妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第35話 波を聴く者

 

軍務府の朝は、何か一つでも紙が足りないと、それだけで半日ぶんの機嫌が悪くなる。

 

レオンは、その機嫌の悪さが誰のものなのかを、だいぶ見分けられるようになっていた。

 

老軍曹の不機嫌は靴音が短い。兵站士官の不機嫌は端末板を叩く音が妙に大きい。ドズルの不機嫌は単純で、腹が減っているか、書類が増えているか、その両方だ。

 

そして今朝のドズルは、片方だけだった。

 

「閣下、朝食です」

 

レオンが盆を置くと、ドズルは書類から目を上げずに言った。 「そこだ」

 

「そこだと、冷めます」

 

「冷める前に食う」

 

「昨日もそう仰って、三十分放置なさいました」

 

ドズルがようやく顔を上げた。 「お前、従卒になってから口が育ったな」

 

「老軍曹に、黙るだけでは務まらんと言われました」

 

「余計なことを教えやがる」

 

そう言いながらも、ドズルは匙を取った。レオンが昨日の試験場から帰って最初に覚えたのは、軍務府で一番偉い男に飯を食わせるのは、案外、戦術や礼法ではなく、しつこさだということだった。

 

老軍曹が入ってきて、その光景を見るなり鼻を鳴らす。 「ほう。今日は食堂の勝ちか」

 

「勝手に勝敗をつけるな」

 

「閣下が食ったなら軍務府の勝ちです」

 

レオンは少しだけ笑いそうになったが、堪えた。老軍曹はレオンの方を見て言う。 「お前も座れ。立ったまま気を利かせようとするな。腹の減った気配りほど役に立たんものはない」

 

その理屈は、軍務府ではだいたい正しい。

 

食事が半分ほど進んだところで、首相府からの連絡が入った。受けたドズルの顔が、目に見えて渋くなる。

 

「今日か」 低く言う。 「ずいぶん都合がいいな」

 

短いやり取りのあと、受話器を置いた。

 

「閣下」とレオンが声をかけると、ドズルは嫌そうな顔を隠さなかった。 「研究所だ」

 

「……僕ですか」

 

「お前と妹だ」 スプーンを置く。 「正式診断とやらに出せと言ってきた」

 

レオンの胃が少しだけ縮んだ。自分のことだけならまだいい。問題は妹だ。リーゼは黙って従うような性格ではないし、そもそも白い部屋と静かな機械に囲まれるのを嫌う。

 

「断れますか」

 

「断れん」 ドズルは即答した。 「兄貴が許可してる」

 

それで終わりだった。ギレンが線を引いたことなら、ドズルも無視はしない。気に入らなくても従う。そういう兄弟だった。

 

「ただし」とドズルは続けた。 「俺も行く」

 

レオンは思わず瞬いた。 「閣下が、ですか」

 

「俺の従卒を勝手に借りていくなら、顔くらい出す」 そこで少しだけ唇を曲げる。 「ついでに、お前の妹がどんな顔で文句を言うか見てやる」

 

それはたぶん、半分は本気で、半分は気遣いだった。

 

リーゼ・マイヤールは、迎えに行った車の後部座席で腕を組んだまま、最初の十分ほど一言も喋らなかった。

 

機嫌が悪い時の妹は、怒鳴らない。むしろ静かになる。余計に怖い。

 

やがて、窓の外を見たまま言った。 「制服、昨日よりはまし」

 

レオンは少しだけ肩の力を抜いた。 「ありがとう」

 

「でも、まだ借り物っぽい」

 

「褒めたあとに必ず落とすの、やめろ」

 

「先に落としておかないと、お兄ちゃんすぐ調子に乗るから」

 

ドズルが前の席から笑う。 「よく見てるじゃねえか」

 

リーゼはそこで初めてドズルの方を見た。顔の傷を見ても、視線を逸らさない。 「閣下も、よく食べる人の顔です」

 

ドズルは一拍遅れて「何だそりゃ」と言った。

 

「お兄ちゃんも、よく食べる人に拾われた顔になってます」

 

「それは褒めてるのか」とドズル。

 

「たぶん」 リーゼは肩をすくめる。 「研究所の白い人たちより、ずっといいです」

 

車の中に少しだけ笑いが落ちた。研究所へ向かう途中で笑いが出るとは、レオンは思っていなかった。

 

