研究資料の移送は、夜明け前から始まった。
ズムシティの中央広場には、まだ建国式典の旗が残っている。だが、その赤は港湾区までは届かない。届いても意味がない。貨物灯の白、隔壁表示の青、認証盤の緑。ここで人間が信じるのは色ではなく、点灯しているか、消えているかだけだ。
ミノフスキー博士は条件を呑んだ。正確には、こちらの条件つき保護を条件つきで受けた。研究者人事の独立、四半期単位の予算固定、軍務からの早期介入制限、首相府直轄の保護線。紙にすれば理性的に見えるが、現場では認証一つ、搬送一便で簡単に壊れる。だから、今日の移送は公国最優先案件だった。
私はズムシティ港湾区に隣接した統制室にいた。壁一面の表示は簡素だが必要十分だ。搬送路の認証、隔壁の同期、圧力線、監視映像、保安班の配置。窓の向こうを、博士側が封印した箱が静かに動いていく。封印に触れず、予定時刻に、予定区画へ通す。それだけのことが、この段階では何より難しい。
セシリアが水を置いた。 「第一便、封印確認済み。第二便は港湾側の追加検査で足止めです」
「理由は」
「旧連邦基準の再照合だそうです」 彼女は紙を一枚めくる。 「もっともらしい理由ばかり並んでいます。もっともらしいということは、意図があるということです」
「その通りだ」
彼女は余計な感想を足さない。そこがいい。
「ギリアムには、生活線に影響が出た場合だけ紙面を切らせます」 「まだ出すな」 「承知しました」
朝一番の連絡で、キシリアはすでに一人の名を寄越していた。港湾管理補佐官。検査官との私的接触あり。手続きの遅延と照合の名目を使って、搬送を止めるにはちょうどいい位置にいる。小物だが、こういう時に使う小物としては出来が良すぎる。小物が良すぎる時は、だいたい誰かがその背を押している。
扉が開き、ドズルが入ってきた。まだ肩の包帯は残っている。顔の左の傷も消えない。だが、今のあの男にはそれでよかった。見ればわかる。現場の兵は、あの傷を見て落ち着く。
「兄貴」とドズルが言った。 「外は俺が見る。お前はここで数字を見とけ」
「頼む」
「珍しく素直だな」
「お前が立っているだけで現場が早い」
ドズルは鼻を鳴らした。 「知ってる」
その一言だけで十分だった。あの男は、いま自分がどう見られているかを完全には理解していないが、まるで知らないほど鈍くもない。
ドズルの後ろに、若い補助員が一人ついていた。第三農業ブロックで何度か見た顔だ。レオン・マイヤール。復旧班から人手として回されたらしい。運が悪い、と最初に思った。危ない場所へ、あの少年は妙によく立つ。
第一便は問題なく通った。封印確認、認証、隔壁開放、区画移動、再封印。手順が機械的であるほど、むしろ安心できる。危険なのは、手順に人間が色気を出した時だ。
問題は第二便だった。
第二搬送路の表示が、予定より長く黄色のまま変わらない。
「遅いな」と私は言った。
セシリアが即座に答える。 「追加検査の延長です。港湾側は封印再確認を要求しています」
「博士側の封は無傷か」
「映像上は」
「映像上は、か」
そこで、監視映像の片隅でレオンが動いた。動いたというより、視線の置き場が変わった。人を見る目ではない。そこに流れている空気の向きを見失った時の目だ。事故の時にも似たものを見た。
「音声を開けろ」と私は言った。
セシリアが切り替える。
「……ですから」 レオンの声は小さい。だが、どうしても引かない小ささだった。 「ここ、止めた方がいいです」
「何がだ」とドズルが言う。
「わかりません。でも、よくないです」
検査官の一人がいら立った。 「何です、その補助員は。手順を止める権限は」
ドズルが顔だけでその声を潰す。 「権限は俺だ」
そこで、表示が一度だけ大きく跳ねた。遅延ではない。不一致。認証盤の片側が、搬送記録と噛み合っていない。
