妹に撃たれない方法   作:Brooks

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第39話 炉の順番

 

ズムシティの朝は、大型炉のうなりから始まる。

 

市街の上層に住む者には聞こえない。窓の外を流れる車列と、中央広場の放送と、通学のざわめきの下に沈んでいる。だが、送電庁の地下管制室にいる者にとって、あの低い振動は空気と同じだった。鳴っていれば、生きている。途切れれば、誰かが息を詰める。

 

その朝、うなりが一つ消えた。

 

最初に気づいたのは、計器番の若い技手ではなかった。古い監視盤の前に座っていた灰色の髪の男が、湯気の消えかけた茶器を持ち上げたまま、目だけを右へ向けた。

 

「三号炉が落ちる」

 

若い技手が慌てて盤面を追う。針が一つ、遅れて沈みはじめていた。別の計器が赤に触れる。送電線の負荷が左右へ逃げる。補助系統が鳴り、薄く甲高い警報が地下室を這った。

 

「主任」

 

「落ちたな」

 

主任は茶器を置いた。声に驚きはない。驚いても戻らないものには、長く勤めた者ほど驚かなくなる。

 

「冷却循環が追いつきません。二号へ振りますか」

 

「振るな。二号まで喘ぐ」

 

「しかしこのままでは第三工区と北病院が」

 

「分かっている」

 

もう一つ、別の盤が鳴いた。技手が息を呑む。

 

「連邦駐留区から優先供給要求です。宿舎、通信棟、倉庫」

 

主任はようやく眉をしかめた。

 

「朝っぱらから元気な奴らだ」

 

「どうします」

 

「どうもこうもあるか。首相府へ上げろ。今日の順番は、あちらで決まる」

 

そのころ、首相府ではまだ朝食の匂いが残っていた。

 

ドズルは最後の一切れを口へ放り込み、水で押し流して立ち上がった。勢いのまま椅子が鳴る。向かいにいたガルマがびくりと肩を揺らし、手元の匙を落としかけた。

 

「す、すみません」

 

「お前じゃねえ。今日は朝から電気がうるせえんだ」

 

「電気が、ですか」

 

「止まりかける時は分かる」

 

ドズルは言って、窓の外を見た。遠くの工区の空がいつもより鈍い。煙の色というほどではないが、立ち上がりが悪い。

 

執事が駆け込んできて、ドズルの耳元で短く告げた。

 

「送電庁より。三号炉停止。首相府へ至急会議招集とのことです」

 

ドズルは舌打ちして上着を掴んだ。

 

「兄貴は」

 

「すでに向かわれております」

 

「だろうな」

 

ガルマが立ち上がりかける。

 

「兄上方は、大丈夫でしょうか」

 

ドズルは一瞬だけガルマを見た。子供の声だ。だが、家の中の空気の変わり方は覚えてしまっている。

 

「大丈夫じゃなきゃ、大丈夫にする仕事だ。お前は朝の課業に行け」

 

「はい」

 

「ちゃんと食ってからな」

 

「はい」

 

ドズルはそれだけ言い残し、廊下へ出た。

 

首相府の大会議室には、まだ人数が揃い切る前から熱があった。

 

送電庁、工業局、土木局、軍務府、医務局、食糧庁、都市管理局。ふだんなら同じ机につかない顔ぶれが、朝のうちから資料を抱えて並んでいる。誰も大声は出していない。だが、紙を置く手つきが荒い。荒いというだけで、もう半分は喧嘩だった。

 

セシリアは壁際の補助机で書類を順に差し替えていた。机上に積まれるたび、部署ごとに色の違う短冊を差し込み、優先順を書き換える。声を上げる必要のない種類の仕事だった。

 

ギレンは着席していたが、まだ何も言っていない。目の前には一枚の表だけがある。ズムシティおよび周辺工区の需給一覧。数字は簡潔だった。三号炉停止。予備系統で凌げるのは十時間。以後は意図的な切り捨てが要る。

 

デギンもいる。上座に座ってはいるが、今朝の会議では王の顔ではなく、あえて耳だけを貸す父の顔をしていた。

 

キシリアは遅れて入ってきた。席に着くなり、机上の一覧を一瞥する。

 

「連邦区から要求が来ているそうね」

 

送電庁長官が顔をしかめた。

 

「宿舎と通信棟、それに倉庫群です。自治協定上、供給停止は問題になります」

 

「停止は、と言ったわね」

 

キシリアの言い方は冷えていた。

 