フラナガン機関は、前に来た時よりも設備が増えていた。白い壁、静かな廊下、消毒の匂い。そこまでは同じだ。だが、今は部屋ごとに番号が振られ、観測室、測定室、記録室、選別室という表示が増えている。研究室だったものが、機関になりつつある空気があった。

 

リーゼは入口の時点でもう嫌な顔をした。 「白すぎる」

 

「壁がか」とレオン。

 

「違う。ここにいる人たち」 彼女は小声で言う。 「みんな、何かを隠して親切にしてる」

 

それはたぶん、かなり正確な見方だった。

 

案内の若い研究員は丁寧だったが、丁寧なほど余計に気が休まらない。兄妹は別々の測定席へ通された。レオンの席には頭部へ薄い電極帯を巻く器具、両手首へつける感応導子、視線固定用の光点。リーゼの席にはそれに加えて、音と光の反応を拾う感受測定板がある。

 

「本日は診断までです」 若い研究員が説明する。 「痛みはありません」

 

リーゼが即座に訊いた。 「痛くなければ安心していいんですか」

 

研究員は答えに詰まった。 「いえ、その……」

 

「そういうの、便利ですね」 リーゼは椅子に座ったまま言う。 「痛くないからって、嫌じゃない理由にはならないのに」

 

レオンは横で目を閉じたくなった。研究員は困ったが、ドズルは少しだけ喉で笑った。

 

「お前の妹、なかなか面白いな」

 

「面白くて済めばいいんですけど」

 

「済まなかったら俺が止める」

 

そう言われると、レオンは少しだけ息がしやすくなる。

 

測定が始まる。

 

最初は通常の脳波と反応波。次に視覚刺激、聴覚刺激、遅延反応。レオンは前回より少しだけ慣れていた。だが、慣れてもなお、この白い椅子に座っていると、自分が人間ではなく機械の付属品へ近づいていくような気がする。

 

リーゼの方は、慣れる気がないらしかった。

 

「その光、点滅させる意味ありますか」

 

「ございます」

 

「どういう」

 

「視覚刺激への――」

 

「それ、私が知って得する話じゃないですね」

 

研究員がまた困る。リーゼは真顔のままだ。からかっているわけではなく、本当に不要だと思ったことを切る性格なのだ。

 

一通りの測定が終わる頃には、兄妹とも少し疲れていた。何もされていないようで、妙に削られる。研究所というのは、たいていそういう場所だ。

 

そこへ、フラナガンがようやく現れた。

 

白衣でも軍服でもない、あの男らしい曖昧な服装。整っているが安心感のない整い方だ。目はいつものように澄んでいて、その澄み方がかえって不気味だった。

 

彼はまずレオンを見た。次にリーゼを見る。兄妹としてではなく、並べて比べる対象として見る目だった。

 

「待たせました」とフラナガンは言った。 「本日分の基礎測定は終わっています。あとは確認だけです」

 

リーゼがすぐに返した。 「“確認だけ”って、あとどれくらいですか」

 

「十分ほど」

 

「その十分が、普通の十分じゃない顔をしてます」

 

フラナガンは一拍だけ黙った。 「鋭いですね」

 

「嬉しくないです」

 

ドズルが腕を組んだまま低く言う。 「長引かせるなよ」

 

「本日は診断までです」 フラナガンはそちらを見ずに答えた。 「その範囲は守ります」

 

兄妹は最後の確認室へ移され、画面の前に座らされた。測定波形が並ぶ。山と谷が細く光り、数値が脈打つように変わる。レオンには意味がわからない。リーゼもたぶんわかっていない。ただ、自分たちが数字に置き換えられていることだけはわかる。

 

「病気なんですか、私たち」

 

リーゼが先に訊いた。

 

フラナガンは首を振った。 「違います」

 

「じゃあ」

 

リーゼは画面を見たまま言う。 「便利だから呼ばれたんですね」

 

その場にいた若い研究員たちが、息を止めたように見えた。フラナガンだけが平坦に答える。

 

「便利かどうかは、まだわかりません」 「ですが、珍しい傾向があるのは事実です」

 

「珍しいと便利って、だいたい同じ顔をしてます」

 

レオンは思わず妹を見た。言い方がひどい。だが、ひどいだけに当たっている気もする。

 

フラナガンは返さなかった。代わりに画面を切り替え、若い研究員たちへ短く指示を出す。 「兄妹の比較波形を残してください。危機刺激時の上昇率も」

 

ドズルがそこで初めて口を挟んだ。 「今日は診断までだと言ったな」

 

「ええ」

 