私は立ち上がった。 「開けるな」
セシリアが即座に命じる。 「第二搬送路、現時点で開放禁止。現場責任者判断で全員後退」
映像の向こうで、ドズルが怒鳴った。 「聞いたな。箱から手を離せ。全員一歩下がれ」
次の瞬間、第二隔壁の継ぎ目から白い霧が吹いた。小さい。だが異常だった。圧力逃がしの細線が認証前に開いている。続けて補助通路の奥で火花が散り、認証盤の一部が黒く焦げ、非常灯が赤へ落ちた。
「閉鎖だ!」とドズルが怒鳴る。 「第二隔壁を切れ! 搬送員も検査官も退け!」
現場が一斉に動く。その中で、レオンだけが補助通路の奥を見ていた。固まっているのではない。誰かを見つけていた。
「左!」とレオンが叫んだ。 「奥にいます!」
ドズルは迷わず走った。肩の傷など気にしない走り方で補助通路へ突っ込み、すぐに鈍い衝突音がした。呻き声が短く響き、数秒後、港湾管理の腕章をつけた男の襟首を掴んで戻ってくる。ちょうどいい小物だった。
「兄貴」とドズルが通信に言った。 「魚が一匹いたぞ」
「殺すな」
「まだ殺してない」
私は表示を見た。壊れたのは補助認証盤の一部と細い圧力線だけだ。あと数十秒遅れていれば、第二搬送路全体が事故として止まり、封印箱ごと疑われていた。表向きは設備異常で通ったろう。だから始末が悪い。
統制室を出て、私自身も現場へ降りた。焦げた匂いはまだ薄い。赤い非常灯が隔壁の継ぎ目を撫で、封印箱は後退位置で静かに止まっている。死者はいない。止めたからだ。
ドズルは捕まえた男を兵へ渡し、それからレオンを見た。
「お前」
レオンはびくりとした。 「は、はい」
「またか」
「……はい」
「で、当たりだ」
レオンは答えられなかった。自分で当てたと理解している人間なら、あんな顔はしない。本人にとっては、当たりではなく、ただまた嫌な感じが現実になっただけなのだろう。
ドズルは傷のある顔を少しだけしかめたまま、しばらくレオンを見た。それから、ぶっきらぼうに言う。
「お前、今日から俺のそばにいろ」
レオンは目を瞬いた。 「え」
「従卒だ」
「じゅ、従卒」
「嫌か」
「いえ、嫌とかじゃなくて、その……どうして僕が」
ドズルは鼻を鳴らした。 「目を離すと、すぐ危ない方へ行く。だったら最初から目の届くところに置く」
その理由が雑で、だからこそ正しかった。ドズルは、気に入った相手に綺麗な理屈をつけない。先に居場所を与える。
レオンはまだ混乱した顔で私を見た。助けを求めているのではない。ただ、話が急すぎて現実が追いつかないだけだ。
私は頷いた。 「ドズルが必要だと言うなら、それでいい」
それで決まった。ドズルはもう次へ進んでいる。 「着替えはあとで回させる。飯は食ったか」
レオンは首を振る。
「ならまず食え。腹の減った従卒は使い物にならん」 ドズルは兵へ顎をしゃくった。 「所属変更を回せ。第三ブロックには俺から話す」
周囲の兵が少しだけ笑った。重くなりすぎない。よかった。こういう時、ドズルは理屈ではなく場所を作る。だから人がつく。
その少し後に、フラナガンが現場へ現れた。呼んだのではない。騒ぎを聞きつけたのだろう。あの男は、こういう時だけ妙に足が速い。
彼はまず焦げた認証盤を見た。次に隔壁の継ぎ目。最後にレオンを見た。
「君か」と言った。
レオンはまだ従卒になった現実に追いついていない顔のまま、曖昧に頷く。 「……はい?」
「先に異常を言ったのは」
「その、なんとなくです」
フラナガンはしばらく黙った。慰めるためではない。興味があるから黙る。だから気味が悪い。
「家族は」と彼は訊いた。
レオンが戸惑う。 「家族、ですか」
「同居している者だ」
「妹が一人います」
「年は」
「四つ下です」
「通学は」
「ズムシティ南区ですけど……」
ドズルが低く言った。 「おい」
フラナガンはゆっくり顔を向けた。