「供給量の調整は停止ではないわ」

 

長官は返答に詰まった。法文上、確かにそうだった。

 

医務局長が待っていたように口を開く。

 

「北病院と第四救護棟は優先で願いたい。透析槽、保育保温室、酸素供給、いずれも切れれば死人が出ます」

 

工業局の局長がすぐかぶせる。

 

「死人なら工区でも出る。第三工区の鋳造炉が止まれば、内部で人が焼ける前に設備が死ぬ。設備が死ねば修理に月がかかる。今月の資材搬出も終わる」

 

食糧庁が舌を鳴らした。

 

「工区ばかり言うが、冷蔵倉が落ちれば今週の配給が腐る」

 

軍務府の次官が机を指で叩いた。

 

「通信網が死ねば駐留軍の動きも、自軍の動きも見えなくなる。今この状況で軍の回線を落とすのは愚かだ」

 

「軍だけ生きて、病院が死んでは市民が黙りません」

 

「配給が止まっても黙りませんぞ」

 

「工区を止めれば復旧費はどこから出す」

 

声が重なり、重なったまま室内に積もった。

 

ドズルが入ってきたのは、その時だった。

 

「朝から景気よく鳴いてんな」

 

誰かが顔をしかめたが、ドズルは気にしない。空いた席へ腰を落とし、机上の表を覗き込む。

 

「三号か。こりゃ長引くか」

 

送電庁長官が不機嫌そうに応じる。

 

「冷却循環が傷んでおります。簡単には」

 

「だろうな。昨日から音が悪かった」

 

長官の顔が変わった。

 

「……昨日から?」

 

「現場の整備兵が、夜勤明けで言ってきた。唸りが薄いってな。俺は送電屋じゃねえから、てめえらの耳までは知らん」

 

「報告は」

 

「上がってねえのか」

 

ドズルは片目を細めた。

 

送電庁長官が部下へ視線を飛ばす。若い秘書官が青ざめた顔で書類をめくり、何かを見つけて固まった。紙は出ていた。ただし、送電庁内部の現場報告で止まり、上へはまだ回っていなかった。

 

キシリアの口元がわずかに歪む。

 

「順番を決める前に、首を決めた方が早いかしら」

 

長官の喉が鳴った。

 

ギレンはその間も、表から目を離さなかった。

 

「三号炉の復旧見込み」

 

「応急で二日、本復旧は七日以上」

 

「二号と一号は」

 

「無理をさせれば保ちますが、過負荷を続ければ次が出ます」

 

「予備蓄電は」

 

「十時間。切り方によっては十二」

 

ギレンは一度だけ頷いた。

 

「十分だな」

 

全員の視線が集まる。

 

ギレンは机上の表を裏返した。裏面には何も書いていない。白い紙だ。その白に指を置いて、短く言った。

 

「空気と水を最優先にする」

 

工業局長が顔をしかめる。

 

「市民向けですか」

 

「設備向けだ。浄化、換気、循環。都市が息を止めれば、病院も工区も軍も同時に死ぬ」

 

誰も反論できなかった。空気と水は、議論の土俵そのものだった。

 

「次に病院」

 

医務局長が息をついたが、ギレンはそちらを見ない。

 

「慈悲ではない。病院を止めれば、医師も看護も工区の手も警備も崩れる。治療が止まるより先に、噂が走る。噂が走れば買い溜めと暴れが始まる」

 

食糧庁長官が小さく頷く。そこは自分の領分でもあった。

 

「第三に送電庁と土木局の修理班。三号炉へ人を残せ。二号一号の保守も削るな」

 

送電庁長官が顔を上げた。

 

「修理班を優先に」

 

「炉が戻らねば、順番は永遠に続く。止血より先に血を作れとは言わん。だが、止血だけでも死ぬ」

 

今度は工業局長が口を開く。

 

「工区は第四ですか」

 

「工区は分ける」

 

ギレンはセシリアを見た。

 

「表を」

 

セシリアが一枚差し出す。すでに彼女は、工区を五つに分けた一覧を作っていた。生命維持資材、送電修理用部材、軍需基幹部材、一般生産、贅沢品。

 

工業局長が目を剥く。

 

「こんな短時間で」

 

「昨夜のうちに用意していました」

 

セシリアの声は平板だった。長官は一瞬だけ口を噤んだ。三号炉が落ちる前から、落ちた場合の順番が用意されていたことになる。

 

ギレンは言う。

 