「だったら、これ以上は引っ張るな」 ドズルの声は低かった。 「俺の従卒は今日も仕事がある」

 

フラナガンはそこで初めてドズルの方を見た。 「承知しています」 「ですから、いま見ているのは診断の範囲です」

 

その時、別室の扉が開いた。

 

キシリアだった。

 

香りだけ先に入ってきそうなほど整った女だが、目だけは少しも柔らかくない。白い部屋の中へ入ってきても、この場所に飲まれない人間の足取りだった。

 

「終わったの」と彼女が言う。

 

「基礎測定は」とフラナガン。 「いま、比較を見ています」

 

「なら、説明して」

 

兄妹はそのまま隣室へ移された。完全に追い出されたわけではない。薄い隔壁一枚向こうで、大人たちが自分たちのことを話しているとわかる程度の距離だ。

 

レオンは椅子に座ったまま、何となく息を殺した。リーゼは逆に、隠れて聞くつもりもない顔で水を飲んでいる。

 

「ねえ」と彼女が小声で言う。 「お兄ちゃん」

 

「何だ」

 

「ここ、やっぱり好きじゃない」

 

「俺もだ」

 

「でも、閣下がいると少しまし」

 

レオンは少し笑った。 「わかる」

 

隔壁の向こうでは、フラナガンが報告を始めていた。

 

「共通項があります」

 

キシリアは黙って続きを待ったらしい。フラナガンの声だけが、静かに通る。

 

「兄妹で型は違います。ですが、どちらも通常の脳波だけでは説明しきれない偏りが出る」 「危機刺激、あるいは外部感覚入力に対して、ごく微量の反応波が立つのです。通常の感覚処理より一拍早い」

 

「反射ではないのね」とキシリア。

 

「反射より曖昧です。ですが、偶然にしては再現がある」 フラナガンは少しだけ間を置いた。 「私はこれを、便宜上“感応力”と呼ぼうと思います」

 

「感応力」

 

「人間の脳が、異常や気配を拾う際に発する微弱な波です。量は小さい。しかし、持つ者は確かにいる」 「兄は危険への反応時に立ち上がりが強い。妹は平時から受容の底が高い。型が違います」

 

そこで、キシリアの声が少し低くなった。 「それを測定できるなら、持つ者と持たぬ者を分けられるわね」

 

フラナガンが答える。 「理論上は」

 

「理論で足りるわ」 彼女は何か、たぶん受信器の外装を指先で叩いたのだろう。小さな音がした。 「神秘で終わらせるから、見つけられないのよ。数値にしなさい。大きさだけでなく、型も分けるの」

 

少しの沈黙。

 

「型、ですか」とフラナガン。

 

「危険に偏る者。受容に偏る者。同調しやすい者。混ぜて見るから曖昧になる」 キシリアの声は落ち着いていた。 「候補者を拾う網が要るわね」

 

また沈黙が落ちる。今度は、フラナガンが考えている時の沈黙だ。

 

「……なるほど」

 

「そして、その波が受けるだけのものではないなら」 キシリアは続ける。 「機械へ渡すことも考えられる」

 

「機械へ」とフラナガンが繰り返す。

 

「最初から人型兵器でなくていい」 「有線でも無線でもいいわ。単純な観測機、照準補助、誘導端末」 「まずは“意志で先端が先に動くか”を見なさい」

 

その言葉のあと、しばらく声がなかった。

 

リーゼが、水の入った紙コップを持ったまま小さく言う。 「今の、怖いね」

 

レオンは頷いた。意味は全部わからない。だが、何かの芽がそこで生まれたのはわかる。あまりよくない芽だということも。

 

ようやく、フラナガンが口を開いた。

 

「私は現象を見ていたつもりでした」 「ですが閣下は、その先の系統を見ておられる」 「受信機から始める理由が、ようやくわかりました」

 

キシリアはたぶん笑ったのだろう。声の温度だけが少し変わる。 「わかったなら、機関を広げなさい」

 

「はい」

 

「候補者を集め、測り、型を分けるの」 「兵器は、そのあとで十分よ」

 

そこへ、別の声が割り込んだ。

 

ギレンだった。

 

「順番を違えるな」

 

短い一言で、空気が変わるのが隔壁越しにもわかった。

 

「兄妹とも、記録と診断までは許可する」 「継続観察も認める」 「だが、実験段階にはまだ上げるな」 「レオンの軍務府所属は維持。妹の日常生活も崩すな」

 

フラナガンが言う。 「承知しました」

 

