国家というものは、できたその日から請求書の形で現れる。
祝賀の旗はまだズムシティの通りに残っていた。細い紙片は掃除しきれず、風が吹くたびに歩道の端で音もなく転がる。昨日まで広場を埋めていた歓声の名残が、朝になるとだいたいこういう軽いゴミの姿で見つかるのは皮肉だ。人間は熱狂を終えると、すぐに生活へ戻る。生活へ戻った人間が最初に欲しがるのは、理念ではなく、配給の遅れがないことと、今日も停電しないことと、役所の返事が来ることだ。だから私は好きだ。熱狂の翌朝の方が、前日の歓声よりずっと正直だからだ。
首相府は、朝からすでに正直だった。
部屋へ入った時点で、机の上には昨夜の倍の紙が積まれていた。公王府との権限区分、各区行政の再編、ズムシティ中央行政区の警備強化、食糧プラント第三農業ブロック復旧案、補助備蓄の再分散案、事故遺族補償の算定、連邦への抗議文案、連邦からの最初の照会文、旧ムンゾ自治共和国議会解散に伴う資産と記録の移管、軍務府の再編、警察機構の一本化、港湾税の暫定措置。紙は増えるほどに同じ顔をする。昨日の建国式典など、最初からなかったように。
私は外套を椅子へ投げ、最上段の束を手に取った。
セシリアはもう来ていた。昨夜と同じように、何も言わず水だけを置く。最近この女は、私が水を欲しがる日を外さない。茶ではなく水を選ぶのは、相手が詩ではなく仕事の続きで動いていることをわかっているからだ。ありがたい。少し腹立たしいが、ありがたい。
「徹夜したか」と私は訊いた。
「閣下ほどではありません」
「私ほど、というのは便利な比較だな」
「便利です。だいたいの無理が、その一言で片づきますから」
私は少しだけ笑った。ここのところ、この女は返事の端がわずかに柔らかい。柔らかいが、甘くはならない。甘くなると仕事が遅くなることを知っているからだろう。いや、知っているから残っているのかもしれない。
「ベルナルド・ギリアムは」と私は言った。
「外の待機室です。関連会社群の承認経路を、首相府広報の線へ組み替えた一覧を持っています」 「早い」 「急がせましたので」 「私がか」 「はい」 「お前は時々、嫌味を嫌味でなく言うな」 「受け取る側が嫌味だと感じるなら、それは嫌味です」
悪くない。朝から不機嫌な人間にとって、少しだけ役に立つ会話だった。
ベルナルド・ギリアムは、呼ぶとすぐに入ってきた。いつものように、整いすぎてはいない。きちんとしているが、そのきちんとさ自体を仕事にしていない人間の整い方だ。
「首相閣下」と彼は言った。
「その呼び方はやめろ」
「では、今まで通りに」
「それでいい」
彼は薄くうなずき、資料を机の上へ広げた。 「旧自治共和国の広報承認線は、事故広報の時点で半分ほどこちらへ寄っていました。残りを今朝までに整理しています。住民向け、区役所向け、軍務向け、企業向け、対連邦向けで文体を完全に分けます」
「分ける理由を言え」
「同じ言葉を、全員が同じように信じることはありません。信じる顔だけ合わせます」
「嫌な言い方だな」
「褒め言葉と受け取ります」
この男は、こういう時だけ妙に愛想がない。いや、愛想はある。だがその愛想が完全に仕事の形をしている。だから信用できる。
「お前が外へ出す声は、今日から首相府の声でもある」と私は言った。 「自治当局の弁明ではない。国家の顔として扱え」
ギリアムは少しだけ目を細めた。 「承知しました。では、外へ出す声と、外へ出さない声を今までより厳密に分けます」
「当然だ」
「外へ出さない声の方が増えますが」
「それも当然だ」
ギリアムは資料の一枚を私の前へ滑らせた。連邦から来た最初の照会文だ。文体は薄い。水気がない。人が二十人死んだ後でも、官僚の文章は驚くほど平常を装う。
新体制の法的正統性について重大な疑義がある。国号変更は現行の連邦規程に照らして承認不能であり、事故調査についても共同委員会の設置を要求する。
私は二行読んで紙を閉じた。
「遅い」とだけ言った。
ギリアムは黙っている。余計な相槌を入れないのは賢い。
「事故の時だけ早ければよかった」と私は続けた。 「返答はセシリアに回せ。対外文としては強すぎず、だが侮辱にはならぬ程度に冷たく」
