妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第36話 木星へ向かう船

 

その朝の軍務府は、声が低かった。

 

いつもなら、どこかで誰かが叱られている。配膳車の音より先に書類の遅れだの、制服の皺だの、端末の置き方だので一悶着ある。だが今日は違った。怒鳴り声の代わりに、靴音だけが早い。誰もが急いでいるのに、急いでいるとは見せない。港へ出る朝の空気だった。

 

レオンが従卒部屋の戸を開けると、老軍曹が壁際に立っていた。

 

「遅れてないな、坊主」

 

「はい」

 

「よし。今日は港だ。目立つな。だが鈍るな」

 

言葉の意味が半分しかわからなくても、半分で足りる場所だと、レオンは軍務府へ来てから覚えつつあった。

 

老軍曹はレオンの襟を引き、袖口をひとつ整えた。 「今日は軍務府の恥じゃ済まん。公国の顔が港へ出る」

 

「そんなに大事な日なんですか」

 

軍曹は鼻を鳴らした。 「国が自分で未来の国の飯を取りに行く日だ。大事じゃないわけがあるか」

 

その言い方だけで、ただの見送りではないとわかった。

 

ドズルの執務室へ入ると、本人はもう上着を着終えていた。机の上には書類よりも港湾配置図、時刻表、積載目録が広がっている。朝食の盆は端へ押しやられ、スープだけが少し残っていた。

 

ドズルはレオンの顔を見るなり言った。 「腹には入れたな」

 

「はい」

 

「なら行くぞ」

 

レオンは記録箱を持って後を追う。ドズルは歩きながら言った。 「今日は長い船を見る」

 

「どんな船ですか」

 

「高い船だ」

 

「高さですか」

 

「値段の方だ」

 

そう言い切ってから、ドズルは少しだけ口元をゆるめた。 「兄貴が喜ぶ船は、だいたい高い」

 

軍務府の搬入口から出た車列は短かった。中央広場を抜ける時、ズムシティの旗がまだ朝の薄い光を受けている。赤い布が静かに揺れていた。だが港湾区へ近づくにつれ、その赤は急に遠くなる。代わりに増えるのは、倉庫、係留塔、搬送路、冷却管、貨物番号。ここでは旗より積載量の方が正しい顔をしていた。

 

港はすでに動いていた。

 

投光器の白い光が巨大な影をいくつも地面へ落としている。重機は絶えず動き、係留員の合図も飛んでいる。それでも騒がしくはなかった。誰もが、今日の仕事の重さを知っている顔で働いていた。

 

レオンは車を降りたところで足を止めた。

 

船がいた。

 

見慣れた輸送船とは大きさが違う。細長い船体の中央に積載区画が連なり、その外側を補助フレームと冷却設備が囲っている。軍艦の威圧ではない。むしろ、中身の方が船体よりも大事なのだとひと目でわかる神経質さがあった。

 

「木星船団第一便です」

 

港湾士官が小声で告げた。誇らしさを押し殺している声だった。

 

レオンは見上げたまま頷いた。木星がどれほど遠いか、ヘリウム3がどれほど国家に必要か、詳しくは知らない。ただ、あの船がただの貨物船ではないことだけはわかる。

 

港の中央には、もう人が揃っていた。デギン、ギレン、キシリア。港湾局長、工業区画代表、軍務補佐官。誰も声を張っていないのに、その場だけ空気が濃い。

 

そして、その中心に一人の士官が立っていた。

 

レオンは、その男を見て少し意外に思った。もっと年上を想像していたからだ。

 

若い。少なくともデギンやギレンよりずっと若い。だが若さが前へ出ていない。軍服の着方も姿勢も静かで、口髭もよく整っている。偉そうではないのに、周りが自然に道を空ける。

 

シャリア・ブル大尉。

 

木星船団を率いる男として、老軍曹から名だけ聞かされていた人物だった。

 

シャリアはまずデギンへ敬礼し、それからギレン、キシリア、ドズルへ向き直った。

 

