に刻んだこの都市を、人はもう自然にズムシティと呼ぶ。政治はまだ追いついていないが、街の方が先に名前を選んでしまっていることはよくある。
セシリアが半歩後ろで言った。 「反対派は、解散そのものより、時期尚早を言い立てる構えです」
「当然だ」
「ですが、事故のあとでは、強くは出にくいかと」
「強く出る必要はない。遅いと言わせれば十分だ」
セシリアはそれ以上言わなかった。最近の彼女は、私の返事の長さで、その日どこまで踏み込んでいいかを測るようになっている。賢い。賢いが、それを自覚していないふりも上手い。
議場へ入ると、目線が一斉に動いた。
父は既に着いていた。デギン・ソド・ザビ。今のこの場ではまだ、ムンゾ自治共和国の中枢にいる政治家でしかない。だが、あの椅子へ座った時の重みは、椅子の名前より先に人へ伝わる。あの人はそういう種類の人間だった。
キシリアは議員席の流れを見ている。誰が誰の方を向いたか、誰が誰へ先に囁いたか、そういうものを数えている顔だ。あの女は発言より先に視線の流れで敵味方を決める。
ドズルはまだ包帯姿だった。肩から上腕に巻かれた白が目立つ。顔の左には、もう隠しようのない傷がある。前世と同じ傷だ。違う経緯で辿り着いたように見えて、結局そこへ戻ってくる。あの男は衣服の上からでも怪我をしていることがよく見える。たぶん隠す気がないのだろう。それでいい。今はその方が役に立つ。
ガルマもいた。末席に近い位置で背筋を伸ばしている。まだこの空間の重みを十分には知らない顔だ。ただ、兄たちが前へ出る時に自分もきちんと座っているべきだ、くらいのことはわかっている。子どもとしてはそれで十分だった。
開会の手続きが終わると、ざわめきが一度落ちた。
私は立った。
最初から長く話すつもりはなかった。長い前置きは、聞く側に逃げる時間を与える。今日は逃がさない方がいい。
「諸君」と私は言った。 「本議会は、数日前の食糧プラント事故をただの施設事故として処理することもできる。連邦の監視遅延に抗議し、遺族へ弔意を示し、再発防止を求め、それで終わることもできる」
静かだった。皆、続きを待っている。
「だが、それでは足りない」
そこで何人かが姿勢を変えた。反対派ほど、次に来る言葉を身構える。
「問題は事故そのものではない。問題は、誰が住民を守る責任を持ち、誰がその責任に見合う権限を持っているか、その二つが今の体制では分離していることだ。守る責任だけを押しつけられ、守るための器を与えられていない。今回、死んだ二十名は、その空白の中で死んだ」
議場の右手から声が飛んだ。 「政治利用だ!」
私はそちらを見た。 「政治利用ではない。政治そのものだ。人が二十人死んだ時に、それを誰の責任かと問うことを政治利用と言うなら、諸君は政治に向いていない」
ざわめきが少し広がる。怒りではない。押し切られた時のざわめきだ。
「本議会は、住民を守る器としては不完全である。権限は連邦へ、責任だけはこちらへある。このままでは、次の死者もまた同じ空白の中へ落ちる。ゆえに私は提案する」
一拍置いた。
「ムンゾ自治共和国議会を解散する」
今度はざわめきが大きかった。予想していても、実際に言葉として出ると人は少しだけ取り乱す。議員の何人かは立ちかけ、別の何人かは逆に動かない。動いた方がよいのか、動かない方が格好がつくのか、まだ判断しきれていないのだろう。
「事故一つで議会を壊す気か!」と左手から別の声が飛んだ。
「違う」と私は言った。 「住民を守れない議会を延命しないだけだ」
「独裁だ!」
「独裁と呼びたいなら呼べ。だが、責任も権限も持たぬ議会を維持することを民主と呼ぶなら、その民主は二十人を守れなかった」
反対の声は出る。だが、強く続かない。事故後の空気が、まだ議場の壁にも残っている。ドズルの包帯と顔の傷が議員たちの目に入る。現場へ行っていない連中ほど、あの傷に弱い。自分たちは議場で怒鳴っていただけだという事実を、他人の包帯が思い出させるからだ。
父は最後まで黙って聞いていた。やがて、立ち上がりもせずに言った。
「議会解散案について、採決を取る」
短かった。だが、それで十分だった。あの人がこの場で何を通す気かは、その短さで伝わる。
採決は通った。
僅差ではない。反対は残った。だが残ったというだけで、止めるには足りなかった。議場にいた連中も、それはわかっていたのだろう。だから反対の声は出ても、反対の熱までは続かなかった。
議場を出た時、廊下の向こうでガルマが立っていた。
「ギレン兄上」とガルマが言った。 「終わったのですか」
「一つ終わった」
「皆、怒っておられました」
「そうだな」
ガルマは少し考えてから言った。 「でも、広場の方は、さっきより静かです」
私は弟を見た。そこへ気づくかと思った。子どもは時々、分析ではなく空気の変化だけを正確に掴む。
「怒っている時ほど、静かになることがある」と私は言った。
「そういうものですか」
「そういうものだ」
ガルマは納得しきれない顔でうなずいた。今はただ、静かになった広場を見ていれば十分だ。
その後の数日、ズムシティには同じ熱を別々の言葉にした見出しが並び続けた。
ムンゾ自治共和国議会、解散
食糧プラント事故受け「統治責任の空白は限界」
連邦、自治当局の主張に反発
「事故は不可抗力」発言に各区で反発広がる
争点はただ一つ
誰がこのコロニーを守るのか
投票率、過去最高