「承知しました」とセシリアが言った。
「住民向けには別だ」と私は言う。 「連邦が認めようが認めまいが、こちらの生活はもうこちらが守る。そこだけを残せ」
「ギリアムに」とセシリア。
「そうだ」
ギリアムは一礼した。 「今日はズムシティ中心部に紙面が集中しています。港湾区と居住区には午後。対連邦の顔は冷やし、住民の熱は冷やさないよう調整します」
「それでいい」
私は次の束を開いた。食糧プラント第三農業ブロックの復旧工程表だ。見るべき箇所は一つではない。何日で壁が塞がるか、ではなく、復旧が終わるまで主備蓄と他ブロックをどう保たせるか。事故は終わらない。終わるのは爆発と悲鳴だけで、そのあとに残る数字の方がずっと長い。
ドアが二度、硬く鳴った。
キシリアだった。
公国成立の翌日だというのに、祝意の欠片も顔にない。そういうところは好きだ。あの女が笑っているときは、たいてい別の誰かが困っている時だ。
「おはよう、首相閣下」とキシリアが言った。
「気味が悪いからやめろ」
「じゃあ兄上でいいわね」
「最初からそうしろ」
彼女はギリアムへ一瞥だけくれてから、机へ数枚の紙を放った。 「旧議会の残り。連邦へ色気を出しそうな連中。公国成立は支持したけれど、いざ権限が再配分されると急に不満を言い出しそうな連中。ドズル人気が面白くない連中。ついでに、自分の票を民意そのものと勘違いしている小物」
「楽しそうだな」
「ええ。最悪」
私は紙を流し見た。見覚えのある名前がいくつかある。事故直後に強く騒がなかった連中だ。強く騒がない者は、たいてい遅れて別の場所で不満を膨らませる。切るなら派手な敵より、そういう湿った連中の方が先だ。
「どうする」と私は訊いた。
「今は切らない」とキシリアが言う。 「もう少し泳がせる。公国成立の熱で勝手に口を滑らせるのを待つ」 「妥当だ」
キシリアは私の机上の復旧案を見て、わずかに鼻を鳴らした。 「まるで会計係ね」
「国家はだいたい会計係だ」 「その言い方、嫌いじゃないわ」
「嫌いじゃない、で済ませるな」
「好きよ」とキシリアは即答した。 「兄上が祝い酒より復旧予算を先に見ているところ」
セシリアがそこで紙を差し出した。 「事故遺族補償の案です。第三ブロック所属と、そこへ応援に入っていた搬送班で額に差が出ます」
私は目を通し、二行だけ修正した。 「差は出すな。同額でいい」
ギリアムが顔を上げる。 「財政上は不利ですが」
「見え方の方が重要だ。死に方で値段を変えると、人はそれだけを覚える」
キシリアが薄く笑った。 「やっぱり兄上は、感傷ではなく嫌なところから人をよく見ているわね」
「国家の仕事だ」
午前の会議が終わる頃には、もう昼に近かった。ズムシティの官庁街は窓越しにも忙しい。新しい旗はまだ鮮やかだが、下で走っている役人の顔はすでに昨日の歓声を忘れている。よい傾向だ。
私は一度だけ席を立った。
「どちらへ」とセシリアが問う。
「ドズルを見てくる」
「止めても行かれますね」
「お前は最近、確認だけして止めなくなったな」
「無駄だと学習しました」
それでいい。
医療区画の空気は、相変わらず人を必要以上に病人へ寄せる。だがドズルは、昨日よりだいぶ病人らしくなかった。包帯姿のまま、ベッド脇で書類を睨んでいる。書類の持ち方が既に喧嘩腰だ。
「兄貴」とドズルが言った。 「もう動ける」
「動けても今すぐ前へ出るな」
「動けるって言ってんだ」
「聞いている。だが聞いたからといって、その通りにするとは限らん」
ドズルは不満そうに鼻を鳴らした。 「嫌な言い方だな」
「正しい言い方だ」
「その正しさが嫌いだ」
私は椅子を一つ引いた。こういう兄弟の会話は、同じことを違う語で言い続けるだけの時がある。
「現場の連中はどうだ」と私は訊いた。
ドズルは少し真顔になった。 「もう公国の軍として見てる」
「言い切るな」
「言い切る。少なくとも、あの事故を見た連中はそうだ。連邦の制服じゃなく、こっちの腕章を見て動いた」 彼はそこで傷のある顔をしかめた。 「それが良いことばっかりかは知らん。だがもう戻らんぞ、兄貴」
私は頷いた。 「戻す気はない」