キシリアは少しだけ不満そうだった。 「慎重ね」

 

「壊してから拾い直せるものではない」 ギレンの声は変わらない。 「価値があるなら、なおさらだ」

 

レオンは、その言い方が少し意外だった。優しいのではない。守るというより、壊させないという言い方だ。だが、その冷たさの方がかえって信じられる気がした。

 

隔壁が開き、大人たちがこちらへ戻ってきた。

 

キシリアが兄妹を見て、ほんの少しだけ首を傾ける。 「兄の方はまだしも、妹の方が面倒そうね」

 

リーゼはすぐに言い返した。 「それ、褒めてないですよね」

 

「ええ。褒めてないわ」

 

「正直で助かります」

 

ドズルがそこで吹いた。 「お前の妹、研究所に置いとくには惜しいな」

 

「だから嫌ですって」とリーゼ。

 

「知ってる」

 

帰りの車は、行きより少しだけ静かだった。疲れたのだろう。リーゼはさっきまで強がっていたくせに、走り出してしばらくすると窓にもたれて目を閉じた。完全には眠っていない。だが警戒は少し緩んでいる。

 

ドズルが前を向いたまま言った。 「お前の妹、強いな」

 

レオンは小さく笑った。 「はい」

 

「お前より口が先に立つ」

 

「それもはいです」

 

「いいじゃねえか」 ドズルは短く言う。 「兄貴に言わせりゃ数字、フラナガンに言わせりゃ波か何かなんだろうが、食って言い返せる奴はそれだけでしぶとい」

 

レオンは、その見方の方が好きだった。

 

リーゼを家へ送り届けたあと、軍務府へ戻る道すがら、レオンは車窓の外を見ていた。ズムシティの人工夜が街路の上へ均一に落ちている。白い研究所の光より、軍務府の窓から漏れる黄色い明かりの方が、ずっと人間の住む場所に見えた。

 

「閣下」とレオンは言った。

 

「何だ」

 

「今日は、ありがとうございました」

 

ドズルは少しだけ首を傾けた。 「どれのことだ」

 

「……全部です」

 

「全部と言う奴は、たいてい半分もわかってない」

 

「たぶんそうです」

 

「なら、そのままでいい」 ドズルは前を向いたまま続ける。 「余計なことを理解した気になると、人はすぐ変な方へ伸びる」

 

それが慰めなのか忠告なのか、レオンにはまだ半分しかわからなかった。だが、軍務府へ戻るのがほっとするのははっきりしていた。

 

その夜、首相府には二枚の報告が上がってきた。

 

一枚はフラナガン機関の正式診断結果。

 

レオン・マイヤール。

危機刺激時の感応波上昇率が高い。

反応は外界異常への先行性を示す。

危険察知型の候補。

 

リーゼ・マイヤール。

平時における受容偏差が高い。

他者感情・外部気配への同調傾向。

受容型候補。

 

兄妹で型が異なる。

血縁比較の価値大。

 

もう一枚は、ドズルから軍務府経由で出された簡素な書類だった。

 

レオン・マイヤール、従卒勤務継続。

本日分、問題なし。

飯も食った。

 

ギレンは二枚を並べて見た。

 

セシリアが最後の決裁束を机へ置く。 「本日の残りは、この三件です」

 

「妹の件は」

 

「記録班へ回しますか」

 

ギレンは短く頷いた。 「先に記録を揃えろ。診断までは通す。だが、実験には上げるな。兄妹ともだ」

 

「承知しました」

 

「レオンは」

 

「軍務府へ戻した方が安定するかと」

 

ギレンはない眉をひそめた。 「お前もそう見るか」

 

「はい」 セシリアは紙を整えたまま答える。 「居場所のない者は、誰にでも拾われますから」

 

その見方は、正しい。軍務府の雑さは、研究所の白さよりはるかに人間を壊しにくいのかもしれなかった。

 

ギレンは二枚の紙をもう一度見た。

 

数字にされた兄妹。

居場所を与えられた少年。

 

どちらも、まだ使い方次第で変わる。

変わるうちは、順番さえ違えなければいい。

国家にできることは、たいていその程度だ。

 

窓の外では、ズムシティの人工夜が静かに回っていた。公国はまだ若い。技術も、人も、拾い始めたばかりだ。拾ったものをどこへ置くかで、先の形が変わる。

 

ギレンはフラナガンの報告書の余白に、短く一行だけ書いた。

 

型別記録を進めよ。

ただし順序を崩すな。

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