妹に撃たれない方法   作:Brooks

32 / 226
第32話 未来を囲う手

 

研究資料の移送は、夜明け前から始まった。

 

ズムシティの中央広場には、まだ建国式典の旗が残っている。だが、その赤は港湾区までは届かない。届いても意味がない。貨物灯の白、隔壁表示の青、認証盤の緑。ここで人間が信じるのは色ではなく、点灯しているか、消えているかだけだ。

 

ミノフスキー博士は条件を呑んだ。正確には、こちらの条件つき保護を条件つきで受けた。研究者人事の独立、四半期単位の予算固定、軍務からの早期介入制限、首相府直轄の保護線。紙にすれば理性的に見えるが、現場では認証一つ、搬送一便で簡単に壊れる。だから、今日の移送は公国最優先案件だった。

 

私はズムシティ港湾区に隣接した統制室にいた。壁一面の表示は簡素だが必要十分だ。搬送路の認証、隔壁の同期、圧力線、監視映像、保安班の配置。窓の向こうを、博士側が封印した箱が静かに動いていく。封印に触れず、予定時刻に、予定区画へ通す。それだけのことが、この段階では何より難しい。

 

セシリアが水を置いた。 「第一便、封印確認済み。第二便は港湾側の追加検査で足止めです」

 

「理由は」

 

「旧連邦基準の再照合だそうです」 彼女は紙を一枚めくる。 「もっともらしい理由ばかり並んでいます。もっともらしいということは、意図があるということです」

 

「その通りだ」

 

彼女は余計な感想を足さない。そこがいい。

 

「ギリアムには、生活線に影響が出た場合だけ紙面を切らせます」 「まだ出すな」 「承知しました」

 

朝一番の連絡で、キシリアはすでに一人の名を寄越していた。港湾管理補佐官。検査官との私的接触あり。手続きの遅延と照合の名目を使って、搬送を止めるにはちょうどいい位置にいる。小物だが、こういう時に使う小物としては出来が良すぎる。小物が良すぎる時は、だいたい誰かがその背を押している。

 

扉が開き、ドズルが入ってきた。まだ肩の包帯は残っている。顔の左の傷も消えない。だが、今のあの男にはそれでよかった。見ればわかる。現場の兵は、あの傷を見て落ち着く。

 

「兄貴」とドズルが言った。 「外は俺が見る。お前はここで数字を見とけ」

 

「頼む」

 

「珍しく素直だな」

 

「お前が立っているだけで現場が早い」

 

ドズルは鼻を鳴らした。 「知ってる」

 

その一言だけで十分だった。あの男は、いま自分がどう見られているかを完全には理解していないが、まるで知らないほど鈍くもない。

 

ドズルの後ろに、若い補助員が一人ついていた。第三農業ブロックで何度か見た顔だ。レオン・マイヤール。復旧班から人手として回されたらしい。運が悪い、と最初に思った。危ない場所へ、あの少年は妙によく立つ。

 

第一便は問題なく通った。封印確認、認証、隔壁開放、区画移動、再封印。手順が機械的であるほど、むしろ安心できる。危険なのは、手順に人間が色気を出した時だ。

 

問題は第二便だった。

 

第二搬送路の表示が、予定より長く黄色のまま変わらない。

 

「遅いな」と私は言った。

 

セシリアが即座に答える。 「追加検査の延長です。港湾側は封印再確認を要求しています」

 

「博士側の封は無傷か」

 

「映像上は」

 

「映像上は、か」

 

そこで、監視映像の片隅でレオンが動いた。動いたというより、視線の置き場が変わった。人を見る目ではない。そこに流れている空気の向きを見失った時の目だ。事故の時にも似たものを見た。

 

「音声を開けろ」と私は言った。

 

セシリアが切り替える。

 

「……ですから」 レオンの声は小さい。だが、どうしても引かない小ささだった。 「ここ、止めた方がいいです」

 

「何がだ」とドズルが言う。

 

「わかりません。でも、よくないです」

 

検査官の一人がいら立った。 「何です、その補助員は。手順を止める権限は」

 

ドズルが顔だけでその声を潰す。 「権限は俺だ」

 

そこで、表示が一度だけ大きく跳ねた。遅延ではない。不一致。認証盤の片側が、搬送記録と噛み合っていない。

 

私は立ち上がった。 「開けるな」

 