事故後の連邦不信が各区で鮮明に
ドズル・ザビ負傷なお回復傾向
現場対応を評価する声、各区で拡大
自治共和国再編派、大勢
新体制樹立へ圧倒的多数
デギン・ソド・ザビ、新体制の長に推される
「責任と権限の一致を急ぐべき」
ギレン・ザビ、首相就任へ
組閣と統治機構再編の中心に
国号変更案、可決
サイド3、新たに「ジオン公国」へ
ジオン公国、成立
元首にデギン・ソド・ザビ、首相にギレン・ザビ
見出しが先に走り、街の会話があとからそれを追いかける。市場でも港でも、もう誰も食糧プラント事故だけを話してはいなかった。事故は既に、国の形を決めるための名前になっていた。
公国成立の式典は、ズムシティ中央広場に面した大壇上で行われた。
以前よりも少しだけ大げさだった。だが大げささの質が違う。空っぽの誇張ではなく、事故の怒りと喪失を踏んだ上での大きさだ。人は、何も失っていない時より、何かを失った直後の方が新しい旗を欲しがる。
父は前へ出た。デギン・ソド・ザビ。今日からは公王と呼ばれる。そう名乗ることになったからではない。そう呼ばれても違和感のない重さを、事故のあとで皆が見つけたからだ。
私はその半歩後ろに立った。首相。言葉としては軽くも重くもない。だが実際には、これから最も嫌な仕事をする位置だ。制度を整え、敵を切り、味方を使い、国家という名の器に初めて中身を流し込む。器だけならまだきれいだ。中身が入ると、たいてい濁る。
ドズルは包帯姿のまま列席した。肩の包帯はまだ取れず、顔の傷も新しい。だが、隠してはいない。隠さないことそれ自体が、今日の一つの力になっていた。
ガルマも礼服のまま座っていた。年齢に比べて少しだけ緊張した顔だ。だが兄たちを見上げる目だけは、以前より少しだけ真っ直ぐだった。
宣言文は短かった。
連邦の怠慢から住民を守るため。
統治責任と統治権限の分離を終わらせるため。
サイド3は、ここに新たな国号を持つ。
ジオン公国。
その語が公に読まれた時、ズムシティの広場の空気が一度だけ大きく動いた。
歓声だけではない。泣き声も混じる。そういう時、人間は自分が今何に反応しているのか、半分もわかっていない。死者を思って泣いているのか、ようやく責任の形が与えられたことに泣いているのか、自分が何か大きなものの一部になった気がしているのか。全部だろう。全部でいい。
私はその音を聞きながら、紙の上ではなく、現実として国号が定着する瞬間を見ていた。
公国。
紙の上にある時は重かった。現実になると、人は勝手にそこへ意味を入れる。その分、こちらが持つ重さは減る。減った重さの分だけ、次の仕事が増える。
式のあと、部屋へ戻ると、机の上には新しい紙が積まれていた。
公王府の編成。
首相府の権限。
軍務の再整理。
対連邦声明案。
ズムシティ行政区画の再編。
食糧プラント復旧予算。
そして、ミノフスキー博士の研究線保護に関する極秘の一枚。
そういうものだ。国は名が決まった瞬間に忙しくなる。名がない間だけが、少しだけ夢に近い。名を持てば、あとは全部請求書の形で戻ってくる。
セシリアが入ってきて、黙って水を置いた。最近、この女は私が水を必要とする日を外さない。
「公王閣下に、ではなく」と私は言った。 「首相閣下に、とでも言うつもりか」
セシリアはまばたき一つで答えた。 「今まで通りで結構です」
「そうか」
「肩書きが増えるたび、呼び方まで増やしていては仕事が遅れますので」
私は少しだけ笑った。そういう実務的な不敬は嫌いではない。
「今日で終わったと思っている顔ではありませんね」とセシリアが言った。
「終わっていないからな」
「はい」
それだけだった。理解したふりも、祝意も言わない。その方がありがたい。今日から必要なのは祝福ではなく、手順だ。
夜更けにキシリアが来た。ノックは一度だけ。
「おめでとう、と言うべきなのかしら」と彼女は言った。
「気味が悪いからやめろ」
「そう」
彼女は部屋へ入り、机の上の紙を眺めた。 「公国になったわね。ズムシティも、ようやく名に見合う街になった」
「なった」
「でも、兄上の顔はちっとも軽くならない」
「軽くなる理由がない」
キシリアは少しだけ笑った。 「そういうところは好きよ。勝っても浮かれないのね」
「勝っていない」
「ええ。形を取っただけ」 彼女は椅子の背に手を置いたまま続けた。 「でも、今日は皆が同じ夢を見た。事故の怒りと、ドズルの血と、父上の重みと、兄上の言葉でできた、都合のいい夢」
「国家はだいたいそういうものだ」
「知ってる」
少しだけ沈黙があった。
「議会を壊して、公国にした。次は?」とキシリアが言った。
私は机の上の一枚を指で叩いた。極秘扱いの研究保護線。ミノフスキー。あの男が見限らない国家であるために、どこまで軍を抑え、どこまで独立性を許すか。事故の怒りで国は立つ。だが技術の未来で国の形は決まる。
「次は、使える国家にする」と私は言った。
キシリアはそれを聞いて、薄く笑った。 「ようやく本番ね」
それだけ言って、彼女は出ていった。
部屋に残った紙の匂いは乾いていた。事故の煙はもう薄い。だが怒りの熱は、まだ制度の中に残っている。その熱が冷える前に、形を与えなければならない。
窓の外では、ズムシティの人工夜が静かに回っていた。もうムンゾ自治共和国ではない。ジオン公国だった。だが、国号を持っただけでは足りない。持った名に値する中身を作る仕事は、今から始まる。