「準備は整っております」 声は低く、よく通る。 「積載、冷却、外部供給、航路計算、いずれも予定どおりです。出港後三時間で第一加速へ移ります」

 

ギレンが訊いた。 「往路の見積りは」

 

「通常加速で木星圏まで九か月強。帰還準備を含めれば往復は年単位です」 シャリアは淡々と答える。 「短気な者には向きません」

 

ドズルが鼻を鳴らした。 「遠すぎる。俺なら途中で文句を言う」

 

キシリアがすぐに返す。 「兄上は三日で言うわ」

 

「三日も持つか」 ドズルは真顔だった。 「飯が変わったらその時点で言う」

 

その一言で、張り詰めていた港湾士官たちの肩から少しだけ力が抜けた。

 

デギンは船を見たまま言う。 「遠いから出す。近いところだけで足りる国なら、こんなものは要らん」

 

ギレンが後を引き取る。 「名乗るだけの独立に意味はない。燃やすものを自分で握って初めて、国家は他人の喉元から手を離せる」

 

レオンには、その理屈の全部はわからない。ただ、“未来の国の飯”という老軍曹の言い方と、今の“燃やすもの”という言い方が、どこかで繋がった気がした。港に並ぶ冷却容器や遮蔽箱が、急にただの荷物には見えなくなる。

 

キシリアは腕を組んだまま言う。 「兄上はいつも旗より炉ね」

 

「旗は腹を満たさない」 ギレンは短く返した。 「木星航路は、その先を支える」

 

シャリアはそのやり取りに口を挟まなかった。ただ聞き流している顔でもない。必要な言葉だけを中へ落としていくような静けさがあった。

 

レオンは、その静けさが少し不思議だった。フラナガンの白い静けさとは違う。港の音の中に立っているのに、この人だけは少し遠い場所まで考えているように見えた。

 

「大尉」とギレンが言う。 「運ぶのは燃料だけではない」

 

シャリアは目を上げた。 「承知しております」

 

「見て帰れ。航路も、外縁も、人の顔もだ」 ギレンの声は変わらない。 「木星へ出る船は、往路で積み、復路で国の値打ちを量って帰る」

 

シャリアは短く答えた。 「はい」

 

軽い返事ではなかった。命令を受けたというより、自分でもそう考えていたことを確認する声だった。

 

ドズルが横から言う。 「兄貴、あれこれ背負わせるなよ。船より荷物の方が偉くなったら困る」

 

「荷物が偉くなるなら成功だ」 ギレンは答えた。 「それだけ持ち帰る価値があるということだからな」

 

「俺は船員の方が大事だ」

 

「知っている」

 

それで足りるやり取りだった。

 

発進時刻が近づく。

 

係留索の最終確認。外部供給線の解放準備。補助推進の点検。誰も走らない。だが誰も止まらない。港全体がひとつの呼吸を整えているようだった。

 

老軍曹がレオンの横へ来た。 「見とけ」

 

「何をですか」

 

「国が、自分で未来の皿を取りに行くところだ」 軍曹は船を見上げた。 「こういうのは、あとで報告書だけ読んでも軽くなる」

 

係留索が外れる。補助推進の低い音が港の床を揺らす。船体が、最初は信じられないほど遅く動き始めた。その遅さが、かえって重さを伝えてきた。

 

レオンは息をするのも忘れて見ていた。

 

冷却ケース、遮蔽箱、補助フレーム、灯火。中身が何か、正確には知らない。だが、ただの荷物ではないことだけはわかる。街の灯り、工業区画の炉、作業機の未来、その先の戦いに関わるものまで、少しずつあの船へ積まれている。そんな重さだけは、理屈より先に伝わってきた。

 

シャリア・ブルは最後まで騒がなかった。最終敬礼を済ませ、昇降梯子へ向かう時も、一度だけ港とザビ家を振り返っただけだ。その視線が誰に向いたものか、レオンにはわからない。だが、その一瞥だけが妙に印象に残った。