「生命維持資材と修理用部材を先に通す。軍需基幹部材はその次。一般生産は時間制限。贅沢品は止めろ」

 

「贅沢品とは」

 

「飾りガラス、宴会用食器、上層住宅向け暖飾具、香料精製、趣味の灯具」

 

数人の顔色が変わった。利権に触れたのだ。

 

都市管理局長が慎重に口を開く。

 

「上層住区の反発が出ます」

 

「出る」

 

ギレンはあっさり言った。

 

「なら、出させろ。連中は暗い部屋で文句を言うだけだ。空気が止まった住区より扱いやすい」

 

ドズルが鼻を鳴らした。

 

「飯はどうする」

 

食糧庁長官がすぐ反応する。

 

「冷蔵倉は第二群に入れてほしい。ここを落とせば配給が腐る」

 

「入れる」

 

「連邦区向けも同じ倉から出ていますが」

 

会議室が一瞬だけ静まった。

 

ギレンはようやく顔を上げた。

 

「切り分けろ」

 

「……可能ではありますが、時間が」

 

「今日やれ」

 

食糧庁長官は唇を結んだまま頷いた。

 

ギレンは続ける。

 

「連邦駐留区への供給は補助系統へ落とす」

 

軍務府次官が眉を上げる。

 

「自治協定上、問題になります」

 

「なら、文言で処理しろ」

 

ギレンはセシリアを見た。

 

「既存協定の補助供給条項を拾え。停止ではなく、緊急配電調整として通す」

 

「すでに抜いてあります」

 

セシリアが別紙を差し出す。次官が受け取り、読み進めるにつれ顔つきが変わった。確かに、停止はできない。だが、緊急時の配電量調整については、自治政府の裁量が残っている。

 

キシリアが淡々と言った。

 

「宿舎と倉庫は自家予備を持っているはずよね」

 

「持っています」

 

「なら、使わせなさい。彼らは駐留軍でしょう。自前の備えもないまま威張っているのだとしたら、なお悪いわ」

 

デギンがそこで初めて低く笑った。

 

「威張る者ほど、予備を持ちたがるものだ」

 

室内に小さな緩みが走る。ほんの少しだけだが、空気が変わった。

 

工業局長がなおも食い下がる。

 

「しかし、一般生産を絞れば税も落ちます。商会の反発も」

 

「落ちる」

 

ギレンは言った。

 

「だが、今月の税より来月の炉だ。炉が戻らねば税も戻らん」

 

「上層商会は納得しません」

 

「納得など求めていない」

 

その声に、会議室はまた静まった。

 

ギレンの声は高くない。威圧するために張られてもいない。ただ、反論の余地ごと置いていく。誰が何を守りたがっているかを見抜いた上で、その優先が国家全体の死に繋がると断じている。

 

「順番を誤れば、全部が半分ずつ死ぬ。私はそれを許さん。生かすものを先に生かす。切るものは切る」

 

ドズルが机の上の一覧を見ながらぼそりと言った。

 

「連邦宿舎の湯も落とせ」

 

何人かが顔を上げる。

 

ドズルは肩を竦めた。

 

「死にゃしねえ。ぬるい水で面ァ洗わせろ。こっちは工区で火花浴びる連中がいる」

 

キシリアが小さく笑った。

 

「湯の順番まで決めるの」

 

「決めねえと、馬鹿は湯から奪う」

 

それは正しかった。食料も電力も、追い詰められた時に人はまず目の前の快適さから確保しようとする。だからこそ順番が要る。

 

セシリアが短く告げる。

 

「居住区の暖房と照明を別系統に切り分ければ、最低限の保温だけ残せます。上層住区の夜間装飾灯は全停止で足ります」

 

都市管理局長が青ざめる。

 

「景観が」

 

「景観は息をしません」

 

セシリアの声は変わらない。だが、それで十分だった。

 

ギレンは最後の項目へ目を落とした。

 

「軍の回線は基幹のみ残す。訓練用、儀礼用、内部遊休回線は全部落とせ。軍需工区は第三群。だが、駐留軍監視用の回線だけは死守しろ」

 

軍務府次官が頷く。

 

「承知しました」

 

「ドズル」

 

「おう」

 

「整備兵を送電庁へ回せ。炉そのものは触らせるな。搬入、足場、冷却材の移送だけ手伝わせろ」

 

ドズルは唇を歪めた。

 

「そういうのは得意だ」

 

「飯も出せ」

 

「言われなくても出す」

 

そこで話は決まった。

 