ドズルは書類を机へ放った。 「顔の傷は残るらしい」
「らしいな」
「お前、別に驚かんな」
「見慣れているからな」
ドズルが怪訝そうな顔をしたが、深くは突っ込まなかった。幸いだった。前世の記憶というものは、こういう時に少しだけ舌の先へ出る。気を抜くと余計なことを言う。
「ガルマがさっき来た」とドズルが言った。 「今日から本当に国なのですね、って」
私は少しだけ笑った。 「あいつらしいな」
「半分もわかってない顔してたが」
「半分で十分だ。全部わかる必要はない」
「お前はそうやって、平気で先に行く」
それは非難ではない。たぶんただの事実だった。
「兄貴」とドズルがもう一度言った。 「あれ以上は無理だった」
「わかっている」
「十分だった、とは言うなよ」
私は少し考えた。 「なら、使える傷だった」
ドズルが目を見開いたあと、声を立てて笑った。笑うと顔の傷が少し引きつる。
「お前は本当に最悪だな」
「知っている」
「だが、その最悪さで国を回せるなら、しばらくは我慢してやる」
それで会話は終わった。十分だった。ドズルは現場の顔になる。私は制度の顔になる。キシリアはその裏で血の流れを決める。役割として悪くない。
医療区画を出ると、廊下の先でガルマが待っていた。
今日の彼は、見舞いの包みではなく薄い書類の束を抱えている。持ち方が少しぎこちないところは昨日と変わらない。
「ギレン兄上」
「どうした」
「これは、その、ズムシティの学校区からだそうです」 「私にか」 「はい。新しい国の旗を、子どもたちにも見せたいので、行列をしてもよいかと」
私は書類を受け取った。実にどうでもいい。どうでもいいが、こういうどうでもいい書類が国家を国家らしく見せる。
「答えは」 「よろしいのではないかと、私は思いました」
「なぜだ」
ガルマは少しだけ目を伏せて考えた。 「昨日、窓から見えた旗が、きれいでしたので」
幼い。分析になっていない。だが、それでいい。子どもの国に対する最初の実感など、たいてい旗の色か、広場の音か、その程度だ。
「許可しておく」と私は言った。
ガルマはほっとした顔をした。 「ありがとうございます」
「ただし、行列は短くしろ。役所の前を塞ぐな」 「はい」
彼はそこで一拍迷ってから続けた。 「兄上」
「何だ」
「今日から、本当に国なのですね」
私は弟を見た。 「昨日も国のつもりで動いていた。名が追いついただけだ」
ガルマは完全には理解していない顔だった。それでいい。彼は窓の外に新しい旗があることだけ知っていれば、今は十分だ。
午後、連邦への正式返答文が整った。セシリアが持ってきた文は冷たかった。冷たいが、怒りに寄りすぎてはいない。その温度は正しい。
連邦当局へ。 事故調査における共同委員会設置要求については、まず貴局の監視遅延と警告送信過程に関する完全な記録提出を前提とする。住民保護責任を果たし得なかった側が、責任の所在を曖昧にしたまま調査の主導権を求めることは認められない。
私は一語だけ直した。 「果たし得なかった」では弱い。 「果たさなかった」にした。
セシリアは文を受け取り、修正箇所を見てから静かに言った。 「冷たくなりましたね」
「事実に近づいただけだ」
「はい」
彼女はそれ以上言わなかった。
同時刻、ベルナルド・ギリアムがズムシティ中心部に流した紙面には、別の顔があった。
ジオン公国、首都ズムシティで行政始動
食糧復旧、遺族補償、治安維持を最優先
首相府「祝賀より先に生活を守る」
こういう文は嫌いではない。理念を叫ばず、生活を守ると言うだけで十分に効く日がある。事故の熱がまだ冷めきっていない今は、まさにそういう日だった。
夜に入ると、首相府はようやく人の波が薄くなった。紙の束は減らない。ただ、机の端から床へ崩れそうだった山が、山としての形を保ち始めた。それだけでだいぶ違う。
最後に残ったのは、極秘扱いの一枚だった。
研究保護線再編案
対象:トレノフ・Y・ミノフスキー博士
私はそれを開いた。ようやく、ここまで来た。公国成立は終わりではない。あの男を連邦にも、こちらの短絡にも食い潰させないための条件が、ようやく整い始めたのだ。
だが、その紙を読み切る前に、ドアが控えめに鳴った。