セシリアが即座に命じる。 「第二搬送路、現時点で開放禁止。現場責任者判断で全員後退」

 

映像の向こうで、ドズルが怒鳴った。 「聞いたな。箱から手を離せ。全員一歩下がれ」

 

次の瞬間、第二隔壁の継ぎ目から白い霧が吹いた。小さい。だが異常だった。圧力逃がしの細線が認証前に開いている。続けて補助通路の奥で火花が散り、認証盤の一部が黒く焦げ、非常灯が赤へ落ちた。

 

「閉鎖だ!」とドズルが怒鳴る。 「第二隔壁を切れ! 搬送員も検査官も退け!」

 

現場が一斉に動く。その中で、レオンだけが補助通路の奥を見ていた。固まっているのではない。誰かを見つけていた。

 

「左!」とレオンが叫んだ。 「奥にいます!」

 

ドズルは迷わず走った。肩の傷など気にしない走り方で補助通路へ突っ込み、すぐに鈍い衝突音がした。呻き声が短く響き、数秒後、港湾管理の腕章をつけた男の襟首を掴んで戻ってくる。ちょうどいい小物だった。

 

「兄貴」とドズルが通信に言った。 「魚が一匹いたぞ」

 

「殺すな」

 

「まだ殺してない」

 

私は表示を見た。壊れたのは補助認証盤の一部と細い圧力線だけだ。あと数十秒遅れていれば、第二搬送路全体が事故として止まり、封印箱ごと疑われていた。表向きは設備異常で通ったろう。だから始末が悪い。

 

統制室を出て、私自身も現場へ降りた。焦げた匂いはまだ薄い。赤い非常灯が隔壁の継ぎ目を撫で、封印箱は後退位置で静かに止まっている。死者はいない。止めたからだ。

 

ドズルは捕まえた男を兵へ渡し、それからレオンを見た。

 

「お前」

 

レオンはびくりとした。 「は、はい」

 

「またか」

 

「……はい」

 

「で、当たりだ」

 

レオンは答えられなかった。自分で当てたと理解している人間なら、あんな顔はしない。本人にとっては、当たりではなく、ただまた嫌な感じが現実になっただけなのだろう。

 

ドズルは傷のある顔を少しだけしかめたまま、しばらくレオンを見た。それから、ぶっきらぼうに言う。

 

「お前、今日から俺のそばにいろ」

 

レオンは目を瞬いた。 「え」

 

「従卒だ」

 

「じゅ、従卒」

 

「嫌か」

 

「いえ、嫌とかじゃなくて、その……どうして僕が」

 

ドズルは鼻を鳴らした。 「目を離すと、すぐ危ない方へ行く。だったら最初から目の届くところに置く」

 

その理由が雑で、だからこそ正しかった。ドズルは、気に入った相手に綺麗な理屈をつけない。先に居場所を与える。

 

レオンはまだ混乱した顔で私を見た。助けを求めているのではない。ただ、話が急すぎて現実が追いつかないだけだ。

 

私は頷いた。 「ドズルが必要だと言うなら、それでいい」

 

それで決まった。ドズルはもう次へ進んでいる。 「着替えはあとで回させる。飯は食ったか」

 

レオンは首を振る。

 

「ならまず食え。腹の減った従卒は使い物にならん」 ドズルは兵へ顎をしゃくった。 「所属変更を回せ。第三ブロックには俺から話す」

 

周囲の兵が少しだけ笑った。重くなりすぎない。よかった。こういう時、ドズルは理屈ではなく場所を作る。だから人がつく。

 

その少し後に、フラナガンが現場へ現れた。呼んだのではない。騒ぎを聞きつけたのだろう。あの男は、こういう時だけ妙に足が速い。

 

彼はまず焦げた認証盤を見た。次に隔壁の継ぎ目。最後にレオンを見た。

 

「君か」と言った。

 

レオンはまだ従卒になった現実に追いついていない顔のまま、曖昧に頷く。 「……はい?」

 

「先に異常を言ったのは」

 

「その、なんとなくです」

 

フラナガンはしばらく黙った。慰めるためではない。興味があるから黙る。だから気味が悪い。

 

「家族は」と彼は訊いた。

 

レオンが戸惑う。 「家族、ですか」

 

「同居している者だ」

 

「妹が一人います」

 

「年は」

 

「四つ下です」

 

「通学は」

 

「ズムシティ南区ですけど……」

 

ドズルが低く言った。 「おい」

 