 

「行くのか」

 

気づけば、レオンは小さくそう呟いていた。

 

隣でドズルが答える。 「行くさ。だから出した」

 

船はゆっくりと港を離れ、やがて第一加速へ入る。巨大だった光が、少しずつ遠ざかる。その変化をレオンはただ見ていた。手の届かないほど遠い場所へ、国が本気で何かを取りに行く。その感覚だけが、言葉より先に残った。

 

デギンが船影を見送りながら、低く言った。 「帰ってきた時に、同じ国で迎えられるようにしておけ」

 

誰へ向けた言葉かは明らかだった。ギレンは短く頷いた。

 

「そのつもりです」

 

キシリアは腕を組んだまま、遠ざかる船を見た。 「ずいぶん長い手ね」

 

「短いよりはいい」 ギレンが答える。 「短い手は、いつも誰かの食卓からしか取れん」

 

ドズルが苦笑した。 「兄貴は、ほんとに何でも飯へたとえるな」

 

「お前がそれで理解するからだ」

 

そのやり取りに、レオンは少しだけ肩の力が抜けた。半分しかわからない。だが半分わかれば十分なのだと、軍務府に来てから何度も思うようになっていた。

 

港から戻る車の中で、ドズルはしばらく黙っていた。機嫌が悪いのではない。考えごとをしている時の黙り方だ。

 

やがて不意に、レオンへ向かって言う。 「お前、あの船見て何を思った」

 

レオンは少し考えた。 「遠いな、と」

 

「それだけか」

 

「あと……」 言葉を探す。 「僕たちが普段やってることより、ずっと先のことをしてる感じがしました」

 

ドズルは前を向いたまま、ほんの少しだけ口元を動かした。 「よし。半分でいい答えだ」

 

「半分ですか」

 

「全部わかった気になるよりましだ」 ドズルは窓の外へ目をやる。 「俺だって半分しかわからん」

 

それは嘘ではなかった。ドズルは燃料線の理屈を愛する男ではない。だが、遠くへ出した船が軍務の未来に繋がることだけはわかっている。その半分で十分、前へ進める男なのだ。

 

軍務府へ戻ったあと、老軍曹がレオンを見て言った。 「どうだった」

 

「大きかったです」

 

「それは見ればわかる」

 

「遠かったです」

 

軍曹は一拍置いてから、ふっと笑った。 「悪くない。遠いものを遠いとわかるなら、まだ伸びる」

 

「それ、褒めてますか」

 

「半分な」

 

その曖昧さは、今日の港で聞いた大人たちの会話より、ずっとやさしいものだった。

 

その夜、首相府の執務室には木星船団第一便発進の正式報告が届いていた。

 

第一便、予定どおり出航。 航路、冷却系、推進系、いずれも異常なし。 指揮官、シャリア・ブル大尉。

 

ギレンは報告書の最後の行で、少しだけ目を止めた。

 

まだ無名に近い名前だ。

だが、使うべき場所へ置けば生きる男の名は、こういうところへ現れる。

あれは燃料だけを運ぶ男ではない。

少なくとも、そう見えた。

 

セシリアが水を置く。 「本日の決裁は、あと一件です」

 

「何だ」

 

「木星船団出航後の対連邦向け説明文案です」

 

ギレンは報告書を閉じた。 「読ませろ」

 

セシリアが紙を差し出す。その間にも、執務室の窓の外ではズムシティの人工夜が静かに回っていた。中央広場の旗はまだそこにある。だが、今日この国が本当に伸ばしたのは、あの布切れではなく、木星へ向かった長い航路の方だった。

 

ギレンは文案へ目を落としながら、先ほど港で遠ざかっていった船影を思い出した。

 

国は、名乗るだけでは立たない。

燃えるものを自分で握り、遠い場所からそれを運び、誰にも喉元を預けない時、ようやく立つ。

 

その最初の船は、もう出た。

そして、あの船に乗る男の名も、頭の片隅へ置いておく価値があると感じていた。

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