決まったというのは、全員が納得したという意味ではない。反発も不満も残っている。だが、残ったまま動ける形になった。国家というものは、たいていその程度のまとまりで十分だった。

 

会議が終わると同時に、首相府の廊下は走る足音で満ちた。

 

セシリアはその場で三種の命令文を切り分けた。公表用、各局通達用、対連邦駐留区回答用。言葉は少しずつ違う。同じ命令でも、読ませる相手によって刃の向きは変わる。

 

キシリアは椅子から立ち上がる前に、送電庁長官へ視線を向けた。

 

「現場報告を止めた者、夕方までに名を」

 

「……はい」

 

「隠したのなら切る。怠っただけなら、現場へ戻す。どちらにせよ上には置かない」

 

長官の額に汗が浮いた。

 

ドズルはもう扉のところまで行っている。

 

「兄貴、工区の飯は軍の炊事班で出す。鍋持って走らせりゃ間に合う」

 

「やれ」

 

「連邦の宿舎にも出すか」

 

ギレンは一瞬だけ考えた。

 

「出すなとは言わん。だが、後だ」

 

ドズルがにやりとした。

 

「順番ってやつだな」

 

「そうだ」

 

デギンは立ち上がる前に、ギレンへだけ聞こえる声で言った。

 

「民は、軍を先にしたと思うか」

 

「思わせません」

 

「本心は」

 

ギレンは答えた。

 

「空気と水が先です。次に、炉を直す手。軍はその後で十分です」

 

デギンは息をついた。納得とも、諦めともつかない息だった。

 

「お前は、昔より言葉が減ったな」

 

「足りる分だけで足ります」

 

「足らぬと思う者もいよう」

 

「その者には、灯りが戻った部屋を見せればいい」

 

デギンはそれ以上言わなかった。

 

昼過ぎ、第三工区では鋳造炉の一列が止められた。だが、全部ではない。修理用部材を作る区画だけが生き残り、一般の装飾金具と上層住区向けの暖飾具は沈黙した。現場の職工たちは最初、怒鳴った。自分の担当が止められれば、誰だって怒る。

 

だが、すぐ隣の修理区画で送電庁向けの継ぎ手と冷却管が流れ始めると、怒鳴り声は長く続かなかった。止まったのは、役に立たぬものからだ。それが見えれば、人はまだ持ちこたえる。

 

北病院では、昼前に一度だけ照明が揺れた。保育保温室の看護婦が思わず器具を抱きかかえ、医師が壁の計器を睨んだ。だが次の瞬間、補助系統が噛み、室内は持ち直した。別棟の廊下は暗いままだったが、保温室だけは生きていた。誰がどこを残したのか、そこにいる者には分からない。ただ、残されたという事実だけが手に残る。

 

工区へ向かう道路では、ドズルの回した炊事班が大鍋を積んで走った。整備兵が文句を言いながら鍋を担ぎ、送電庁の地下へも運び込む。

 

「何だこれは」

 

送電庁の主任が眉をひそめる。

 

「飯だ」

 

「見れば分かる」

 

「だったら食え。お前らが倒れたら三号が戻らねえ」

 

主任は一瞬だけ何か言い返しかけ、やめた。鍋から立つ湯気は、言い返すより先に腹へ入る。

 

夕刻、連邦駐留区から抗議文が届いた。

 

宿舎浴場の加熱停止、倉庫空調の縮退、通信棟補助回線の切断は協定違反の疑いあり。直ちに改善を求める。

 

セシリアはその文面を読み終える前に、返答文を決めていた。

 

緊急配電調整は自治政府裁量に基づく暫定措置であり、基幹供給は維持されている。宿舎設備の快適性低下は供給停止に該当せず、貴隊保有予備電源の使用を妨げるものでもない。

 

「よろしいですか」

 

「出せ」

 

「語尾を柔らかくしますか」

 

「するな」

 

「承知しました」

 

その返答が出ていった時、駐留区の宿舎では兵たちがぬるい水で顔を洗っていた。

 

誰かが文句を言い、誰かが自治政府への侮蔑を吐いた。だが、その宿舎の裏手では自家予備発電機の点検が慌ただしく始まっている。あるのだ。あるのに、先に自治政府の電気を使っていただけの話だった。

 

ズムシティの上層住区では、その夜、装飾灯が落ちた。

 

広場の噴水の照明も、商館の外壁をなぞる柔らかな灯りも消え、窓辺の暖飾具も冷えた。上層の婦人たちは不満を漏らし、商会の男たちは電話を回した。だが、肝心の回線は短く絞られ、苦情は思うほど遠くへ届かない。