セシリアだった。
「本日の決裁は、あと二件です」と彼女が言った。
「そうか」
「終わらせますか」
私は彼女を見た。徹夜明けの疲れはある。だが目はまだ落ちていない。ここに残っているのは、義務だけではないとわかる程度に。
「そこへ置け」と私は言った。
彼女は書類を机へ置いた。去らない。半歩だけそのまま立っている。珍しい。
「どうした」と私は訊いた。
「いえ」と彼女は言った。 「ただ、今日は誰も祝意を述べませんでしたので」
「不要だ」
「はい」 彼女は少しだけ間を置いた。 「ですが、誰も祝わない日に、閣下が少しも祝われないのも、それはそれで極端かと」
私は水を一口飲んだ。ぬるい。だが喉は通る。 「お前が祝うのか」
「必要なら」
「必要はない」
「そうでしょうね」
それでも彼女は去らなかった。
沈黙が少しだけ長くなる。
私は机の上の紙へ目を落とし、それから上げた。 「お前は、今日何時間ここにいた」
「数えておりません」
「数えろ」
「命令でしょうか」
「半分は」
彼女はわずかに息をついた。笑ったのだろう。声にはしない。
「閣下」と彼女は言った。 「本日、建国式典のあと、私が最初に見たのは祝賀ではなく請求書でした」 「そうだろうな」 「その時、少し安心しました」 「なぜだ」
セシリアは、ようやく私の正面へ視線を向けた。 「この国は、夢だけで作られてはいないとわかったからです。閣下も、その方が本来のお顔です」
そこまで言われると、少しだけ笑うしかなかった。 「褒めているのか」
「半分は」
「残り半分は」
「手がかかるという意味です」
私は椅子の背へ身体を預けた。疲れている。疲れている時、人は時々、最初から見えていたものをようやく認める。
この女がいなければ、ここまでは来られなかった。
これは情ではない。
事実だ。
事実は、時に情より重い。
「セシリア」と私は言った。
彼女の返事は短かった。 「はい」
「ここへ残れ」
命令の形だった。ほかの言い方を知らないわけではない。だが今の私には、その形が一番正確だった。
彼女は少しだけ目を伏せ、それから答えた。 「はい」
それ以上の説明はいらなかった。
私は立ち、机の角を回った。彼女は逃げない。逃げるなら、とっくに紙を置いた時点で出ていったはずだ。出ていかなかったのは、残る理由があったからだ。
手を取る前に、一度だけ確かめた。 「後悔するな」
彼女は私を見た。 「閣下は、こういう時も命令のように仰るのですね」
「そういう男だ」
「知っております」
その返事で十分だった。
私は彼女の手を取った。冷たい。長く紙に触れていた手の冷たさだ。戦場の冷たさでも、恐怖の冷たさでもない。働きすぎた人間の手の温度だった。
彼女を引き寄せると、セシリアはほんの一瞬だけ目を閉じた。それから抵抗せず、むしろこちらへ体重を預けた。信頼、秘密、疲労。そういうものが長く積み上がったあとでしか、人はこういうふうに他人へ寄りかからない。
初めて口づけた時、私はようやく理解した。これは慰めではない。祝賀でもない。欲情だけでもない。もっと事務的で、もっと危うい。互いの重さを、言葉ではなく一度どこかへ預けるための行為だ。
「閣下」とセシリアが小さく言った。
「今はそれでいい」
「はい」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
部屋の外では、ズムシティの人工夜が静かに回っている。新しい旗はまだ高く、連邦への返答文はまだ未送信で、ミノフスキーの保護線は机の上に開かれたままだ。国は動いたまま、少しも止まらない。
それでも、その夜だけは、私は紙ではなく人の温度で疲れを測った。
愛人関係という言葉は、だいたい翌朝になってから与えられる。
その夜のうちは、まだただの事実だ。
残ると決めた女がいて、残れと言った男がいる。
それで十分だった。
翌朝、机の上の紙は減っていなかった。
だが一つだけ、昨日より扱いやすく見えた。
国家は人を眠らせない。
それでも、眠らずに済む理由が一つ増えるだけで、人は案外長く働ける。
たぶん、それだけの話なのだろう。
セクハラ・パワハラですね。