フラナガンはゆっくり顔を向けた。

 

「そいつは今、俺の従卒だ。聞くなら筋を通せ」

 

「失礼しました」

 

「失礼で済ませるな」 ドズルは一歩前へ出る。 「家族まで見始める気なら、なおさらだ」

 

私はそこで口を開いた。 「家族構成の記録は取れ」

 

フラナガンがこちらを見る。

 

「素性は洗え」と私は言った。 「診断までは通す。だが、まだ実験段階へ上げるな。順番を間違えるな」

 

フラナガンは短く顎を引いた。 「承知しました」

 

ドズルは不機嫌だったが、それ以上は言わなかった。レオンだけが、なぜ妹の話がそこへ出るのか、まるでわからない顔をしていた。そこが今は正しい。本人が意味を理解しないうちは、まだ引き返せる。

 

そこへ、工業区画側から別の報せが来た。博士本人が受領区画まで降りてきたという。

 

私はそのまま移送先へ向かった。封印箱は予定より遅れたが、無事に保護区画へ入っている。トレノフ・Y・ミノフスキー博士は受領台の前に立ち、封の状態を自分の目で確認していた。

 

「間に合ったようですね」と博士は言った。

 

「ギリギリだがな」

 

「ギリギリで通した、という事実の方が大事です」 博士は封印へ触れずに、その縁を眺めた。 「国家の約束は、文面より現場で測るものですから」

 

私はない眉を寄せた。 「褒めているのか」

 

「まだです」 博士はようやくこちらを見る。 「ただ、前の国家よりはましだと言っているだけです」

 

それで十分だった。この男に礼を期待すると、たいていこちらが馬鹿を見る。だが今の一言で、公国は博士の研究線へ一歩入ったと見てよかった。

 

「移設は段階的に進めます」と博士が言った。 「こちらも急がない。急ぐと、ろくな国家にならない」

 

「知っている」

 

「本当ですか」

 

「少なくとも、お前より早く嫌な予感はする」

 

博士はわずかに口元を動かした。笑ったのかもしれない。

 

ズムシティへ戻る車中で、キシリアの報告が入った。

 

港湾補佐官は拘束。表向きは手続き違反と便宜供与。背後の線は二本。一つは連邦検査官との接触、もう一つは研究線を軍務へ近づけたい内部。後者はまだ泳がせる、とある。

 

よい。斬るだけでは歯は育たない。噛み跡を残し、次に噛む相手を見せておく方がいい時もある。

 

首相府へ戻る頃には、ズムシティの空はもう人工夜へ傾いていた。中央広場の旗は暗がりの中でも赤だけはよく見える。国はできた。だが、その中へ入れるものを守れなければ、名だけが残る。

 

机の上には二枚の紙が待っていた。

 

ミノフスキー博士の正式受諾。

フラナガンからの補足所見。

 

後者は短い。

 

レオン・マイヤール本人への継続観察に加え、血縁者、とくに妹について素性調査を要望する。

 

私はそれを読み、机へ戻した。

 

セシリアが入ってくる。 「本日の決裁は、あと三件です」

 

「そうか」

 

「終わらせますか」

 

「終わるように見えるか」

 

「いいえ」 彼女は淡々と答えた。 「ですが、今日のうちに手をつけるべき三件です」

 

そういう言い方をする女だ。正しい。

 

私は水を一口飲んだ。 「博士は入った」

 

「半歩だけ」

 

「そうだ」

 

「レオンには居場所ができました」

 

私は彼女を見た。 「そういう見方をするのか」

 

「必要だと思います」 セシリアは紙を揃えたまま言う。 「居場所のない者は、研究所にも、軍にも、誰にでも拾われますから」

 

それはたしかにそうだった。従卒というのは雑な抜擢だが、雑な分だけ強い。肩書きより先に、あの少年へ場所を与える。ドズルらしい。

 

「妹の件は」とセシリアが言った。

 

「先に記録を揃えろ」と私は言った。 「診断までは通す。だが、実験には回すな。順番を間違えるな」

 

「承知しました」

 

窓の外では、ズムシティの人工夜が静かに回っていた。公国はできた。だがそれだけでは足りない。技術を囲い、人を囲い、その両方を奪わせない手を先に伸ばさなければならない。

 

私は机の上の二枚を、もう一度だけ見た。

 

国家は、ようやく未来を囲い始めた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。