 

代わりに、工区の修理棟には灯りがあった。

 

送電庁の地下では、三号炉の冷却循環へ新しい継ぎ手が入った。土木局の作業員が足場を組み、軍の整備兵が冷却材を担ぎ、送電庁の技師が汗だくで弁を回す。ドズルは邪魔にならぬ位置で腕を組み、働きの鈍い兵にだけ声を飛ばした。

 

「足ァ止めるな。眠るのは炉が戻ってからだ」

 

「少将、そちら危険です」

 

「分かってる。だから見てんだ」

 

上の方で火花が散った。誰かが怒鳴り、すぐ次の指示が飛ぶ。混乱しているようで、混乱ではない。順番が決まった現場は、案外静かだ。

 

夜半前、送電庁から首相府へ短い連絡が入った。

 

三号炉、補助循環復帰。出力制限付きで再接続可能。

 

セシリアはその紙を持って執務室へ入った。ギレンはまだ起きている。机の上には昼の一覧がそのまま残っていた。赤線と黒線が増えている。誰を先に生かし、どこを切ったか、その痕跡だった。

 

「戻りました」

 

紙を受け取ったギレンは一読し、机へ置いた。

 

「第三工区は」

 

「修理区画のみ生かしたままです。一般生産の復帰は明朝に回せます」

 

「病院は」

 

「北病院、第四救護棟ともに維持。居住区は保温のみ。苦情は多いですが、暴れは出ていません」

 

「連邦区は」

 

「文句は来ました。湯がぬるいそうです」

 

ギレンの口元が、わずかにだけ動いた。笑ったというほどではない。

 

「死者は」

 

「おりません」

 

ギレンはそれで紙を置いた。

 

セシリアは机の端へ新しい束を置く。苦情一覧だった。商会、上層住区、都市管理局、そして連邦駐留区。紙の厚さだけなら、死人の出なかった一日の報告より厚い。

 

「こちらも」

 

「明日でいい」

 

「珍しいですね」

 

「死人のいない苦情は、急がん」

 

セシリアは短く頷いた。少し間を置いてから言う。

 

「都市管理局は景観予算の補填を求めています」

 

「暗い噴水の慰謝料でも欲しいのか」

 

「そう書くと角が立ちます」

 

「立てるな。削れ」

 

「承知しました」

 

彼女が紙をまとめる。静かな手つきだ。だが、その静けさの下には、今日一日でどれだけの文言を切り、どれだけの責任の向きを変えたかが沈んでいる。

 

ギレンは窓の外を見た。

 

ズムシティは暗かった。だが、死んだ暗さではない。要る灯りだけが残っている夜だった。広場は落ち、上層の飾りも沈んでいる。その代わり、工区と病院と送電庁の棟には細い光が続いている。

 

国家は、こういう夜に形が出る。

 

豊かな時は、誰にでも分けられる。足りぬ時に、どこを残すかで、その国の骨が見える。

 

ギレンはそう考えたが、口にはしなかった。

 

代わりに、机上の一覧へ赤線を一本引いた。連邦駐留区の宿舎加熱。そこへ小さく、最後尾と書く。

 

セシリアがそれを見た。

 

「明日も同じ順番で」

 

「しばらくはな」

 

「上層住区は騒ぎます」

 

「騒がせておけ」

 

「連邦も」

 

「予備を使わせる」

 

「では、工区は」

 

「戻す。ただし全部ではない。贅沢は最後だ」

 

セシリアは紙を受け取り、扉へ向かった。出る前に一度だけ振り返る。

 

「今日、工区で炊事班が人気だったそうです」

 

「ドズルか」

 

「ええ。鍋一つで英雄になれるなら安いものです」

 

「英雄にするな。次も鍋を持たせろ」

 

「そのように」

 

扉が閉まる。

 

ギレンは一人、まだ暗い窓を見ていた。

 

外では不満が溜まっている。商会も連邦も上層住区も、明日にはまた何か言ってくるだろう。だが、それでいい。文句を言える者は、まだ生きている。空気があり、水があり、湯がぬるいと怒れるだけの余裕がある。

 

それなら、順番は間違っていない。

 

彼は灯りを一つ落とした。机の上に残ったのは、一覧の上の赤線だけだった。必要なものから生かし、要らぬものから暗くする。その線を引く者がいる限り、国はまだ止まらない。

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