「そいつは今、俺の従卒だ。聞くなら筋を通せ」
「失礼しました」
「失礼で済ませるな」 ドズルは一歩前へ出る。 「家族まで見始める気なら、なおさらだ」
私はそこで口を開いた。 「家族構成の記録は取れ」
フラナガンがこちらを見る。
「素性は洗え」と私は言った。 「診断までは通す。だが、まだ実験段階へ上げるな。順番を間違えるな」
フラナガンは短く顎を引いた。 「承知しました」
ドズルは不機嫌だったが、それ以上は言わなかった。レオンだけが、なぜ妹の話がそこへ出るのか、まるでわからない顔をしていた。そこが今は正しい。本人が意味を理解しないうちは、まだ引き返せる。
そこへ、工業区画側から別の報せが来た。博士本人が受領区画まで降りてきたという。
私はそのまま移送先へ向かった。封印箱は予定より遅れたが、無事に保護区画へ入っている。トレノフ・Y・ミノフスキー博士は受領台の前に立ち、封の状態を自分の目で確認していた。
「間に合ったようですね」と博士は言った。
「ギリギリだがな」
「ギリギリで通した、という事実の方が大事です」 博士は封印へ触れずに、その縁を眺めた。 「国家の約束は、文面より現場で測るものですから」
私はない眉を寄せた。 「褒めているのか」
「まだです」 博士はようやくこちらを見る。 「ただ、前の国家よりはましだと言っているだけです」
それで十分だった。この男に礼を期待すると、たいていこちらが馬鹿を見る。だが今の一言で、公国は博士の研究線へ一歩入ったと見てよかった。
「移設は段階的に進めます」と博士が言った。 「こちらも急がない。急ぐと、ろくな国家にならない」
「知っている」
「本当ですか」
「少なくとも、お前より早く嫌な予感はする」
博士はわずかに口元を動かした。笑ったのかもしれない。
ズムシティへ戻る車中で、キシリアの報告が入った。
港湾補佐官は拘束。表向きは手続き違反と便宜供与。背後の線は二本。一つは連邦検査官との接触、もう一つは研究線を軍務へ近づけたい内部。後者はまだ泳がせる、とある。
よい。斬るだけでは歯は育たない。噛み跡を残し、次に噛む相手を見せておく方がいい時もある。
首相府へ戻る頃には、ズムシティの空はもう人工夜へ傾いていた。中央広場の旗は暗がりの中でも赤だけはよく見える。国はできた。だが、その中へ入れるものを守れなければ、名だけが残る。
机の上には二枚の紙が待っていた。
ミノフスキー博士の正式受諾。
フラナガンからの補足所見。
後者は短い。
レオン・マイヤール本人への継続観察に加え、血縁者、とくに妹について素性調査を要望する。
私はそれを読み、机へ戻した。
セシリアが入ってくる。 「本日の決裁は、あと三件です」
「そうか」
「終わらせますか」
「終わるように見えるか」
「いいえ」 彼女は淡々と答えた。 「ですが、今日のうちに手をつけるべき三件です」
そういう言い方をする女だ。正しい。
私は水を一口飲んだ。 「博士は入った」
「半歩だけ」
「そうだ」
「レオンには居場所ができました」
私は彼女を見た。 「そういう見方をするのか」
「必要だと思います」 セシリアは紙を揃えたまま言う。 「居場所のない者は、研究所にも、軍にも、誰にでも拾われますから」
それはたしかにそうだった。従卒というのは雑な抜擢だが、雑な分だけ強い。肩書きより先に、あの少年へ場所を与える。ドズルらしい。
「妹の件は」とセシリアが言った。
「先に記録を揃えろ」と私は言った。 「診断までは通す。だが、実験には回すな。順番を間違えるな」
「承知しました」
窓の外では、ズムシティの人工夜が静かに回っていた。公国はできた。だがそれだけでは足りない。技術を囲い、人を囲い、その両方を奪わせない手を先に伸ばさなければならない。
私は机の上の二枚を、もう一度だけ見た。
国家は、ようやく未来を囲い始めた。